-黄金の庭に告ぐ-
<第一部>6話:敗者の湖畔

01.彼が戦う理由



 差し伸べられた手の影が、朝日によってその輪郭を際立たせる。愉悦に浸るような指の動きを、数多の瞳が見つめている。
「時が来た」
 芯の通った声だった。
 薄暗い岩場に差し込む光が、薄蒼の世界に濃い陰影を生む。その光は、毛皮をまとい、牙の飾りを身につけた戦神の姿を荘厳に浮かび上がらせた。
 男は波が打ち寄せる大岩の一つに立っている。赤銅色の長髪は熱を持つかのように背中で踊り、浅黒く引き締まった四肢には鋼のような光沢がある。髪と同じ色をした瞳は背筋が凍るほどの苛烈な光を秘め、その輝きが大炎が沸き立つかのような彼の存在感を一層際立たせていた。
「聞け。今や帝国の犬どもの牙は衰え、かつて我らを奈落に貶めた刃も錆び付いた。しかし汚水をすすり、荒野を彷徨い死肉を食らうよう定められた我らの屈辱は消えはしまい、例え神と大地が滅びようと、森がそう望む限り」
 そこにいるだけで絶対的な存在感を放つ男は、口元に笑みを貼り付けて言葉を紡ぐ。
「我々から奪いつくした者どもは、立ち上がる亡者に震え慄くだろう。自らが奪ったものが奪われる光景を、悲嘆の声をあげて見守るだろう。――強き者が勝者となる。その真理を、涙を流しながら感じ入ることだろう」
 誰一人として声をあげる者はいない。しかし湖畔の岩場に集結した者たちの目は爛々と輝き、まるで心が解け合ったかのような無音の興奮が辺りを満たしていた。
 そこにいる者たちは全て、かつての敗者だ。強大な帝国と戦って全てを奪われ、闇を這いずるしかなかった亡者たち。それぞれの胸に燃えるような思いがあることを、男はよく知っていた。
「そして今、醜い裏切り者がのうのうと生き延びている。森はこの不義を決して許さない」
 無音の賛同が場に満ちたことに、彼は満足げに頷き、伸べられた手を握る。太陽の光を、その手に包み覆い隠すように。
「行け。刃を振るえ。敵を屠り、血の雨を降らせ。腑抜た者どもに、我らの恐怖を刻み付けろ。亡国ガルダの牙は未だ衰えておらぬと!」
 力の込められた声に空気が震え、散らばる者たちは布の下の素顔を高揚させる。次第に外にいる者から己の使命を果たすために姿を消していく。
「裏切りには制裁を。侵略者には鉄槌を。我らが行く手には炎と名誉を」
 ゆらりと男が立ち上がる頃には、朝日はすっかり昇りきって彼の横顔を強く照らしつけていた。そこには獲物をいたぶるような酷薄な笑みと、光を吸い込んで禍々しく輝く色濃い憎悪がある。
 餌は撒いた。今頃ベルナーデ家の者は必死でヴェルスを目指していることだろう。せせこましく汚らしい住処を守るために。忌々しいあの当主は、そういう男だった。その甘さが今や己を幸運に導くのは皮肉以外の何でもない。
「恐れるな。例えその身が引き裂かれようと、我らが生き様を大地に刻み込め」
 男はそう呟いて、静かに歩き出した。


 -黄金の庭に告ぐ-
 6話:敗者の湖畔


 ***


 地上の娘と恋に落ちた夏の神が、天界への帰還を惜しんでいるかのような暑さが続く日々だった。
 日差しの下に踏み込むと、眩しい陽光が肌を刺す。小鳥は夜明けの女神の目覚めを歌い、朝一番の陽光を受けて緑はいよいよ濃い。
 鼻の先に豊穣の都を臨む灯台島は、今日も豊かな水の香りに包まれている。海にも見紛う湖は陽の神の眼差しを受けて、遥か先まで穏やかな煌きを宿していた。
「気をつけてね」
「うん」
 エルは振り向き、見送るカリィに笑ってみせた。カリィの表情が僅かに翳って見えるのは、彼女が日陰にいるためだけではない。
 普段勝気なカリィは信頼と不安が入り混じった瞳で、何も言わずにエルを見つめる。多分それは、彼のあり様を案ずるが故。だからエルは背筋を伸ばしてみせる。筋の浮いた細い喉で、はっきりと挨拶を紡ごうとして。
「行ってきまー……」

