-黄金の庭に告ぐ-
<第一部>5話:貴族はつらいよ

10.個の想いは闇に溶け



 昔から、星空を見上げるのが嫌いだった。

 夜の闇に星々が輝くのは、天界の光が無数の穴から漏れているためだという。人界と神界の境界にある光と影。巨大な空。散りばめられた光の欠片。手を伸ばしても届かぬそれら。
 ――見つめていると、支配されている気分になる。
 もしかすると、己の運命が大いなる力によって初めから定められているのではないかと。幼い頃から不安で仕方がなかった。
 だから抗った。命の限りを尽くしてやった。一度たりとも、運命に身を委ねたことはなかった。
 我が人生は、我がものだ。他人の手で決められてたまるものか。
 そんな子供染みた恐怖心と反抗心を、いつまで経っても捨てることが出来なかった。大人になっても、そして今でも思いは変わらない。

 ギルグランスは、一人で夜空を見上げている。
 堅牢な塀に囲まれた宿舎の中央に設けられた中庭である。列柱回廊と噴水が流麗に配置されたそこも、夜になるとその装いを闇に隠す。配下たちの情報を待ちながら、老練の当主はひとり目を眇める。
 己より先に冥府へ旅立った兄は今頃、あの天へと昇ったのだろうか。

 ギルグランスと兄ラムボルトは、生まれた腹こそ違うものの仲の良い兄弟であった。彼らはよく笑い、よく語り、よく喧嘩をした。兄弟というより同い年の悪友同士のようだと、周囲に評されたものだった。
 母が違うためか、性格も、容姿も対照的。むしろ、だからこそ互いを認め合うことが出来たのかもしれない。
 共通点があるとしたら、二人揃ってヴェルスの都市中に浮名を流したことくらいだ。それ程までにベルナーデ兄弟の女性関係は華やかだったのである。
 二人が少年期を過ごした当時のヴェルスでは、都市中の女性が彼らの麗姿に骨抜きにされていた。女たちは東にラムボルトが狩りに出かけたと聞けば土煙を上げてそちらへ走り、西に弟が舟遊びをしていると聞けば季節の変わり目の虫のように船に飛び乗って後を追った。辺境に生まれ付いて珍しく垢抜けた兄弟は、まさに憧れと崇拝の対象者だったと言っても良い。女たちは兄派・弟派に分かれて熾烈な派閥争いを繰り広げたものであった。
 当時兄ラムボルト派の組長を自負する二丁目のパン屋の娘曰く。
『ラムボルト様に決まっているわ! あの鋭い目で熱い眼差しを向けられたら、コロリといかない女はいない筈よ。粗野で自由で、とても優しい。何だってあの逞しい胸で受け止めてくださるの。ああ、まるで野に君臨する百獣の王のような方なのよ! その野性的な腕で私をどうにでもしてって感じ!?』
 対する弟ギルグランス派の会長を名乗る五丁目の織物屋の娘曰く。
『断然ギルグランス様よ! 見たことがあって? 図書館で頬杖をついて書物を眺めるあの方の物憂げな瞳! しなやかな指で髪をかきあげるお姿、水が流れるような歩き方。あの方ほど美しく裾を捌く方もいらっしゃらない。詩歌を歌う唇で耳元にそっと囁かれたら――ああ、骨が溶ける思いよ、もう超ヤバっていうか!?』
 市場ではベルナーデ兄弟の肖像画が飛ぶように売れ、画家たちはにわか景気に嬉しい悲鳴。男たちの間では何度二人の闇討ち計画が持ち上がったか分からない。
 しかしギルグランスが成人して間もなく、二人は都市を後にした。

『ギル。お前はここで一生燻ってるつもりか』
 今でも覚えている。あのときの兄の背は、夕日を受けて深い影を落としていた。ギルグランスが成人を迎えたその日。海にも見紛う湖に挑むように向かった兄は、ギルグランスを帝国軍に誘ったのだ。
 悪くないと、当時は思った。徹底的な実力主義が布かれる帝国軍は、地方貴族の出であろうとも、武勲を挙げれば上層部に迎えられる。本国の議会である元老院に席を与えられ、ゆくゆくは総督として故郷を統治する。それが、地方貴族として生まれた者にとって最高の名誉だった。
『バーカ。お前の夢はそんなチンケなものかよ』
 ギルグランスの思いをチンケ呼ばわりした兄は、次の瞬間、とんでもないことを口にしたのだ。

