-黄金の庭に告ぐ-
<第一部>7話:少年と豊穣の巫女

06.緒戦は七色の噴水、そして少年は驚愕する



 豪華絢爛を極める本国首都の巨大な会堂は、その一角を武術を嗜む者たちへ開放している。そこに、大虎と子猫のような親子の姿があった。
 燃えるような緋色の髪を弾ませて、子供は訓練用の剣を手に己の数倍はあろうという巨体に立ち向かう。同じ髪の色をした逞しい男は、繰り出される一閃を鞠球でも相手にするように軽く受け止めた。
「オラ、なんだそのなまっちょろい剣は。蚊に刺された方がまだ痛ぇぜ」
「……っ!」
 唇を噛み締めて、子供はにやにや笑う大虎を睨んだ。悠然となびく赤い短髪、灼けた頬に走る十文字の傷、不遜に吊り上がる太い眉。広い肩は空を覆い隠すほどで、こちらを見下ろす様はまるで巨人族のよう。
 久しぶりに戦場から帰ってきたと思えば、「剣術を見てやる」と首根を捕まれて引きずり出されたのだ。怖いとも嫌だとも言いたくなかった子供は、訓練用の剣を持たされると無言で父に斬りかかった。何度弾かれても、諦めることなく。
 ――この男に、負けるわけにはいかなかったからだ。
「あん? どうしたティオ坊、何か言ってみろ」
「……」
 痺れる腕に力を込める。父が嫌いだった。普段はいないくせに、戻ってくると我が物顔で家を取り仕切る傲慢な父が。こんなに野蛮で下品で、意地の悪い男だというのに。
「なんだ。怖くて声も出ねえか」
 返答の代わりに子供は重たい剣を振り上げた。皮が破けた掌で柄を握り、砂まみれの足で地を蹴って、父親に飛び掛った。
 だというのに、世の理を司る神々は子供に微笑んではくれない。男が剣を軽く振るだけで、渾身の一撃は弾かれてしまう。
「剣ってのはな、こうやって使うもんだぜ」
 耳元に悪寒が走った次の瞬間だった。両断された風の悲鳴と共に、肩のすぐ脇に斬撃が振り下ろされた。腕が切り裂かれたと思った。吹き飛ばされるように尻餅をついて、立ち上がろうとするが体が恐怖に痺れて力が入らない。
 頭上から笑い声が聞こえる。弱者を嗤う、この世で最も嫌いな男の声だ。
 なのに母はいつだってこの男の帰りを窓辺で待っている。声をかけても上の空で、自分がその目に映ることはない。母は男が帰ると頬を染め、少女のように駆け寄っていく。甲斐甲斐しく世話をして、逞しい男の腕に指を這わせる。
 子供はいつだって、それを離れたところから眺めることしか出来ない。震えるほどの惨めさに、俯いて拳に爪を食い込ませながら。
「話にならねえな。――もうやめだ、ティオ」
 地面に手をついた子供に男は言い放ち、剣を収めて背を向ける。子供は歯を食いしばった。この男に負けてはいけなかった。この男がいるために、子供は欲しかったものの全てを奪われていくのだ。
 心に黒い炎が灯った。消えてしまえばいいと思った。この影を振り払わねば、欲しいものは手に入らない――。
 怒りが恐怖に打ち勝ったそのとき、彼の手はその幼さに見合わぬ凶暴さを以ってして剣を掴んだ。橙の瞳は業火を宿して燃え上がり、全身を脈動させて男の背中に斬りかかったのである。
 鋼鉄がかち合う鋭い音が、一際甲高く響き渡った。
 何が起きたか分からぬまま、恐ろしい速度で背後に吹き飛ぶ。ぞっとした瞬間、地に叩きつけられて全身が砕けるような衝撃が走った。視界がぎゅっと縮まり、体が言うことを利かなくなる。続いてようやく痛みがやってきて、子供は呻き声をあげた。
 狭まる視界の先、振り向きざまに剣を抜き放った男の姿があった。その表情は烈火の如く怒りに燃えていた。
 息を呑み、父親を見上げる。
「背を向けた奴に剣を向けるんじゃねえ」
 低く告げて、男は再び背を向ける。
 大きな背中が肩を揺らして遠ざかっていく。砂を咬む音が、耳に大きく響く。
 仰臥したまま痛みをこらえることしか出来ない子供の頬を、涙が一滴、音もなく伝っていった。


