-黄金の庭に告ぐ-
<第一部>7話:少年と豊穣の巫女

05.午後の騒乱



「いってぇ!?」
 広々とした参拝用の間に、場違いな男の悲鳴が響き渡る。そちらを向いた衆人は、状況のありえなさに丸々三秒は停止した。
 からんからん、と木桶が小気味良い音をたてる。ジャドの頭の上に落ちてきた、木桶が。
「じゃ、ジャド?」
 逸早く現実に戻ったフィランが呼びかけたものの、はっと上を向いた。が、一瞬遅かった。
 ぼふん。
「――っ!?」
 宙に浮いた瓶がくるりと逆さまになり、中の小麦粉が滝のように降り注ぐ。
 妖精だ。そう感付いたレティオは辺りを見回すが、不意に頭上で不可思議な力が渦巻いた。何が起きているのか考える前に、突然足が動かなくなった。
「ちっ」
 風に押されて上体だけが前方に流れ、次の瞬間には足の呪縛が解かれる。態勢を崩したレティオは転ぶことは避けられないと見て、そのまま受身を取って転がると、素早く立ち上がって剣の柄に手をかけた。するとどこからともなく、くすくすと忍び笑いが聞こえてくる。
「やーいバーカ」
「っ!!」
 びきーん、と空気が引きつった。
「お、お化け!?」
「妖精です、ナディア様!」
「だ、だって妖精はそこの檻の中に入ってるじゃない!」
 慌てるナディアをダリアが腕の中に庇う。にわかに沸き立つ空気にゴモドゥスたちも怪異の正体を掴もうとしたが、突然男の一人の服に火がついた。
「うわあっ!?」
 服をはたく間にも一人、また一人、みるみる火が広がっていく。これにはゴモドゥスも冷や汗をかき、供物置き場に走ると水瓶を取り、必死の形相で集まってきた手下どもにぶちまけた。
 しかし鎮火する際の黒い煙も、嫌な匂いもしない。それどころか、くるくると橙の球形にまとまると、小気味良い音を立ててはじけたのだ。ご丁寧に花びらまで散らせて。
「しししっ。ご苦労さん」
 再び、小馬鹿にした声。レティオはぴんと橙色の瞳を弾けさせた。
「そこか!」
 腰紐の飾りを外し、宙に投擲する。同時にきらりと待った光が急降下した。
「おっ、目ぇいいじゃん! けど俺様に追いつけるか?」
 全員の視線を集めた光の筋は、尾を残して豊穣の女神像の後ろから奥の回廊へ入っていく。
 妖精が少なくとも、もう一人いる。そう確信した瞬間、ぎっ、と歯軋りをしたのはベルナーデ家一同である。
「あん野郎」
「僕を誰だと思って」
「ぶちのめす」
 怒りに目を爛々と輝かせ、我先にと光が消えた先に猛進した。後ろからその他大勢が追従してきたようだが、脇見をしている場合ではない。
 かくしてヴェルスの豊穣の神殿はかつてない騒乱に覆われたのである。


「ねえ、ギルグランス様の甥子様もかっこよかったけど、後ろにいた槍使いの人もけっこう良くなかった?」
「えーっ。優しそうだけど、ちょっと地味じゃない?」
「どっちにしろダメよ。あの人、恋人いるらしいわよ。ほら、たまに市場にいるぼんやりした――」
 他愛ない会話に花を咲かせながら中庭で休憩時間を過ごしていた少女たちは、突然の騒音に肩を飛び上がらせた。
「待てーーーーっ!?」
 見上げれば、階上の廊下を戦神のごとく駆け抜ける男たち。
「……な、何よ、あれ?」
 普段ならば女の園であるべき豊穣の神殿とは対極にある光景だ。そして、程なくして聞こえてくる野太い悲鳴。
「ってぇ!? オラ待ちやがれこの豆粒野郎が!?」
「ちょっと邪魔ですよその檻どけてください!」
「黙れクソが!! てめぇら、回り込めっ!」
「きゃーー少年君頑張ってー!!」
「ナディア様、下がってください!?」
 一部黄色い叫び声が混じっているのは気のせいだろうか。
「さあ時間だよ! さっさと持ち場に戻りな!」
 ベラの野太い声に肩を飛び上がらせた少女たちは、不安げに階上を指差した。
「え、あ、あの騒ぎは」
「放っときな! 馬鹿なことは馬鹿どもにやらせとくもんだ」
「えっ」
「返事は!」
「は、はいっ!」
 子鼠のように持ち場に走る少女たちである。一方、歳を重ねた女たちは知った顔でベラに呆れ混じりの笑みを向けた。ベラは肩を竦めると、独り言のように呟いた。
「全く。今日は帰りが遅くなっちまうよ」


