-黄金の庭に告ぐ-
<第一部>6話:敗者の湖畔

05.亡者



 その昔、森の奥深くに、風を読み、薬術に長け、魔物と心を通わせる部族がいた。
 森を深く愛した彼らは、その生き方と誇りをかけて森を焼く者どもに抗った。
 例えその身を引き裂かれ、荒野に彷徨うことになろうとも。

 敗者となれば何もかもが奪われる。
 それが厳しい土地に生きた彼らにとっての、絶対の掟であったから。

 風が嘆き声をあげ、螺旋となって天へと上るその赤さ。

「――伏せて!!」
 始めに叫んだのはフィランだった。皮肉だが、エルとの関わりが最も浅かった為かもしれない。反応したオーヴィンの横で未だ硬直しているジャドに体ごとぶつかる。そのまま自分も草むらに倒れ込み、大地を握りこんだ。
 次の瞬間、空間が切り刻まれる悲鳴が聞こえた。無数の刃が頭上を抜けて突き刺さり、刈り取られた草の破片が弄ばれて砂塵と化す。フィランは歯を食いしばり、自分の体に刃が突き刺さらないことを祈った。
 それが弱まった瞬間を狙って素早く体を起こすと、再び煉獄の光景が目に飛び込んできた。はじめと変わらぬ様子で、剣に貫かれた男がその剣を支えとして跪いている。
「なんだ。来たのは鼠どもだけか」
 唐突に声がして、フィランは槍を構えた。同じく体を起こしたジャドは、呆然と唇を震わせて岬に立つ人影を見つめている。
 石碑の隣に、燃えるような髪と獣に似た体躯を持つ男が、むき出しの肩に毛皮をまとって立っていた。森を体現するかのようなその姿は、帝国内にあってあまりに異質。ざくろの実の首飾りを垂らした彼は、足元に骸を従わせ、牙を見せて笑う。
「あの男の驚きに歪む顔が見れると思ったのだがな」
「てめぇ……」
 怒りを超えた感情に声を掠れさせたジャドが剣の柄を握りこむ。震える肩と蒼白の頬が、彼の激情を形作った。
「このヤロォッ!!」
「ジャド!」
 抜いた剣を振りかぶったジャドは、放たれた矢のように地を蹴って敵の下へ迫ろうとする。同時に毛皮をまとった男の瞳が怪しく光った。
「くっ」
 迷ったフィランは一歩遅れて後を追った。次の瞬間、踏み出した足に違和感を覚えたが既に遅かった。水中に踏み込んだように感覚が鈍重なものとなり、見えない力に体が絡めとられる。
「――っ」
 ジャドも同じように驚愕の表情で凍り付いていた。言葉すら封じられ、はくはくと唇を動かして四肢を捩ろうとするが、感覚が失せてしまい歯が立たない。その様はまるで一枚の静止画に似て、しかし敵の動きは止まらない。
「イエドの血族、ファータルの子バストル。森を統べ、蛇の頭を狩る者」
 軽やかに名乗るバストルの残忍な瞳が愉悦に揺れる。老人のような禍々しい笑みを浮かべ、彼は轟然と宣告した。
「さあ、今すぐにでも殺してやろう」
 視界すら霞む鎖に絡めとられたフィランとジャドに、剣を抜き払ってゆっくりと近寄っていく。
 その時だった。強く熱い風が吹きぬけた瞬間、体を覆っていた膜が砕けて剥がれ落ち、唐突にフィランは自由を取り戻した。元の体勢から転びそうになるのをこらえ、背後を振り向く。
「……悪いが、そうはさせない」