 爆音がした。

「きゃあっ!?」
 耳を突き抜ける衝撃はまるで冥王バクドールが地中から黒の御手を突き出したかのよう。目を剥いたカリィが戸の影に隠れ、エルは口を半開きにして音の方向を見つめた。背の低い屋根の向こうで、濛々と煙があがっている。僅かな沈黙の後、エルはにこやかに言った。
「またポマス博士だねー」
 地方都市ヴェルスに抱かれた湖に浮かぶ灯台島において、このようなことは始めてではない。そう、あの迷惑極まりない博士が住み着くようになったこの島では。
「な、なんの研究してるのよ一体……?」
「さー?」
 ぽりぽりと頬をかきながら、エルは現場を見に行った方が良いかもしれないと思った。普段ならここで何処からともなく「あらあらまあまあ」と老女クレーゼが現れて現場を取り仕切るのだが、生憎当人は州都へ出張中だ。留守を預かった島長はいるにはいるが、あれは多分起きてすらいまい。ついでに言えば起きていたとしてもきっと役に立たない。
 研究の為と称して灯台島に住み始めたポマス博士は謎の実験を繰り返し、貰った家を吹き飛ばした回数有に三度。今回も再起不能なまでに家を壊してしまったなら、世話をしてやる必要があるかもしれない。
 ポマス博士が始めて家を爆破したときは島中の住民が表へ飛び出したものだが、今回に至っては最早誰も慌てていない。現場に向かう道すがら、軒先に水を撒きながらマリルが「今日も暑いですね」などと挨拶をしてくる。背景の青空に立ち上る煙を除けばのどかなことこの上ない。
「わーお」
 ひょいひょいと家の合間を抜けてポマス博士の邸宅(四代目)にやってきたエルは、惨状を前に目を丸くした。四角い石造りの家が、噴火でもしたかのように屋根から黒煙をあげている。
 すると、ぼこっ、と扉が倒れて中から煤塗れの少年が姿を現した。ポマス博士の助手の奴隷ペペスである。地べたに手をついてげほげほと咳き込むペペスに駆け寄ったエルは、その体を起こしてやった。
「大丈夫ー?」
「あうー……」
 ふくよかな体つきのペペスは、涙を滲ませながらも小さく頷いた。そのとき、そんな二人を軽々と飛び越えてすちゃっと地面に降り立った人影があった。
 煤塗れで斑模様になった長衣、小柄ながらも逞しい四肢、大きく突き出した鉤鼻、黒々とした長髪の下で少年のように輝く瞳。よくよく見なくとも学問の都リュケイアに名高きポペラユプポピュポマルス博士である。
「素晴らしい! なんと素晴らしい、一体この島の生態系はどうなっているのです!? こんなに濃度の高いレレの雫が取れる場所など見たことがない! 早く、早く他の試料の採取も行わなければ!!」
 土煙を上げてポマス博士は走り去っていった。ぽかーん、とエルと奴隷は見送るしかない。
「……あぁ、また修理しないと」
 奴隷の少年は深い溜息を共に呟いた。既に慣れっこらしい。
