-黄金の庭に告ぐ-
<第一部>5話:貴族はつらいよ

11.闇夜から這い出ずる蛇



 ラルディ。

 砂吹き荒れる岩場でで誰かが自分のことをそう呼んでいる。
 そうだ。あの頃は確かにラルディと名乗っていた。
 正義の為と剣を振るうことを厭わず、むせ返るような死臭を嫌悪しながらも踏み越えたあの頃。
 栄光を掴み取る為に、いくつもの屍を踏み越えた。それが正しいと信じて。奥底にあるものから目を逸らしたまま――。
 赤黒い血だまりの中から手が伸びてくる。たった一人で立つ己を、地中へと引きずりこむかのように。粘つく糸を引いて無数の黒い手が手が手が。
「うぁ……」
 腰が抜けそうになった瞬間、後ろから殴りつけられるように呼ばれた。
「フィラン!!」
 それは彼を彼として位置づける言葉だ。ぶれていた視界が定まり、フィランははっと息を呑んだ。
 両手を以ってして突き出した槍に凶刃が叩きつけられる。その衝撃は彼をみるみる現実に引き戻し、フィランは己が槍使いであることを思い出した。
「ちぃっ!」
 萎えかけた足腰に力を込めて刃を押し返す。駆けつけたオーヴィンは、フィランの後ろにつくと経緯の確認を後回しにして迅速に詠唱に入った。実践慣れした元盗賊の男は、自らのすべきことを冷静に行う器量を持っていた。
 フィランもまた、普段の力を取り戻していた。敵はがくがくと腕を上げ、黒い刃となって斬り込んでくる。早いが、見切れないほどではない。鼻が曲がるような腐臭に顔をしかめながらも、フィランは最小限の動きで槍を持ち返し、敵の肩口を目掛けて突き出した。
 ぞぶっ、と腐った肉片が飛び散り、胴から引きちぎられた腕が地に落ちる。落ちた腕はびくびくと震えたが、それより戦慄したのは異形が声の一つもあげないことにあった。むしろダグが持っていた松明を、残った左手で燃え盛る部分ごと鷲掴みにし、焼ける痛みすら知らぬ様子でフィランに叩きつけようとする。まずい、と思ったそのときだった。
「精霊の御名において――」
 低い詠唱と共に宙に水が現れた。それは瞬時に弾けて異形に降り注ぎ、煙をあげて火を打ち消してくれる。オーヴィンの魔法が効果を成したのだ。ただの鈍器と化したそれを、フィランは巧みに避けて石突で弾き飛ばした。しかし間髪入れず、更なる一撃が襲い掛かってきた。
「っ!?」
 反射的に後退したフィランは、人影が二つになったことに唖然となった。先ほど倒れていた死体が突然起き上がり、襲い掛かってきたのだ。慌てて鋭く槍の穂先で打ち返すが、仕切り直す間もなく続けざまに刃を放たれた。
「くっ!」
 激しい剣戟を受けたフィランは目の前の異形に死への恐怖がないことを悟る。この異形は命なき亡霊なのだ。生前の痛みも苦しみも感じていないに違いない。
 途端、薄い風の膜が鈍器を持った異形の体にまとわりついて転倒させる。次々と魔法を成功させるオーヴィンの落ち着きようにフィランは舌を巻く思いだった。決して絶大な魔力を誇るわけでも、発動が早いわけでもない。軍時代にもっと強い力を持った魔術師ならいくらでも見てきた。しかしオーヴィンは彼らと違って弱い魔法で的確に相手の猛威を殺いでいく。彼が助けに来てくれなければ、命も危うかったかもしれない。
 フィランは舌打ちをすると、思い切って転倒した異形の頭を渾身の力で踏みつけた。金属の鋲がびっしりと打たれた旅用のサンダルは脆い頭蓋骨を貫いて粉砕する。ぬるい液体に触れるおぞましさを知覚する余裕もなく、振り向き様に鋭い薙ぎを繰り出し、もう一体に相対する。これで一体しとめたと高を括れたのは、しかしほんの数秒に過ぎなかった。
「フィラン、後ろだッ!」
 魔法の生成は間に合わないとみたか、オーヴィンが刺すような警鐘を鳴らす。殺気を覚えたフィランは背筋を凍らせながらも膝を折って体を丸め、地を蹴って横に飛んだ。そして一瞬前まで自分がいた場所を見て、全身の体温が消し飛ぶのを感じた。
