-黄金の庭に告ぐ-
<第一部>6話:敗者の湖畔

03.ガルダの戦士



 鋭い口笛が聞こえた次の瞬間、侵入者を継げる木片の音が耳朶を打つ。炉の隣に座り込んでいたリアラは、びくっと体を震わせて目線をあちこちに向けた。
 机や壷などの家具は全て入り口近くに寄せられており、男女問わず侵入口を塞ぐ作業に勤しんでいる。明り取りに次々と板切れが打ち付けられ、部屋はみるみる闇に沈んでいった。しかし奴隷たちの表情は緊張に強張っていようと、焦りに取り乱してはいない。
 エルは万が一襲撃があった場合の行動を奴隷たちに予め指示していた。非常に単純なその指示を初め奴隷たちは嫌がったものだ。――台所に全員で避難し、入り口を塞いで当主の帰りを待つなど。
 しかしエルはガルダ人の恐ろしさを語ると共に告げた。戦闘力のない奴隷が屋敷に散っていては逆に危険だ。狭い部屋に立て篭もってしまえば、あとは火が放たれる危険性さえ排せば良い。
『火災はぼくが防ぐ。絶対に』
 エルの説得に、奴隷たちは頷くしかなかった。彼らとてベルナーデ家の人間だ。状況を見、己の力量を判断した上で、彼らはエルの提案を受け入れたのだった。
 リアラは次々と板を打ち付けていく大人たちを見ながら、胸に下げた小袋を握り締めた。エルのことが心配だった。彼を含め、ベルナーデ家の配下たちがそう簡単にやられるとは思っていない。しかし今、エルは一人なのだ――。
 姿が見えないというのはなんと不安なことだろう。今すぐ駆けていって安否を確かめたかった。彼が敵を叩きのめしてくれるところを見て安心したかった。暗い場所は嫌いだ。早く明るい菜園で野菜の収穫をしたかった。
「おい、穴はこれで全部か?」
 篭った部屋の熱気にあてられた男が汗を浮かべながら問う。深夜のように暗くなった部屋のあちこちから、男女問わず返答があった。
「こっちは大丈夫」
「明り取りの右の方もう少し補強させてくれ」
「竈の穴は塞いだか」
「ええ、ネズミ一匹入れやしないわ」
 僅かな空気穴以外を閉め切られた部屋の空気はねっとりとした緊張に満たされている。外から獣らしき唸り声や壷が割れる音が聞こえてくる度に、漂う不安は一層色濃くなっていった。
「本当にこれで全部ですよね?」
 疑い深い文官奴隷の声を聞いて、リアラはどきりと肩を跳ねさせた。一つだけ、穴に心当たりがある事を思い出したのだ。
『どうしよう』
 それはリアラしか知らない抜け道だ。大人たちに知られたら、きっと怒られる。そう思うと心臓が早鐘を打ちはじめ、リアラは胸を押さえた。
 暫く迷った後、少女は蝋燭の灯りに影が映らないように用心しながら台所脇の蔵へと向かった。幸い室内が暗かったのと、大人たちが作業に動いていたため、リアラの小さな影に気付いた者はいなかった。
 小さな蔵は本来閉鎖されるべきだったが、長期戦に備えて食料と水が備蓄されているため、そこだけ扉が開いていた。リアラは戸口の脇にしゃがみこみ、砂の上に並ぶ壷をいくつか横にどかした。暗闇に落ちた壁を探ると、板の感触を掴む。リアラはその板が外れることを確かめて、改めて心臓が大きく鼓動を打つのを感じた。少女がやっと通れる程度の僅かな隙間。最近は体が大きくなって使わなくなったが、昔はよく大人たちの目を晦ませるために使っていたリアラだけの抜け道だった。
 光が漏れるのが恐ろしくて、リアラはすぐに板を元に戻した。大人を呼んできた方が良い。心の内で、臆病な自分がそう叫んでいた。大人ならこんな穴すぐになんとかしてくれるはずだ。
 しかしそのとき、板きれの向こうで争いの音が聞こえ、リアラは身を竦ませた。
『エル……!』
 外で彼がどのような戦い方をしているのか、リアラには想像もつかない。だが胸騒ぎは強まる一方だった。明るく笑って頭を撫でてくれた彼の、あの腕の細さ。あんな体で、本当に魔物と戦えるのだろうか。
 震える指が、再び板にかけられた。そうだ、ほんの少し覗くだけなら、魔物にも気付かれはしまい。エルがしっかり戦っているところを見届けたら、すぐに戻って大人たちにこの穴を知らせよう。そうでないと、今にも心が騒いで悲鳴をあげそうになってしまう――。
 乾いた音を立てて板切れが外れ、冷気と白い光が差し込んでくる。すっかり暗闇に慣れてしまった目にはきつかったが、リアラは硬く瞼を閉じて体をそこに滑り込ませた。そうでないと、大人に感づかれてしまう。
 体は予想以上に昔より大きくなっていたようで、穴を抜けるまでには何度も身を捩らなければならなかった。しかし新鮮な外気が鼻に触れたと思って吸い込んだ瞬間、リアラは猛烈な吐き気に襲われて咳き込んだ。残暑も厳しい日差しの中に腐った魔物が放たれた外では、凄まじい腐臭が漂っていたのだ。
 滲む視界を上げると激しい光が網膜を焼く。リアラは必死に瞬きをしながらエルの姿を探した。無事な姿が見られたら、すぐに頭を引っ込めよう。そう念じてようやく目が慣れてきたとき、知らぬ気配に気付いて頭が真っ白になった。
 いけない、と思ったときには首根を掴まれていた。異様な濃色の布を全身に巻きつけた男だった。顔の上半分を覆う仮面の下に覗く口元が、ニィッと残忍に笑うのが視界に焼きついた。
「やっ……いやああ!!」
 抵抗する手は砂を咬むばかり。力任せに引き抜かれる痛みに悲鳴をあげるが、異形の腕は万力のように首を掴んで放そうとしなかった。
 悲鳴に気付いた奴隷たちが蔵に駆けつけたときには既に遅く、少女の体は軽々と宙に持ち上げられた。そしてその痛々しい泣き声は、エルの耳にも届いたのだった。