 灯台島の動植物に強い興味を示す博士は、この地に住み着いてからというものの種々の薬を開発している。しかし裏庭に変色したモモラの死骸や切り刻まれた魔物の切れ端が捨てられているのを見れば、欲しがる者は皆無であった。
 よろめきながら屋敷に戻っていくペペスを見送り、振り向いたエルはふと目を瞬いた。
「あれ」
 古びた廃屋が乱立する町並みの外れ、一人の少女がぽつりと立ち尽くしていたのである。
「ティレ?」
 吹けば飛びそうな様子で服の裾を風に靡かせる少女は、島に最近やってきた若者の恋人に他ならない。爆発音に驚いて出てきたのだろうか。
「どしたのー?」
 近付いていくが、少女は海中にたゆたう生き物のように茫洋としている。
 エルは傍に立っても微動だにしない少女をまじまじと見つめた。不思議な娘だ。白い肌と淡い色の髪は南方のメガラヤと呼ばれる民族の出であることを示している。しかし風に揺れる髪は年頃の少女として不自然なほど短く、顔立ちは表情を忘れた人形のよう。それらは性別を超越した印象を見る者に与える。
 そう、まるで――森深くに住まう精霊のような。
「雨が、ふる」
 小さく紡がれた声をエルははっきりと耳にして、思わず風が吹いてくる方向に顔を向けた。
「雨……?」
 空は伸びやかな青空が広がっているが、ヴェルスの天候は元々変わりやすい。頬を叩く風に意識を傾けると、確かに僅かな湿り気が伺えた。もしかすると風上に雨雲があるのかもしれない。
 だが、それよりもエルはティレが風を読める事実に驚いた。しかもエルでさえ長年ヴェルスに住んだ勘でやっと掴めるほどの僅かな移ろいを感じ取るとは。
『この子、何者なんだろう?』
 エルは今更ながらに少女の過去に思いを馳せた。帝国の法では、罪を犯した娘を断髪を以って償わせることもあると聞く。すると少女は罪人だったのだろうか。しかし何よりも不可解なのは、極度に透明度の高い少女の佇まいだ。粗野な奴隷とも、典雅な貴族とも違う。薄膜の向こうから世界を見るようなその眼差しは、そういえば何処かで見た気もするが――。
「よく分かるね」
「――あ」
 唐突にティレはこちらに気付いたように顔をあげた。そしてやや呆然とエルを見つめてくる。
 その足が一歩、二歩と下がった。少女の瞳に怯えの色を捉え、エルは首を傾げた。
「どしたの?」
「……」
 少女は一瞬思いつめた表情を見せ、ぱっと踵を返して走り出す。不吉なものを感じぬでもない振る舞いだが、振り向いてみても静かな朝の景色があるばかりだ。エルは腰に手をやって苦笑した。
「嫌われちゃったかなー」
 追うことも出来たが、あまりしつこくすると更に嫌われそうである。それに杏色の髪をした若者に知られたら最後、八つ裂きで済んだら幸運といえる運命が待っているに違いない。唇を突き出したエルは、これ以上の寄り道を控えることにした。


