-黄金の庭に告ぐ-
<第一部>6話:敗者の湖畔

04.嵐のヴェルス



「あ、雨……」
 薄暗く狭い石造りの室内には、灰色の黴臭い空気が篭っている。
 そこから少しでも逃げようと窓際に寄っていたカリィは、降り始めた雨粒を見て呟いた。
 隣ではティレが丸まって膝に顔を埋めている。ディクルースはカリィたちを案内すると、仕事に出ていってしまった。灯台の火を絶やさぬよう、木を刈りに行ったのだろう。
 湖面は雨粒を受けて霧が立ち込め、豊穣の女神に愛された都市を暗く覆い隠す。
 けぶる景色を両目に写し、カリィは溜息をついた。薄闇に陰る世界は、血の臭いですら、靄の内に覆い隠してしまう。


 ***


 がたん、と馬車が大きく跳ねた。衝撃と共に地に着くと、宙に浮いた物が遅れて荷台に着地する。頚木を押す馬たちは鞭を打たれていよいよ鼻息を荒くし、その力強い脚力によって車輪は今にも弾け飛びそうだ。
 州都ティシュメと豊穣の都ヴェルスを繋ぐ街道を、一台の馬車が疾走してゆく。乗車人を全く気遣う様子のない走りぶりに、すれ違う商人たちは慌てて避けてやりながら不思議に思ったものであった。砂利道であんな走り方をしては、乗り心地は最悪といっていいだろう。
 しかし激震する幌の中には、重苦しい緊張が漂っていた。骨組みに必死で捕まりながら、レティオは隣に座る叔父を横目で見た。叔父は揺れなどものともせず、目を伏せて思案に耽っている。
 ギルグランスは甥と共に州都で最低限の用を済ませると、踵を返して帰りの馬車に飛び乗ったのだ。同伴を許されたのは、レティオとセーヴェ、そして武芸に長けた二人の奴隷のみであった。聞けば、ベルナーデ家の邸宅が襲撃されている可能性があり、大至急戻る必要があるのだという。レティオなどは出任せだと思ったのだが、叔父はそうは考えていないようだった。ガルダの名は、未だに帝国の民に恐怖となって巣食っている。二人官でさえ、ギルグランスの話には蒼白になって早馬を飛ばしたものだった。しかし、レティオには疑念があった。
 思い切って、レティオは口を開いてみた。
「叔父上。敵は本当に我が家を襲いなどするでしょうか」
 もしレティオがベルナーデ家に仇なす者だったとして、当主不在の間に襲撃を仕掛けようなどとまず考えない。狙うなら当主を直接仕留めねば意味がないではないか。家は焼かれたところで、いくらでも再建することができるのだ。
 ギルグランスは巌のような表情を変えずに、声を押し出した。
「――そうだな。間違いなくこれは罠だ」
 騒音が乱れる車内では、叔父の低い声は酷く聞き取りにくい。耳をそばだてて、レティオは叔父の言葉を聞いた。
「わざわざ我々を嘲笑う真似をして、ヴェルスに急行させおった。その間に連中は何を狙うか。家か、私の命か、更に大きなものか――」
 石を踏んだのか、大きく車体が揺れる。しかし御者台の奴隷は、速度を緩める様子がない。ギルグランスから最速での走行を命じられているためだ。
 伝わる衝撃などものともせぬ様子で眼差しを暗くするギルグランスに、レティオは問いかけた。
「ならば、わざわざ叔父上が自ら戻る必要はないのではないですか」
 既に三名の配下たちが先行している上、屋敷には守り手もいる。当主であれば、後方で隙なく状況を見守っているべきではないか。それ故のレティオの発言だったが、叔父に鋭い目で睨まれて少年は口を噤んだ。
「レティオ。我々が守るものは何だ。己の命か。名誉か。それとも家の誇りか?」
「……」
 草原に腰を下ろした獅子のような眼光を前に、レティオは迷子のような顔をする。ギルグランスは視線をゆっくりと前に向けた。
「上っ面の飾りに騙されて動きを止めるな、レティオ。我々に身を預けた者より常に前に立っていなければ、それは貴族ではなくただの臆病者だ」
 不意にギルグランスの口元が歪んで笑みを形作る。
「その為には時に、我が身を危険にさらす必要もある。――レティオ、そろそろだぞ。いつでも剣を抜けるようにしておけ」
 レティオは、はっとして叔父を見返した。ギルグランスは銀の留め金を外して上衣を剥ぎ取り、前に控えるセーヴェに渡す。そして告げられた言葉を聞いて、レティオは眉を跳ねさせた。
「先ほども言ったろう、これは罠だと。恐らく敵はこう考えたのだろう。ガルダを名乗り、私が州都にいる間に私の家を襲うと告げれば、私は必ず裸足で駆け戻ってくる。その時こそ私の命の狙い目だ」
 息を呑んだレティオに、当主は続けて言った。
「私は命を落とし、ヴェルスを百年の間守り続けたベルナーデ家は焼け落ちる。いつぞや私が多くのガルダ人を屠り、彼らの国を焼いたように。中々劇的な展開ではないか、悪趣味極まりない」
 口元は笑っているものの、その奥底には燃えるような怒りが滾っている。レティオは背筋が冷える心地で、叔父の横顔を見つめた。
「……だからオーヴィンたちを先に戻したのですか」
 しかし既に遅いのではないか、と喉元まで出かけて、レティオはそれを飲み込んだ。持てる手を尽くさずして何が貴族だと言われたばかりではないか。だからこそ叔父は機動力で勝る配下たちにヴェルスの守りを託したのだ。そして、自ら罠に飛び込み、敵の正体を知ろうとしている。
 ギルグランスは頷きで是を返し、目を眇めた。
「恐らく連中はまさか私が手勢を先に返すとは思っていないだろう。代わりに、私の守りが薄くなるがな」
 そのとき、荒々しい獣の咆哮が聞こえてきて、レティオは素早く剣を引き寄せた。叔父の言葉がじわじわと現実を形作っていく。途端、御者台の奴隷が大きく叫んだ。
「旦那様、来ましたぜ!」
「速度を落とすな! 一気に抜ける!」
 ギルグランスは揺れる馬車内で大弓を持ち、幌をまくりあげた。開かれた景色は森の中、切り開かれた砂利道を彼方から追ってくる影二つ。
「痴れ者め。正体を暴いてやる」
 老練の当主はその場に膝をついて二本の矢を右手に持つと、大弓に番えて構えた。骨組みに捕まりながらレティオは叔父の肩越しに敵の姿を見定めた。腐り落ちて糸をひく肉をまとわせた、犬のような魔物であった。一体ずつ人と同程度の大きさがあり、狂ったように吼えながら疾走してくる。
 ギルグランスは唇を引き縛り、弓矢を引き放った。光のように早く飛ぶそれは、一匹の魔物の眉間を貫いて後ろに弾けさせ、びちゃっと茶色い肉片が飛び散る。