 右手を前にかざしたオーヴィンが、肩で呼吸をしながらバストルを睨みつけていた。彼が魔法の効果を打ち消したのだ。バストルは気に障ったように足を止め、表情のない視線を返す。オーヴィンは脂汗を浮かせながら、搾り出すように告げた。
「久しぶりだな、バストル。ガルダの戦役以来だ。親父に谷底に突き落とされて、まさか生きてるとは流石の俺もびっくりだ」
 バストルの瞳が僅かに揺れ、記憶に突き当たったのか不快そうに細められる。過去に顔を合わせたことがあるらしい。フィランはオーヴィンが押さえる腹の辺りから血が滲んでいるのを見て、はっとした。先ほどの風の刃が刺さっていたのだ。立っているので精一杯だろうに、オーヴィンは岩に寄りかかったままバストルと対峙した。
「いやぁ、悪い。こんな再会したくなかったよ、本当に。しかしよお……」
 オーヴィンはつと風に吹かれる仲間の骸に目をやって、表情のない顔をバストルに向けた。
「これがお前さんの粛清ってやつかい? 俺の目が腐ってなかったら、そこで死んでるのは俺の仲間なんだが」
「なんだ、あの裏切り者のことか」
 事切れた男に一瞥をやり、醒めた声でバストルはせせら笑う。しかしそれは同時に、燃えるような憎しみを込めた笑みであった。
「一族の裏切りに、一族で始末を着けて何が悪い? あれは同胞殺しの裏切り者だ、むしろ死してこそ救われた」
「っざけんな!! 何言って……!」
 激情を込めたジャドの怒声がぶつかり、見えない熱を生む。それを震える手で制しながら、オーヴィンは言った。
「そうか、同胞殺しの裏切りには死が相応しい、それがお前さんの正義かい。なんともまあ、ちみったれた正義もあったもんだ」
 バストルの眉が傍目から分かるほどに動く。しかしそれはすぐに嘲笑に取って代わった。
「黙れ外民。我々は貴様らと違って誇りを汚す者を許さぬ。同胞の血を浴びて穢れたエインシャルの体は死によってのみ清められる――」
「その汚い口でエルの名を呼ぶんじゃないよ」
 闇に染み渡るような声だった。血の気が失せたオーヴィンの顔には、薄暗い静けさが落ちている。
「こそこそ動き回って数少ない生き残り殺して、ご苦労なことだよ。過去に引きずられて誇りを語るなんて笑わせないでくれ。俺にはお前さんなんかより、眩しいお日様の光に焼かれながら必死に自分の罪と戦って生きてたガルダ人の方が何倍も清く見えたよ」
「貴様……」
 バストルの髪が風に膨らんで殺気を形作る。しかし淀んだ闇を浮かべたオーヴィンの眼差しも、濃い憎しみが渦巻いていた。そして顎を引き、その唇が核心を突いて紡ぐ。
「ガルダも地に落ちちまったもんだ。――あれだけ嫌悪してた『魔法』に頼りだすなんて、翁たちが聞いたら泣いちまうぞ」
「外民ぶぜいが――ッ!!」
 バストルは怒りに目を輝かせ、獣のように地を蹴った。体勢を低く保ったまま丸腰のオーヴィンへ迫る。
『早い!』
 深い森を自在に駆けたとされるガルダ人の身体能力にフィランはぞっとした。オーヴィンはバストルから見て最も奥にいるというのに、フィランの動きが間に合わないのだ。すんでの差で間に合ったジャドですら更に早い刀で打ち払われてしまう。
「オーヴィンっ!!」

