-黄金の庭に告ぐ-
<第一部>6話:敗者の湖畔

02.亡国の呼び声



 カリィは眼を瞬かせて、その者を凝視した。陽光の燦々と降り注ぐそこに、消え入りそうな様子で立ち尽くしている――。
「ティレ?」
 少女の名を呼ぶと、ティレは瞬きをしてカリィを見直した。
 視線を通わせたカリィは用件を正すより先に、その瞳の奥深さに呑まれそうになる。湖の深淵に光が揺らめくようなそこに、この世あらざるものが映っている気がして。
「……ティレ。どうしたの?」
 雑念を振り払って問いかけると、ティレはつと眉を動かした。ほんの僅か、その表情が悲しげになる。
 そのまま身を寄せると、ティレは細い腕をもたげ、カリィの服の裾を握った。困りごとでもあるのだろうかと、カリィは小首を傾げる。フィランが留守にしているため、寂しくなったのかもしれない。駆け落ちしてきたとはいえ、まだ十代も半ばの少女なのだ。
 そう思うといじらしくなって、カリィは声を明るくした。
「もう、どうしたの。お姉さんに言ってごらんなさいな」
 全てを捨てて逃げ出す苦しみは、カリィの胸にも痛みとなって染み付いている。俯いた少女を慰めようとして、――カリィは転びそうになった。突然少女が踵を返して走り出したのである。
「ちょ、ちょっと!?」
 服の裾を掴まれたカリィもなし崩しに走ることになる。小鹿が外敵から逃げるような足取りで、ティレは一目散に渡し守の爺の小屋まで到達した。
「どうしたの、ティレ」
 昼寝中の爺の脇を横切り、桟橋から船に乗ろうとするティレの腕を、流石にカリィは掴んで止めた。更に言葉を続けようとしたが、ティレの肩が小刻みに震えているのを見てはっと息を呑む。
「……ここは、だめ」
 カリィの服をしっかと握り、消え入りそうなそうな声でティレは呟く。悪夢から逃げるようにかぶりを振るその姿は、切羽詰ったものを感じさせた。
「どうしたんですか?」
 困り果てていたところに、若い男の声がかかった。カリィは顔をあげて、低い崖の上を仰いだ。
「あ、ディクルース! おはよ」
「おはようございます」
 葡萄酒に灰を混ぜた色の長髪を束ねた若者は、挨拶すると道を回って湖岸に下りてきた。灯台守の爺さんの下で働く彼は、嵐の日に半死半生で島の砂浜に倒れていたところを拾われて、この島で育てられた若者だ。引っ込み思案で色が白く、肉付きも悪いため、女のようだとジャドによくからかわれている。
 桟橋にやってきたディクルースはティレを見て目を見開き、そして二人を暫し交互に見つめた。妙な取り合わせだと思ったのだろうか。
「あ、あの……」
 腹の辺りに手をやって、ゆっくりと言葉を選ぶように唇を開く。
「駆け落ち、ですか?」
 カリィはディクルースを殴り飛ばした。
「そういう趣味はないわよ!」
「す、すいません……。大丈夫、ティレ?」
 ディクルースが気遣わしげに問いかけるが、ティレは相変わらずカリィに寄り添ったまま震えている。
「なんだかおかしいのよ。突然うちに来たと思ったら走り出して」
 淡い若藤色の髪を撫でてやるカリィの手を見ながら、ディクルースは暫く黙っていた。そしてゆっくりとティレに問いを繰り返す。
「どうしたの?」
「……ここにいては、いけない」
 押し出すようにティレは呟いた。分からないでしょ、といわんばかりにカリィが眉尻を下げてみせる。
 ディクルースも怪訝そうに少女を見つめていたが、息を一つついて提案をした。
「なら、僕のところに来る?」
「あんたのところって、パンデモ爺さんのところ?」
 ディクルースは頷いた。灯台守のパンデモ爺さんは家を持たず、灯台の中に住み込んでいるのだ。
「高いところから都市でも見れば、元気がでると思って」
「だってさ。どうする、ティレ」
 ぽんぽん、とカリィはティレの頭を軽く叩いて笑った。少女が何を恐れているのか分からないが、幼子の我侭だと思って、ここは付き合うべきかもしれない。
「……そうしよっか。大丈夫、あたしも一緒に行くから」
 ティレは、ようやく頷いた。その様が本当の子供のように見えて、カリィは苦笑した。
「にしたって、パンデモ爺さんは大丈夫なの? こんな部外者入れちゃって」
 灯台守の老人は気難しいことで有名だ。カリィの懸念に、ディクルースは俯いて縮こまった。
「流石に最上階に上げるわけには……僕ですら上げてもらえないし。でも、間の倉庫くらいなら」
「げ。埃臭そう」
 顔をひきつらせるカリィの腕に体を寄せ、ティレは悲しげに目を伏せていた。それが気になって仕方ないのか、ディクルースは甲斐甲斐しく問いかける。
「ねえ。何がそんなに心配なの……?」
「……」
 唇だけを動かせて紡ぐ懊悩は、誰に聞かれることもない。ティレが首を振るのを見ると、ディクルースも声を出しあぐねて考え込んでしまった。
 青空の向こうから灰色の雲がせり出してくるのを、――陽光の元にいる者たちは気付かない。


