-黄金の庭に告ぐ-
<第一部>7話:少年と豊穣の巫女

06.夜の風



 夜を率いる時の女神キュテラが長い紫紺の腕を広げて空を覆えば、かつて黄金の庭と賛美された豊穣の都ヴェルスにも静かなる眠りの時間がやってきた。
 豊穣の女神の神殿は日没と共に門戸を閉ざすとはいえ、都市の象徴でもあるため篝火が絶やされることはない。そしてその内部には、いつにも増して人の気配が満ちていた。

「……ぅぅ?」
「ナディア様? お気づきになりましたか!」
「なーに、ダリア。あとちょっと寝かせてー……」
「私が、ダリアがお分かりになるのですか!?」
「うぅ、なんか頭痛いー……あれ?」
 身じろぎをしながら目蓋を開くと、ぼやけた視界に背の高い女官が切迫した顔を近づけている。ナディアはぽやんとそれを見上げて、表情を綻ばせた。
「あはは、ダリア。面白い顔」
「っ!」
 ダリアは大粒の涙を浮かべると、突然立ち上がって部屋を飛び出していった。
「あれ?」
 ナディアは自室の様子がいつもと違うことにやっと気付く。やたらと女官が詰め掛けて思いつめた顔をしており、何人かが飛び込んできて、その場にへなへなと座り込む。彼女らの唇からは女神の名が何度も唱えられ、そしてすぐ脇で緋色の髪をした少年が呆然と突っ立っていた。
「ナニゴト?」
 己が空前のボケをかましていることにも気付かず起き上がろうとすると、弾かれたように少年が叫んだ。
「動くな! いいから寝ていろ」
「ほぁ?」
 仁王立ちになった少年から凄まじい殺気を感じて、ナディアはよく分からずに寝台の中で縮こまった。少年――レティオは、暫く巫女を食い入るように見つめていたが、脱力したように椅子に腰掛ける。その横顔を見て、ナディアはぎょっとした。
「もしかして少年君、わたしが寝てる間に――?」
「違うッ」
「わーん! ヴェーラメーラ様、わたしは穢れてしまいましたー!?」
「人の話を聞け!」
「あ、でも少年君だったらちょっといいかも」
「っ……!」
 ぼふっ、と顔を朱に染めてしまうレティオ少年、ちょっぴり刺激に弱い十六歳である。

 ――と一悶着があったものの、周りの女官たちの取り成しで巫女の誤解は解けた。絶対安静を命じられた巫女は、鼻まで掛布を被って唸る。
「ふ、普段はこんなポカやらないのよ」
「そうか」
「ダリア、大丈夫かなあ」
「緊張の糸が解けたのだろう。後で礼を言った方がいい、誰より貴方を心配していた」
「うん。そっか、ダリアはわたしの前じゃ泣かないしねえ」
 それは巫女を補佐する女官としての誇りなのであろう。レティオは凛としたその信念を素直に尊敬した。
「ねえ。ゴモドゥスたちはどうしてるの?」
 ナディアは他の女官を気遣って小声で尋ねてくる。その目に宿る不安が和らぐよう、レティオは言った。
「説得して今日は帰らせた。捕らえた妖精は檻ごと宝物庫に軟禁してある。働きに来ていた女たちも、ベラが一緒に帰ったから大丈夫だろう。後で礼を言った方がいい」
「……そっか」
 安心したようにナディアの肩が寝台に沈む。同時に落ちた前髪の合間から覗く包帯が痛々しい。
『痕にならなければ良いのだが』
 そう思うと、改めて妖精への怒りがこみ上げる。
 窓の外の闇に意識をやって、レティオは唇を噛んだ。どうすればあの奇異な妖精を捕まえることが出来るだろうか。今日のことなど、彼らにとっては小手先で遊ぶ程度だったに違いない。身軽な体で自在に舞い、片手をかざすだけで魔法を放つ妖精族は、人間がそう簡単に敵う相手ではないのだ。しかもその内の一人は既にゴモドゥスの手の内にある。ベルナーデ家は明らかに劣勢に立たされているのだ。
「ねぇ少年君」
「……」
「少年君てば」
「……」
「えいっ」
「!?」
 脇腹を指で突かれ、思考を中断させられる。見下ろした先にはしてやったりの笑みがあり、レティオはげんなりとした。殺されそうになった身で、どうしてそこまで気楽でいられるのか。
「あのね、少年君。お願いがあるんだけど」
 ただでさえ意味不明の行動に辟易していたところである。レティオは、続く言葉に戦慄すら覚えた。
 巫女は宝玉のような大きな瞳でレティオを捉え、ゆっくりと告げたのであった。

