-黄金の庭に告ぐ-
<第一部>6話:敗者の湖畔

06.敗者の湖畔



 血で染まったような夕暮れも次第に陰り、大地には深い闇が覆いかぶさろうとしていた。
 日没も近い頃、リアラはベルナーデ家の門前から離れようとしなかった。女奴隷のノノも、その隣で不安げに主人の帰りを待っている。
 陰った坂道の向こうから上ってくる当主たちを見つけた途端、リアラはいてもたってもいられなくなった。
「だんなさま!」
 みるみる明度を落としていく空は不安を誘い、少女の胸を締め付ける。しかし無事を信じることでその足を立たせ、リアラは先頭を歩く老練の当主に向かって行ったのである。
 普段ならとんだ無礼と他の奴隷が止めたことだろう。しかしノノは徒歩で行く当主の面持ちに気付くと、眉を歪めて衣服の裾を握り締めた。リアラの声を聞いて飛び出してきた者たちも、灰色の隊列を前に言葉を失う。
 重たい空気を振り払おうと、リアラは必死で明るく口を開く。
「おかえりなさい、だんなさま! エルは見つかったんだよね?」
 石像のような当主を前にしては、笑顔を作るのが辛かった。しかしリアラはその顔がおどけた笑みを形作るのを、願いを込めて待ったのだ。
「ねえ、だんなさま……」
 当主は答えず、静かに坂を上り続ける。それを懸命に追いながら、リアラは続く者たちを見た。普段は明るく笑っている筈のフィランが、心ここにあらずといった様子で馬に跨っている。ジャドは他の男に肩を貸されながら足をひきずって歩いており、オーヴィンは水牛の引く荷台に横たわって青褪めた横顔を見せている。
 それは胸が凍るような光景だった。それでも捨てきれない希望が少女の唇を動かせようとした瞬間、彼女の目にもう一つの荷車が映った。当主の上衣にくるまれた何かが乗せられている。その窪み具合が人の輪郭を形作っている。
「だんな、さま……」
 嘘だ。鼻の奥が縮んでそう叫ぶが、声がうまく出なかった。視界がみるみる歪んで涙が溢れる。それでも、理解するわけにはいかなかった。
「ねえ、だんなさま……っ!」
 悲鳴のような呼び声に当主は歩調を緩めず、淡々と家の門へと至る。丁度、留守を任されたレティオが、険しい表情で駆け出してきたところだった。彼は叔父が帰ってきたことによる安堵に僅かに眉を下げ、そして叔父の表情を見て再びそれを引き締めた。
「叔父上、よくご無事で」
 襲撃を切り抜け屋敷で状況を聞くなり、烈火のごとき手腕で指示を下し、騎士を集めて飛び出していった叔父だ。無傷で戻ってきたのは喜ぶべきことなのに、眉一つ動かさぬ巌のような顔が、レティオにそれ以上の言葉を噤ませる。
 黙って直立するレティオの前に至った当主は、短く問うた。
「家に異常は」
「いえ、何も」
 返答が僅かに掠れた。胸に嫌な予感が競りあがっている。こらえきれぬ不安を持て余し、レティオは叔父に問い返した。
「叔父上の方は」
 歩き出しかけていた当主は、ふと立ち止まった。呼吸を止めた者たちの視線を受けて、当主は一拍おいてから乾いた唇で告げた。
「エルがやられた」
 黄金の庭に注ぐ夕日は赤黒い炎で全てを焼き尽くすかのよう。衝撃はゆるやかな波紋となって、屋敷中を包み込んだ。
 殴られた気分で、レティオは途方に暮れたように当主を見つめた。だが当主は道を指し示すことなく、無言で進みだす。そうでなければ、他の配下を休ませてやれないためだ。
 見開かれた瞳から涙を溢れさせながら、リアラが膝をついた。その場にへたり込んで呆然とする少女の前を、敗者となった者たちが列を成して進み行く。
 やがてしゃくりあげ始め、リアラは地面に顔を伏せて泣き声をあげた。悲しみに包まれる奴隷たちの中、レティオは自分が自分の足で立っている感覚すら失くしてしまいそうだった。
 彼らのあげる嘆き声が、二度と戻ってこない者の名を呼んでいる。不規則な足音は、現実を一つ一つ打ち崩していくかのよう。
 強い眩暈を覚えて、レティオは顔を覆った。彼らの疲れた足音がいつまでも耳に残って離れなかった。