 続けて矢を放ち二匹目も屠ったギルグランスは唇を舌で濡らした。
 ガルダ戦役時も、よく森の中でガルダ人の使役する魔物に襲われたものだった。どれほどの損害を被ろうとも怖じずに突撃してきたのがガルダ人たちだ。彼らであれば、こんな襲撃で終わらせるわけがない。
 唐突に背後で気配が動いた。ギルグランスが振り向くと、剣を引き抜いたレティオが幌めがけて一撃を突き出すところだった。布を裂いて一気に柄の根元まで食い込ませたレティオは、それを力任せに引き抜いた。肉塊が落ちる音と共に、あっという間に魔物の死体が後ろに遠ざかっていく。横から飛びかってきた魔物を気配だけで察して貫いたのだと理解した当主は、信じられない思いで甥を見つめた。台に捕まりながら、レティオは顔だけ振り向いて大声を出した。
「叔父上、前からも来ます!」
「分かった」
 良くやったと褒めてやろうとした刹那、前方を伺っていたセーヴェが突然振り向いた。
「二人ともお捕まり下さい!」
 警鐘に続いて、疾風が吹き荒れるような衝撃が馬車を襲った。馬の悲鳴が甲高く鳴り響き、体があらぬ方向に引っ張られる。
 視界が無茶苦茶に回転して、ギルグランスは馬車が横倒しになったことを知った。とっさに引き抜いた剣で幌を破り、外に飛び出る。
 前方にぬらりと巨大な魔物が立ち現れ、鼻から荒く息を吐いていた。そして魔物の両側に、灯台島で遭遇した暗殺者と同じ服装をした男が二人、武具を手に立つ。御者台の奴隷は足を痛めながらも剣を抜いて構えていた。
「ダナン、ルグ、下がっていろ! 馬車を起こしておけ」
 当主の命令を受けて奴隷たちは下がり、代わりにレティオが背後につく。背後からも次々と小型の腐った魔物たちが押し寄せてくるのだ。
 ギルグランスは全体を見渡して眉を潜めた。これだけの戦力を率いながら、首謀者の姿が見えない。それが示す事実に気付いて、ギルグランスは己の予感が的中したことを悟った。
「やはり、本命はエルの方か。哀しいな。そこまでして断罪を行うというのか、――ガルダ人よ」
 抜き払った長剣を両手に構え、ギルグランスは唸るように呼びかける。すると、二人の男はしゅるしゅると顔を覆う布を剥ぎ取った。赤茶の髪に日に焼けた肌、手に握られた双剣、そして帝国に向けられた濃い憎悪。唇が動き、言葉を形作る。
「一族の汚名は一族で晴らす。大儀の前には牙を折られた老犬など小物でしかない」