 首から上を失った異形が、立っていた。五体満足のもう一体と同様に。血を求め、敵を探して地を彷徨い、確実なる死を齎す死した魔物――否、人間。
「……じょ、冗談じゃないです」
 思わず口走ったフィランは、たった今、正しく現実を認識できている自信がなかった。後方に走り寄ってきたオーヴィンもまた、悪夢を見ているように呟いた。
「んん。お前さん、悪霊にでも祟られてるのか?」
 ふざけるなと言いたかったが、今のフィランにはきつい冗談であった。悪霊になら取り憑かれているかもしれない。ずっと、ずっと昔から。
 頭が混乱している。先ほどのダグの言葉。動き出した亡骸。ガルダ人。エル。様々な単語が浮かんでは消え、しかし敵の攻撃は留まることを知らない。
「俺、今ここで死ぬかもしれんって思ってる。助けにくるんじゃなかったかも」
「ふっ不吉なこと言わないで下さい!」
 フィランは覇気を取り戻すために叫んで、槍を構えなおした。ゆらゆらと揺れている異形たちを前に、オーヴィンは頭をかく。
「ひとまず足を仕留めます。動きを奪わないと――」
「了解だ。前衛は頼んだ」
 異形の一体がけたたましい声をあげて襲い掛かる。フィランは覚悟を決めると、足を狙って薙ぎを繰り出した。腐り落ちた肉から骨が飛び出し、異形はがくりと前に崩れ落ちる。もう一体は死んで間もないためか、見た目は生きている者とそう変わらない。
 フィランは一呼吸をおくと、槍を投擲の形に構えた。異形は知能が低いのか、二体目も一体目と全く同じ動きで突進してくる。槍の切っ先が都市の灯りに一瞬だけ煌き、放たれる。それは異形の腹を突き破って地に突き立てられた。仰向けのまま大地に縫いとめられた異形に、オーヴィンが容赦なく風の刃を生成して剣を持った腕を手首ごと切断する。その間に、取って返したフィランがもう一体も地に伏している内に手首を踏み抜き、こちらも短剣を胸に刺して地面に縫い付ける。
 ようやく二体を無力化した後も、フィランとオーヴィンは暫く荒く息をつきながら異形を凝視していた。二体とも抵抗できない姿になっていたが、痙攣するような動きは止まらずに続いていた。油をかけて燃やすしかないかもしれない。
「なんなんだ、これは……」
 流石のオーヴィンも動揺を隠し切れずに、何度も顔を指で拭う。すぐにフィランは経緯を言わなければいけなかったが、恐ろしさと混乱に何から言えば良いか分からなかった。後から聞けば、オーヴィンは戻らないフィランを心配して探しにきてくれていたそうだが、この時は礼はおろか、確認する余裕すらなかった。
 するとオーヴィンは、常人であれば目を背けずにはいられない異形を、松明で照らしてじっくりと検分した。ベルナーデ家に関係がある人物か、確認しようとしたのかもしれない。そして、小さな呻き声をあげた。
 仰臥の体勢で地面に縫いとめられた男の衣服には、血で文字が記されていた。
「ガルダに生まれ、蛇の頭を狩る者より告ぐ。ベルナーデ家に災いあれ。豊穣の都の邸宅は焼け落ち――」
 呟いたオーヴィンは、みるみる体を強張らせた。フィランはようやく気付いた。ダグの言葉は出任せなどではなかった。敵は、ガルダ人だ。
 もしかすると自分はここで異形に殺され、同じ血文字を刻まれてベルナーデ家に送りつけられていたかもしれないと思い、改めて慄然とする。死に際のダグの声が頭から離れなかったが、フィランは込み上げる過去の恐怖を無理矢理嚥下した。そして経緯をオーヴィンに伝えると、オーヴィンは蒼白になりながらも頷いた。
 事は、一刻を争う必要があった。




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