 瞬時の交差の後、フィランは悪夢を見る心地でオーヴィンの身体が倒れ伏すのを見た。かろうじて手をつくに留まったが、その腹には深々と刃が刺さっている。
 しかし表情を苦悶に歪めたのはバストルも同じだった。肩を震わせながら、バストルは伏した男に滾る視線を注ぐ。
「何をした、貴様……!」
「接近戦は苦手なもんでね、ちょいと細工させてもらったよ」
 飄々とした答えはしかし、無理をしているのが傍目からも分かるほど震えていた。それでもオーヴィンの口元は凄惨な笑みを形作っている。
「お前さんが使ったのと同じ、封印魔法。完全に止めるほどには出来ないが、体中痺れてるだろ?」
「――っ」
「ジャド、フィランっ!」
「言われなくとも分かってんぜ!!」
 剣の肌を煌かせてジャドがバストルの背後を狙う。肘ほどの長さの剣を前に構えたジャドの横顔は怒りと憎悪で蒼白に歪んでいた。
 白い一閃をすんでのところで避けて剣を打ち合わせるバストルに、ジャドは怒気を叩き付けた。
「許さねぇ……テメェだけは何があっても許さねぇ! あのバカがどんな気持ちで暮らしてたと――」
「下らぬ感傷に身を預ける外民め。見るも汚らわしい」
 嫌悪も露に間をとるバストルだが、その動きは手負いの魔物のように衰えている。フィランもジャドに加勢して槍を繰り出した。しかし怒りを言葉にすれば己が感情に呑まれてしまいそうで、言葉を発すること出来なかった。――憎しみに身を委ねれば、彼にとって取り返しのつかぬことが起きる。
 舌打ちをしたバストルは、岩の一つに飛び乗って憎々しげにベルナーデ家の者たちを見下ろした。その口元が突然禍々しい笑みを刻むのを見て、フィランは嫌な予感を覚えた。それが、純粋な殺意を持った者特有の迷いのない表情だったからだ。
「良い。本来ならあの男に見せてやろうと思っていたが、貴様らから先に葬ってやる。四つの死体を前にしたあの男の顔というのも悪くない」
「はあ、何ふざけたこと抜かしてんだよ!」
 ジャドが一瞬の呼気と共に岩を蹴り上げてバストルに斬りかかる。瞬発力では抜きん出た彼の一撃を、バストルは後ろに飛ぶことでかわした。そのまま宙に身を躍らせ、赤く染まる地に足をつける。刹那、地響きが聞こえてきてフィランは辺りを見回した。すると丘の向こうから凄まじい速度で獣がこちらに接近してくるのが視界に入る。
「せいぜいもがき苦しめ、外民」
 バストルは哄笑と共に懐から出した塊をジャド目掛けて投げつけた。ジャドは反射的にそれを剣で振り払おうとする。
「いけません、ジャド!」
「っ!?」
 フィランの声は間に合わず、皮袋に包まれたそれをジャドの剣が両断する。途端、辺りを噎せ返るような甘い匂いが包み込んだ。
「これは……っ」
 強烈な臭いに鼻を手で庇っている内に、バストルは駆け込んできた獣に飛び乗った。
「待ちやがれッ!」
 ジャドが追おうとするが、鋭い風切り音と共に耳元を矢が突きぬけ、慌てて岩陰に身を伏せる。荒野の向こうからは獣に乗ったガルダ人が幾人も弓矢を持って併走していた。その合間をかいくぐって、バストルはあっという間に獣に飛び乗ると仲間と共に去っていく。