 ***


 当主不在のベルナーデ家は、嵐が過ぎ去った後にも似た静けさに包まれていた。一行がティシュメに旅立って暫く経ったが、表立った問題もなく穏やかな日々が続いている。
 エルが家を守る傍らで進めている腐った魔物の調査も、これといって大きな進展はない。やはり彼らとて、仕掛けてくるのは当主が戻ってきてからということだろうか。いや、とエルは首を振る。もう一つ、彼の胸には拭えない不安があった。もしも敵が『彼ら』だった場合に起こりうる、凄惨な予感だ。だからこそエルは一人で残ったのであった。
『でも……』
 こちらに会釈して通り過ぎていく奴隷たちは無邪気に笑っている。のんびりとした空間を見て、このまま何事も起きないことをエルは願った。平穏の尊さを知った今だからこそ、彼は心からその存続を希った。

 梢に止まった鳥が軽やかな歌声を奏でている。人の少ない屋敷を抜けたエルは、真っ直ぐに裏庭へと向かった。
 ベルナーデ家邸宅の裏庭には小さな菜園がある。取れる食材は様々で、緑豊かなそこは当主が自ら手を入れることもあった。「摘み立てが一番うまい」と言ってしゃがんだままその辺の野菜をバリボリと豪快に喰らう当主を見たとき、エルはこの人には絶対に勝てないと深く感じ入ったものだ。
 雑草むしりに夢中な幼い奴隷の横を通り過ぎると、奥に石造りの蔵が見えてくる。エルはその入り口で瓶を運んでいる奴隷に声をかけた。
「おはよー。例のアレ、残しといて貰ってる?」
「どうも、エルの旦那。中瓶に三つ分くらいになりましたよ。申し付け通り、塀の近くに置いときました」
 奴隷の男は大振りな瓶を軽く手で叩いた。
「でも一体あんなん何に使うんです?」
「んー」
 指に髪を撒きつけながら、エルは僅かに間を空けて答えた。
「備えあれば憂いなしって感じ?」
 用途を掴めぬ奴隷は、しきりに首を傾げている。すると突然、後ろから元気な塊が飛び込んできた。
「がいこつー!」
「わっ?」
 振り向くと、奴隷のリアラが大きな目を輝かせている。先ほどまで草むしりに夢中だったのが、やっとこちらに気付いて駆け寄ってきたのだろう。
 ベルナーデ家の奴隷夫妻の間に生まれたこの娘は、菜園の小さな管理人でもあった。当主の配下たちとも仲が良く、肉付きの悪いエルを「がいこつ」と呼ぶのだ。ちなみにオーヴィンは「くまさん」、ジャドは「とりあたま」。新入りのフィランを「あおにさい」と呼んで本人をいたく傷つけたのはまた別の話である。
「見て見てっ。すごいでしょ、リアラが集めたんだからっ」
 子犬のようにエルの足元にまとわりつきながら、リアラはずいっと泥だらけの手を差し出した。そこには摘み取った雑草が握られている。エルが瓶に溜めるようにと頼んだのは、庭に生えた雑草であったのだ。菜園の主であるリアラはきっと人一倍の草を集めてくれたことだろう。
 差し出された雑草を受け取って、エルはふにゃりと笑った。
「ありがとー。リアラはいいお嫁さんになるよ」
「ほんと!?」
 土くれのついた頬をぱっと赤らめて、リアラはもじもじとする。
「じゃあリアラ、だんなさまのおよめさんになる」
「……」
「……」
 エルと奴隷の男は、無言で危惧の視線を交し合った。
「そ、それより、お礼しなきゃね」
 リアラのよく焼けた肌からその労を感じ取ったエルは、腰にくくりつけた革袋の一つを取った。中から更に小さな布袋を出して、リアラの手に乗せてやる。口をしっかりと結わえたそれは、首から下げられるように革紐がつけられていた。リアラはきょとんと目を見開いて、子供の掌でも包めるほどのそれを顔に近づけた。
「へんなにおいー?」
「魔除けのお守りだよ。ぼくとお揃い」
 しゃがみこんだエルは、自分も胸元から同じものを出してみせる。リアラはそれをじっと見つめていたが、自分も紐を首に通して、にっと笑った。中々気に入ってくれたらしい。
「エルと同じ!」
「同じー」
 稚い小さな手と、骨ばった細い手が、ぱちんと音を立てて重なり合う。
「じゃあさ、こんど、オーヴィンたちにもあげよ! みんなお揃いがいい!」
 無垢な笑顔を前にエルは口元を緩めた。穏やかな光景だ。不意に、昔のことを忘れてしまいそうになるほどに。