 会堂の階段の片隅で蹲っていると、高いところから声をかけられた。
「ティオ」
 耳に染むような低く豊かな音色に、子供はぱっと顔をあげて睨んだ。
「む――すまない。レティオ」
 一瞬眉をあげた叔父は、レの部分を一際強調して呼びなおした。
「またこっぴどくやられたな。兄上も無茶をする」
 隣に腰掛けてこちらを見下ろす叔父を見て、子供は何かを言いかけて口を開いた。自分の心を知ってもらいたかったから。
 しかしみるみる唇が歪み、感情の渦が決壊して、言葉の代わりに大粒の涙がその瞳から溢れ出す。そんな姿を大好きな叔父に見られたくなくて、膝に顔を押し付けた。
 父と叔父が揃って帰ってくるのは珍しい。それぞれ遥か僻地で軍務に着く二人は、簡単な理由で戦場を離れるわけにはいかないのだ。だからこそ、久しぶりに会う叔父に、強くなった姿を見て欲しかったのに。
「勝てなかった……あいつに」
 叔父はやれやれと首を振った。
「その歳で剣を振り回すお前の方が見ていて末恐ろしかったがな」
「え?」
「いいや」
 顔をあげたそのとき、不意に髪をかき混ぜられた。大好きな叔父の、大きく暖かい掌だった。
 ゆっくりと目を閉じる。櫛の通った瑞々しい橙色の髪。深い知性と強かな意志を秘めた目。広い肩から全身を覆う優雅な長衣。何よりも、そこにいるだけで安心出来る不思議な温かみ。
 そんな強く優しい叔父は、いつでも自分を気にしてくれる。
 広い天を知ろしめす神々は残酷だ。何故、自分を叔父でなく父の子にしたのだろう。
「安心しろ。先ほどの太刀は中々だった」
 つんと鼻が詰まって、子供は思わず首を振る。
「っ、でも、あいつには勝てなかった」
「勝ちたいのか?」
「だって、あいつは、あいつなんて……っ!」
 感情に言葉がついていかず、歯がゆさに顔を歪める。
 すると叔父は少し間を空けて、諭すように語り掛けた。
「お前はまだ子供だ。力はなく、理解できることも多くはない。成長し、強くなれば、兄上を越えることも出来るであろう」
「……強くなれなかったら?」
「そんなことを言うのか、ティオ」
 呼ばれた名に反応して睨むと、叔父は再び気まずげに詰まった。
 子供は膝を抱える指に力を込め、震える声で言った。
「こんな名前で、強くなれる筈がない」
 ティオ。愛らしいその呼称で呼ばれることを、子供は何よりも嫌っていた。そしてその名を呼びはじめたのが父であることが、何よりも許せないのだ。まるでその名前によって呪われてしまった気がして。
 しかし、叔父は苦さを含んだ笑みを零す。
「そうだろうかな」
 幼い甥は、こくりと頷く。
「ならば、お前の本名を言ってみろ」
「え?」
 見上げると、叔父は悪戯っぽい視線でそれに返す。
「神に捧げた真の名だ。もう自分で言えるであろう?」
「……」
 子供はこくりと息を呑む。この地に住まう者には、普段呼ばれる愛称の他に真の名前が存在する。その名を口にする時には神が傍で聞いているとされ、嘘偽りが許されぬため、誓いや祭儀、公務の折にしか使われない。
 それ故に、少しだけためらった。神に捧げたその名を軽々しく口にしてはならぬと、教師より教え聞かされている。しかし叔父の前ならば、神々もきっと許すと思った。叔父は子供にとって、神のような人であったから。
 子供は自分につけられた長い名前を、稚い唇で小さく紡いだ。この世で唯一の己の真名を。

