-黄金の庭に告ぐ- <第一部>7話:少年と豊穣の巫女 08.ハエタタキで倒せない彼らを倒すために 「ふにゃー」 我が耳を疑うとはまさにこのことである。レティオがそのとき味わったものを戦慄と呼べば、彼の胸中の万分の一でも表すことができただろうか。 「!?」 最悪の予感に振り向くと、嗚呼、なんたることだろう。祭壇へと続く回廊から、眠気眼をこすりながら出てくる人影――。 「うーん、ダリアー、何処ー?」 「お、オイオイオイオイ……!?」 氷結する男たちにも気付かず、豊穣の巫女ナディアその人はふらふらと踏み出して。 「あぅっ」 最悪なことに、躓いてその場にへたりこみ、目をこする。 そして更に最悪なことに、その瞬間、神殿の入り口から妖精が飛び込み、扉が轟音を立てて閉まったのであった。 「……レティオ、覚えとけ」 唖然としていると不意に頭上から声がして、レティオはジャドを見た。その顔には、冷や汗が伝っていた。 「前線じゃよくある――作戦てのは大体狂うもんだッ、行くぜ!!」 頭上高くに舞い上がる妖精を眼に捉え、ジャドは床を蹴って走り出す。ちょっと待て、と叫びたかったが、唇を噛んでレティオも続いた。 妖精は背後からの追撃がなくなったとみるや、途端に余裕を取り戻したようだった。 「あーっははははは! 今度は野郎共か。何を見せてくれるんだ? ちょっとは手ごたえを頼むよなァ」 高みからわざと隙を作るように降下し、人間たちの無駄なあがきを嘲笑する。ゴモドゥスが命じると、投じられたナイフによって垂れ下がったロープが次々と切断され、巨大な檻が天井から降ってくる。彼らは広間にこのような罠を無数に仕掛けておいたのだ。 しかし、木製の檻の束縛は妖精には何の意味も為さなかった。 「ご愁傷様」 歌うような詠唱が紡がれると同時に、収束した光が弾け、檻が玩具のように砕け散る。次々と妖精の向かうところに檻が落ちるが、結果は変わらない。 「なんだよ、芸がねーなー」 飛び上がった妖精は不満そうに頬を膨らますと、天井を見上げ、にぃっと口元を歪めた。 「やるならもっと景気良くやろうぜ?」 手を振りかざし、その唇から詠唱が紡ぎだされる。人間にはとても追いつくことのできぬ速度で生成された魔法が、無数の風の刃となって四方八方に飛び散り、人間たちは目を見張った。垂れたロープの全てが一気に切り落とされたのだ。 止める間もなく、轟音をたてて次々と檻が落ちる。地響きさえ起こすその様は雷鳴にも似て、しかし悲鳴をあげたのはゴモドゥス一派ではなく。 「ぎゃーーーーッ!?」 頭上から容赦なく降る檻を避けなければならないジャドであった。ベルナーデ家の二人は妖精を追って参拝堂の中央に走り出していたのである。 「ぷっ、くはははははは! 人間てだっさいなー」 「チキショーふざけんじゃねぇぞドチビ!?」 ジャドは叫ぶと同時に横に跳躍し、降り注ぐ檻から逃れる。レティオも同じように檻を避けたが、ジャドの後姿を見て舌打ちをした。 『速い』 叔父の配下の中でも俊足を誇るジャドは、右に左に軌道をずらしながらも、疾風のごとく突き進んでいく。レティオも必死で後続するのだが、みるみる引き離されてしまう。 目の前の現実に歯噛みする思いで妖精を見上げたそのとき、レティオの瞳が跳ねて引き絞られた。 それまで脇で控えていたゴモドゥスが、にやと笑って腕を掲げ、振り下ろしたのだ。きっと何かの合図だったのだろう。男の一人がナイフを投擲し、それが上空へと吸い込まれていく。 ナイフの行く手を見上げたレティオは、その先にあったものを見て更なる驚愕に襲われた。祭壇に近い天井の飾りに、巨大な麻袋がいくつもくくりつけられている。