 エルは、今や亡国となったガルダの出身であった。そして、森と共に生きた一族に降りかかった災禍を最も激しく受けた身でもある。
 煉獄の光景は、昨日のことのように覚えている。滾る黒い熱気の渦中で帝国と戦うことを強制され、そして国賊となってからは深い地面の底に閉じ込められ、武具を持たされて同胞と殺し合った。
 家族や知己とまみえることがなかったのは、闘技場の経営者の僅かな憐れみだったのだろう。けれどエルがその手にかけたのは、紛れもない同胞だった。かつては共に暮らし、共に生きた者たちだった。熱風が吹き荒れるかのような群集の囃子声にまみれ、獣のようにエルは戦い、仲間を殺した。ある者は同胞殺しに耐えられず自ら命を絶った。ある者はやめてくれと泣き叫んだ。しかしエルは目の前の命を踏みにじることで生き続けた。
 あの頃は自分で道を選ぶことが出来なかったのだと、今になって思う。周囲の環境に流され続け、心にあったのは死にたくないという漠然とした思いだけだった。志もなく、誇りもないが故にエルは仲間の血で己の刃を染めたのだ。
 それは紛れもない真実であり、彼の罪であった。極限の環境に追い立てられたとはいえ、逃れようもない。
 その闘技場で最後まで勝ち残ったエルは、罵声と賛辞の両方を受けた。多くの民衆は罵った。醜い同胞殺しをここで殺してしまえと。しかし一部の者は言った。これぞまさに修羅の男、今後も闘技場の名物として戦わせろと。頭が割れるような狂気の渦中にあって、エルは己が地獄から這い出せないことだけは強く自覚していた。
 カリィの手で救われ逃げ出しても。ベルナーデ家の当主と出会っても。島で穏やかに暮らし始めても。いつでも薄い闇が、この身に手を伸べている気がしていた。
 そう、己の呪われた体が救われることは、永遠にない。魂は己が生きることを否定し、彼から食欲を奪った。穢れた体は清められることなく滅びるまで地を彷徨い続けるのだろう。

 それでも、いつかうまい酒を持ってこいと、老練の当主は笑った。

 そんな当主の声が、仲間たちの後姿が、妻の顔が、そして目の前の光景が。まるで心を溶かすように、暖かな熱を放っている。その光景を守りたいと思う自分がいる。二度と這い上がれぬと思った煉獄の底から見た、一片の光。
 血にまみれた手が救われることはありうるのだろうか。エルはそんなことをふと思う。エルを待たずに回り続ける世界は、彼の体を食い潰す化け物でしかなかった。
 けれど、こんな手でも、伸ばすことがもしも許されるのなら。
 腹に違和感を感じて、エルは手をやった。
「どしたの?」
「ううん……」
 エルはゆっくりと、その感情を理解した。人として当たり前に持つ、生きるための呟きを。


