-黄金の庭に告ぐ-
<第一部>7話:少年と豊穣の巫女

01.豊穣の神殿



 突然の悲報が舞い込んでから半月。ベルナーデ家を襲った事件の全貌は、伝わると共に都市中を震撼させた。仮にもヴェルスに誇る名門貴族の屋敷が滅びた筈の部族に襲われたというのである。都市議会では最高決定権を持つ二人官を中心に緊急体制が敷かれ、ギルグランスは連日の事情聴取に追われることとなった。特に二人官の一人ティニア家の当主ガルモンデはギルグランスの手腕を頼って様々な助言を求めた。老齢の彼は来年の二人官に目されているギルグランスに、今のうちから種々のことを任せたい思いがあるのだろう。

 ベルナーデ家の応接間に一人腰掛けたオーヴィンは、居心地が悪そうにもぞもぞした。無頼に育てられた彼に、この長椅子はやわらかすぎるのだ。忙しく立ち回る当主が来るのを待つ間、彼は様々なことを思い巡らせた。
『無理しすぎなきゃいいんだがな』
 あの事件からギルグランスは普段に増して精力的に動いており、立ち止まっている暇などないと無言で語るその背中は、悲しみに暮れる者に覇気と気概と与えている。しかしオーヴィンは当主が重荷を背負えば背負うだけ不安だった。支柱とは太いほど折れた後の被害が計り知れないものだ。帝国軍と違い、この都市でギルグルランスほどの存在感を持つ者はそうはいない。だから誰もが当主の背を頼って生きている。そんな状況下でもし彼が倒れたなら、この家と都市は一体どうなってしまうのだろう。無論復讐の目的もあったろうが、その意味を知っているからこそ、ガルダ人はベルナーデ家を狙ったのではないかとオーヴィンは考えている。もしもあの夢見の丘で全滅したのがオーヴィンたちの方であったなら、それを追ったギルグランスもただでは済まなかったろう。
 ギルグランス本人もその思惑に感付いているようで、甥のレティオに積極的に仕事を与えているが、成人したての少年ではまだ心もとない。
 腕を組んだまま思いを巡らせていると、ふと慣れた気配を感じ、オーヴィンは顔をあげた。
「待たせた」
 足早に入ってきたギルグランスは、中央のテーブルに長細い包みを置くとオーヴィンの正面に腰掛ける。その表情はあたかも戦場にいるような険しさを湛えており、オーヴィンは注意深く座りなおした。
 厳しい日差しもようやく和らいできたベルナーデ家の応接間が、静かな緊張に包まれる。
「まずはこれを見ろ」
 頬杖にもたれた当主に指示された通り、オーヴィンは包みを手にとって布を剥ぎ取る。すると中からはずっしりと重い一振りの剣が現れた。鈍色の刀身はあちこちが曇っており、見るからに新品ではなさそうだ。
「なんだ、これ」
「エルに刺さっていた剣だ」
 時が止まったように思えて、オーヴィンは危うくそれを取り落としそうになった。剣の肌を凝視していると、当主は淡々と告げた。
「柄の紋章はガルダ人のものだ。エルはこの剣を腹から刺され、それが致命傷になった」
 柄に視線を移せば、当主の言う通り絡む蛇を象ったガルダの紋が彫り込まれている。
 だが、と当主は頬杖をついたまま眉を潜めた。
「いかなる手練だったといえ、エルほどの奴が正面から急所を突かれるなどありえぬ。それを可能にしたのが――貴様のいう『封印魔法』とやらか」
 オーヴィンは緊張した面持ちで親指で唇をなぞった。その反応を是ととった当主は、事の厄介性を見抜いた顔で鼻から息を抜く。
「で、どういった魔法なのだ、それは?」
「……ああ」
 一度息をついてから、オーヴィンは険しい顔で当主を見返した。
「相手の動きを完全に封じちまうイヤな魔法だよ。腕のいい奴が使えば、十回殺すくらいの時間は封じられるって聞く」
「最悪ではないか」
「だからこそ、その界隈じゃ卑怯すぎるって嫌われた魔法だ。使った奴はまず表の道を歩けなくなるよ、危険すぎるからな」
「確かに殺られる前に殺りたくなるな、目の前をそんな奴が歩いていたら」
 当主は深々と溜息をついて身を乗り出した。
「して、それはちょっとした修行で覚えられるものか? ならば私も覚えておきたいが」
 オーヴィンは大きく首を横に振った。
「そんなんだったら人の文明は成り立たないよ。――会得には魔術の基礎から学んで何年もの歳月がかかる」
 言いながら目を眇めたオーヴィンは、胸の内の不安がみるみる大きくなっていくのを感じた。
「でもよ、そもそもガルダ人は魔法を使えない筈だ」
「うむ」
 当主は頷いて肯定を示した。ガルダ人は古くより魔法を呪われた術と呼んで嫌っており、封印魔法どころか基礎的な魔法ですら使える者はいない。それ故にガルダ人の叛乱鎮圧に帝国軍の魔術師部隊が投入されたときの一方的な殺戮は凄絶を極め、今もオーヴィンの脳裏に色濃く焼きついている。
「だから俺が気になるのは」