 ***


「のどかだなー」
 街道の傍らにひっそりと佇む宿屋の主人は、明け方の冷たい空気を吸って大きく伸びをした。明るくなった玄関前には楚々とした花々が優しい彩りを添えている。すぐ隣の馬舎からは馬たちが顔を出して餌を食んでおり、なんとも穏やかな一日の始まりだった。
 ――と、主人は遠くの方に鋭い馬蹄の轟きを聞き、なんとなく顔をあげた。
「うん? う、わああ!?」
 主人の疑問符が悲鳴に代わる。突撃、という言葉がぴったりな具合で三つの騎馬が州都方面から雪崩込んできたのである。
 それらは宿を見つけて止まるどころかみるみる速度を上げ、宿舎の前で無理矢理停止した。止まると同時に口から泡を吹いて倒れ伏す三頭の馬を見て、宿舎の主は目を剥いた。一体どれほどの距離を疾走してきたのだろう。いや、それよりも気になるのは飛び降りた三名の乗り手だ。この時間にここに辿り着くとは、夜通し走り通したのだろうか。その表情には濃い疲労が浮いている。
「あんたら、大丈夫――」
 声をかける前に、宿舎の主人は二人の乗り手に胸倉を捕まれた。
「あなたここの主人ですか!? 急いで新しい馬を下さいこれお代ですさあ早く!!」
「オラ痛い目見たくなかったらさっさとしろハゲ!!」
 胸倉を掴まれて銀貨の麻袋を付きつけられ、がくがくと揺さぶられる。新手の盗賊かと目を白黒させていると、別の腕が伸びてきて、二人の肩を掴んで横に押しやった。助かったと思った矢先、そこにあった顔を見て主人は全身を凍りつかせた。頭を刈り込んだいかつい巨漢が、据わった目でこちらを見つめていたのである。
「突然すまねえ、親父さんよ」
 ああ私はここで死ぬんだ、と主人は妻と子の顔を脳裏に思い浮かべた。
「だがちっと急いでくれるか、こっちも結構ヤバいんだ」
「え……?」
「馬だ。代えの馬」
 何がなんだか分からなかったが、男の瞳には逼迫した焦りが浮いている。主人はカクカクと頷いて馬舎に駆け込んだ。奴隷を呼び寄せて、三頭の馬に馬具を着けるよう命じる。
「あ、あと朝ごはん下さい!! 馬の上でも食べれるもので!」
「は、はいっ」
 若者の気迫に押されて、主人は慌てて宿舎の女房を呼びに行った。