「ちょっと、お腹が」


 空いたのかもしれない――。
 そう紡ごうとした刹那、彼ははっと体を強張らせた。


 全身に釘が打ち込まれたかのようだった。
 振り向く動作すらもどかしく、エルは辺りに目を配った。塀の上や樹木の陰、蔵の屋根。平穏に汚らしい染みをつけるその影を、鋭い視線でひたすらに追う。
「っ」
「ひゃ!?」
 鋭く腕を伸ばしてリアラを庇ったエルは、地を蹴って少女と共に飛びずさった。どすん、と草むらの上に黒い塊が落ちてくる。双剣を引き抜いて両手に構えたとき、しかし脅威は過ぎ去っていた。
「……」
「エルー?」
 リアラが不安げな顔を向けてくる。全身の感覚を研ぎ澄ませたまま、エルはゆっくりと刃を収めた。
「な、なんでぇ、今の」
 奴隷の問いに首を振って、エルは投げ込まれた塊に注意深く近付いた。人の頭ほどのそれは、たわわな枝葉で編まれた輪飾りであった。その中央を見たエルの瞳が、驚愕に凍りついた。
 赤い実で飾られた中央に突き出る木彫りの狼の首。こちらに向けて牙を剥くそれは紛れもない、ガルダ人の――それも、エルが属していた氏族の紋章だ。出撃の際は、旗代わりにこの飾りを武具に吊るすのがガルダ人の慣わしであった。
 しかし勇ましく牙を剥いたそこには、一振りの血塗られた短剣が突き刺さっている。
「……」
 汗ばんだ体がみるみる冷たくなっていくのをエルは感じた。間違いない。ガルダ人が近くにいる。そして彼らはベルナーデ家の守り手がガルダ人であることを、そしてそのガルダ人がエルであることを知っているのだ。
 敵は裏切り者の粛清を望んでいる。剣が穿たれた紋章はすなわち、エルの罪を示すもの。そして同時に断罪の執行を厳然と告げるものであった。彼らは分かっていたのだ。自分たちの匂いを残せば、エルが一人で屋敷に残ると。そうすれば、エルの断罪とベルナーデ家への復讐を、同時に果たせるのだと。
 嘲笑うかのような宣戦布告に、胸を槍で貫かれたようだった。胃の腑が重くなり、みるみる視界が暗くなっていく。血塗られた狼の口の向こうから、仲間たちが呼んでいる。自分がこの手で殺した、多くの屍たちが。
 己の罪を突きつけられて崩れ落ちそうになった、そのときだった。
「エル、しっかりして!」
 はっとして顔を向けると、涙ぐんだ瞳とぶつかった。リアラが服を掴んで、必死にこちらを見上げていた。
「ねえ、エル。どうしたの。エル……」
 縋るような幼い声に、エルは唇を噛み締めた。今、ベルナーデ家に残っているのは自分だけだ。老練の当主はエルを信用してここに残した。音律豊かな低い声を思い出して、エルは静かに息を吐き出した。次の瞬間、はっと屋敷の向こうを見つめた。都市が抱く湖に浮かぶ小島にいる者。――エルをガルダ人と知っているなら、彼らが放っておくはずがない。
「――カリィっ!」
 全身に雷鳴が落ちたようだった。妻の笑顔が脳裏に浮かび、エルは屋敷に飛び込んだ。これから灯台島に戻るのでは遅いし、屋敷を空けては彼らの思う壷だ。ならばと文官奴隷の部屋に押し入って、驚く奴隷たちに構わず指を墨壷に突っ込んで紙に文字を書き殴る。それを走りながら畳んで、台所の近くの伝書鳩の足にくくりつけた。祈るようにその鳩を大空に解き放つ。
「……頼んだよ」
 中庭から翼をはためかせて舞い上がった鳩は、迷わず灯台島の方向に羽ばたいていった。後はこれに気付いた島の者の手に任せるしかない。
 全身が震えだしそうになるのを感じて、エルは己の腕を己で掴んだ。迷うな。戸惑うな。常に取りうる全ての手を打て。当主の言葉が、静かに胸の内を満たしていく。
 カリィを救うために打てる手は打った。次は屋敷を守らねばならない。
 痛烈な吐き気が喉元まで競りあがっていた。しかし吐くものなどありはしない。そう自分に言い聞かせながら、エルは次なる手を打つために踵を返して走り出した。
『あの人たちに、戻る家を失くす気持ちを味わわせてはいけない』
 午前の静けさを引き裂いて、奴隷の招集を告げる笛が高々と響き渡った。長く長く、一度だけ吹き鳴らされるそれは、ベルナーデ家内にのみ通用する非常警告だ。
 青空にはまるで彼の心を暗く埋め尽くすかのように、浮かぶ雲が増えていく。


 そのとき、空を飛ぶ鳥の翼を一本の矢が貫いた。大地から放たれた矢は無感動に肉を抉り死を齎す。まるで紙切れのように、鳥は地面へと落ちてゆく。


 ***


 家の外に気配を感じて、カリィは刺繍をしていた手を止めて振り向いた。
「はーい、どちらさま?」
 建て付けの悪い扉は昼間は開け放たれ、日避け代わりに簾がひいてある。親友のミモルザであれば勝手に入ってくるし、マリルやクレーゼなら名乗るはずだ。返答のないことに首を傾げながら、カリィはゆっくりと簾に近付いた。
 その手が簾にかかり、分厚い布で出来たそれを持ち上げる。ぱっと明るい日差しが室内に差し込み、熱線に肌が温められる。
 カリィはそこにいた者を見て、目を見開いた。




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