「術者はガルダ人ではない。すなわち、襲撃にはガルダ人以外の加勢があったということだ」

 当主とオーヴィンの視線がかちあう。
 恐ろしい事実をさらりと言われたオーヴィンは、口元を手で覆った。
「……あのな、親父。それって結構まずいことだと思うよ?」
 敵国であるガルダ人が現れたのと、ヴェルス人がガルダ人に手を貸したのでは話は全く変わってしまう。ヴェルスは被害者でなく帝国に楯突く裏切り者となるのだ。
 混乱の続く本国では上洛した将軍の一人が皇帝の座についたらしいが、これも問題のある人物であるらしく、未だ事態に収集はついていない。このような状況では、逸早く市民の信頼を得ようと焦る皇帝が。少ない情報だけで都市ごと反逆者と見なしかねない。そうなった場合、豊穣の都ヴェルスはガルダと同じ運命を辿ることになるだろう。帝国は裏切りを許すほど甘くはない。
「ふむ。歓迎できない話ではあるな」
 しかし、とギルグランスは頬を歪めた。
「襲撃に使われた腐った魔物は一体何処から沸いて出たのだ。都市の外からあれだけの数を気付かれずに持ってくることなど不可能だ、都市の内部で何者かが匿っているとしか思えん」
「それだけの数を匿うとしたら、ある程度の施設が必要で……ヤダ、俺これ以上考えたくない」
「安心しろ、嫌でも考えるようになる。私が貴様を呼んだ理由が分からないわけではあるまい?」
 げっ、とオーヴィンの眉が僅かに揺れた。だが青くなる配下など気にした様子もなく、顎に手をやった当主は半眼になった。
「あれだけの者を匿える組織は多くあるまい。オーヴィン、貴様には暫く単独で潜って貰う。都市中の大型の施設を虱潰しにしろ」
「……」
 一際強く風が吹いたのか、簾がカラカラと音を立てる。
 普段なら危険な仕事を嫌がるオーヴィンであったが、このときは無言で頭をかいただけだった。暫くの沈黙の後、彼はぽつりと漏らした。
「……そうでもしなきゃ、エルも浮かばれないもんな」
 部屋は僅かに翳ったように見えた。オーヴィンの腕に抱えられた剣に視線を落としたまま、ギルグランスは頷いた。狩人のようなその瞳は、配下を奪われた怒りに満ちている。
「当たり前だ。罪人は必ず白日の下に晒す。その者の腕を、足を、口を、目を、臓腑を、骨の一片に至るまで、翼持つ復讐の女神に捧げよう。――血祭りにしてくれる」
 薄暗い主人の呟きに、オーヴィンは冷たい汗が首筋を伝うのを感じた。ガルダ人は、この都市で最も注意を払うべき男の逆鱗に触れたのだ。

「……そういや、フィランのことだけどよ」
 剣に布を巻きなおしたオーヴィンに問われ、ギルグランスは片眉をあげた。
「ああ」
 互いに言葉を捜すように暫くの沈黙を置いた後、オーヴィンは続けた。
「親父はどうするつもりなんだ?」
 弱りきった配下の問いを受けて、ギルグランスは瞑目する。夕日を受け、柔和な顔に血をべっとりとつけて立ち尽くしていた若者と、その手に携えた一振りの剣、彼の足元に転がる無数の屍。何があったのかと問うても、本人どころかジャドですら「言えない」と呟いたきり口を閉ざした。意識を失っていたオーヴィンには勿論推し量ることなど出来ないだろう。結果として、ただ疑念のみが膿のように残っている。
「自称、貴族の分家出身で元軍人。まあ見る限り嘘っぽいところはない。でもあいつ、何か隠してるよ」
「――そうだな」
 あれだけの化け物どもを屠るなど、元軍人とはいえ並の人間に出来ることではない。あの柔和な男の裏側には、触れた者を誰彼構わず傷つける諸刃の剣が隠れている。
 無論、そのような人間が珍しいわけではない。血の臭いに猛るのは人の本質だ。普段は穏やかでも、戦場に立った途端に冷徹な武人と化す者なら、過去に何度も見てきた。
 しかし老練の当主が若者の目に見たそれは、人の性などでは済まされぬ凍えた狂気であった。そして名を呼ばれた次の瞬間、仮面に罅が入ったように崩れ落ちた様は、そんな己の歪みを嘆くかのようで。
「面倒な奴に違いはない。だがこの状況だ、配下の質に贅沢は言ってられんさ」
「そんなこと言ったって、下手すりゃあいつ、この都市を出ていっちまう」
 食いつくオーヴィンを見て、ギルグランスは薄く笑った。
「フィランが心配か?」
 ふっとオーヴィンの瞳が動揺し、握った拳を膝の上で所在なく彷徨わせる。ギルグランスは立ち上がると、長衣の裾を整えた。
「不安なら気遣ってやれ。それが奴にとって、ヴェルスに残る大きな理由になるであろうからな」
「……」
 オーヴィンはこちらを途方に暮れたように見つめていたが、ややあってから、参ったように後頭部をぼりぼりとかいた。
「して、その本人だがな。豊穣の神殿に行って貰っている」
 言いながら、ニヤリと当主は笑った。オーヴィンは小さな目を瞬いて、そして納得したように椅子の背にもたれた。
「……あの人のところか」
「そうだ。彼女のところだ」
 当主は肩を揺らしてくつくつと笑ったのであった。