 ***


 柱に手をついて、レティオは荒く息を吐いていた。妖精を追って休む間もなく神殿中を走り回っていたのだ。妖精はそんな彼らを嘲笑うように神殿のあちこちに出没しては悪戯を繰り返した。麦の入った袋をひっくり返す、司祭の老人の禿頭に毛虫を落とす、流しに大量のモモラを敷き詰める。ベルナーデ家一同とゴモドゥス一派の被る悪戯は嵐のようだった。
「これは、大変なことになってきましたね」
 部屋の中だというのに満身創痍のフィランが汗を拭いながら目を眇めた。気がつけばゴモドゥス一派とは別行動になっていたが、彼らの惨状も似たようなものだろう。脳天に降ってきた真鍮製の香油壷を絶対に投げ返してやるのだと握り締めたジャドが隣で頷く。
「ったく、人騒がせな奴だぜ。あのチビ、唐揚げにして喰ってやる――ごふっ!?」
「ジャド!?」
 上空から飛来した巻物によってジャドがその場に没し、レティオは反射的に辺りを見回す。
 しかしいくら耳を澄ませても、高い天窓から白い光が注ぐのみである。フィランも流石にぞっとしたようで、青褪めた顔で眼光を鋭くさせた。
「これは……本格的にまずいですね」
「しししっ。人間の分際で俺様の悪口なんか言うからだ」
「な!?」
 足元から澄んだ少年の声を聞いて、レティオたちは視線を落とした。ぽう、と薄暗い部屋の隅に光が舞う。半透明の羽根がゆったりと羽ばたき、その影を上方へと押し上げる。緊張に身構える彼らの前で、少年は姿を表した。驚くほど小さい、けれど人の形をとった姿。つんと左右に突き出る細い耳、揺れる金のリングピアス。鮮やかな青の髪はあちこちに跳ねて、苔色の瞳が面白げな光を宿して笑う――。
 それは紛れもなく、数々の伝承に伝えられる妖精族の少年であった。
 ……が、レティオは僅かに眉を潜めた。想像にあったのとはなんだか少し違ったのである。
「な、なんです、あの近所の悪ガキみたいな妖精」
「イメージが台無しだぜ」
 配下たちも同じ印象を受けたようで、好き勝手な感想を吐いている。
「ようやく姿を現したな」
 低く告げると、掌に乗るほどの体を軽々と宙に舞わせ、妖精は高いところでくすくすと笑った。
「ご対応お疲れさま。いやー、お前らが面白いくらいに引っかかるもんだから、楽しいのなんてーの。神殿の造りも人間にしちゃ出来がいいし、そこそこ気に入ったな」
 橙色の瞳に静かな怒りを湛え、レティオは剣の柄に手をかけた。
「この場所は豊穣の女神ヴェーラメーラに捧げられた聖域だ。異種族とて、帝国にある限り犯すことは許されないぞ」
「ししし。まだ子供のくせして誰に向かって言ってんの?」
「っ!」
「レティオ、落ち着きなさい! 相手は昆虫類ですよ」
「誰が昆虫類だ!?」
 妖精は青筋を浮かべたが、すぐに余裕を取り戻して口の端を歪めてみせた。レティオは高い位置に浮かぶ妖精を睨み上げる。
「お前の狙いは何だ」
 すると妖精は伸びをしながら、とんでもないことをのたまった。
「べっつにー? ちょろっと寄ったついでにからかってみただけだよ」
「そんだけの理由かよ!?」
「本当に近所の悪ガキと程度が同じですね……」