 レティオは背後から聞こえた侮辱に腸が煮えくり返る思いで剣を握りなおした。許されるなら、今すぐ叔父を抜かしてガルダ人の首を掻き斬ってやりたかった。
「そうか。では小物の始末を任されたお前たちは小物以下だな」
 素早く切り返したギルグランスは、小声で背後のレティオに声をかけた。
「レティオ、馬車が起き上がるまで背中を預ける。いけるか?」
 ぴんと橙の瞳が見開かれ、喜色を宿して瞬く。敬愛する叔父に戦場の一角を任されることに、若い胸は熱く燃え上がった。
「――はい!」
 顎を引いたレティオは、大地を爪で掻いて威嚇する魔物を睨み据えた。叔父の期待に答えようと、全身の血が燃え滾る。
 その後ろでギルグランスも長剣を下段に構えたまま、敵どもを迎え撃ったのであった。その横顔に、先に行った配下たちの後姿への祈りを込めて。
『オーヴィン、間に合えよ……!』


 ***


 槍のような大雨が降るヴェルスは、灰色の霧に覆われてその輪郭をけぶらせていた。放たれた矢のように馬を走らせたオーヴィンたちは、城門を突っ切って、一直線にベルナーデ家の邸宅を目指した。
 このような雨が珍しくもないヴェルスでは、住民たちは固く門戸を閉ざして篭ってしまい、道はまるで命という命が死に絶えたようだ。それがフィランの胸に得体の知れない不安を呼び寄せた。
 豪雨に身を打たれながら坂道を駆け上がり、ベルナーデ家の門に至る。しかし普段なら獣脂を染み込ませた松明が煌々と輝いている筈が、今は灰色の薄闇に包まれている。下馬して調べたところ、中から閂がかけられているようで、人の気配は一切感じられなかった。
「……オイ、どういうことだよ」
 こらえきれない不安をジャドが口にすると、オーヴィンは壁に耳を当てた。険しい顔で気配を探り、指で合図をする。
「とにかく中に入ろう。ジャド、中から門を開けてくれ」
 太い腕を重ね合わせ、水平に差し出す。その意図を汲んだジャドは頷いて、数歩下がってから助走をつけた。そのままオーヴィンの腕を足がかりにして塀の上まで飛び上がる。
 大雨でけぶる頭上を見上げていると、間もなく門が開いた。青褪めた顔を出したジャドは、目で二人を中へと促す。重厚な扉をオーヴィンに続いてくぐったフィランは、目の前に広がる光景と異臭に口元を押さえた。整えられた庭は無残に荒らされており、間に腐った魔物が横たわっている。既に動く様子もないそれらは鋭い雨によって体の半分以上を溶かされており、凄絶な様を呈していた。今や木漏れ日に当主や奴隷の笑い声がさざめいていた邸宅の面影はない。
「進もう」
 いつになく険しい顔をしたオーヴィンが短く告げると、フィランとジャドは無言で後に続いた。霧がうねるような豪雨は、感覚を霞ませてしまう。フィランは沈黙を守る屋敷の様に言いようのない不安と苛立ちを覚え、祈るように目を細めた。