「もし妖精を捕まえたとしても、あんまり酷いことしないで欲しいの」


 ***


「あんだよ、こんなとこにいたのかよ」
 屋外に設えられた臥床に座って闇に沈んでいたフィランは、ふと横顔を向けた。神殿内から来たジャドは肩をすくめてみせる。
「巫女さんが目ぇ覚ましたぜ。幸いなんともねぇみたいだ。レティオがついてやってるから、まぁ大丈夫だろ」
「……そうですか」
 柔らかい声でフィランは返した。ジャドは目を細める。都市にやってきた頃と変わらない、人当たりの良い口調だ。ヴェルスの風に揺られて、柔らかい髪がなびいている。
「しっかしよ、あいつら許せねぇぜ。明日はぜってぇ捕まえてやる」
 その言葉に、暫くフィランは答えなかった。ジャドが首を傾げたそのとき、不意に彼は肩を揺らす。笑っているのだ。
「愛されていますね、ここの巫女は」
「はぁ? そりゃ巫女さんなんだから、当たり前だろ」
「敬意を払われることと愛されることは違いますよ。一般に豊穣の巫女は重大な責務を負うことで民の畏敬を集めるのです、だから敬われても、愛されることはとても少ない」
 何処かそっけない言いぶりにジャドは眉を潜める。
「重大な責務? 天気を読むってことか?」
 フィランは少しの間をあけて、含み笑いするように告げた。
「知らないんですか。巫女は未来を読みますが、誤った信託を下した巫女は死を以って償うのがしきたりなんですよ」
「は」
 ジャドは五秒ほど停止して、眉を吊り上げた。
「嘘だろオイ!?」
「……一般常識と思ってましたが」
 やれやれと首を振って、フィランは己の手に視線を落とす。
「本当ですよ。その責任と引き換えに、巫女は神殿に守られ、不自由なく暮らしているんです」
 自由ある者に等しい責任を、力にある者に同じだけの責務を課すのが諸国に君臨する帝国ファルダのやり方だ。富を持つ貴族であれば公共事業に自費で取り組むことを望まれ、皇帝ですらその権利を不当に使えば先帝のように自死の道を辿ることになる。それは神殿を守る巫女も例外ではないのだ。
「けれどヴェルスの巫女はよく働く。巫女の身で地元の民とこんなに積極的に交わるなんて本当に珍しいですよ」
 だから、とフィランは疲れた声で呟いた。
「だから彼女は人を惹き付けるんでしょうね。そう、僕たちが何よりも増して守らなければならない。明日までに良い案を考えないといけません」
 不思議な物言いが気にかかったが、フィランはそれ以上口を開こうとしなかった。
 ジャドはそこで踵を返すことも出来た。否、きっとフィランはそうして欲しかったのだろう。顔を戻した彼の背は、口調と裏腹に他人を拒絶している。
「――」
 ジャドは鼻から息を抜いた。
 ――てめえ、何者だ。
 先ほど、ゴモドゥスは若者にそう問うた。ジャドが、そしてベルナーデ家の誰もが胸に抱く問いだ。神に捧げた名は捨てたと言い切った若者。普段は貴族のように穏やかでありながら、庶民のように明るく、一方で盗賊のように抜け目なく、そしてある時はまるで――。
 ゆっくりと、首を振る。あの時の彼を思い出すと、やはり、放ってはおけなかった。