そしてナイフが突き刺さった瞬間、はちきれんばかりであった麻袋が炸裂して中身をぶちまける――。 「うわぁっ!?」 初めて妖精が素っ頓狂な声をあげた。頭上から降ってきた土砂に襲い掛かられたのだ。小さな体では滝のような勢いに抗いようもなく、地に叩きつけられる。レティオはその土砂に重たい石や金属の塊が混じっているのを見て、込められた殺意にぞっとした。 ――昨晩、レティオは傷つけられた巫女を見て、確かに妖精を忌々しく思っていた。天神の雷に打たれて当然。そのくらいの罰は下されるべきと、口に出さずとも考えていた筈だった。 けれどそのとき彼に去来したものは、何故だろう、自身の思いが叶ったことへの悦びとは程遠い。充足感などとんでもない。――悪意や憎しみを心地よいと感じることなど、常人の精神ではありえないのだ。 そんな思考を一巡させたとき、更にロープが切られた。落下してきたのは、妖精の力を封じる檻である。ゴモドゥスたちは通常の檻をいくつも落とすことで妖精を油断させ、最後に砂で足止めしたところを本命の檻で捕らえるつもりだったのだ。だが、同時にレティオは妖精を中心に魔力が渦を巻くのを知覚した。攻撃に対しては、更なる攻撃を。それはまるで、憎しみの応酬であった。 「生意気なんだよ」 檻が降りかかり、ジャドが土砂に押し潰された妖精に迫ろうとした瞬間、ふわっと燐光が土から滲む。次に瞬きをしたレティオの視界には、光の柱が宙を貫いて土が吹き飛ぶ様子が映し出された。四方に飛び散る悪意の破片に、ジャドが腕で顔を庇う。その結果を確認する前に、レティオの体は動いていた。 彼は燐光を目にした時、予測したのだ。これから何が起きるのか。そして、その破片が座り込んだ巫女に及んだ場合、どのような災いを齎すか。 「……っ!」 思考より先に身体が動いていた。素早く身を翻した少年は、全力で巫女の元へ走った。地を蹴って、巫女の前に立ちふさがる。 石はともかく、金属片は当たり所が悪ければ命を奪うこともあるだろう。レティオは腕を広げる。例え自らの急所を晒すことになったとしても。 わたしのこと心配してくれてるの? 嬉しいなあ。 あの笑顔が、――過ぎる。 ジャドほど早く走れない、フィランほど機知に富むわけでもない、オーヴィンのように魔法が使えるわけでもない。エルのように、屋敷を一人で守ることもできない。 叔父ほどの強さも持ちえず、あの男の巨大な影を未だに越えられず、悩みにふけるちっぽけな自分。 なのに笑いかけてくれた。名を聞き、信じ、認めてくれた。 それだけのことで無意識に駆け出せた自身に、レティオは驚く。そんな簡単なことで人は自らの命を差し出すことが出来るというのか。 けれど、それは真実であり現実。かつて叔父は自分に問うた。我々が守るものは何だ、己の命か、名誉か、それとも家の誇りか。 今ならそれに対して答えることが出来るかもしれない。どれも違う。己の信念を持って守りたいと思えるのは……。 胸の奥底から湧き上がる力が、恐怖も迷いも塗りつぶす。この身に刃などいくらでも受けてやろう。 あの笑顔を、守るためならば。 「くー」 呑気にまどろんでいた巫女は、いかに神経がズ太くとも流石に分かる切迫感に、ふと睫を震わせて顔をあげた。視界の向こうには、両腕を一杯に伸ばし、石つぶての一つすら通さないというように立つ少年の後姿。 「ほえ?」 何が起きているのだろう。気が付けば部屋の外にいて、いつもの眩暈に苛まれながら、ふらふらと彷徨って。それで? 「おっと」 弾ける光の中、妖精の声が聞こえた気がした。けれど全てが終わった後、そこに妖精とジャドの姿はなく。 誰が何を言おうと後の祭り。