「フィラン、フィランなのかい?」
 完全に締め切られた台所の扉が中から開かれると、憔悴しきった奴隷たちが一斉に顔を出す。中に篭った空気の密度に、フィランはその場に全ての奴隷が集められていることを悟った。冥界のような暗がりから解放された彼らに一斉に取り囲まれたフィランは、今朝の出来事を聞いて愕然とした。
「それで、エルは?」
 祈るように問うと、奴隷のノノは咽ぶように顔を手で覆って首を振る。
「分からないわ。リアラも……私たちは隠れていることしかできなくて」
「おい、どけ!!」
 そのとき、屋敷を見回りに行っていたジャドが駆け込んできた。その腕に抱かれたものを見て、空気がざわりと沸き立った。
「リアラ!」
 奴隷の女たちが雨にも構わず駆け寄り、少女の凄絶な様に息を呑む。雨水と泥にまみれた少女は意識を失っており、青褪めた頬はまるで死人のようだ。
「急いでお湯を沸かして! 暖かい毛布も!」
 ノノが指示すると、弾かれたように奴隷たちが走り出す。フィランはジャドの横顔に浮く焦燥に息が詰まる思いで問いかけた。
「エルは!?」
 壁に向けて雨が激しく吹き付ける。ジャドはフィランを見ようとはせず、片手を目元に被せた。
「……分からねぇ」
「え?」
「何処にもいねぇんだよ! ったく、あの馬鹿が!!」
 奮い立たせるように喚き、ジャドは踵を返した。雷が頭上から落ちてきた気分でフィランは一時硬直し、すぐに後姿を追う。
 裏庭では、オーヴィンが雨に打たれて佇んでいた。辺りには腐った魔物が物言わずに散乱し、菜園は無残な姿を霧の中に晒している。
 フィランは思わずその場に立ち尽くし、起きた惨劇を幻視した。
 ――たった一人で戦ったというのか。
 そうだろう。奴隷を室内に押し込めてまで、彼はここに一人で立ったのだ。
「……なんてことを」
 絶望的な状況下でひたむきに前を向く過去の人物が脳裏に浮かんで現実と重なり、フィランは強い眩暈を覚えた。顔を崩すようなエルの笑い方が、酷く心を刺す。もう、その顔を二度と見ることが叶わない気がして。
「たぶん、やっこさんは火を放とうとしたが雨に邪魔されたんだろうな」
 落ちていた着火具を手にオーヴィンは首を振って、フィランとジャドの近くまで歩いてきた。
「駄目だ。他の手がかりはみんな雨で流れちまってる」
「奴隷たちはガルダ人の襲撃と言いましたが……」
 何かを言わないと心が崩れてしまいそうで、フィランは凍りかけた唇を苦心して動かす。
「深追いでもしたんでしょうか?」
「ありうるな。あいつもガルダ人だ」
 オーヴィンは伏せていた目線を塀の上にあげた。触れれば音が出る木片の仕掛けはところどころ剥がれて壊れ、襲撃の痕跡を如実に表している。
 そのとき、不意にジャドが息を吐き出した。
「けっ。どーせあの馬鹿、今頃尻尾巻いて逃げ帰ってくる途中だぜ。心配しても仕方ねぇよ」
 フィランとオーヴィンは同時に顔をあげてジャドを見る。ジャドは鋭い眼差しで二人を見返した。
「手がかりがねぇんなら、信じるしかねぇだろ。ここで葬式おっぱじめてましたってオヤジに聞かれたらそれこそ殺されんぜ」
 そう言うなり、踵を返す。奴隷たちの様子を見てくるつもりだろう。フィランは後姿を見送って、拳を握り締めた。ジャドとて、不安に押し潰されそうなのだろう。だからこそ、走り続けていないと心が保てないのだ。
『そうだ、立ち止まっている場合じゃない』
 ぐっしょりと濡れた髪に手をやって、フィランは唇の端を引き縛った。
「僕たちも行きましょう。まずは応援を呼ばないと、ベルナーデ家の者だけではどうにもなりません」
「……ああ」
 オーヴィンは最後まで後ろ髪を引かれているようだ。フィランは眉を潜めて裏庭を見つめるオーヴィンを急かした。
「どうしたんです。気になることでもあるんですか?」
「――いや」
 オーヴィンは低く呟くと、かぶりを振って歩き出した。その横顔はそれ以上の会話を拒んでいるようで、フィランが不審に思ったその瞬間だった。
 つんざくような叫び声が雨を裂いた。子供の泣き声だ。フィランとオーヴィンは顔を見合わせると、無言で台所に走った。