「――」

 放たれた名前は青空に散り、その音は小さくともきっと神々の耳に届いたことだろう。叔父は、音律豊かな声で笑った。
「そんな格好のついた名前も、そうはないと思うがな」


 ***


 はっと目を覚ましたレティオは、普段の寝床と違う感覚に眉を潜めた。身じろぎをすると、ひんやりした空気が首筋に滑り込んでくる。再び掛布に顎を埋めてしまいたい衝動を抑え、首を振って起き上がった。レティオたちは神殿の一室を借りて一晩を明かしたのだ。部屋の隅では先に起きたらしいフィランが背を向けて荷物を漁っており、反対側の壁際ではジャドが大いびきをかいている。
 しかし、妙に懐かしい夢を見たものだ。レティオは柔らかい光の注ぐ窓を眺めながら、暫し白茶けた思い出に浸った。あれはまだ本国首都で暮らしていたときのことだ。あんな夢を見たのは、昨晩巫女に真名を聞かれたからだろうか。
 レティオの名を考えたのは父だと、幼い頃に聞かされたことがある。あの男はどのような思いを以て自分にこの名をつけたのだろう。超えることはおろか、理解すらできなかった広い肩を思い出し、レティオは目蓋に指を乗せる。その悔しさは、今でも胸の奥に染み付いて離れない。
「起きたんですか」
 顔を向けると、荷物袋を持ったフィランがこちらに視線を向けていた。
「……出かけるのか?」
「ええ。一風呂浴びてきます」
 後から聞いた話だが、混雑を嫌う彼は人の少ない早朝に欠かさず浴場へ足を運んでいるらしかった。元々妙に朝が早いのである。
「先ほど念のため一通り見回ってきましたが、あれ以降騒ぎは起きていないようですよ」
「そうか。早くからご苦労だった」
「ジャドのいびきがうるさくてあんまり眠れませんでしたから」
 棘を含んだ視線を注がれたジャド本人は、床に転がって遠慮なくいびきを垂れ流している。なんというか、感心してしまうほどの音量である。
 力なく首を振ったフィランは、立ち上がって背を向けた。自律の行き届いた、淀みない動きであった。
「フィラン」
「はい?」
 振り向いたフィランの横顔は、朝の泉のように静まり返っている。昨晩、彼の提案を聞いたときは無理があるのではないかと思ったのだが、その冷静な顔を見ていると失敗する気が起きないのだから不思議だ。
「捕まえた妖精はどうするべきだろう」
 問いに、フィランは一瞬だけ真顔になってから、表情を緩める。
「あなたはどうするべきだと思います?」
 逆に問い返されてしまい、レティオは口を結んだ。フィランはくすくすと笑う。
「まずは自分の思う通りにやってみなさい。その選択が本当におかしければ周りの人間が止めますよ。まぁ、失敗するなら今のうちってことです」
「……それは私に失敗しろと言っているのか」
「成功よりも失敗の方が多くを学べますからね。悔しい思いはいくらでもしておきなさい」
「だが」
「もちろん、成功を目指して全力を尽くさなければいけませんよ。だからこそ失敗したときに学べるのですから」
 口を噤むと、足を踏み出しかけたフィランは、それから、と小さく付け加えた。
「出る前にその寝癖は直した方がいいと思いますよ」
「……」
 レティオは僅かに目を見開き、髪に手をやると、気まずさに顔を背けたのであった。