 ***


 巫女の命を奪いかけた妖精は天神の雷に打たれて粉微塵になればいいと思っていたレティオである。ナディアの申し出は正気の沙汰とは思えなかった。流石に口にはしなかったが、アホか、くらいには思った。
「巫女。あなたは自分の身分を忘れたか」
「ほぇ? 豊穣の巫女ですよ、わたし」
 呑気にピースサイン。
 レティオはげっそりとしたが、巫女は悠長に話し続けた。
「だって妖精って、海の向こうから来た種族なんでしょう? わたしたちと違った考え方があるんだわ、きっと」
「しかしここは帝国の領地内だ。いくら異郷の者とはいえ、法を守らぬ者を許すわけにはいかない」
 きっぱりとレティオは反論した。各々の文化を持つ諸国を統治する帝国において、相容れぬ他者との秩序を守る為に制定されたのが法律だ。これを守らずして、どうして平和が保たれようか。
 けれど巫女は笑った。怜悧な論理を、暖かい指先でそっと制するように。
「ねぇ、少年君。知らないものを頭ごなしに否定するのは簡単だと思うの」
 レティオは不意をつかれて巫女を見た。掛布を握るナディアの瞳が、ふと焦点を失くす。その虚空に、過去を映しているのだ。
 暫く思い巡らすように視線をさまよわせたナディアは、伺うようにこちらを見上げた。
「少し、昔のことを話してもいい?」
「……構わないが」
 ナディアは嬉しそうに笑うと、とつとつと話し始めた。
「わたしね、物心ついたころにはもうリュケイアの塔にいたんだ。ここに来るまでは具眼の力ばっかり磨いてきたのよ。巫女の役割は天候を読むこと、そう教えられて。この地に住む人のことなんて、書物で簡単に知っただけ。それで十分だと思ってた」
 ゆっくりとした語り口である。レティオは小さく頷いた。
「でもね、ヴェルスに来て、お祈りだけの毎日を過ごしていたらね、ずーっと変わらない毎日で。なんで自分がここにいるのか分からなくなっちゃったのよ」
「あなたにもそんな時期があったのか」
「ふふふ。悩める乙女って感じで素敵でしょ、ちょっとときめいた?」
 レティオは無言で先を促した。えへへ、と笑ってからナディアは続けた。
「あの頃は神殿に来る人がみんな同じ顔に見えたの。誰もわたしのことなんて理解してくれないと思った。みんなが知りたいのはわたしのことじゃなくて、未来の天気だけなんだって。そんなこと、分かってるつもりだったんだけどね。改めてそう思ったらとても辛かったわ」
 慣わしでは、豊穣の巫女は十歳を過ぎた辺りで各地の神殿に遣わされる。幼くして親元を引き離されて苦しい修行を積み、地方都市にやられて巫女の責務を強要される彼女たちの労苦はどれほどのものだろう。レティオはナディアの声に耳を傾ける。
「わたしがわたしである意味が分からなくなって、お勤めが嫌になって。あるとき、全部投げ出しちゃったの。お祈りも祭事もやめて、ずっと部屋にこもってたわ。そしたら、ダリアがこっそり外の世界に連れ出してくれたの」
「あの時代にか?」
 驚くレティオに、ナディアは誇らしげに頷いてみせた。巫女が派遣されて間もない時期は、都市が最も荒廃していた時代と一致する。子供だけでは、下手をすれば昼間に歩くことすら危険が伴った筈だ。
「二人でこっそりとね、農園の方まで行ったの。ダリアってすごいのよ。きっと色々準備してたのね。私の手をぐいぐい引っ張ってくれて。宿舎に行って、目を丸くする農夫の人たちの前で、ダリアは何て言ったと思う?」
 ――人買いから逃げてきました。ここに一晩泊めてください。
「はっ」
「あんなにどきどきしたことなかったなあ。ばれなかったのが不思議なくらい。でもね、ダリアはそこの人たちが優しいって、行商人の巡礼者に聞いて知ってたみたい。わたしたちは中に入れてもらえたわ。そうしたらね、もっとびっくりしたのよ」