 ***


 腐った魔物が囮だということには初めから気付いていた。数こそ多くないものの、一々相手をしていては体がもたない。エルは卓越した武技の持ち主だが、最低限の食事しか受け付けぬ体では長時間の戦闘に耐えられないのだ。代わりにエルは塀の近くに据えられた瓶を割り、中身を思い切りぶちまけた。
 ぱっと泥の混じった水飛沫が舞い、水を十分に吸い込んだ雑草が辺りに飛び散る。それらの塊を持ち上げて魔物の頭に投げつければ、細かな葉が魔物の視界を塞いでくれる。更に知能の低い魔物たちは次々とぬかるむ草に足をとられて動きを鈍らせた。エルは猫のようにその合間を駆け、屋敷中の瓶を次々と割っていく。放たれた魔物の数は多いが、彼らの最大の目的は屋敷への放火に違いない。水分を含んだ草を撒くことは、放たれた火の回りを少しでも遅らせる役割も担っていた。
 魔物の動きが鈍れば、必ず敵は姿を現すだろう。ガルダ人は少数精鋭を好む傾向にあるため、侵入者は多くないはずだ。地の利を使って抵抗するしかない。
 しかし冥王の黒き御手は、静かに彼の運命を包み込んだ。最後の瓶を割ったそのとき、子供の悲鳴がエルの耳朶を鋭く叩いたのだ。
「リアラ!?」
 獣じみた悲鳴だったが、少女のそれとすぐに分かった。こめかみが冷たく痺れるのを感じながら、双剣を抜き放って走り出す。蠢く魔物の牙をすり抜けて裏庭に到達すると、エルは恐ろしい光景を目にした。
 一歩、動くのが遅れる。白む視界に、ちかちかと映る一人の男。それがこちらを見て禍々しい笑みを浮かべた。
 赤みがかった茶髪、土に馴染んで焼けた肌、布の下から光る深い瞳――間違いない、ガルダ人だ。
 逞しい腕に、ぼろきれのような小さな塊がぶら下がっている。否、ぼろきれなどではない。
「……ぁ、え……る」
 こちらに気付いて、顔を歪める。ごめんなさい、唇がそう呟いた気がした。血が、少女の日に焼けた頬を伝っていた。
「――なんてことを」
 体が深い地中に落とされる心地だった。耐え難い怒りを噴き出すがごとく、エルは体勢を低くして構えると、瞬発力を使って一気に飛び掛った。
「子供はガルダの宝じゃなかったのか!!」
「ガルダの子は宝だ。だが外民のガキなどいらぬ」
 始めて男が口を利き、リアラを放り捨てた。はっとしてそちらに気が向いた瞬間、敵が抜いた双剣が鋭く煌く。逃げ遅れた髪が数本宙を舞い、エルは体を転がして凶刃から免れた。しかし投げ出されて悲鳴をあげたリアラの背後には、腐敗した魔物が低く唸り声を上げていた。
「リアラ!」
 名を呼ぶエルの瞳が絶望に染まった。間に合わない。