その結果は神ですら覆すことができない。 何故か風に吹き飛ばされず真っ直ぐに落ちてきた檻を見て、ゴモドゥスたちは驚愕に顔を歪ませた。 そして妖精は更に奥へと逃げ込み、ベルナーデ家の配下が後を追った、それらの厳然とした事実だけが、神殿の広間に横たわっていた。 *** 体中にまとわりつく土埃に、妖精クロイスは不快そうに眉を潜めた。広間を抜けたというのに、やけに足の速い男が追従してくるため、止まって体を清めることも出来ない。他の連中が追ってこないのが不思議だったが――。 「しつこい!!」 「のォッ!?」 狭い回廊で光弾を放つと、ジャドは器用に姿勢を変えてそれを避ける。引き剥がすことは叶わなかった。魔法を駆使するとどうしても進む速さが落ちてしまうため、結果的に稼ぐべき距離が相殺されてしまうのだ。ジャドの俊足は、主であるギルグランスですら一目置く、謂わばベルナーデ家の疾き矢尻。小手先の足止め程度で挫けるものではないのだ。 「この、ちょこまかと面倒臭いッ! その髪型らしく餌でもついばんでろよニワトリ野郎!!」 「うるせークソチビ!? 豆みたいに小せぇ成りしてテメェこそ鳥の餌だろうが羽虫野郎ッ!」 「だぁれが羽虫だテメェブチのめすッ!?」 「こっちの台詞だクソガキァアッ!」 敬虔な神殿の関係者が聞いたら卒倒すること間違いなしの口汚い罵り合いを交わしながら、豊穣の神殿内の祭壇へ――。 回廊が途切れる。その瞬間、クロイスが猫のように全身を強張らせたのは、まさに妖精族の知覚の鋭さを示す何よりの証であろう。 首筋に走る嫌な予感に、祭壇の間へ飛び込もうとしたクロイスは、たった一瞬だけ速度を緩めた。その一瞬が事を決した。 彼の鼻先すれすれで、無慈悲な斧の両断を想起させるような斬撃が上方から振り下ろされたのだ。 めしょっ、と、空を切った得物が地に叩きつけられた壮絶な音は、クロイスを青褪めさせるには十分であった。そして同時に、勝利を確信するのも。何故なら、上から飛び掛ってきた若者の舌打ちを、クロイスははっきりと耳にしたのだから。 流石に肝を冷やして上空へと飛び上がるクロイスの下で、若者は得物を手にゆらりと立ち上がり、挨拶を口にする。 「どうも」 その表情に浮かぶのは、改心の一撃がかわされたことによる苛立ち。健康的な顔立ちに黒い瘴気をまとうその姿に、続いたジャドは顔をひきつらせる。 「……て、テメェ、その悪役面はちょっと直せよ」 「なんてこというんです、僕はご当主とは違いますよ」 あんまり違わない、とジャドが言いかけたそのとき、妖精の哄笑が轟きわたった。 「くっ……ははははは! ざーんねーんでーしたー! ちょっとびっくりしたけどな!」 ひとしきり笑ったクロイスは、無力な人間どもを見下ろして腰に手をやる。 「一晩考えて出した策がそれ? ししし、そんなんでこのクロイス様に歯向かおうなんざ、笑っちゃうぜ!」 「あなたの台詞、そのまま返しましょう。妖精の分際で僕に楯突こうとはいい度胸です。長年の恨み、ここで晴らさせて頂きますよ」 「……それって八つ当たりじゃねぇ?」 「うるさいです外野」 すげなく返され、けっとジャドは呆れたように肩をすくめた。そんな人間たちにクロイスは違和感を抱く。何だろう、この余裕は。彼らが練りに練った作戦を、今、クロイスは失敗させてやったというのに。 確かに頭の良い作戦だったと思う。人間が妖精を捕まえるには、魔法を使わせる前に一瞬で事を決する必要がある。祭壇までの長い回廊を足の速い人間に追わせて余裕を失わせ、広い祭壇に出た瞬間に上から叩き切る。仮にあれをもろにくらっていたら、今頃クロイスの意識はなかったろう。 けれど、クロイスは勝った。