 唇を引き縛ったレティオは配下たちと同意見であったが、事態がそんなもので済まされないことも分かっていた。彼らにとっては悪戯程度でもこの騒ぎだ。温厚で知られる彼らだが、これが本物の悪意に変われば人の住む土地はどのような災厄を被るのだろうか。
 脳裏に冷たい液体が流れ込んでくる心地で、レティオは口を開いた。
「既にお前の仲間の一人は捕らえられているぞ。今すぐ神殿を出ていけ。そうでなければ、容赦はしない」
 ふふっと妖精の唇に失笑が刻まれる。
「何寝ぼけたこと言ってんだよ? ほんっと人間って馬鹿なのな。ルシェトはな――」
 そこまで言うと、彼は突然停止し、にんまりと笑った顔をレティオに向けた。
「そうだ、いいことを思いついた」
「っ?」
 突然目の高さまで降りてきた妖精は、ぴっとレティオの鼻先を指差す。
「明日の正午! 俺様はルシェトを助けに来る。途中で止めればお前らの勝ち、お前らの言うことをきく――そういうゲームはどうだい?」
「ルシェトとは捕らえた妖精の名か」
「ししし、そうだ」
「……貴様らが勝てばどうなる」
「そうだなぁ」
 妖精は小遣いを貰った子供のような表情で瞑目した。
「とりあえず、都市の歴史に名前を刻むのも悪くないかな。妖精クロイス様、豊穣の神殿をクロイス城に改装、とかね」
「オイ、待てよ。ここはヴェルスの守護神の神殿だぜ!?」
 ジャドが瞠目して叫ぶ。肥沃な土によって帝国の傘下でも強かに生き続けるヴェルスの民にとって、豊穣の女神は最も敬い恐れる存在だ。その象徴でもある豊穣の神殿がふざけた姿に変えられては、民に動揺を招くばかりではないか。
「そんなこと知るかよ。全く人間てのはよくわからんね、建物一つに心の拠り所を求めるなんて馬鹿らしいと思わないのか?」
「――貴様」
 レティオが憎悪を込めて妖精を見上げる。レティオは叔父を初めとしたヴェルスの民の誰もが結髪美々しき豊穣の女神に敬意を払っていることを知っていた。彼女が大地に恵みを齎し、同時に嵐を呼び寄せる、優しく恐ろしい神であるからこそ、無力な人間は神殿に祭って加護を祈るのだ。
 だからこそ、日々の僅かな幸福を願って生きる人々の思いを踏みにじろうとする妖精の言葉を許すわけにはいかなかった。
「どうします、レティオ。勝負を受けますか?」
 フィランが険しい表情を妖精に向けたまま、レティオに問うてくる。この配下は妖精族の力の恐ろしさを知っているのだ。レティオは逆に聞き返した。
「勝てるか?」
 フィランは太陽の色をした目をふっと細めた。
「……分かりません」
 その言葉に秘められた思いを感じ取って、レティオは頷いた。この見かけによらず奸智に長けた配下は「無理だ」とは言わなかった。つまり勝てる可能性がないわけではないということだ。そして何よりも、神殿に住まう人々が困っているのである。民を守らなくて何が貴族だ。
「勝負を受けよう。ベルナーデ家の名にかけて、この神殿は守り抜く」
「おっ。格好いいねー」
 妖精はけらけらと笑って、再び高いところへ舞い上がった。
「じゃ、せいぜい踊ってくれよ? じゃないとつまんないからな」
 ベルナーデ家の面々が、その姿を睨み返す。耳障りな笑い声を残すと、妖精は窓から飛び立っていった。