 ふと、瞳に憂いが混じる。ナディアは静かに続けた。
「わたしは食べるものに困ったことなんかなかったのに、彼らは今日のパンにも困ってた。小さなパンを、大切そうに大切そうに分けてくれた。そしたらダリアが、宿舎の壁の文字を指差したのよ。そっちを見たらね、――わたしの神託が大きな文字で書かれてた」
 ダリアは近くの老婆に文字の意味をわざと問う。困窮に喘ぐ生活に晒された老婆は、乾いた目蓋をそっと細めた。
 ――これは、わたしたちの希望ですよ。
 ――何も信じられないわたしたちの暮らしの中で、たったひとつ、確かなもの。
 ――麦を結ぶ、大切なお告げ。豊穣の巫女テアナルディア様のお言葉です。
「わたし、恥ずかしかった。その神託は、投げやりに視たものだったから。ヴェルスの人が、そんな気持ちで働いているなんて知らないで、わたしは視たものを話すだけだった」
 睫が微かに震える。豊穣の巫女は、真っ直ぐに天井を見つめる。
「未来の天候を読むだけじゃ駄目。毎日同じお勤めをして、何にも変わらない生活をしてたら、いつか動けなくなってしまうんだわ。だって分からなくなるもの。どうして天気を読むことが大事なのか。どうしてヴェルスでこんなにも豊穣の女神様が愛されるのか。どうして――わたしは、生きているのか」
 過去が現在に移ろうに従い、言葉には覇気が、瞳には光が戻る。命の輝きを振りまくように、巫女はレティオを見上げる。
「だから、わたし、色んな人のことを知りたいと思ったの。それに、わたしに何ができるのか知りたかった。だから、ちゃんと自分の目で見て、自分の頭で考えて、自分の口で話さないとって」
 ゆっくりと目を閉じて、また開く。もうそこに過去の幻想はない。未来の空模様を読む力を持つ巫女の瞳は、現実をしかと見通そうとしている。だから彼女は明るく笑って民と語るのだろう。その足で、しなやかに立っていられるのだろう。
「わたしたちは妖精の考えてることが分からないし、妖精もわたしたちのことが分からないんだと思う。なら、まずは知らなきゃいけないし、知って貰わなきゃ。帝国のやり方で罪を裁くのは、それからでも遅くないんじゃないのかな」
 ――その笑顔と言葉を、甘いと笑う者がいるかもしれない。
 けれど強かな意思が時に剛健な理を貫くにも似て、レティオは己の牙城が崩された心地を味わう。
「しかし巫女、相手はあなたを傷つけた」
「あれ、少年君」
 取り繕うとした言葉も虚しく、巫女は笑った。この上なく晴れやかに。
「わたしのこと心配してくれてるの? 嬉しいなあ、えへ」
「……」
「わたしはいいのよ。こうやって無事なんだし、少年君にも心配されちゃって役得役得」
 むふふ、と掛布を引き上げる巫女は何処までも楽しそうだ。生ぬるい息を吐き出しながら、椅子に座りなおすしかない。
 レティオは、この巫女が都市の民に愛される理由が分かったような気がした。彼女はヴェルスの民を深く愛し己の全てを捧げるからこそ、民からも愛されるのだ。
 それに比べて、自分はどうだろうか。叔父に大した貢献も出来ず、余裕なく動き回り、配下に支えられてやっとベルナーデ家の跡継ぎの座に納まっていられる自分は。
 先日、配下の一人を失ったときも、レティオには何も出来なかった。血を流したのは配下たちで、絶望の只中で厳然と命を下したのは叔父だった。自分はどうすればいいか分からず、ただ叔父の指示に従うだけだった。何をするにも、自分では力不足であったのだ。一体、自分は誰に必要とされているのだろう。
 そして今も、妖精を捕まえる方法の一つすら思いつくことが出来ない。そう思うと悔しくて、レティオは唇を噛み締めた。
「そういえば、少年君の名前、まだ聞いてなかったな」
「――?」
 だしぬけに質問されて、レティオは顔を巫女に向けた。巫女は丸い目を瞬き、にっこりと笑う。