「んのヤロォ……!」
 悔しそうに呟いたジャドは、ふとフィランが呆然と佇んでいるのを見た。彼の視線の先に目を向け、ジャド自身も凍りつく。
 甘い臭いに誘われるように、エルの周囲で塚のように盛り上がっていたと思った部分から、次々と茶色い手が伸びた。かちゃかちゃと物の具を鳴らせながら立ち上がるそれらは、元から土などではなかったのだ。二十ほどの死した体が立ち上がり、虚ろな目でこちらを敵と見据える――。
「……嘘だろ、オイ」
 一斉に起き上がった骸どもを前に呆然と呟くが、唇を震わせたままフィランは動かない。その圧倒的な戦力差による絶望感で横顔を蒼白にさせている。
 倒れたオーヴィンは既に意識が朦朧としているようで、早く手当てをせねば間に合わないかもしれない。ジャドの眼前に二つの選択肢が立ちはだかった。エルの亡骸を捨てて一刻も早く逃げ去るか、それとも戦うか。しかし重症のオーヴィンを連れて逃げ切れるかも分からず、何よりもこの亡霊どもはここで始末せねば野に散って人を襲うに違いない。風のさざめく麦畑で働く農夫や街道を渡る商人たち。ベルナーデ家の当主が数年かけて取り戻した都市の活気は再び灰色の海に沈むことだろう。
 しかし張り詰めた空気の中でジャドの足を動かしたのは、その選択故故ではなかった。武具をまとって起き上がった骸の剣士たちが、中央にいたエルに剣を振りかぶったためだ。まるで自らの体に向けて刃が向けられた気分だった。
 フィランは反射的に駆け出そうとするジャドの首根を掴んで突撃を制止した。
「やめなさい! 敵う相手じゃない」
「るせぇッ! 放っておけるかよ!」
「あなたまで死んでどうするんですか!? ご当主にこの状況を伝える、それが僕たちの役割です!」
「だからってエルを見捨てるつもりかよ!?」
 フィランが怯んだ瞬間、ジャドは手を振り切って敵陣へと迫った。
『まずい』
 陽炎のように現実が揺らめいている。長く落ちた影が茨のように揺らめいて赤黒い情景を形作る。
 フィランは歯を食いしばってジャドに追随した。そうでもしなければ、この戦力差でジャドなど一瞬で屠られてしまう。
 否。二人がかりでも、どの程度の時間もつか。
『まずい、まずい、まずい、まずい……!』
 死神に耳元から息を吹き込まれたように体が冷たい。亡者どもは向けられた殺気を感じ取って各々手を止め、黒い眼窩をこちらに向けた。動きの鈍いそれらの一つはジャドに背後から斬り付けられると、けたたましい声をあげてつんのめる。そのまま別の一体の剣に突き刺さり、びくびくと震え、肉を引きちぎりながら再びこちらを向く。目を覆いたくなるおぞましさに、しかしジャドの猛気は消えなかった。
「ヤロォッ!!」
 刀身の短い剣を軽々と翻し、首の根を掻き斬る。
 ジャドの背後に立ったフィランは、取り囲もうとする亡者たちを長槍を振り回して牽制した。全身の感覚を研ぎ澄ませ、突き出される剣戟を捌く。亡者たちの知能が低さが幸いして、攻撃にはむらと隙がある。これが規律だった動きであれば、一瞬で二人とも殺されていただろう。しかし、それでも圧倒的な人数差は誤魔化しようがなかった。