 ――血塗られているためなのだろうか。
 伸ばしたこの手が、守るべきところまで届かない。
 しかし足は地を蹴り、少女を目指す。
 選択したのなら、迷うことは出来ない。
 あなたに出来うる全てのことをしなさい。力強い主に、そう教えられたのだから。

「……」
 リアラは硬く閉じた目をゆっくりと開いた。自分はもう死んでしまって、冥府の世界にいるのかもしれない。しかし死ぬ時に痛みがなかったのは何故だろう。
 はっとしてリアラは自分がまだ生きていることを悟った。開けた視界の先にまだ魔物がいる。おずおずと、嫌がるように後ずさりながら。
「え」
 どうして?
 呟く前に、誰かの気配が迫った。腰を掴まれて魔物から引き剥がされ、リアラは顔を輝かせた。
「エル!」
 壁を背にして息を切らしたエルは、前に抱えたリアラを見て、へにゃりと笑った。
「良かったー……」
 眉を崩したその表情は紛れもない彼のもの。しかしその顔が泣き顔にも似ていると、リアラはこの時初めて思った。
 リアラが倒れていた周辺には、黒い粉が飛び散っている。それは彼女が投げ出されたときに千切れた小袋の中身だった。エルが渡したガルダ人の守りには、魔物が嫌がる香りを放つ干し草が込められていたのだ。
「……小賢しい」
 冷えた眼差しで一連の出来事を見守っていたガルダ人は、憎悪を込めて呟いた。その周囲に死して尚彷徨う魔物が徘徊する様は、まるで冥界のようだった。エルはふと、辺りが薄暗くなっていることに気付いて空を見る。いつの間にか青空には灰色の雲がせり出している――それを見て、彼は口元を歪めた。
「まいったなー、風読みでティレに負けちゃうなんて」
 目の前のガルダ人たちも気付いていないに違いない。都市を守る豊饒の女神が優しい手で招きよせた、ヴェルスの大きな盾の存在に。
 エルはリアラを背後に隠してガルダ人と向き合った。
「火を放ちたければ放つといい。もうすぐ強い雨が振る、火なんて一瞬でかき消されてしまう」
 屋敷を駆け回った体はそれだけで限界に近付き、血肉の足りない四肢が悲鳴をあげている。しかしエルは己の足で立ち、きっぱりと言い放った。