 ***


 神殿を出たところで、フィランは額に指をかけて溜息をついた。
『本当に、何をしているんだろうな』
 先ほどの縋るようなレティオの目つきが、眼に焼きついている。昨晩のジャドとの会話もだ。それらが、絶えず胸の内を騒がせている。
 仕事中にも関わらず浴場に赴こうと思ったのは、普段の習慣を崩したくなかったのもあるが、何より一人になりたかったからだ。今、冷静に職務を果たすには、少し頭を冷やしたかった。
 夜明けの女神がその姿を現そうとしている時刻、通りは閑散としている。鈍重な足取りで階段を下りたフィランは、まばらに歩く人々の内に見知った顔を見つけて、ふと眉を潜めた。灰を混ぜた葡萄酒色の髪を後ろで束ねた青年――あれは灯台島の住民ディクルースではなかったろうか。
 彼もこちらに気付いて、怪訝そうな顔をした。ただ、互いに世間話をするほどの仲ではなかったので、フィランは会釈をして通り過ぎようとした。すると、予想外に彼はこちらに真っ直ぐに歩いてきた。
「あの」
 年下と聞いていたが、背はフィランと同じほどだ。片耳だけについた飾りが朝の光を浴びて揺れている。その栗色の瞳は思っていたより鮮やかで、フィランは僅かに気圧されそうになった。
「……何か用かな」
「どうして豊穣の神殿にいるのですか」
 思いがけず直接的な質問をされて、目を瞬く。だが、答えない理由もなかったので、簡単な経緯を教えてやった。するとディクルースはやや言い淀んでから、不審そうに問いを重ねた。
「……彼女は?」
「え?」
 何秒か、ティレのことを聞かれているのだと気付けなかった。
「マダム・クレーゼのところに預けているけれど、それがどうかしたのかい」
 帰りが遅くなったり、泊りがけの日は大抵そうしているし、日没までに戻らなければクレーゼの家を訪ねるよう本人にも言い聞かせている。なるべくそのようなことはしたくなかったが、配下として俸給を貰う以上、職務に最低限の筋は通さねばならないのだ。
「よくそんなことができますね」
 だから、そこまでの弾劾が待っているとは思っておらず、フィランは口を閉ざすしかない。
「故郷から彼女を連れて逃げてきたと聞きました。なのに、いつもあの子は一人じゃないですか」
 周囲を気遣ってか、押し殺した声でディクルースは剥き出しの感情を次々と紡ぐ。いつも不安げにしているせいか、見開いた瞳が印象的だった。無防備な胸中を抉り取られるような心地に、初めは目を見開いたものの、フィランはすぐには言い返さなかった。以前よりティレの周りをうろつく男の話は聞き及んでいたが、恐らくそれはこの若者であろう。だからこそ、目を細め、呼吸を意識し、心を平静に保った。
「あなたはあの子を守ってなんかいない。あの子、体も弱いし、ずっと寂しそうで――、どうしてあなたは放っておけるんです」
「君には関係のないことだ」
 自分の口から出たと思えないほど冷淡な声だった。しかし、青年の糾弾を遮るには十分だったようだ。勢いを失う瞳を見据えて、フィランは静かに口を開いた。
「それはティレと僕の問題だと言っているんだ。君からわざわざ忠告を受ける筋合いはないよ。それに、もしもあの子にみだりに触れる者があれば」
 冥界の神がその鎌に手をかけるかのように、フィランは眼を光らせて告げた。
「誰であろうと、僕が八つ裂きにする」
「――」
 ごくり、とディクルースの喉が動く。恐怖に足が竦んでしまったようだ。
「まあ、あの子を案じてもらえるのは助かるよ。不審なことがあったら、僕に教えてもらえるかな」
 念を押すように薄く笑いかける。これでティレの周りを嗅ぎ回るようなことはしまい。そう思い、フィランは背を向けた。
「……それでも」
 消え入りそうな言葉があった。
「それでも、あなたのやり方は間違ってる。あの子は、幸せじゃない……」
「忠告はしたよ。あとは君の自由にすればいい」
 振り返らずに言い残すと、フィランは一人で歩き出した。追いかけてくる気配はない。いくつか角を曲がって、細い路地に入ると、フィランは掌を額に乗せた。叫びだしたい気持ちを唾を何度か飲み込んでこらえる。ようやく朝の空気に心が冷まされると、微かな笑いが、唇に浮いた。
『……大丈夫。まだ、大丈夫だ』
 無様なほどに心が揺らいでいる。助けを求める少年の言葉に。優しすぎる仲間の言葉に。鞭打つような若者の言葉に。けれど、まだ致命傷ではない。
 ぱん、とフィランは両手で自らの頬を叩いた。甘えるな。気を張れ。常に眼を開いていろ。別れの日はいつか訪れてしまうかもしれない。その日に、その足で立っていられるよう。
 そう思えば、次の行動が選び取れる。取り急ぎ、あのディクルースとかいう若者には注意せねばならない。マリルにティレの様子を見る頻度を増やしてもらうよう頼みにいかなければ。
 顔を上げて、足を踏み出す。公衆浴場へと向かうフィランの頭は怜悧な理性に支配され、それ以上揺らぐことはなかった。