 -黄金の庭に告ぐ-
 7話:少年と豊穣の巫女


 ***


 豊穣の女神の加護が注ぐヴェルスは、夏を終えると本格的に賑やかな時期を迎える。風を受けた麦穂は黄金色に色づき始め、果樹園では水気をたっぷり含んだ果実がたわわな実を結ぶ。高名な詩人に黄金の庭と謡われた美しい季節が、いよいよやってくるのだ。

「……」
 フィランはジャドとちらと視線を交わし、互いに認識の一致を確認すると、再度それを前に向けた。
 行き交う商人たちで賑やかな市場通りを歩いているというのに、会話はない。野郎二人で会話が弾んでも虚しいだけだが、それにしても二人の間の空気はどんよりと重たかった。
 何故か。
 フィランはその原因たる人物が肩で風を切って歩いていくのを見て、溜息をついた。
「何か文句があるのか」
「いっ?」
 突然振り向いたレティオに、ややのけぞるフィランである。溜息の気配を機敏に察知されていたらしい。
「……いえね、年下に前を歩かれるとなんかやたらムカつくけど仮にも目上ですしまあ我慢してやるかチクショウだなんてまさか考えてないですよ」
「同じく」
 ジャドもケッと肩を竦める。レティオはそんな配下たちの鬱屈を前に、平然と肩をそびやかした。
「嫌ならついてこなければいい」
「大丈夫ですよ、まだ我慢の限界を超えていませんから」
 馬術、剣術の師弟同士、陰険な視線を交し合う。フィランとジャドは当主の命令でレティオの供についているのだ。
 無論、二人の傷は完全に癒えてはいない。特にフィランの刺された左肩には分厚く包帯が巻いてあり、島の医女ミモルザから「悪化させたら殺す」と脅されたほどであった。ちなみに本人は自分の身体を気遣うというより、医女に逆らうのが恐ろしいので暫く安静にしたものであった。
 ジャドは普段通りにしているが、時折物言いたげにこちらを伺っている。フィランは僅かな胸の痛みを覚えつつ、それに気付かないふりをしていた。
「そういやフィラン、てめぇ巫女さんに会うのは初めてだな」
「ええ」
 レティオ率いるベルナーデ家一行は、都市の中心部にある豊穣の神殿を目指している。ヴェルスの守り神である豊穣の女神ヴェーラメーラを奉ったそこを守る豊穣の巫女に会うためである。
 神殿に仕える巫女は元より民から神聖視されるが、帝国の各都市に遣わされる豊穣の巫女は、ある特別な役割を担うことで特に市民からの畏敬を集めている。その為、通常時の一般市民の謁見は許されていないのだが、今回は豊穣の巫女本人から神祇官長でもあるギルグランスに要請があってレティオたちが遣わされたのだった。
「そうか、まだアレを見てねぇのか」
「なんです、お会いしたことがあるんですか?」
 ジャドはぼりぼりと頭をかいた。
「……すげぇぜ、あれは」
「は?」
 何故か遠い目をするジャドは、それ以上何も言おうとしない。フィランは不思議そうに首を傾げたのであった。