「お前たちにこの家を犯すことは出来ない」
「果たしてどうかな」

 不意に風に香りが混じった。燻した草を混合して作られるその香りに、エルは瞠目して魔物に顔を向ける。次々と腐った魔物は咆哮をあげて崩れ落ち、腐った肉を撒き散らせた。
「リアラ、鼻と口を塞いで!」
 エルは素早く腰元から布を取り出すと、リアラの顔に押し付けた。撒かれたのは魔物のみに作用する痺れ薬だが、濃度が濃ければ人体にも影響を及ぼす可能性がある。
 そのとき、塀の上にゆらりと影が立った。近くにいたガルダ人はその者に向けて恭しく頭を垂れ――エルはぞっとした。気が付けば、ベルナーデ家邸宅の裏庭に十名ほどのガルダ人が立ち、同じように服従している。エルをいたぶりつくし、屋敷に火を放つ任を負った者たちだろう。
「……やはり駄目だな。死した魔物を操ったところでろくな戦力にもならないか」
 腹に響くような男の声。耳にするだけで首元に刃を当てられた気分にさせるそれは、聞き覚えがある。
『まさか』
 疑問に感じてはいたのだ。もし敵がガルダ人なら、一体誰が率いているのだろうと。ガルダと帝国の戦役において、叛乱の首謀者はことごとく処刑された筈だ。争い好きなガルダ人を集め、ヴェルスに根を張るのは並大抵の者に為しえることではない。なのに禁じられた術を蘇らせ、ベルナーデ家の当主を狙って暗殺者を繰り出し、そして組織的に邸宅を襲おうとした――。
 そこまですることが出来る人物を、エルは知っている。
 的中した予想が悪夢の形を成して、目の前に立っていた。
 伸びた髪が野を駆ける獣のように風に靡いている。熱い瞳は血を求めて燃え盛る。自信を込めて笑みを刻む唇。細い布で全身を覆った者たちの中央において、惜しげもなく顔を晒す。その姿が畏怖の象徴であることを知っているからだ。
「久しぶりだな。エインシャル、ユタの血族、ハムディルの子、速き双剣の使い手」
 歌うように口にした男は、ふと唇を閉ざして笑みを消した。低く込められた憎悪は、それだけで胸を突き刺すように。
「汚い裏切り者め」
「――」
 エルは顎を引いて男と見詰め合った。黒い狂気を生み出して味方を鼓舞し、狡知に長けて帝国を惑わせた叛乱の中心人物。数多あるガルダの氏族の内、とりわけ闘争心の高い血族に生まれ、若くして地位を得たその男の名を、エルはよく知っていた。
「……イエドの血族、森を統べるバストル。何故ぼくの名を?」
「お前のことはよく覚えている。私の話を聞く者たちで、お前だけが醒めた目をしていた――あの時殺しておけば良かったか」
 吐き気が喉元まで競りあがるのを感じた。恐怖に口の中が干上がっている。仲間内からも恐れられた狂気の塊が、まさか生きているとは。
 エルは深く息を吸うと、心を落ち着けて問うた。
「……こんなことをして、何が望みだ」
「こんなこと?」
 覆い被さるように男はせせら笑う。
「不思議なことを問う。豚どもに我々が何をされたのか、それすらも忘れたか。木を切り森を焼き、我々から独立の誇りを奪い、女を奴隷として売り払った侵略者にだから貴様は寝返ったのか!!」
 地に降り立ち、一際眼を怒りに輝かせる。背に毛皮が翻る様子は、まるで翼が生えたようであった。
「エインシャル。俺はお前を同胞殺しの身に堕とした帝国を憎む。これは正当な復讐だ――しかし」
 空を雲が覆い、世界が陰っていく。不意に男は目を見開き、風に舞う葉を切り裂くように激を放った。
「何よりも気に喰わないのは、仲間の血に浴びたお前が未だに生きていることだ!」
 首元がぞっと冷えて、エルはたった一瞬の内に間合いを詰められたことを悟った。とっさにリアラの腰を抱いて横に体を転がし、難を逃れる。
「故郷の誇りはどうした。腐った帝国に負け犬のように諂いそれでもお前はガルダの男か!」
 いつ剣を抜かれたのかも分からない。バストルは怒りに滾る瞳でエルを見下ろした。手にした刃の太い刀身は、切れ味こそ悪くとも相手の骨まで打ち砕く獰猛さを秘めている。
 歯を食い縛って、エルはリアラを庇いながら立ち上がった。
 分かっている。――言われなくとも、侵略者たる帝国の恐ろしさは心に染み付いている。帝国は小国のガルダを対等なものとして扱わなかった。属州化されても所詮はけだものの一族だと、ガルダ人を差別する者は多くいた。森が焼かれて次々と帝国風の都市が建設され、一族の怒りは募るばかりであった。
 しかし敗者は変わらねばならない。エルはそのことをよく理解していた。属州として隷従を強いられ、重税を払いながらも生き抜けば、きっといつか帝国にも認められる筈だったのだ。なのにガルダは変わろうとせず、森の住まいにこだわった。平穏を嫌い、帝国の神を受け入れず、勝者の地位にこだわった。
 帝国もガルダも、あり方はいびつだ。
 だから過去のエルには判断が出来なかった。何が正しく、何が間違っていたかなど。そして叛乱の熱気に逆らえず、同士討ちの狂気にも身を委ねてしまった。判断が出来なかったからこそ、潔く死ぬことすら出来なかった。
 分からなかったのだ。最後まで独立を叫び続けた森の住民たちのあり様も。裏切りに対して滅亡で償わせる血塗られた帝国のあり様も。正しいものが見つけられなかった。何を信じて刃を振るえばいいのか分からなかった。