 ***


 当主の甥を先頭にして歩んでくるベルナーデ家一行を見て、祭壇で待っていたダリアはほっと表情を緩めた。
「おはようございます、皆様」
「良き朝に感謝を。――巫女は?」
「申し訳ありません、先ほど一度起こしたのですが、その」
「そうか」
 レティオはもはや驚きもしないようで、平然と返した。
「そうでなくたって昨日の今日ですからね、大事をとった方が良いでしょう」
「ええ。本日のお勤めはお休み頂く予定ですわ。あと、フィラン様。昨晩ご所望されたものを用意しましたが」
「ありがとう。それじゃあ……」
 フィランがいくつかの指示をすると、不思議そうな顔をしながらも聡明な女官は頷いてみせた。
「はい。仰せの通りに致しますわ」
 ダリアはそう言って憂慮の眼差しを辺りに向けた。広い神殿内の空気は何処となく張り詰めている。何よりも異様なのは、人相の悪いゴモドゥス一派の男たちが神殿のあちこちにたむろしているところだ。彼らも妖精を捕まえるための策があるらしく、閉鎖された参拝堂に仕掛けを施しているようだった。他の女官たちが不安そうな顔をしているのを見て、ジャドは不機嫌そうに舌打ちをした。
「ちっ。けったくそ悪ぃな、大勢でうろつきやがって。ここを何処だと思ってやがる」
「ジャド、それを言うなら僕らも十分場違いですよ」
 フィランは小声でジャドを制したが、彼もゴムドゥスのやり方には眉を潜めたい思いだった。豊穣の女神に仕える女たちが守る神殿に無骨な男を何名も配置するなど、とても思慮ある判断とはいえない。
「安心しろ」
 不意に凛とした声を聞いて、フィランは目を瞬いた。未だに幼さを残す顔立ちをした少年が、真っ直ぐと女官を見て告げたのであった。
「神殿は必ず守ってみせる」
 揺るがぬ信念を持つその言葉に、ダリアは心を奪われたように呆然としていたが、やがて表情を綻ばせ、嬉しそうに頷いた。
「っしゃぁ、一丁やるか」
「……そうですね」
 一度目を閉じて余計な思考を取り払うと、フィランもまた思いを新たに息を吸った。早くごたごたを片付けて、ティレの元に帰ってやらねばならない。


 ***


 ヴェルスの空模様は女神の表情のように移ろい、日が高くなるにつれて青空に雲が立ち込める。白い鳥は宿木を探すかのように急いで飛び、岸に打ち寄せる波の色も鈍重なものとなる。
 散開した後、フィランは祭壇に一人で立っていた。ゴムドゥスの手の者たちは広間で蹴りをつけるつもりらしく、ここにはいない。じっと目を閉じていると、鳥たちが甲高く鳴く音を聞いて顔をあげた。
「来た」
 呟いた瞬間、空から大岩が水面に叩きつけられたような轟音が表に鳴り響く。フィランは出窓に取り付いて庭を見下ろし、その情景に顔を引きつらせた。
「うわぁ……」
 穏やかな水面を湛えていた庭の池が、今やどうしたことだろう、七色の原色に染まって空高く噴出している。その高みを見上げ、フィランは首を振った。激しく目立つが、あまり美しいとは言えない。
 しかし見とれている場合ではないのである。庭で右往左往する女官たちの合間に目をこらしていると、突如高笑いが響き渡った。
「あーっはははははは! 騒げ騒げぇっ」
 空間を自在に舞う仄かな光。フィランは顎を引くと、足元にあった荒天用の木板を窓に嵌めた。神殿中の窓は今朝から女官に手伝って貰って塞いである。妖精を相手にこんな板が効果をなすとは思えなかったが、――相手はこの戦いを遊戯として楽しんでいるのだ。こうやっておけば、人間の無駄な抵抗と笑いながら自信たっぷりに正面突破を決行するだろう。相手の妖精には、正面から入ってきて貰う必要があった。
「さて、ぼちぼち行きますか」
 祭壇の上には女神像に捧げられた供物を篝火が照らしている。フィランは階段の下に立つと、正面の通路をじっと睨んだ。