若者の一撃を防いだ。ならば進撃を続けても良いはずで。 「ふん。なんだよ、強がりやがって。どうせもう切り札はねーんだろ」 「そうですね。これ以上あなたを追いかけたところで、捕まえる術はないでしょう。僕らはあなたに比べて、明らかに劣っている」 さらりとフィランは口にして、仕切りなおすように髪をかきあげた。 「なら、ちょっとくらい僕らに手加減してくれたっていいんじゃないですか?」 「はぁ?」 あまりにあっけらかんとした要望に、クロイスは目を剥いて人間を見下ろす。ぴっと人差し指を立て、フィランは悪戯っぽく笑ってみせた。 「こんなのはどうでしょう。あなたはこれから三つ数える間、そこから一歩たりとも動かず、僕らに行動の自由を与える」 「はぁ? ふざけんなよ、その隙に網でも投げる魂胆だろ」 馬鹿馬鹿しい人間の浅知恵だ。クロイスが首を振ると、フィランは少し考えて譲歩する。 「では制約を。僕らはその間、あなたに対してあらゆる干渉をしないものとしましょう。得物を投げたり、魔法を使ったり、そういったことは一切しない。如何です?」 流暢に語るフィランを、クロイスは警戒の眼差しで見つめた。 「何が狙いだ」 「つまり、あなたを止めるための準備時間を下さいと言っているのです」 フィランは穏やかに笑って、篝火の焚かれた祭壇を見上げる。 「このままあなたが進めば、難なく目当ての仲間に辿り付くでしょう。隠し場所は祭壇のすぐ向こうですから。でも、それでいいんですか? 僕らはあなたを愚鈍に追いかけるしか脳がありませんよ。つまらない追いかけっこになります」 「……」 「ま、僕らにはちょっとした機会、あなたにとっては余興の余地が生まれるということです」 若者が語り終えると、張り詰めた空間に緊張が落ちる。 クロイスはじっくりと頭の中で提案を吟味した。フィランは穏やかな顔のまま待っている。 暫く考えた後、クロイスは笑みと共に結論を下した。 「いいだろう」 ジャドの眉がぴくりと動き、フィランがニッと笑う。 「ま、好きなだけあがけよ。お前らごときに負ける俺様じゃねーし」 「了解しました。それではお言葉に甘えて」 クロイスは身を翻し、少し高いところで停止した。仕掛けない約束とはいえ、人間からの攻撃を警戒をしての行動だ。そうしてゆっくりと指を掲げる。 「三つだな」 「ええ、お願いします」 「ししし、せいぜい楽しませてくれよ」 妖精は息を抜いて目を閉じた。 「――いくぜ」 それが始まりの合図であった。爆発的な瞬発力でフィランとジャドが祭壇の奥目掛けて走り出す。彼らにとって、この機会は一瞬たりとも無駄にするわけにはいかないのだ。 「ひとつ」 初めの数を数えながらクロイスは人間どもの意図を探った。人が妖精に足で追いつけないのは明確な事実。ならば、人間の攻撃は必ず迎撃になるはず。だから先に行く必要があるのだ。妖精を迎え撃つ壁となるために。 ――いや、違う。クロイスは直感する。人間たちが向かう方向を見て、一瞬でクロイスは彼らの奇策の全貌を見破った。 浅はかな。なんと浅はかな。 「ふたつ」 二人の人間は祭壇の奥へと駆けていく。きっとクロイスがそれを追うであろうことを期待して。 しかし空間の魔力の流れを読み取るクロイスに、小手先の手段は通用しなかった。 クロイスは目を眇めて見つめる。祭壇の脇に設けられた、倉庫への扉。その奥から、ルシェトの気配がする。彼は祭壇の奥でなく、あの部屋にいるのだ。 人間たちの策はきっとこうだ。クロイスを引っ掻き回すために奥へと誘う。その隙に別の誰かにルシェトを運ばせるのだ。クロイスの手から、最も遠いところに。あの二人の行動は、ただ時間稼ぎに過ぎない。 