 ――否。
 心の中で、顔のない剣士が呟く。
 全て殺してしまえば良いではないか。
 死にたくなければ剣を振るえ。他者を踏み潰し、骸の塚を越え――。
 血と錆の臭いに、肌が沸き立つ。
『……駄目だ』
 一瞬のためらい。フィランは誘惑に抗って唇をかみ締める。その思いに身を委ねてしまったなら、一体あの頃から何が変わったと言えるのか。
 もう、剣は取らないと心に決めたのだ。その憤怒に心を委ねてしまわないように。
 しかし赤い噴水が胸の底から滾々と湧き出ては胸に染む。虚ろなエルの横顔を前に哄笑する男が語る狂気、死して尚地をさまよう亡者ども、光に照らされてうごめく闇――。
 汚らわしい。なんと汚らわしい。
 そのようなものは皆、消えた方が良い。
 この上ない興奮を伴う快楽が、きっとそこにはある。他者より己が優れていると、勝利は何よりも気付かせてくれる――。
『やめろ、やめろ……!』
 もっと全身を使え、と体が殺戮を求めて叫んでいる。自我が燃えるような怒りに包まれている。

 そして何よりも。
 そうせねば生きられぬと、頭の何処かで気付いてしまっている。
 皮肉にも、いつかそうして凄惨な選択をしたのと、同じように。

「ざけんな……ふざけんなッ!!」
 気合を振り絞るようにジャドが吼える。悲鳴にも似たそれに心を穿たれながら、フィランは猛る己の心に抗って歯を食いしばった。化け物に囲まれて、これでは無駄に体力を消耗するだけだ。
「一度退きましょう! 突破しますから続いて下さいッ」
「畜生ぉっ!!」
 エルの元まで辿り着けない現実はジャドにも分かっているのだろう。しかし仇を取るまで命を失うわけにはいかないことも、よく分かっている筈だった。
 フィランは持っていた長槍を眼前に突き出した。肉の腐り落ちた亡者たちを一気に三体も貫いた槍を、そのまま渾身の力を込めて横に払う。僅かにあいた突破口の先では岩陰でオーヴィンが倒れている。このまま一直線に走って彼を回収しつつ、馬に飛び乗れば光明が見える筈だ。
「行きますよ!」
 雄々しく吼えたフィランはジャドと共に大地を鋭く蹴ったつもりだった。
 がくりと体が前に傾いだ。振り上げようとした足が、大地に絡めとられたのだ。否、足を掴んだのは大地などではない。
「フィラン!!」
 ジャドの呼び声が遠い。勢い余って自分を飛び越えることになった彼の姿は既に遠く、フィランは己の足が薙ぎ倒した筈の亡者に掴まれていることに気付いた。体は既に地に伏しており、わらわらと腐肉を滴らせた者どもが剣を振り下ろしてくる。
「ぐっ――」
 反射的に体を捩らせて仰向けになったフィランは急所に下ろされた剣を迷わず素手で掴んで止めた。指から血がほとばしるのも構わず横に振り払ったが、次の瞬間別の刃が肩に突き刺さる。衝撃と共に熱い痛みと悪寒が同時に全身を突きぬけ、一瞬意識を失いかけた。
「ぅぐ……!」
 刀身を掴みつつ、白む視界の向こうに凶刃の姿を捉え、一拍置いて胴体ごと転がる。次の瞬間、それまで彼がいた場所に一気に刃の嵐が襲い掛かった。剣の群れと腐った足に囲まれる恐怖に、フィランの手は槍を探す。早く得物を持たねば、己の身を守ることすら出来ない。
 だが体は思うように動いてくれなかった。剣が刺さった肩の痛みと、全身を掠める切り傷によって、空気と触れる全ての部分が焼け爛れたように熱かった。

 このままでは死ぬ。確実に死ぬ。
 戦場で何度も経験した、死の臭いがする。
 死者の肩の向こうに見える空が紅い。そう思った途端、臓腑の奥底から耐え難い怒りが湧き起こった。
 死にたくない。
 死にたくない。
 魂が震えて喚いている。
 ――例え、どのような手を使っても、生き延びねば。
 そうでなければ、この生に何の意味があるのだ。
 何の為に、自分は生まれてきたのだ。

 陽炎の向こうに恋人の姿が霞み、涎を滴らす赤い牙と舌で塗りつぶされる。人は生きればそこに犠牲を生む。何かを否定して安定する。ならば生きる場所を欲する為に剣を振るうことに、咎めなどありはしない。
 邪魔な者を切り伏せる罪を背負ってこそ、人は生き続く。
 沸き立つ血が心拍と共に激しく全身を駆け巡る。
 自らを否定する者があるならそれを否定し、踏み越えてゆけ。
 すぐ傍で、紅い剣が燦然と輝いている。
 生きたければ、殺せ。黄金の大地に立つ顔のない剣士は、そう剣を差し出す。
 それはもう二度と手に取らないと誓ったものだ。敵をより簡単に屠れる武具。
 優しい光のすぐ隣にある、甘い狂気。
 


 手を伸ばせば、すぐそこに。



 ――息子がいるんだ。



 あの笑みをかき消してしまえる、剣がそこに。



「ぅぁ、ぁあぁっぁあああ!!」

 紅い飛沫が舞った。
 けれどそれが己の悲鳴なのだと、既に彼は自覚していなかった。


 ジャドには何が起きたか分からなかった。仲間が亡者どもに囲まれたところを救うべく斬りこんだ筈が、今や呆然と立ち尽くしている。
 立ち込める腐臭の中、ばらばらと肉が散る様はあたかも血の色をした霧のよう。たった一瞬で五体もの亡者が手足を落とされたのだ。
 まるで怒れる戦神がその嵐を吹き晒した様に似て、燃える大地の赤さを印象付ける。
 それらの中央には、一人の剣士が血と腐肉に塗れて立っていた。
 片手には自らの肩に刺さっていた剣を持ち、前髪に表情を押し隠して獣のように立つそれは、ジャドのよく知る柔和な若者ではなかった。