「ちぃ、夜が明けちまったな」
 ジャドは倒れた馬から荷物を取り上げつつ、ヴェルスの方角を睨んだ。オーヴィンも宿舎の入り口に貼られた地図を見て、眉を潜める。
「この分だとヴェルスに着くのは昼過ぎになる。……無事だといいんだが」
 フィランもまた深刻そうに頷き、僅かな休息の為に岩に背をつけた。


 ティシュメでの事件を聞くや、ギルグランスは配下たちにヴェルスへの即刻帰還を命じた。無論、ヴェルスの状況確認と、手薄となった屋敷の守護の為である。
 その命を待つまでもなく配下たちは州都を飛び出し、一路ヴェルスを目指したのであった。当主も用事を済ませたらすぐに追ってくるだろう。無論、罠である可能性は高かった。本当に家の焼き討ちが目的なら、わざわざ州都にいるベルナーデ家に情報を伝える必要はないからだ。
 しかし、亡国ガルダの恐ろしさを帝国人は誰でも思い知っているのである。家を焼き女子供も容赦なく屠りあらゆるものを奪いつくすと謳われるガルダの恐ろしさを。彼らなら、本当に家を焼くかもしれない。どちらにせよ、ガルダ人が動いていることはほぼ間違いない。襲撃の規模によっては、都市議会に働きかけ、ヴェルス全体の守りを固める必要があった。
「まあエルの野郎のこった、奴が寝過ごしでもしねぇ限り大丈夫だろーが」
 考え込むオーヴィンにジャドが声をかけるが、彼自身もそれを気休めと自覚しているようだった。フィランとオーヴィンが二人がかりでやっと撃退した――死して尚彷徨う人間。もしもそれが手薄になったベルナーデ家に襲い掛かったなら、例えエルの技が優れているとはいえ、どこまで食い止められるだろうか。
 そのとき、宿屋の主人が馬を連れてきた。
「お、お待たせしました……」
「ありがとうございます。この馬、手当てをお願いします」
 フィランが代金を放ると、その重さに主人は目を丸くした。
「こ、こんなに」
「食料は?」
「は、はいっ」
 パンと水の入った皮袋を取ると、男たちは馬に跨って腹を蹴る。十分な力を漲らせた馬は高々と嘶き、あっという間に彼らを街道の先へと連れ去った。
「なんだったんだ……」
 嵐のような出来事に呆然とする横で、奴隷たちが倒れた馬の介抱に走る。彼らによって取り外された手綱の印を見て、主人は目を見開いた。天に挑む一角獣が掘られたそれは、豊饒の都ヴェルスのベルナーデ家の紋章に相違ない。彼らは家に縁がある者だろうか。
「いや、そんなわけがあるか」
 仮にもベルナーデ家は豊饒の都を守る名門貴族の一つだ。あの風体では馬を盗んだ賊か何かに違いない。金払いが良いのは盗みに入った直後だからだろう。
 フィランに聞かれたら冗談ではないと首を絞められたところだが、既にその姿も芥子粒のよう。とにかく去ってくれて良かったと主人は肩を撫で下ろすのであった。


 ***


 暗き森を我が庭のごとく渡るガルダの術は、即ち三つ。
 一つ、暗い森の奥深くから薬を精製すること。勝者が全てを得ることを常とした彼らにとって、毒を仕込むことは卑怯とされなかった。
 二つ、風を読み地の利を知ること。何処から風が吹き、どのように天候が移ろい、どの経路を動物たちが使っているか。彼らは自らを育てた厳しい土地を味方につけ、するりと敵の懐に入り込む。
 そして三つ――巨人族の使い魔であったとされる魔物を、その手で使役すること。