『俺は、皇帝の座を頂く』

 冷静なギルグランスも、そのときばかりは言葉を失った。広く諸侯を統治する皇帝の座は、代々血筋で受け継がれてきたものだ。聞く人に聞かれれば、不敬罪で捕らえられるかもしれない。いや、謀反罪か。
 しかし兄が言うと、何故だか嘘のように思えなかった。
『このままじゃ帝国は衰退する。そんなことさせてたまるかってんだ。俺が全部変えてやる』
 胸を熱いもので叩かれたようだった。兄なら、運命に真っ向から立ち向かって切り開いてしまいそうだった。靡く兄の赤い髪を眺めながら、ギルグランスは笑ったものだ。
『面白い』
『まあ、お前も手下くらいにはしてやるよ。毎日葡萄酒とチーズを運ばせてやる』
『結構です。その葡萄酒とチーズはきっと私のものになりますから』
『言ったな?』
『ええ』
 兄は振り向き、弟は強い眼差しで迎え撃つ。二人とも、不敵に笑っていた。いつものように、変わりなく。
『競争だ、ギル。どっちが先に皇帝になるか。絶対負けねえからな』
『望むところです、兄上』
 そして「どちらか残って家の跡を継いでくれ」と懇願する父をスマキにして黙らせ、おろおろするセーヴェの首根っこを掴んで女神の加護ある故郷を飛び出した。
 今でも覚えている。たった一人の兄の背の形。濃い色の影。揺れる髪。明朗な声。真似できるとしたら彼自身の影しかいない、激しい気性と深い懐と。
 好きに生きてきたつもりで、自分はずっと兄の背を追い続けただけなのかもしれない。軍の中でも、いつだって兄は一歩先にいたのだから。そう。ギルグランスは一度たりとも、兄の前に立つことは叶わなかったのだ。
 嫉妬がなかったわけではない。けれども、それは確かに行く手を照らす存在だった。
 元老院の議席も兄が先に勝ち取り、ギルグランスは、一歩遅れてそこに入る筈だった。そこで、夢は唐突に潰えた。

 ギルグランスに元老院入りの話が持ちかけられた翌日、兄ラムボルト謀反の報が届いたのだ。
 そしてギルグランスは、追うべき背を失った。

 空には幼い頃に見たのと変わりない光がある。それらは自分が生まれる前からあり、そして死んだ後も変わらずにあるのだろう。
 他人に操られたくなかった。己の運命が初めから定められているなど、信じたくなかった。
 道ならいくらでも切り開いてみせよう。運命など叩き伏せてくれよう。
 自ら決定を下し、道を選んだ。兄と共に行く道を、持てる力で突き進んだ。
 そうやって生きてきた自分が、何故こうして無力を噛み締めているのか。
 台に置かれた杯に手を伸ばし、中身を一気に飲み干す。そのまま、俯いて目を閉じた。
「兄上」
 濡れた唇で呟く。
「兄上――何故、あのようなことを」
 指で、胸に下がる家紋をいじる。真新しいそれは、先祖代々伝わってきたものではない。父の跡を継いで当主となった兄の死と共に、古い家紋は失われてしまったのだ。砂漠で討ち取られた兄は、その亡骸は勿論、遺品の一つすら返ってきてはいない。きっと全て砂の中に葬られたのだろう。その身が犯した罪もろとも、何もかも。
 兄を恨む気はない。
 否。恨んではいけないと、心が自制を促している。
 誘われたことがきっかけとはいえ、自ら選んだ道だ。戦場は、確かに自らの才気と運気を試せるこれ以上ない舞台だった。だからこれも、自分の運が足りなかったが故の結果なのだろう。
 そう諦める傍ら、懊悩が消えてなくなることはない。
 兄は何故謀反を犯したのか。ギルグランスもレティオも、その理由を聞かされていないのだ。
 数多の反対を押し切って断行された遠征、無能な司令官によって形勢を逆転された悲劇。物事を真っ直ぐに捉える兄が、帝国の在り様に反感を抱いていなかった筈がない。
 しかし――。


 分かっていたでしょう、兄上。
 あなたの振る舞いの結果、私たちがどのような仕打ちを受けることになるか。


 抑えきれない兄への怒り――困惑と失望と諦念が混じったその感情を自覚して、ギルグランスは額に指をかける。誰にも漏らすことは出来ない。それが餓鬼じみた見苦しい行動であると理解しているが故に。
 周りの者は、そんな自分をさも理解したかのように気遣う。