そう考えれば全ての筋が通る。そういえば、先ほどから緋色の髪をした少年が見えない。きっとその少年が、檻を運ぶために何処かに隠れているに違いないのだ。 バーカ。引っかかるかよ。 クロイスは口元が笑うのをこらえきれない。人間たちは必死で考えたのだろうが、精霊の眷属であるクロイスに見破られぬわけがないのだ。 そして妖精の少年は、自らの勝利を告げるように、三度その数を数える――。 「みっつ」 もう自由な妖精の羽根を縛るものは何もない。クロイスは七色のそれをはばたかせ、甲高く笑いながら一直線に倉庫への扉を目指した。 「甘いんだよ、人間どもっ!」 きっと人間たちは想定外の出来事に目を剥いて慌てることだろう。クロイスは飛翔しながら首を回して、驚愕に歪む人間どもの表情を見ようとしたのである。 ――けれど、表情を歪ませたのはクロイスの方であった。 「ジャド、頼みましたよ」 「任せろってんだ」 人間たちはあらかじめ決まっていたかのように、二手に分かれたのである。俊足を誇る一人はそのまま祭壇へ。もう一人は、狭い足場でくるりと爪先の向きを変え、こちら目掛けて突っ込んでくる。 「逃がしますかッ!!」 三方向に階段が伸びる階段を横切るには、途中から下り階段になってしまう。だというのに、三段飛ばしで猛然と駆けるフィランは、更に更に速度を増していく。 そのまま走れば勢いを殺せず壁に激突した筈。なのに、一体この穏やかな若者の何処にこんな度胸が眠っているのだろう、フィランは得物を高々を振り上げて階段を蹴り、跳躍したのである。 「死ぬ気かよ!?」 迫り来る若者の爛々と輝く瞳に、クロイスは我が身を震わせた。勢いに任せた一撃は、きっと自分の体など羽虫のように叩き落すだろう。 「ふふ、僕は死にませんよ。ティレが待ってますから」 若者の唇はそう動いた気がした。薄ら寒さすら覚えながら、クロイスは全力で扉を目指した。フィランの振り上げた刃は、力が込められているからこそ大振りなものになる。妖精がその隙間を、かいくぐれないわけがない。 足すれすれのところを疾風が切断していき、次の瞬間、空を切った得物が地に叩きつけられる轟音が鳴り響く。避けられたことは良かったが、その音の凄まじさに、クロイスは心から戦慄した。この若者、一体何者だ。 「くっ……と、とにかく! イイ線いってたが、俺様の勝ちだな!?」 着地する若者に目もくれず、妖精は勝利を確信した。扉はもう目の前。妖精を止めるものは何もない。扉を開ける労も惜しく、妖精は前方に向けて魔法を放つ。そして木製の扉に開いた僅かな穴に、全速力で飛び込んだ。これで勝ちだ。 ……と、思ったのだ。 「な!!?」 叫んだ瞬間、後ろの扉が開き、すぐに閉められた。けれど振り向いて目をこらそうとしても、迎え撃つどころか、その姿を認めることすら叶わなかった。 「なんだよこれ!? ぅ、げほ、げほっ!?」 視界が白い。真っ白だ。それは濛々と立ち込める煙であった。そしてそれより耐え難いのは、その煙が放つ臭い。五感の鋭い妖精に、濃密な香りは致命的であった。 フィランはあらかじめ、ダリアに頼んで倉庫にありったけの香木を焚き染めておいて貰ったのだ。少量であれば芳しいそれも、ありとあらゆる種類を狭い部屋で焚けば暴力的な臭いとなる。鼻が曲がりそうな臭気に、妖精は魔法を使うこともままならない。 「ほら後ろがつかえてますよ!?」 「!?」 ぶおっ、と耳元で風が唸り、妖精はきかぬ視界で闇雲に飛ぶ。後ろから入ってきたのはやはりフィランだ。けれど雲の中のような煙のせいで、影ですらほとんど見えない。 「どうしたんです、さっきまでの威勢は何処に行きました!? 