 伝書鳩を見送った途端、皿の割れる音をエルは耳にした。
『きた』
 目を眇めたエルは、口の端を縛って跳躍し、円柱を蹴って屋根へと上がった。猫のように走って音の方向を目指すと、台所に人が群がっているのが目に入る。
 地に降り立つと、彼らの中央には水道場があり、その前で女奴隷が腰を抜かしていた。
「ちょっとごめんね」
 奴隷たちの間をくぐりぬけると、女奴隷を束ねるノノが蒼白になった顔をこちらに向ける。
「エル!」
「水を口にした人は?」
「いや……アンタの言った通り、誰も使ってないよ。でも――こんな」
 へたりこんで震える若い女奴隷の前では、割れた皿の破片と泡を噴いた小鳥たちの亡骸が転がっている。ガルダの術の一つ、飲料に毒を仕込むやり方は戦争中は珍しくもなかった。通常なら都市の住民は共用の水道場を使うのだが、ベルナーデ家のような名門ともなると、家の中まで水を引いているのだ。そこを狙って貯水槽に毒を投げ込まれたに違いない。
 前もって必要な水を汲み上げ、近寄らないように言い含めていたのが幸いして、犠牲者はいないようだった。女奴隷も転がる鳥の死体に驚いただけのようだ。
「みんな、近寄らないで」
 流しっぱなしにしてある水道に注意深く近寄ったエルは、透明な水の流れに鼻を近づけた。感覚を研ぎ澄ますと、僅かな刺激臭がある。嫌な記憶を思い出す、懐かしい臭いだ。
 今までは何処かで夢のように思っていた、故郷の仲間がすぐ傍にいる。
 抱いていた不安がことごとく的中していく事実に眩暈を覚えながら、エルは立ち上がった。
「すぐに台所に避難して、この前ぼくが言った通りにして」
「エル……」
「急いで!」
 物言いたげにノノが口を開いたが、エルの剣幕に気圧されて頷く。エルは俊敏に駆け出し、屋根へと上がった。
 弓手の標的にならぬように体を屈めつつ、注意深く塀を見渡す。塀の上には鈴をつけた木片を糸に通して連ねたものが渡してあった。侵入者が塀を越えようとして木片に触れれば鈴が鳴る仕組みだ。予めエルが奴隷と共に作ったものであった。
 そのとき、耳慣れた口笛が聞こえた。四方から小鳥が会話するように鳴り響くと、エルは耳がぞっと凍りつく思いだった。音の高低を複雑に使い分けたそれは、ガルダ人が使う独特の会話法だ。深い森で狩りを行うとき、ガルダの男たちは口笛を使って己の位置を伝えるのだ。
 しかし聞こえてくるそれは、仲間内の会話ではない。
 エルは連なる口笛の音から、言葉を一文字ずつ聞き取った。

「こ」「う」「ふ」「く」「せ」「よ」
 ――降伏せよ。


 ***


「貴様は何をそんなに怯えているのだ」

 それはあの当主と出会った街道でのことだ。
 喉元に短刀を突きつけられた貴族は鼻から息を抜くと、そう気楽に告げた。
 カリィと共に都市を逃げ出したエルは、金に困って街道を行く貴族の一行に襲い掛かったのだ。しかしその相手がベルナーデ家の当主であったことが、エルの運命を大きく変えることとなった。
 周囲では主人を人質にされた奴隷たちが緊迫した面持ちで見守っている。なのに両手をあげたままその貴族は奇妙なことを言ったのだ。
「まるで世界中が自分の敵だという顔をしおって。それでは人生も楽しくなかろう?」
「――っ」
 言葉は心を深く抉るようで、エルは怒りに任せて貴族の首を掻き斬ろうとした。
「オーヴィン、やめておけ」
 貴族が呟いた瞬間だった。長衣の下で足が唸るように地を蹴り、その巨体ごと後ろに飛ばしたのだ。背後で刃を握っていたエルは共倒れになったが、彼が刃を食い込ませるより前に貴族の手がその腕を掴んでいた。
「細いな。食べていないのか、貴様」
 からかうような声を聞いたのも束の間、エルは宙に浮かんでいた。とられた腕を支点に投げ飛ばされていたのだ。
「感謝しろ、私がオーヴィンを止めていなければ今頃貴様は丸焦げだ」
 とっさに受身を取って地に転がったエルは計画の失敗を悟り、その場から逃げようと駆け出した。だというのに、貴族はとんでもない行動に出たのだ。
「旦那様、おやめ下さい!」
 奴隷の悲鳴が重なってエルは背後を振り返り、青くなった。邪悪な笑みを浮かべた貴族はまとう長衣もなんのその、空恐ろしい速度で自ら追いかけてくるのだ。その後ろでは奴隷たちが右往左往している。
「旦那様、せめて剣を!」
「ふん、素手で十分だこのような骨皮人間ッ!」
「殺さないで下さいよー!?」
「ふはは、どうかな!」