 女奴隷たちに取り押さえられて泣き喚いているのはリアラだった。長い髪を振り乱して、獣のように吼えている。
「リアラ、大丈夫! もう大丈夫だから――」
 ノノが必死で毛布ごと少女を抱きしめ、背をさすりながら繰り返している。しかし首を振るリアラに聞こえている様子はない。
「いつ起きたんです」
 人としての振る舞いを忘れたような少女の姿に背筋が寒くなる思いで、フィランは先に来ていたジャドに問いかけた。
「今だよ。目ぇあけた途端に泣き出しちまった」
 悪夢を見る眼差しで答えるジャドの視線の先、リアラは耳が痛くなるほどの咆哮をあげている。そのとき、水を滴らせたままオーヴィンが進み出て、少女の下に跪いた。奴隷たちがおろおろする中、オーヴィンはリアラの肩を大きな手で掴んだ。
「リアラ」
 叫び声に掻き消えてしまいそうな呼び声で、しかしオーヴィンは静かに続けた。
「エルは何処へ行った?」
 短い問いだったが、水を打ったように少女はぴたりと泣き止んだ。張り付いた髪の合間、見開かれた瞳でオーヴィンを映したリアラは、震える唇で呟いた。
「……荒地の水道橋」
 その震えがみるみる大きくなり、リアラはオーヴィンに掴みかかった。膨れ上がった感情は、少女の慟哭を孕んで弾け飛んだ。
「エルを、エルを助けてっ!!」


 ***


 豊穣の女神を守護神に戴くヴェルスはかつて強大な都市国家として栄えたものの、平穏にたゆたう内に財政を腐敗させてしまった都市である。
 利権者による形だけを取り繕う執政はいくつもの歪んだ計画を実行に移させた。その内のひとつが、遥か山奥から清水を都市内に運ぶ新しい水道橋の敷設であった。十年ほど前に大した目的もなく利権意識だけで生まれたこの企図は、計画性もなく着工に至ったため、工事の進行はみるみる遅れていった。放置されている間は吹き付ける風に煉瓦が削り取られ、その修理にまた税金と人手がかかり工事が進まない。結局戻ってきたベルナーデ家当主の「やめちまえ」の一喝で計画は廃止となり、作りかけの水道橋はそのまま捨て置かれた。百年前に建立して未だ壮健な古い水道橋と比較して、都市の人々は風化を続ける石造りのそれを「荒地の水道橋」と呼ぶ。