「教えてほしいな。レティオ、って呼ばれてたけど。神様に捧げた名前はなんていうの?」


 ***


 今宵は豊穣の女神の機嫌も良く、風も雲も穏やかな様子であった。漆黒の夜空には降り注ぐような星々が煌いている。
「なんで妖精捕まえんのにそこまでしたんだよ」
 目蓋の裏に浮かぶ夕暮れの景色を意識してかき消すと、ジャドは卓を挟んで反対側の臥床に腰掛けた。
「はい?」
 若者に問い返され、気まずげに髪をかき回すしかない。とっさに思いついた会話がそのくらいしかなかったのだ。
「ガキの頃の話だよ。昼に話してたアレ。別にそこまで妖精にこだわる必要もなかったろ」
「……あぁ」
 拒絶されるかと思ったが、フィランはそうしなかった。背を向けたまま、星空を見上げる。
 そして紡がれた答えに、ジャドは目を瞬いた。

「友達が欲しかったんですよ」

 たった一息。ジャドはフィランを凝視する。
 視線の先で、若者の肩がくつくつと自嘲に揺れる。
「僕が貴族の分家の分家の三男だったとは言いましたよね。そんな限りなく庶民に近い貴族の子供が、他の子にどんな目で見られると思います?」
 返答を待たず、フィランは続けた。
「貴族の子には下っ端扱い、庶民の子には仮にも貴族だといわれて仲間に入れてもらえませんでした。家の方は遊び相手用の奴隷を買う余裕もなかったですし」
 まるで他人の過去を語るようなそっけなさで、淡々とフィランは語る。
「兄たちとも歳が離れていましたから、おかげで一人遊びばかり得意になってしまいましてね。寂しかったんだと思いますよ。だから一度手に入れた友達を手放したくなかった、……力ずくでも」
 我ながら馬鹿ですねぇ、と呟いたフィランに、ジャドは曖昧に相槌を打って臥床に寝転んだ。
「そら苦労しただろうな」
「ええ、とても」
 組んだ腕を枕にして、ジャドは雲ひとつない星空を眺める。彼は幼い頃もこうして寝転がり、仲間と星の正体について語り合ったものだ。そして気付く。北風の吹く山岳地帯の貧しい農村に生まれたジャドは、それでも一人ではなかったと。
「親もよく分かっていたから、僕を首都へやったんでしょうね。まあ、結局何処へ行っても末端の呼び名は離れてくれませんでしたけど」
 古くから敗戦国の長の子を人質として首都に連れ込み、徹底的な帝国流の教育を施して故郷に返すことで広い国土の地盤を固めたのが帝国ファルダである。今でもその風習は「人質」から「留学」に名目を変えて続いている。首都の名門家では帝国各地から集められた身分の高い子供が共同生活するのが当たり前の光景であった。フィランもその一員として暮らし、帝国貴族として遜色ない振る舞いを身に着けたのである。
 彼が何を考えてその道のりを歩いたのか。ジャドは目蓋を閉じて思い描くが、それは虚像となって霧散してしまう。
 フィラン。そう名乗った若者のことを知らない自分を、ジャドは改めて思い知らされる。オーヴィンは彼を、未だ自分たちを警戒していると評した。そう、彼は今も旅用の頑丈なサンダルをはいている。故郷から長い旅路を経て、ぼろぼろになったそれを。そして手元には、一振りの長槍――。
「剣は誰に習った?」
 問いに、若者の肩が揺れる。ジャドは寝転がったまま、若者の後姿を観察する。
「……戦場で、師であった人に」
 フィランの声音は変わらなかった。耳に染む穏やかな声だ。しかし、僅かに振り向いたその瞳の冷たさに、ジャドは一瞬言葉を失った。
「あなた、見たでしょう?」
 月の光に凍てついた若者の眼差しは、心に爪を立てるかのよう。彼が血の霧をまとって突き動かされるように舞う夕暮れの光景が浮かび、ジャドは呼吸を止める。
「僕はあなたにさえ斬りかかった。運が悪ければ、きっと僕はあなたを殺していました」
 微かな希望さえ打ち砕く、静かな声。そう、あの夕暮れにギルグランスが駆けつけたとき、ジャドは放心状態で倒れていた。しかしそれは起き上がった死者による傷ではなかった。
 あの時駆け寄ったジャドを、フィランは剣戟を以て迎えた。一撃目を受け止めてその素早さに瞠目し、二撃目を流してその正確さに背筋が寒くなり、三撃目を受けられたのはただの運だった。剣が弾き飛び、その場に蹴り倒された。止めを刺されるかと思ったが、それはフィランの背後から群がる死人によって止められた。だが、ジャドは立つことが出来なかった。凍えた狂気を湛えた若者の金色の瞳が、目に焼きついて離れなかったのだ。
「ありゃ、どういう」
「僕は昔、仲間だと思っていた人たちを、全員斬り殺したことがあります」
 言葉を被せられ、そしてその凄絶な意味を認識してジャドは息を呑んだ。
「う――」
「嘘じゃありませんよ。そのお陰で剣を持てなくなったんです。持つと、どうしてもその時のことを思い出してしまって。それでも僕は剣が一番得意だった。そして僕はあそこで死にたくなかったから剣を取った。あれは、ただそれだけなんですよ」