 ――オヤジ、本当に前線には戻らねぇのか?
 ――あなたの想いは何処へ行くのかしら。

 ――叔父上は、あの男を、それでも兄と呼ぶのですか。


 放っておいてくれ。
 気分が悪い。愚かなことだと分かりきっているのに、懊悩に支配される己がいる。
 皇帝の座を誓ったあの日の湖岸が、遠く、まばゆく、目に痛い。
 どうしようもない鬱屈だ。身勝手な感情だ。頬を歪めてやり過ごすしかない。
 心を撫でるように風が吹いている。生暖かいそれは表皮を不快に掻き立て、ギルグランスは耳に配下の声を聞いた。
「オヤジ!! おいオヤジいるか!?」
 悲鳴のような切迫した呼び声だ。回廊を駆けてくるあれはジャドか。様子からして良くない知らせであるに違いない。老練の当主は舌打ちをして口元を甲で拭うと、灯りの袂に進み出た。
「どうした」

 息を切らしたジャドは当主の顔を見上げて、げっと唇の端を歪めた。闇の中から現れた当主が見るからに機嫌を損ねていたためだ。この顔を見て初めに邪神と呼んだ奴は天才だと思う。下手な報告でもすれば愛用の長剣で三枚下ろしにされそうだ。
 当主の凶悪な表情を前に、ジャドは口早に状況を説明した。


 ***


 ジャドが当主の元へ走ることになる数刻前。フィランはこの世の終わりが来たかのような面持ちで宿の隅っこで黄昏ていた。
「この世に、神なんていないんです……」
 掠れた声で呟くと、何度となく同じ台詞を聞かされたオーヴィンが、やはり同じ台詞で返した。
「明日の朝、また行ってきな」
 ちなみにその台詞の裏には、「時間があったら」の部分が隠れている。フィランは壁に頭をもたれさせ、生気を失っていた。
 ようやく一件が落着し、ティシュメの秘湯に入れると思ったのである。しかし、意気揚々と浴場へ向かったフィランを出迎えたのは、『本日休業』の看板であった。丁度、女神メデアに捧げられた祭日と被っていたのである。締め切られた無人の建物の前で、フィランは絶望に崩れ落ちたものだった。
 今日の一件の影響で、いつ大会議が再開されるかも分からぬ状況である。次に行ける機会が果たしてあるのかどうか。もうこれ以上事件が起きることはないだろうが、楽しみにしていた分、フィランの落ち込みようは酷かった。
 ちなみに同時刻、無事に真珠の首飾りを届けて仲間とも再会したカスケードは、オルティア家からの礼金で商品を台無しにした店に弁償に行き、一件落着を酒で楽しく祝っていた。ただこれは今のフィランにとって、知らない方が良い事実であろう。
「んん、フィラン。じゃあ、食い物でも貰ってきてもらえるか?」
 何かしていれば気も紛れるだろうと思ったのか、オーヴィンはそんな頼みごとをしてきた。フィランはその意図を理解していたが、腐っている以外にやることもないため、立ち上がって宿屋を出た。フィランたちの宿は食事が出ないので、議員用の宿舎で出るものをセーヴェから分けてもらう必要があるのだ。また当主の護衛のため、今宵はジャドが宿舎の方に詰めている。会えば愚痴くらいは聞いてくれるだろう。
 暗くなった街路を、宿舎の灯りが薄く照らしている。肩を落としながら歩き、門番にベルナーデ家の身分証明書を見せて中に入りかけると、背後から声がかかった。
「お、お前、ベルナーデ家の者か?」
 フィランは眉をあげた。商人風の小柄で痩せた中年の男だが、見覚えはない。だがその額に浮いた脂汗と、妙に媚び諂うような笑み、そして恐怖に突き動かされたような瞳の光が、フィランに不穏な印象を与えた。
「何の用です?」
 警戒しながら問うと、商人はダグと名乗った。名前に聞き覚えがある。フィランが目を見開くと、付け入るようにダグは歩を詰めてきた。
「是非私の話を耳に入れておいてもらいたいのだ。絶対に損はさせない」
 ねっとりとした視線で見上げられ、フィランは眉を潜めた。ダグは一部の若い商人と結託して総督エギルドの悪巧みに加担しようとした男だ。それが失敗して、新たな企みを巡らせているのだろう。
 話にならない。そう思い、無視して立ち去ろうとした。するとダグはフィランの腕にすがりつき、耳元で思いがけないことを囁いた。
「あなたの仲間のガルダ人の話です」
 冥府に住む神に息を吹きかけられた心地であった。フィランは停止して、無表情にダグを見返した。仲間のガルダ人。それはヴェルスに残ったエルに他ならない。
 エルがガルダ人であることは、灯台島の住民とベルナーデ家の一部の者しか知らない事実である。フィランが気付いたのも、軍時代にガルダ人の習性を詳しく聞き知っていたからだ。ならば、州都の商人などに感付かれるわけがない。
 フィランの反応に満足したように、ダグは唇を歪めて笑った。
「彼のことで、是非、お耳に入れておきたい情報があるのです。まずはあなたが聞いてご判断ください、ご当主に報告するかはお任せします」
「……」
 エルの顔が脳裏に過ぎった。どのような情報であるにせよ、その情報源から聞き出さなければならない。
「お願いです。本当はご当主様に直接お話したいのですが、先の一件で私の信用はなく、相手にすらしていただけないでしょう。しかしこれだけは、――これだけは、お伝えしなければいけないのです」
 ダグは目を潤ませて切に訴えている。フィランはややためらってから、話だけ聞くことにした。宿舎内において護衛の配下であることを示す目的で槍も持ってきている。一瞬、ジャドかオーヴィンに同行を頼もうかと脳裏に過ぎったが、フィランはそれを心の中で取り下げた。怪しい男だが、自分の身だけであれば必ず守り通すことができる。
 是を示すと、ダグはゆっくりと頷いて「こちらへ」とフィランを促した。