「その途中に夢見の石碑っていうのがあってな」
 嵐はようやく成りを潜め、降り行く雨も小雨に変わりつつある。分厚い上衣を頭から被ったオーヴィンは、馬を進めながらとつとつと語った。
「水道橋工事の一番最初に作られたんだ。この水道に関わった奴の栄誉と、水道がもたらす恵みを称えてな」
「え? そういうものって、水道橋が出来て一番最後に作るものでしょうが」
 フィランの問いに、オーヴィンは皮肉を込めて肯定した。
「そうだよ、普通はな。でもな、たぶん、作ろうとした奴は手っ取り早い夢を見せたかったんだ。光に騙された奴は、歪みを見ることを忘れちまうから」
 フィランはゆっくりと頷いて、手綱を握りこんだ。
「昔は黄金の庭なんて呼ばれて栄えたのがすっかり落ち込んじまって、そんな時に高々と宣言されたのがこの橋の建設だ。都市の人々も望みをかけたんだろうな。別にこれが完成したからって都市が生き返るわけでもないのに。親父が建設を中止させたとき、やっと都市の奴らは気づいたと思うよ」
「幻想を夢見たところで何も変わらない。――だから夢見の石碑なんですか?」
「人は夢だけじゃ生きていけないしなぁ」
 目を細めるオーヴィンの先では、霧に紛れて遥か先方まで作りかけの土台が伸びている。都市に近いところでは完成形に近く、巨大な馬蹄型の曲線を描いて柱同士が繋がり、その上方に水の通る橋がかかっていた。これを追って馬を進めると、農園が切れた辺りに湖がよく見える場所があり、そこに夢見の石碑があるのだという。家を襲撃した者が水道橋を指定したなら、きっとそこだろうというのがオーヴィンの判断だった。夢見の石碑前は開けており、戦闘をするにも十分な広さがあるからだ。
 誰も口にしなかったが、罠だということは分かっていた。リアラはオーヴィンたちを誘いこむために生かされたのだろう。
 リアラから話を聞いたオーヴィンは、奴隷たちに別の貴族家に助けを求めるように指示を出し、フィランとジャドを伴って夢見の石碑を目指した。当主を待つのも一案であったが、姿を消したエルを思って誰一人として否を唱える者はいなかった。
「あのバカ。ハナからティニア家に声かけとけっつーのにな」
 それまで最後尾で黙っていたジャドがぼそりと呟く。ティニア家というのはベルナーデ家と懇意にするヴェルスの貴族家のひとつだ。武芸に優れた騎士を多く配下に持っており、今頃奴隷たちの要請を受けてベルナーデ家の守りについていることだろう。するとオーヴィンは、ゆっくりと首を横に振った。
「……それがエルって奴なんだよ」
「どういうことです?」
「あいつは自分がガルダ人だってことを受け入れられないんだよ。自分で自分が認められないから、他人から認められているなんて信じられない。あいつは一人でしか戦えない奴なんだ」
 フィランはふと、これまでにあったことを思い出した。そうだ、彼はいつだって一人で戦っていた。他人に頼らず、他人に期待せず、全てを己の手で守ろうとしていた。自由奔放だと思っていたエルの振る舞いが突然繋がり、歪みの正体を形作る。
 オーヴィンは寂しげに俯き、薄く笑った。
「でもよ、あいつだってそんな自分のことを良く分かってた。だから、もがいてたよ。いつだってな」
 ジャドが鼻から息を抜いて、雨の止んだ道の先を睨み据える。
「殴ってやろうぜ。ふざけんなよ、迷惑かけやがって。どーせオレたちがいなきゃ何も出来ねぇんだよ、あの野郎」
 棘のある言葉と裏腹に、彼の横顔には不敵な笑みがあった。それを見て、フィランも微笑んだ。
「ええ、僕からも一発殴らせてもらいます。こちとらティシュメの風呂を我慢させられたんですから」
「……それは八つ当たりだよ」
 がっくりとオーヴィンが肩を落とすと、フィランはふと雲の合間に亀裂が入るのを見た。雨雲が遠のき、天を覆う灰色の霧が晴れようとしているのだ。僅かに覗く茜色に目を吸い寄せられたそのとき、オーヴィンが馬を止め、低い声で呼びかけた。