 ――なんだ、この連中は。

 街道脇の林に飛び込んで木々の合間を複雑にすり抜けているのに、差は広まるどころか縮まっていく。
 細い足が力を使い果たしかけたとき、思わぬところから当主の前に飛び込んでくる者があった。
「やめてっ!!」
 鞭を打つかのような澄んだ声だった。振り向いたエルの前には、両手を横一杯に伸ばしたカリィが立ちはだかっていた。
 当主も思わぬ闖入者の出現に目を丸くし、足を止める。必死に走ってきたのだろう、息を切らせたカリィは唾を呑んで老練の当主に立ち向かった。
「アンタなんかにこの人を傷つけさせない! あたしが相手になるわ」
 当主はぽかんとカリィを見つめ、緊迫した空気の中で間が悪そうに髭を撫で付けた。
「うん……なんだお前、恋人持ちか。羨ましい奴め」
「そっそういう話をしてるんじゃないわよ!」
 口では啖呵を切るカリィだが、頬が染まるのは隠せない。当主はそれを見て嬉しそうに笑った。
「そうか」
 カリィの後ろにいる自分に、つと視線を向ける。
「そういえば前の町で噂を聞いたな。ガルダ人の最後の生き残りが闘技場から逃げ出した、と」
 ざわりと風が唸って、エルの殺気が強まる。だというのに当主は手を振ってそれを一笑に付したのだ。
「なに、案ずるな。なんせ私も忍びの身だ」
 当主の頬にふと寂しげな色が宿る。後から聞いた話だが、この時の当主は兄の謀反により帝国から命を狙われ、急遽退役して故郷に帰る途中だったのだという。皇帝の怒りから逃れるには、培ってきたものを全て捨て、奴隷たちを連れて戦場を後にするしかなかったのだ。
「これも神の導きであろう。多くの配下を失ってしまったのでな、新たな手駒が欲しいと思っていた」
 その意味を汲んだ瞬間、エルは僅かな時間停止した。
「冗談じゃない」
「何、見る限りそこそこの腕前ではないか。私に投げ飛ばされてすぐに走り出せたのは見事であった」
 カリィの腕を取って後ろにやりながら、エルはぎらつく目で当主を睨んだ。
「ぼくは仲間を手にかけた身だ。いつあなたの首をかくかもしれない」
「ほう、中々刺激的な日々が過ごせそうではないか」
 当主は無邪気に笑って続けた。そうして近付いてくる。一歩、二歩と。
「はみ出し者同士、仲良くしようではないか。奴隷になれと言っているのではない。共に生きろと言っているだけだ」
 やめろ、と言いたかった。近寄るな。手を差し伸べるな。無防備に近付いた当主の胸倉にエルの手が伸び、掴む。カリィが止める間もない出来事だ。
 袋小路で闇に溺れ続けた心が声をあげて、とめどもない怒りを形作る。
「あなたはぼくがどんな人間か知らないから……!」
 声が掠れて、最後まで続かなかった。涙が滲みそうになるのをこらえるので精一杯だった。
 心が壊れる寸前だったのだ。理解できぬものの為に戦い、人を殺し、仲間を犠牲にして、それでも生き続けて。
「なんだ、では貴様はどのような人間なのだ?」
「殺したんだ、帝国人もガルダ人も、ぼくはどちらも殺した。ただの死神だ! 帝国人ならぼくを殺せばいい! こんな民族に生まれついたのが……間違いだったんだ」
 同胞たちの断末魔が耳の中で鳴り続ける。裏切り者と罵り、死して尚エルの足を掴もうとする。
 ただ、そこから逃げ出したくて。
 苦痛だけがあるこの世界から逃げ出したくて。
「ぼくに、生きる場所なんてない」
 惨めな思いをし続けるなら、いっそ死んでしまえたら。
 俯いたエルを、当主は暫く無言で眺めていた。押し殺した透明な嗚咽を零す男の肢体は、死への渇望にまみれている。
「……珍しいガルダ人だな。自らの出生を否定するとは、部族を誇りに思わなかったのか」
 エルは吐き捨てるように言い返した。
「あんな部族、滅んで当然だ。帝国と手を組んで、交易も商売も、なんだって出来た筈なのに。独立なんて聞こえのいい言葉を使って、勝ち目がなくなれば名誉の玉砕だなんて、狂ってる」
「ならば何故貴様は戦わなかった」
「戦ったに決まってる! 逃げ出せば親兄弟もろとも殺されたんだ」
「そういうことを言っているのではない」
 当主は深く心を穿つ低い声で、エルを捉えた。
 伸びた背筋、揺るがぬ眼差し、幾重もの風を受けて逞しくもしなやかに伸びる四肢。
「何故貴様は己の誇りの為に戦わなかったのか」
 その眩しさに、目が焼かれそうだった。
 同時に穢れた己の姿が照らし出される。灰色の靄に視界を隠され、ただ彷徨うことしか出来なかった愚かな姿が。
 なのに当主は、ふと視線をずらしてみせたのだ。彼が見たものに気付き、エルははっとした。
 その瞳が映す先には、未来が映っている。
「そして今、貴様にはもう守る者がいるではないか。なのに何故貴様はまだそんな顔をしているのだ?」