 ***


 全てを待ち受ける御主とも呼ばれる冥王は、その黒き御手で死者を抱く。生ある者は必ず死に、冥界の女王の手に運ばれて明るい大地より暗き冥界へと潜りゆく。それは死すべきと定められた人間にとって逃れられぬ運命だ。
 しかし人は運命などという言葉で現実を理解できるほど器用ではない。突如齎された死は、翌日のヴェルスを深い嘆きで満たした。ベルナーデ家の配下として都市を駆け巡る細身の男の姿がもう見られないのだと、人々は痛ましげに首を振り、冥王の名を呟いた。せめてその魂が黒き御手に優しく包まれるようにと、切なる願いを込めて。

 フィランは夢の中にいるかのような心地でそれからの時を過ごした。当主の指令であちこちに足を向けたが、いつでも視界は灰色の靄に包まれているようだった。泣き崩れるカリィ、目頭を手で覆って俯いた島長、軒先に蹲って嗚咽をこらえるマリル、そして呆然と立ち尽くすティレ。すぐに受け入れるには、事実はあまりに重たすぎた。
 フィランがやっと気分が醒める思いを味わったのは、翌日の夕暮れの眩しさに眼を焼かれたときだった。
 島の外れの大木の元に、群れるようにして墓が点在している。そこに最も新しく作られた墓石の辺りは、訪れた者が焚いた香が噎せ返るほどに香っていた。巨木が木の葉を揺らすと、さらさらと木漏れ日が地面を揺らめく。豊かな緑は、きっと死者をたおやかに地下の冥府へと送ってくれるだろう。
 黒い喪服を着た当主の後姿を、フィランはぼんやりと見つめていた。体中が軋んで言うことがきかず、だから風に吹かれるままに彼はそこにいるしかなかった。
 オーヴィンもジャドも、黙って背を向けている。彼らも傷が完治していない筈だが、何を言わずとも縋るようにそこに集い、そして立ち尽くしていた。
 墓標に刻まれた名が改めてその事実を思い知らすようで、フィランはただ、俯くことしか出来ない。何もかもの記憶が曖昧で、胸には深い疲労と悲しみばかりが灰のように降り積もっている。
 不意に石を叩く水音がした。顔をあげると、当主が持っていた葡萄酒を墓石に注ぐところだった。射光に彩られて輝くそれは石を伝って土に染む。
「……結局私に持ってこさせおって、この不届き者が」
 呟く当主の言葉に普段の張りはない。フィランは死者に捧げられる葡萄酒がみるみる大地に吸い込まれていく様子に視線を注いだ。そこに眠るのは酒を飲むことはおろか、食べることですら拒絶した男だ。それはかつて同胞をその手にかけたためだという。
 しかし、今ならもう飲める筈だった。彼は他者を否定した為でなく、家を守る為に立ち向かったのだから。
 だから――。

 壷の底に残った僅かな酒を口に含んで、当主は顔を歪める。
「うまいだろう、何かを守った後の酒は」
 ジャドの体が揺れ、幹にもたれかかる。岩に腰掛けたオーヴィンが、じっと墓石を見つめている。
 人は失っても立ち上がらなければいけない。彼らの胸には損失の苦痛と共に、覚悟と決心が宿っていた。それを誓いとするために、彼らは墓標と己の感情から目を逸らさない。
 風が吹く合間に、聞きなれた笑い声が聞こえてくるような気がした。
 けれど底が抜けたように笑う男の姿は既にそこにはない。
 フィランはこみあげるものをこらえながら、僅かに頭を下げた。梢の音と香の香りに包まれて、やわらかい杏色の髪がさらさらと揺れる。あまりに世界は美しく、それが途方もない悲しみを生む。
 空になった壷を持って佇む当主の後姿は木漏れ日に揺れ、声もなく泣いているかのようだった。




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