 フィランは息を抜いて、汚らわしいものを隠すように顔を背けた。
 けれど、たった今彼の冷えた背中を覆っているのは、目に見えない疲労と苦悩、そして空虚な自嘲だ。冷徹な破壊の権化と評してしまうのには、あまりに弱々しいその姿。
「フィラン、てめぇ」
「ジャド、僕のことは遠慮せずご当主に報告してもらって構いません。出ていけと言われたら、いつだって」
「バカヤロウ、言うかよ」
 身を起こし、怒りを込めて返す。しかし前髪に表情を隠したフィランは、口元に笑みさえ浮かべて問うのだ。
「何故です?」
「何故って……テメェな」
「危険があれば一番に主に伝えるのが配下の務めではないですか」
 まるで自らを追い詰めるかのように、フィランは淡々と言葉を紡ぐ。ジャドは頭をかき回して、眉を吊り上げた。今すぐにでも肩を掴んでやらないと、彼が何処か遠くへ行ってしまいそうで。
「フィラン。テメェ勘違いすんじゃねぇぞ」
 ヴェルスの風が二人の合間を吹き抜ける。フィランは微かに首を傾けてこちらを見た。それを逸らさせぬように、ジャドは真っ直ぐに睨み付けた。
「うちのオヤジはそこまで馬鹿じゃねぇよ。あんなことがあって、テメェがおかしいことくらいとっくに気付いてんだよ。でもオレには詳しく聞かなかった。聞く必要もねぇってことだよ。あのオヤジ、ムカつくことに自分の目が一番正しいって信じてやがるからな。だからオレが何を言ったところでオヤジの心積もりは変わらねぇんだよ。残念だったな、馬鹿」
 感情の向くままに言葉を放つ。目の前の若者に恐怖を感じたのは確かだ。しかし、月の灯りの下にこちらを向く無防備な金色の目は、まぎれもない人間のそれだ。
「だから金輪際そういう言い方はやめろ。自分の居場所を刈り取ろうとすんじゃねぇ。ぎりぎりの瀬戸際でここにいるのはテメェだけじゃねぇんだよ」
 その危うい在り様に、どうして純粋な怒りや恐怖をぶつけることが出来ようか。
 否、違う。ジャドは思う。
 ジャドはただ、フィランが明るく真面目な槍使いに戻ることを祈っている。
 彼がこのまま、別人となってしまうことを恐れている。
「僕は、そういうつもりは」
「うるせぇ、黙って聞けよ。テメェな、忘れたかよ。テメェがいなかったらオレとオーヴィンは死んでたんだよ」
 見えない風を掴むように。ジャドははっきりと言葉を切った。
「オレはテメェに助けられた。オレにとってあの事はそれ以上でもそれ以下でもねぇ。罵ってくれると思ったら大間違いだ。ざまあみやがれ」
 はたはたと風が垂れた枝葉を揺らしている。熱くなった体が冷めていくのを感じながら、ジャドはフィランの頬が歪むのを視た。それ以上の言葉を拒絶するように、彼は指を顔に被せた。
「……分かりました。もう言いませんよ」
 擦り切れるような声。フィランはじっと風に身を任せたまま、俯いている。野獣のような凶暴性は、もうそこにはない。
 ジャドは鼻から息を抜いて、空を見上げた。胸に燻る不安は消えないが、それでも自分は正しいことを言ったと、確信があった。
「ま、そう考えるとテメェの剣の師匠って奴に感謝だな」
 ジャドはそう結んで、自分の言葉を意思とした。いつかフィランも変わるだろうと。今はろくに自分の過去も語ろうとしない男だが、けれどいつかきっと。
 ――ようやく心が静まったのか、ふと何かに思い当たったようにフィランが呟いた。
「そういえば、剣の師匠で思い出しました」
「あん?」
 顔に手をやったまま、フィランは続ける。
「あの人にも妖精を捕まえそこねた話をして大笑いされたんですよね」
「あぁ、師匠って奴にか?」
「ええ。妖精族には人間なんて束になってかかっても敵わないんだって言ってましたよ」
「よく知ってたな、その師匠」
「彼も本気で捕まえようとしたことがあったらしく」
「……」
 この師あってこの弟子あり。きっとその師とやらもフィランにそっくりだったのだろうと、しみじみしてしまうジャドである。
「そう、結構いいところまでいったって誇らしげに言われてムカついたんでよく覚えてます。あのとき、あの人――」
 語るにつれて次々と過去を思い出したのか、フィランは口早に話していたが、はっと顔をあげた。
「――そうだ」
「あん?」
 突然顔をあげた若者は、暫く夜風に吹かれていた。そうして一つ頷くと、ゆっくりと振り向く。生気が戻ったその表情には、月夜に瞬く静謐な自信が浮かんでいる。
「ジャド、良い案が浮かびました」
 月明かりに照らされたフィランは、目を細めてはっきりと断言した。



「――妖精を、捕まえましょう」




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