 ***


 総督の圧制に立ち向かい、華やぎを取り戻した州都ティシュメ。夜の狂騒も再び戻ってきていたが、フィランはそれらの灯りに背を向けていた。そして、不審げに眉根を寄せる。宿舎からやや離れた川べりで、ダグが突然足を止めたのだ。
「どうしました? さっさと話していただきたいのですが」
 傍から見るとただ佇立しているように、しかしその実でいつでも槍を引き抜けるように身構えながら、フィランは問うた。しかし、ダグの様子がおかしかった。街の明かりも遠い草むらで、ダグは喉から引きつったような声をあげた。
「ひ、ひぃ……っ」
 尋常ならざる事態に気付いたフィランは、慎重に近付いていって、同じく瞠目した。ダグの行く手に、若い男の死体がひとつ転がっていたのだ。まだ真新しく、首からどす黒い血を流して横向きに倒れている。手には短刀を持っていた。果し合いの末に刺されたのだろうか。
 ダグの怯えようは演技とは思えなかった。フィランは舌打ちをして、ダグの肩を掴んで振り向かせた。
「は、はなせ、離せっ! 私は無関係だ!」
「関係のあるなしは知りませんが、ちょっと落ち着きなさい。一体何の話をしようとして――」
 ダグは牙を剥くように瞳を輝かせてフィランの胸倉を掴んだ。
「おい、貴様! 武術の心得があるのだろう、私を護衛して安全なところに連れていけ!」
「はあ?」
 呼び出しておいて警護を頼むなど意味が分からない。フィランは顔をしかめて正論を言った。
「なんであなたを助けるんです。逃げたいならさっさと情報渡して逃げてくださいよ、それこそ僕は無関係です」
 元軍人だけあって、フィランは夜道に死体がひとつ転がっている程度では心を乱したりはしなかった。しかしダグは相当に参っているようで、更に唾を飛ばして喚いた。
「ふざけるな、こんなに頼んでるのに。人を散々コケにしやがって、用無しがいくら死のうとお構いなしだ。どうせ俺など呈の良い手駒でしかないんだろうよ、覚えていろ、いつか――」
 惜しみなく振りまかれた激情は、不意に霧散した。それを遥かに上回る力にかき消されたのである。
 ガツン、と鈍い音がした。開いたダグの唇が空気を食む。極限まで見開かれた瞳が横を見ると、耳のすぐ脇に伸びる槍の柄。
「すいませんね」
 静かな声だった。槍を地に突き刺した若者が、黄金の瞳に底知れぬ闇を湛えて商人を見下ろしている。
「手が滑りました。それにしても、ちょっと黙りましょうか?」
「ぅ――あ」
 ダグの足が震えだし、そのまま崩れ落ちる。フィランはそれを見て、不快げに吐き捨てた。
「あなたが総督の腰巾着だという話が知られてないとでも思いましたか。どうせまた悪企みを考えたところを逆に利用されたんでしょうが、自業自得ですよ」
「うぅ」
「分かったのなら知っていることを大人しく話しなさい」
 槍を引き抜くと、顔を恐怖に歪ませ、哀れなほどに身を縮めたまま、ダグは呟いた。
「……いつもそうだ。貴様らは暴力を振りかざして、俺を何だと思っているんだ。家畜か奴隷か? 泥の中を這いずる気持ちなど味わったことのない貴様らには分かるまい。貴様らがそうやって俺を踏みにじるから、俺はこうでないと生きられないんだ」
 嘆きは重い音律を呼んで静寂を呼び寄せる。そんなダグを眺めながら、醜い、とフィランは考えていた。目の前の男は彼が最も嫌いな手合いだった。幸福とは己の力でもぎ取ることでしか手に入らぬのだ。世界は自分を待ってくれるほど優しくはない。その事実を知っているからこそ、フィランは己の無力から目を逸らす甘えた人間が大嫌いだった。他人の所為にせねば己を立てられぬ、その生き様を彼は憎む。しかし同時に理解している、これが世の理なのだと。だから、そうやって生涯救わずに咽び泣いて生きれば良い。
 その時、闇夜の空気がゆらりと動いて、フィランは顔をあげて槍を構えなおした。何時の間に近付いていたのだろう。闇夜に紛れた人影が、声もなく死体の向こうに立っている。同時に強烈な甘い香りが風に乗って鼻腔を刺激した。よく知る、明らかな凶事を告げるその香りに、フィランは愕然とする。
 だが、思いがけず矢が飛び込んでくるわけでも、例の腐った魔物が飛び掛ってくるわけでもなかった。現れたのは細身で背の高い男であった。抜き身の剣を持っているが、殺気はない。倒れている男の加害者だろうか。顔は暗がりに隠れて見えず、ゆらゆらと腕を揺らしてこちらを伺っている。
 風が止み、甘ったるい匂いが全身にまとわりつく。得体の知れぬ嫌悪感が喉元までせり上がり、フィランは脂汗が額を伝うのを感じた。腐った魔物に相対したときに感じた違和感を何倍にも濃くしたような感覚が、背筋を冷たくする。
 その途端、ダグがこちらを振り向いた。崖の淵に立たされた得物が最後に嘲笑い、空へ飛び立っていくように。
「当主に伝えろ」
 フィランは続きを聞いて、目を見開いた。