 ***


 神殿の外れの池から姿を現した妖精は、途中で思わぬ人々に取り囲まれていた。
「ええい、お待ちッ!」
「どわ!?」
 ベラが懐から出した網を投げかける。上空で広がるそれを見た妖精は、小さな手を天に掲げた。
 次の瞬間、無数の風が刃となり、妖精の体を覆おうとしていた網が散り散りに散る。
「おっと」
 間髪いれず小石や煉瓦の欠片が大量に飛んでくる。投げているのは神殿で働く女たちだ。
「ねえ、これ当たったら死んじゃわないかしら!?」
「加減して投げるのよ! えいっ!」
「結構な勢いで投げてるわよ!?」
 ベルナーデ家から事情を聞いた女たちが、急ごしらえの強襲準備を整えて参戦しているのである。半透明の羽根を煌かせて石を避ける妖精に、一際大きな煉瓦を投げながら女の一人が激情を露にした。
「よくもナディア様に酷いことしたわね! 絶対に許さないわ!」
「あぁ!? なんのことだよ!?」
「階段に油を撒いたでしょ! ナディア様は頭を打ったのよ!? 大怪我になるところだったわ!」
「はぁ、そんなこと――うわ!」
 木桶から泥水をぶちまけられて、妖精は上空への対比を余儀なくされる。
 攻撃が届かなくなり悔しそうに歯軋りする女たちを見て、妖精はフフンと笑った。
「仕方ないなあ。ちょっと手荒にいくぜ!」
 その唇から僅かな詠唱が紡がれ、不意に風が止む。女たちが怪訝そうな顔をした次の瞬間。
「いけぇっ! 精霊の御名において!」
「きゃあああ!?」
 下から巻き上げる突風に、裾を大きくはためかせた少女たちが一斉に悲鳴をあげる。
「ししし、いい景色だ!」
「逃がさないよ!!」
 一気に滑空する妖精に追従したのは、ベラを筆頭にした中年の女性たちだ。巻き上がる服の裾もなんのその、土煙をあげて猛り走る。
「ヒッ!」
 本能的な恐怖を覚えて妖精は腕を掲げた。空中を歪ませ、半透明の灰色の生命体モモラをぼたぼたと落とす。
「なんの!」
 大陸最強と恐れられる帝国軍も真っ青な勇壮さで、ベラは素手でモモラを叩き潰した。元々が幻であったモモラが泡のように消える。
「ちょっ、待て!?」
「待つもんかね!」
 投げかけられる網を必死で避けながら、妖精は大きく開いた正面の門を抜けて参拝堂へと逃げ込んだ。
「よし、アタシらの役はここまでだ」
 フィランから受けていた指示通りに正門を閉じると、女たちはしたり顔を見合わせるのであった。彼女らは妖精を正面出口へ追い立て、退路を塞ぐ役を担っていたのだ。
「あとはベルナーデ家のお手並み拝見だね」
 先頭役を担っていたベラは、ニヤリと笑って閉じた扉を見上げるのであった。


「きやがった」
「抜かるな」
「こっちのセリフだぜ」
 ジャドは唇を舌で濡らして、いつでも走り出せるように中腰で待機している。外からは女たちの怒号の雄たけびが木霊し、敵の気配が近寄ってくるのを教えてくれる。
「……怖ぇな、オイ」
 ちょっぴり怯んでいるジャドを横目に、レティオは小声で呟いた。
「フィランも無茶を言う」
「いや、奴のいうことが正しけりゃ、うまくいくかもしれねぇぜ」
 レティオは憮然と鼻を鳴らした。
「あれが真実かどうか、定かでないではないか」
 昨晩、二人に向けてフィランが語った妙案は、とある仮定の上に成り立つものであった。その仮定が真実と違えば、今回の作戦は根底から瓦解する。ジャドは腰に剣と共に差した木製の棒を見下ろして、口元を歪めた。
「けっ。まぁ間違ってたら殴っといてやるぜ」
「案ずるな、私も加わる」
 しれっとレティオは言い放って、反対側に鋭い眼差しを向ける。閉鎖された神殿内の簾が落ちた列柱の合間には、ゴムドゥスが仲間を二人連れて待機している。あちらもあちらで思惑があるらしく、今日は朝から仕掛けを施していたようだ。どちらが妖精を捕まえられるか。レティオはフィランの策に賭けたが、それは果たして正しかったのか――。
 妖精は道すがら大変な騒ぎを起こしてくれるので、どの程度の距離かは気配で分かる。レティオは胎をくくるしかないと唇を噛み締め、そして。

「ふにゃー」

 ありえない声を、耳にした。




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