 顔を向ければそこにはカリィが、思いつめた顔でこちらを見つめていた。


「そういうわけで、拾ってきた。今日から私の配下にする」
 なんという言い様だろう。帰宅するなり、あっけらかんと宣言した当主は、どっかりと椅子に腰掛けた。
「オーヴィン、教育は任せた。良い感じにうまいことやれ」
「またそれだよ」
 顔を手で覆ったのは熊のような男だった。当主の後ろでは付き役の奴隷が力なく首を振っている。

 そう。まだエルが来た頃は、槍使いの若者は勿論、鷲のように髪を逆立てた剣士もおらず。
「で、ええと? なんて呼べばいいんだ?」
 問いを無視すると、オーヴィンは頷いて言った。
「じゃあガリガリだしガリと呼ぼう」
 引き抜いた双剣を喉元に突きつけてやった。
「あれ、結構いい名前じゃなかったか?」
 臆する風もなく、オーヴィンは首を傾げる。
 あの頃は、何故拾われたのかも理解できなかった。
 同胞殺しの狂犬に、殺し以外の生業が勤まるとも思えない。
「へえ、それは可哀相に」
 何かの拍子に紡がれた言葉に、かっとして刃を振り上げた。あまりに平素な口調で受けた憐憫は、まるで心を抉るようで。
 しかしオーヴィンはそれが降りかかる寸前にこう呟いた。
「あの親父といると嫌でも思い知るよ。光のあったかさをさ。だからお前さんも、もうこのままじゃいられない」
 可哀相にねえ、と笑みを湛えて振りかざされた刃を見る。
「どうした、喧嘩か」
 後ろから声をかけられて振り向くと、そこには泥まみれの当主が奴隷を伴って立っていた。
「……いや、この状況でその解釈はおかしいと思うんだが」
 呑気に返したオーヴィンは眉をあげた。当主の身形が気になったようだ。当主はふふんと笑った。
「商人どもがうるさいのでな、少々拳で語り合ってきた」
「そっちこそ喧嘩だよ」
「喧嘩ではありません。あれは一方的な殺戮と言います」
 あああ、とオーヴィンが頭を抱える。
「なあ貴様、いつまで刃を振り上げているつもりだ」
 手の上に鳥の巣が出来るぞ、と。当主は皮肉げに笑う。
 理解出来なかった。
「何故笑う……?」
 手を下ろして、当主に向き直る。
「そうやって笑いながら人を殺してきたのか?」
 当主はふと真顔になった。その眼光は静かにこちらを射抜くようだった。
「違うな。こうして笑うために刃を振るうのだ」
「よく笑える……人を殺しておきながら」
 侮蔑を込めた呟きに、当主は片眉を上げてみせた。
「私の背には多くの者がいる。奴らの幸せそうな顔を見て笑うのはおかしいか。――その為に戦うのはおかしいことか?」
 エルは目を瞬いた。知らない考え方だ。それだけに、少しだけ興味を引かれた。
 帝国は悪だと教えられて。