口答えも出来ないくらいきついんですか。そうですよね、所詮妖精もその程度ですよね」 声が篭っているのは、きっと臭気を防ぐために鼻と口を布で覆っているからだろう。クロイスは虚空を睨み返す。 「ふっ……ふざけんな!! こんな子供騙しに引っかかるかッ!」 そうは言うが、視界は塞がれ、臭気で集中力も奪われたため、檻の位置が察知できない。クロイスの苛立ちは頂点に達し、その表情を怒りで塗りつぶした。 「見てろよ。妖精の本当の力、ここで見せてやるからな……っ!」 口早に詠唱を走らせ、手を前に翳す。臭い程度で人間に屈したなど妖精族の名折れ、後でルシェトに何を言われるか分かったものではない! 最速で結ばれた詠唱が力を成し、クロイスは大声でその完成を叫んだ。 「精霊の御名において!!」 「ジャドッ」 空気が収束し、力が渦となって部屋を包む。その瞬間、扉が乱暴に開いた音がしたがどうでも良かった。視界と臭いさえ元に戻れば、人間になど成す術はないのだ。 力の渦は空気をかき回し、煙を一気に凝縮させた。部屋の中央で鞠球ほどになった煙の塊は、ぽん、と呆気ない音を立てて虚無に消える。臭気も嘘のように収まり、狭い部屋はその全貌を現した。 部屋の隅には鼻と口を布で塞ぎながら香木を焚く女官ダリア。その横に設置された卓には、禍々しい檻が置かれている。 にやと笑ったクロイスが、そちらに向かおうとしたそのときだった。 「動かないで下さい」 鋭い警鐘の声。それは勝者にとって水を差すに等しいもので、無視していいもののはず。 だというのに、クロイスの体は停止していた。その背後に、恐るべき予感が渦巻いていたのだから。 「え、……ぅ」 まさか。そんな。 混乱が様々な言葉を脳裏に弾けさせ、結果的に喉をひきつらせるような声しか出てこない。 ちりちりと神経の末端が焼ける嫌な音を聞きながら、それを否定したくて――クロイスはゆっくりと振り向き、背後を確かめる。確かめてしまう。 「――な!?」 「おっと。だから動くなと言っているでしょう。手元が狂います」 視界に映りこむそれは、煌々と灯る松明。フィランがあとほんの少し腕を伸ばせば、炎の塊が触れてしまう――。 凍りついた己を双眸に捉えるは金の目をした槍使い。神の首をとった英雄のように、にやりと目で笑ってみせる。 「小耳に挟んだことがあるんです。宙を舞い、魔法を駆使し、あらゆる面で人間に勝るあなた方の唯一の弱点。それはあなた方が戦場を嫌うことにも通じている」 扉のところではジャドが肩で呼吸をしている。ダリアも身を硬くしながらこちらを睨めつける。そしてフィランは高らかに宣言する。 「妖精の弱点、それは炎。間違っていますか?」 「……お前」 指先一つすら動かせず、額に脂汗を浮かせてクロイスは呻くしかない。フィランはふっと眉を緩めた。 「こちらも肝が冷えました。あなたに炎の存在を気取られたら終わりですからね。あなたに近づき、炎を突きつける。モルガナ島で海獣を斃した英雄も、きっとこんな気持ちだったんでしょう」 フィランの言を聞いて、炎の輸送に一役買ったジャドが鼻を鳴らして笑う。モルガナ島の海獣が退治されたのは、鍛冶の神に剣を与えられた若者が、海獣の寝込みを襲って急所に剣を突き立てたため。その伝承と同じように、妖精が魔法で煙を打ち払うまでに、祭壇から炎を拝借してフィランに届ける。それは彼の俊足がなければ出来なかったに違いない。無論、ひたすら妖精を追い掛け回したのも、全てその思考を停止させ、本来の作戦を晦ますためだ。 松明を掲げた槍使いは、そうして勝利を堂々と宣言したのであった。 「――さあ、一体どうしてくれましょうね?」 Back |