 ***


「そういうわけだ」
「ハァ?」
「……レティオ、ご当主の悪いところを見習っては駄目です。ちゃんと説明してあげて下さい」
 眉を潜めるゴモドゥスを見かねたように、フィランがやんわりと注意してくる。レティオはムッとして年上の槍遣いを見上げたが、一理あると思い、改めてゴモドゥスに妖精との出来事を語ってやった。
 フィランはレティオの斜め後ろで補佐についており、ジャドは戸口の横で抜け目なく部屋全体を見渡している。あの後、レティオはゴモドゥスを見つけると一派を神殿内の一室に集めた。無頼者の面々は遠慮なく臥床や椅子に腰掛け、貴族であるレティオに好奇の目線を注いでいる。
「おい坊ちゃんよ。誰が勝手に妖精と話つけていいって言った?」
 レティオが反論する前に、フィランがさりげなく口を挟む。
「別に悪い話ではないと思いますよ? あなた方も、どうぞ好きに動いて下さい。先に妖精を捕まえた方が手柄ということになります」
 淀みない若者の正論に、ゴモドゥスは不快そうに鼻を鳴らした。
「……まあいい。正々堂々ってやつだな、ベルナーデ家の坊ちゃん」
「そういうことだ」
 低い声で返したレティオは、別のことを気にかけていた。部屋に据え置かれた卓に乗せられた、禍々しい檻である。
「――ところでそこの妖精は抵抗していないのか」
 ゴモドゥスはひらひらと手を振ってみせる。
「さあな。気になるようなら見てみるかい?」
 レティオは少し迷ったが、ゴモドゥスの言う通り檻を覗いてみることにした。行儀悪く座ったゴモドゥスの前を通ろうとしたそのときだった。
「っ?」
 ガツ、と鈍い音がした。ゴモドゥスの足が伸びて、レティオの足の甲に突っかかったのである。
 しかし転倒するかと思われた体はその場に留まった。体が流れる寸前、後ろから首根を捕まれて支えられたからだ。
 振り向くと、そこにはフィランの呆れ顔があった。
「ゴモドゥス、からかわないで下さい。見かけによらずこの子は根に持ちますよ。レティオ、あなたもです。足元くらい気をつけなさい」
 フィランは手を放しながら、やれやれと息を抜く。突然のことに言葉を失っていると、ゴモドゥスは興を殺がれた様子で若者を睨めつけた。
「てめえ、何者だ」
「ただの貴族のなりそこないですよ」
「ほざけ、その為りの何処が貴族だ」
「ほっといて下さいよ」
 フィランは柔和な苦笑を浮かべると、行ってくるようにと背を叩いてくる。レティオもフィランに言いたいことがあったが、本来すべきことを思い出すと、今度こそ卓に歩み寄って檻を覗いた。犬が入りそうな程度の内部には、余すところなく不可思議な紋様が穿たれている。
 中には手の平に乗る程度の大きさの妖精が伏していた。意識がないようで、四肢は弛緩している。檻の魔力の影響を受けているのだろうか。フィランはこの檻は信用ならないと言っていたが――。
 ゴモドゥスとその取り巻きたちはニヤニヤ笑っているが、得体の知れない若者が金の目を光らせている為か黙っていた。ただベルナーデ家の面々が礼を言って部屋を辞そうとしたとき、ゴモドゥスの口元が不敵に歪んだのをレティオは見逃さなかった。

 部屋から出ると、ジャドが面倒臭そうに肩を落として言った。
「こりゃ泊りがけだな?」
「当たり前だ、あのような者を神殿に置いて帰ってはベルナーデ家の威信に関わる」
「作戦を練らなくてはいけませんね。まずは僕らも部屋を借りて――」
 フィランが言いかけたそのとき、夕方の回廊に女の悲鳴が響き渡る。三人は顔を見合わせると、レティオを先頭にして走り出した。
 彼らが現場に辿りついた頃には、女官たちが集まっていた。暗闇に閉ざされる夜を控えて蝋燭に火を灯して回っていたのだろう、地面に燭台を置いた女官が階段の下に倒れ伏した女に必死で呼びかけている。
「――」
 レティオは愕然とした。石造りの床に散らばる長い林檎色の髪、その額から流れ出る血と、ぐったりとした四肢、地に転がった錫杖――。
「ナディア様! ナディア様っ!!」
 取りすがったダリアが悲鳴のように巫女の名を呼んでいる。愕然とするレティオの横、まず動いたのはジャドであった。
「オイ、頭打ったなら下手に動かすんじゃねぇ! 何があった!?」
 駆け寄ったジャドに肩を捕まれて、ダリアがびくりと身を竦ませる。すると別の女官が黒い液体で濡れた階段を指差した。
「油が――撒かれていたんです。それにナディア様が足を滑らせて」
 ぞっと背筋が凍る思いだった。唇を噛み締めたジャドは、僅かに迷ってからナディアの首筋に指を当てて、頷いてみせた。幸い、脈はあるらしい。続いて駆け寄ったレティオが見上げると、高いところにある窓が、彼らを嘲笑うかのように外の気配を映し出している。
 フィランの方を見ると、彼も顔を蒼白にさせ、口元に手をやったまま立ち尽くしていた。




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