 その正義に納得することもできないまま、反旗を翻し刃を握って襲い掛かり。
 捕らえられては闇の底を彷徨った。
 自分と当主の差は何だろう。自分は何を間違ってしまったのだろう。
「……何故、戦おうと思った?」
 問いの先にあった当主の答えはやはり、泣きたくなるほどに単純明快だった。
 日の当たる場所で、当主は音律豊かな笑い声をあげる。


「決まっているではないか。その方が後で飲む酒がうまいからだ」


 ***


 ――降伏せよ。

 伏せた瞼をゆっくりと上げたエルは、体の中心に火が灯るのを感じた。刃が刺さった紋章を投げ込まれたことといい、傲慢な要求に、全身の血が燃え滾るようだった。
 彼らはエルを断罪の恐怖に追い詰めつつも、逃げ道を作ろうとしている。
 同胞殺しの苦しみを再び味わう前に殺してやる、と。
 この家に来る前のエルだったら進んで殺されに行っていたのかもしれない。あの頃は、生への渇望と罪の意識の双方に挟まれ、誰かが自分を殺してくれるのをただ待っていた。
 そう。ここに来ることが無ければ、刃を振るうことに意味を見出せないままだった。
 しかし、違う。守るべきものを見つけた今は、もう違う。
 胃が絞まり、吐き気がこみ上げた。仲間と戦う痛みが、きりきりと全身を締め上げる。逃げ出すことはたやすく、立ち向かう苦痛は耐え難い。
 しかし、あの頃と違って今はエルの背に、数多の命がある。守るべき存在が、己の背中に手を添えてくれる。
 そんな人々が使う水道に毒を仕込んでまで振るう憎悪を、エルは許せなかった。
 骨ばった親指と人差し指で輪を作り、唇の間に挟む。深く息を吸うと、エルは渾身の思いをそこに吹き込めた。
 もう理解できぬ誇りや死への恐怖の為に刃を振るうことはない。
 護りたい人を護るために、この血塗られた手を再び振るおうと、彷徨った心は己が力で決断を下す。
 そして、鋭い単音が矢のように響き渡った。

 ――否!

 声に発していない筈なのに、彼の高らかな宣言が聞こえてくるかのようだった。
 他人に強制されたものでなく、己の狂気に取り付かれたものでもない、彼の透徹な意志だ。
 笛の音が余韻を残して消えていくと同時に、エルの心は静まっていった。残ったのは、目的を完遂させる為の怜悧な思考だ。
 張り詰めた空気は僅かな布ずれすらも伝えてくるようで、エルは獲物を待つ猫のように動きを待った。

 途端、交渉の決裂を示すように塀に敷かれた木片が激しい音を立てる。エルは歯を食い縛って屋根を渡り、そちらへ走った。




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