 ――あいつ、槍より剣の方が得意なんじゃないか。
 そうオーヴィンが口にしたのは、まだ彼が都市に来て間もなかった頃のことだ。
 広場で当主と一騎打ちをする若者を見て、大柄な男は悩ましげに顎に手をやったものだった。
 ――獲物が短くなった途端に動きが変わった。あれは、昔は剣を使ってたに違いないよ。
 折られて半分になった槍を振るう若者は、言われてみれば動きの錬度が違う。
 それを見て、ジャドは首を傾げたものだった。

 ――はあ、じゃあなんで槍なんか持ってんだ?


 きしきしと音を立てて、亡者どもが彼の元へ襲い掛かる。しかし大気が震駭するにも似た気合の咆哮は、それだけで刃となって四方に弾けた。
 実際に次の瞬間、若者の体は血の霧となって消えていた。銀の軌跡が弧を描き、ぱっと肉片が飛ぶ。同時に振り上げられた足によって亡者の首が砕け、放った一突きが別の一体を大地に串刺しにする。
 落ちていた別の剣を取った若者は、黄金の瞳を輝かせると、口元を愉悦に歪め、今度は自ら化け物の群れに斬り込んでいった。
 ジャドは暫く彼の名を呼べなかった。耳が痛くなるような亡者の鳴き声が木霊する。舞うような彼の一動から生み出される憤怒が、厳然とした滅びを齎す様をその目に映した。多勢を前にして傷を負い、だというのに一歩も退かず、血にまみれて剣を振るう――。
 ぞっと背筋が粟立ち、いけないと本能が叫んだ。別人となった彼が二度と戻って来なくなると、冷たい予感が脳裏を満たした。
「……フィランっ!!」
 呼んだ途端、ジャドは全身に針を打ち込まれた心地で剣士と視線を通わせあった。
 破れた服の合間から鮮血を滴らせ、それでいて尚血に飢えた瞳が、前髪の合間からこちらを見つめている。
「フィラン……」
 呆然と呟いた次の瞬間、土から伸びた手が彼の足を掴もうとする。彼はそれに一瞥をくれることもなく、無慈悲に剣で貫いた。続いて僅かにもたげられた頭を足で踏みつけ、力任せに刃を振り下ろす。
「駄目だ」
 死した者どもが、わらわらと体を起こす。その手が千切れようと、足が潰れようと、おぞましい声をあげながら若者へと群がる。
 それを見た若者は、冷笑を浮かべて剣を振り上げる――。
「よせ、馬鹿っ!」
 咆哮をあげて襲い掛かる死人は絶対的な絶望を印象付ける筈だった。ガルダの技によって生まれ変わった魔物や人――だというのにジャドは、それらではなく、目の前の若者に恐怖した。
 剣使いが大地を蹴った、それが惨劇の始まりであった。


 ***


 大地が黄金色に輝いている。
 まるで理想郷のようだと、幼い頃は呟いたものだったけれど、今は違う。

 死を前にして、男は笑っていた。
 一人立つのは少年の姿をした処刑人。剣を両手に、肩で呼吸をしている。
 成熟しきらない細い四肢は、持てる力で男を追い詰めたのだ。怜悧な思考をひらめかせ、探り合い、騙し、手懐け、作り、壊し――。
 互いに良く知った者同士の戦いはまるで舞のように絡み合い、そして女神は少年を勝者に選んだ。
 戦に慣れた双方だ。甘えなどあるわけがない。刃を向け合ったが最後、どちらかの息が耐えるまで喉元に牙を突き立てるのみ。
 分かっていた筈だった。
 殺せる筈だったのだ。
 それが例え、かつて師と仰いだ人だったとしても。
 輝く国の未来などないと、もう分かっていた。
 掴んだ筈の光が虚像なのだと、気付かずにいられる年頃ではなかった。
 ただ、もう、目の前の男を許すことができなくて。