「ジャド、フィラン。よく聞いてくれ」
 その後姿に薄暗い緊張が漂っているのを感じて、フィランもジャドも表情を引き締めた。馬で先頭を行くオーヴィンは振り向かずに続けた。
「この先は正直何が起きるかわからない。親父を待たなかった俺の判断も、もしかすると間違ってるのかもしれない。――肝に銘じといてくれ。この先で何があったとしても、ベルナーデ家の家訓に従って、必ず自分の意思で判断すると」
 その口ぶりがオーヴィンらしくなく、フィランは僅かに眉を寄せる。いつもの気楽そうな気配はそこになく、静謐な覚悟が彼の大きな背中を覆っているようだった。
「柄じゃないんだけどな。けっこう気に入ってるんだ、あの言葉」
 オーヴィンは、歌うように唇に乗せた。
「恋を歌い、友と笑い、出会いを尊び、別れを嘆き、美を愛で、知を求め、あなたに出来うる全てのことをしなさい――心から人を愛し、心から人として生きなさい」
 たった一人で数千の軍勢に立ち向かった初代当主が残した言葉だ。百年の昔を生きた偉人の言葉に心が静かに鼓舞されるのを感じて、フィランは顎を引いた。強く、そしてしなやかな響きだ。同時に、楔となって胸に刺さる。彼は勝てとは言わず、愛して生きろと言うのだから。
「俺はお前さんたちの腕前を信じてるから連れてきた。だから、今まで通り、できることをしてくれ」
 それはきっと、敵に背を向けて逃げることも含まれているのだろう。軍人であったフィランは正しい判断を伴う逃亡が勇気ある行動のひとつであることを心得ている。太刀打ち出来ない事態となれば、一度退却をして当主に知らせる必要があるのだ。敵に勝つためではなく、被害を食い止めて生き続けるために。
 声には出さなかったが、ひきしまった空気が彼らに心の一致を悟らせた。オーヴィンはひとつ頷くと、手を軽く上げて先へ進んだ。
 みるみる道に勾配がつき、切り立った丘陵が目の前に立ちはだかる。黒く影を落とす雲の切れ間から光が差し込み、まるで天界から神が手を伸べているかのようだった。馬を下りたオーヴィンたちは、今となっては立ち寄る者も少ないそこを注意深く登っていく。
「フィラン、先頭を頼む」
「……はい」
 オーヴィンの指示に従って、フィランはざらつく土壁に手をつきながら、足場の悪い丘をひたすらに進んだ。真っ直ぐに降り注ぐ光の筋は、異世界に迷い込んでしまったかのよう。雨の残り香に混じって、不思議な匂いが漂ってくる。
 槍を手にしたまま、フィランは岩の陰から慎重に丘の頂上を伺った。思っていたよりも広く、背景には湖を見ることができる。こんな状況でもなければ中々良い景色が楽しめそうなところだ。オーヴィンの言った通り、中央には立派な石碑が吹き晒されている。
 しかし、それよりも目を吸い寄せらるものがあった。
「え」
 黄金の色をした瞳が引き絞られて、時を止める。うねる濃紫の雲間から注ぐ光が、濡れた草木をきらきらと輝かせて視界を白く焼き尽くす。夢を見た成れの果てを語るように、赤く染められたそこは土がむき出しになり、まるで廃墟のようで。
 それが何を示しているのか、気付くまでに時間を要した。
「ぁあ」
 ひきつったジャドの呻き声が、更に現実感を剥ぎ取っていく。風が吹き抜けて、草が揺れる。大地と同じ色に染められた湖は血を浮かべたように輝き、黒い影は何処までも暗く暗く――。
「エル」
 オーヴィンが、掠れた声でその名を呼んだ。岬に臨む丘の上、草原が途切れて茶色い土がむき出しになった部分がある。その中央に、彫像のように膝をついて腕をだらりと垂らす、赤い、赤い――。

 湿った風が全身を覆い、粘つきを以ってまとわりつく。
 強烈な眩暈の中、フィランは悪い夢を見るように、その現実を瞳に映す。
 彼らの視線の先では、事切れたエルが巨大な剣に胸を貫かれて、虚ろな眼差しを地面に落としていた。




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