 しかし世界は待ってはくれない。日々は歪みながらも周り続け、怪物となって自分を傷つける。そこに確かなものが存在しないなら、いっそどこまでも落ちてゆけばいいのだと。心を歪ませながら、判断から逃れて生き延びてきた。
 そんな自分はきっと救いようのない愚か者で、芯の通った当主などには遠く及ばないのだろう。
 しかしエルは、唸るように言葉を紡いだ。
「もう沢山だ。ガルダにも帝国にも、ぼくにとっての答えなんかない。そんなものに縋ろうとするから血が流れるんだ」
 僅かな呟きだったが、バストルはぴくりと目元を歪ませた。弱者の妄言に聞こえたのだろう。けれどエルは引かなかった。
「そうだ、ぼくの体は呪われてる。戦うことに意味を見出せなかったぼくは、お前たちと同じただの狂犬だった。でも、もう違う――お前たちとは、違う」
 刹那、鋭い音が空気を揺るがした。憎悪を込めて打ち出された一撃を、細い腕が卓越した技を以ってして受け流したのだ。一歩引かずにはいられないバストルを、エルは微笑んで見返した。
「悪いね。ここの当主様と、終わったら酒を飲むって約束してるから」
 湿った風が吹きぬけ、エルとバストルの同じ色をした髪がなびいて揺れる。バストルは嫌悪も露に間をとった。
「カリィは無事だね?」
 目を逸らさず、エルは表情を消して問うた。バストルの瞳に嘲笑が浮かぶ。
「さあな? その辺に首でも転がってるかもな」
「それは嘘だ」
 剣戟を打ち返すようにエルは言葉を切り伏せ、顎を引いた。
「君たちはぼくの罪を責め立てている。カリィを仕留めたなら、断罪として必ずぼくの前に証拠を突きつけるはず。そうでないのは――仕損じたってこと」
 エルは刃を水平に構えながら、目を細めた。
「カリィは無事だな」
 断定を込めて言葉を押し出すと、唐突にバストルは甲高い声で笑い出した。頬を歪めた瞬間、獰猛な殺気を覚えて刃を突き出す。体が砕けるような衝撃の先にバストルの姿があった。笑みの合間に犬歯を除かせ、目を爛々と輝かせ――。
「女に堕ちたか、裏切り者。森はお前を許さない」
「……っ」
 獣のように襲い来る打撃を、右に左に受け流す。まともに受けては体格の劣るエルに勝ち目など無い。隙を縫って腕を繰り出したところを避けられ、逆に脇と腕で挟まれてしまう。背から刺されると察知したエルは、とっさに体を振り子のように流してバスカルの背後へと回った。腕を捻ることでバストルの拘束からは解放されたが、骨が折れるような激痛に刃を取り落としそうになる。
 痺れた右手から左手で剣を取り上げるエルを、パストルは嘲笑を込めて見下ろした。
「健闘は称えよう。本来は屋敷も燃やそうと思ったが、今回はお前だけで許してやる。大儀の礎となれ。エインシャル、お前の屍は――」
 鬣のように長い髪が、頬の辺りで揺れたと思った瞬間だった。その瞳が、凶暴な光を秘めて狡猾に輝く。
 視界の外れに何かが映った。そのとき、今までに感じたことのない寒気が首筋を伝った。
 それが何を示すのか。長い年月の記憶と経験が、鋭く警鐘を鳴らす。
 次の瞬間、ぱん、と水が弾けるような音がした。
「っ?」
 時間が止まったかのようだった。感覚が薄く引き伸ばされ、体が動かなくなる。
 バストルの口が動いているのに、言葉は重く引き伸ばされて聞き取れない。左手から二本の剣がするりと抜け落ちていく様を、エルは信じられない思いで見つめていた。術を掛けられたのだとは分かる。しかしガルダ人にそのような術があるとは聞いていない。
 そのとき、視界の外れにあるものを瞳が捉えた。同時に、はっと脳裏の中で閃くものがあった。今までの様々な出来事が揺らめき、破片となって一つの絵にあわさっていく。それは体温が吹き飛ぶような禍々しい事実を告げていて、エルは誰かにそれを伝えなければならないと思った。なのに、だというのに、言葉を発することができない。
 四肢の全てに力が入らなかった。意識が鈍重なものになり、まるで海の中から現実を眺めているよう。
 何が起きているのだろう。立ち上がらなくてはいけないのに。守らなければいけないのに。仲間の顔が、当主の顔が、カリィの顔が、次々と思い浮かんで――。
 唐突に、ぶつりと意識が途絶えた。


 布で鼻と口を覆ったリアラは壁際でエルの戦いを見ていた。初めて見る彼の剣技は舞を見るかのようで、リアラは勝利の確信と共に安堵を覚えた。そうだ、エルが負けるわけがない――。
 そのとき、水の玉が割れたような音がした。同時に辺り一面に見えない波が押し寄せて、リアラは思わず目を瞑った。けれど、水浸しになるわけでも呼吸ができなくなるわけでもない。恐る恐る目を開いたリアラは、その場で停止した。
「……ぁ」

 薄暗い世界の向こう、影絵が動いている。
 視界にみるみる霧がかかっていく。
 細い影が壊れたように崩れ落ち、振り上げられた剣が、ゆっくり、ゆっくりと――。
 耳元で唸る風は雨の足音を伝え、同時に目の前が赤い粒に染まり――。

 リアラは全身からほとばしるような悲鳴をあげた。




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