 あと一突きするだけだ。それで全てから解放される。
 怒りと優越感を込めて、剣を突き出すだけだったのだ。

 なのに男は笑っている。言葉を紡いでいる。

 やめろ、と知らない声で自分が呟いた。剣を突き出すな。狂気に身を任せるな。戻れ。戻れ――!
 差し出された手に煌くもの。男の穏やかな瞳。
 顔のない兵士が嗤う。さあ、斬れ――。

 ほとばしる絶叫に、腕は翻った。振りかぶった剣は黄金の輝きに染まった。
 その切っ先が男の喉元に吸い込まれる。


「フィラン!!!」


 ――それでいいよ、ラルディ。


 ぶれる言葉が重なって思考を掻き乱し、フィランは目を見開いた。


 ***


 黒く染まった雲の端から、濃い橙色の光が零れ落ちていた。
 ギルグランスがまずその者の名を呼んだのは、立っていたのが彼だけだったからだ。
 腐肉と血に塗れて見るも無残な姿をした若者は、初めて現実を捉えたように顔を向けた。その表情を見て、ギルグランスは言葉を失った。
 子供のような眼差しだった。無表情に瞬く瞳は心を何処か遠くに忘れてきてしまったかのよう。あどけない頬にべっとりと血がついているのが、目を背けたくなるほど痛々しかった。
「……ぁ」
 他の貴族の騎士たちを率いてきた当主を見て、フィランは何度か瞬きをした。その手から、ぺりぺりと音を立てて剣が零れ、地に落ちる。
 当主の姿に何かを見たかのように、唐突に若者は体を揺らし、崩れ落ちた。
「フィランっ」
 馬から飛び降りた当主が駆け寄ると、他の者も介抱に走った。ベルナーデ家の要請により当主に率いられて丘に登った十数名もの騎士たちは、その光景の凄惨さにそれまで動けなかったのである。
 燃えるような夕日が大地を黄昏に染めていた。岩陰に伏したオーヴィンに意識はなく、全身に斬撃を受けたジャドも立ち上がれずにいる。広場には激しく嘔吐する若者とそれを取り巻く死肉の破片が散乱する。
「フィラン、しっかりしろ! 何があった!?」
 余裕を失った当主の声に、しかしフィランは答えない。不安定な呼気を繰り返しながら、血みどろの片手で顔を覆う。ギルグランスは頬を歪めて背後を振り返った。
「急げ! すぐに医師の元へ!」
 セーヴェに若者の身を預けると、立ち上がったギルグランスは改めて煉獄のような景色を見渡した。全身を切り刻まれ、砕かれた人々の死骸が、夕日にてらてらと輝いている。
 そしてそれらの向こうにあるものに、――最も目を背けたくなるそれに、当主は視線を注いだ。
「……エル」
 あらゆるものが死に絶えた大地を踏み越え、剣にその身を貫かれた男の前に立つ。
 当主は暫く無言でそれを見つめていた。騎士たちは、ある者は手を止めて、ある者は黙々と作業を続けながら、事切れた男を視界に入れた。へらへらと笑いながら都市中を賑わせていたその男のことは、誰もが哀しいほどによく知っていた。
 彼の元へ近寄った当主は、膝を折ると、そっと彼の体を持ち上げた。彼の身体は死した後にも多くの剣によって傷つけられ、ぼろぼろだった。横たえた体から慎重に剣を引き抜き、虚ろに開いた瞼を指で閉じてやる。そうすると、今にも笑みを浮かべそうな、穏やかな表情となった。
 湖の向こうから、風が吹いていた。事切れた男の髪がさらさらと揺れている。ジャドやオーヴィンが騎士たちの青褪めた手で運ばれていく。飛び散った血肉は動き出すことはなく、ただ、土に還るのを待つかのように沈黙している。
 ギルグランスは自分の上衣をとると、傷ついたエルの身体に覆いかぶせてやった。白い衣は、彼の穢れごと包んでその罪を許すかのよう。
 生と死を渡る風の女神が優しく彼の頬を撫で続ける。そのやわらかな風が止むことはない。
「……馬鹿者」
 当主はそう呟いたきり、何も言わなかった。




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