 ***


 豊穣の神殿は、豪壮な造りをした天神の神殿とはまた違い、気品に溢れた優しい空気に包まれている。手入れが行き届いた細やかな彫刻は朝日に輝き、広い入り口には結髪美しいヴェーラメーラの彫像が麦穂を胸に持って優しい眼差しで民を見下ろす。面した会堂で店を広げる者たちの賑やかな声に囃されて、その表情は僅かに微笑んでいるように見えた。市民たちはそこを通る度に立ち止まり、額に拳をつけて祈りを唱える。豊穣の都ヴェルスは、その肥沃な土から結ばれる多量の作物を他の都市に輸出することで経済を成り立たせている。実りを齎す女神の加護は、都市に住む全ての民の望みであった。
 フィランたちも軽く握った拳を額に当てて女神に敬意を表すると、長い階段を上り始めた。一般に開放された参拝堂に入ると、すぐに彼らの姿を見止めた女官が歩み寄ってくる。
「女神のご加護がありますように。ようこそおいで下さいました、ベルナーデ家のお方々」
「神の名において、ベルナーデ家より心からの挨拶を。当主ヴェギルグランスの命により参じました。巫女殿はどちらに?」
 レティオのてきぱきとした挨拶を受け、女官はやや苦笑気味に首を振った。
「それが……いえ、とりあえずこちらに」
 生成りのローブの裾を捌き、女官は男たちを奥へと案内する。気まずげな様子に、ジャドがぼそりと口を開いた。
「女官さん、もしかすると、アレか」
 女官はいささか遠くを見つめるようにした。
「……お恥ずかしながら」
 レティオは無表情で淡々と前を行き、不思議そうにするのはフィランばかりである。
「それにしても、立派な神殿ですね。まるで城砦だ」
 石造りの壁には、豊穣の女神に纏わる物語を織り込んだタペストリが飾られており、燭台には干し蔓で作られた編み細工が下がっている。荘厳な内装に感嘆の声をあげていると、前を行くレティオが小さく鼻を鳴らした。
「当たり前だ。都市の象徴でもあるからな。巫女も腕の良い者が遣わされる」
「そうなんです。腕はいいんですよ、腕は……」
 虚ろな女官の呟きに、フィランは若干不安になった。
 豊穣の巫女。その言葉だけを思い浮かべれば――。
 美しく艶やかな長い髪。上品な口元、僅かに色づいた頬。黄金の錫杖に白い指を絡め、儚くも流麗な衣装を華奢な身にまとう、精霊のような御姿。
『違うのかな?』
 長い階段を上って更に通路を抜けると、上階の広間に辿り着く。焚かれた香木の芳しい香りが鼻をつく。三方から階段状に上方まで延びた先には女神像と共に巫女の立つ祭壇が篝火に囲まれており、壁をとりまく円柱の太さは溜息が漏れるほどだ。本国の豊穣の神殿に勝るとも劣らない光景にフィランが息を呑んだそのときだった。

「なんで起こしてくれなかったのー!?」

 呼吸が止まるような大音声が、高い天井に響き渡った。
「何度も起こしましたよ、あなたが起きなかったんでしょうが! もうベルナーデ家の方々が来てしまいますよ、その寝癖直して下さいッ」
「朝ごはんー!」
「走りながら食べないでください! ほら口の周りにそんなにつけて!」
「あれ、杖どこにいったの、わたしの杖ー! ねえダリアー!」
「自分で置いたんでしょうがーーー!!」
 フィランは殴られたようにその場に立ち尽くした。なんだ、今の神殿内らしからぬやりとりは。
 壮麗な空気をぶち壊す女たちの悲鳴を前に、女官とジャドはそっと目頭を押さえた。
「……こりゃ、都市をもう一周してから来た方がいいな」
「いえ、もう手遅れですから」
 すると、階上でとても上品とは言えない足音がしたかと思えば、祭壇の奥から背の高い女が飛び出してきた。
 足首まで伸びてところどころほつれた林檎色の赤毛、好奇心に満ちた丸い瞳、ふくよかな身体の線。豊穣の巫女の象徴である黄金の錫杖を片手に、もう片方には食べかけのパンを持って女は女神像に向き直ると、ぐっと気持ちよさそうに身体を伸ばした。
「んーっ、今日もいい日だわ。女神よ、感謝いたします!」
 バンザイの姿勢で感謝されても神も嬉しくないんじゃないかと、フィランは白む視界の中で思った。更に更に、女の着る服はどう見ても――寝巻きだ。
 そして女神に祈りを捧げた女は、はたと下方に並ぶベルナーデ家の面々に気付いた。その顔色が遠目でも分かるほどに青褪める。
「あぅっ……」
 一歩、二歩と後ずさり、そして踵を返して奥に飛び込んでいった。
「どうしようダリアー! もうベルナーデの人たち来ちゃってるー!」
「なんですってー!?」
「やだわたしもうお嫁にいけないー!!」
「巫女が嫁に行けるわけないでしょうが!?」

「「「……」」」

 明後日の方向に微笑む女官、やれやれと頭をかくジャド、全てを悟ったように瞑目するレティオ。
 彼らの横で、フィランは心の中の俺的豊穣の巫女像が豪快に崩壊していく音を聞いていた。




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