「お前の仲間のガルダ人は、処刑されるそうだ」

 停止するフィランを無視し、ダグはニヤリと笑って現れた男の方に走り寄った。
「たっ、助けてくれ!」
 涙ながらにダグは男に縋りつき、大げさな身振りで哀願を始めた。
「なあ、ベルナーデ家の者をひとり連れてきてやったぞ。伝言も伝えた。これでいいだろう? もう役目は果たしたんだ、今度は私の願いを――はぐっ!」
 ダグの言葉は最後まで続かなかった。無感動に突き出された刃によって、血の線がびしゃりと大地を穢した。
 腹から斜め上に斬りつけられたダグは、その場に膝をついた。
「な、どうして、やめ、やめて――」
 瞠目したフィランは足を踏み出そうとした。不快な男だが、殺されるほどの咎はないはずだ。それよりも、何か、恐ろしい凶事が起こりつつある。
 そのとき、フィランの瞳が不意に見開かれた。

「やめてくれ。息子がいるんだ……」

 息子がいるんだ。

「――」
 反応が一つ遅れた。網膜を過去の鮮烈な光で焼かれた気がした。黄金色をした夕日に照らされた不毛の砂漠。もたげられた腕。力のない指にかけられて眩く輝く、それは地に落ちて乾いた音を立てて。快さに笑う自分がいる。赤い血が頬に散り、温い感触を残す。穢れた手には煌く刃。壊れた正義、他者を踏み潰す心地よさ。顔のない兵士が殺せと命じ――。
 ダグが地に倒れる音で、フィランはようやく顔をあげる。呼吸を忘れていたらしく、胸が酷く苦しい。致命傷を負ったダグはびくびくと痙攣している。
 すると影はゆらゆらと進み始めた。その手に短い剣を携えて。けれどはっきりと殺意があるわけでもない。それがフィランに次の一手を躊躇をさせる。
 漂う腐臭と、壮絶な違和感。フィランはようやく「それ」を瞳に映した。だらりと垂れ下がった四肢。落ち窪んだ眼窩。穴があいたような半開きの口。赤黒い肉をまとい、布の破片をこびりつかせ、人形のように呼気を合わせて立つそれ。
 死して尚腐った体を抱えて彷徨う魔物、ではない。
 今まで出会ったそれらと類似点を多く持ちつつも、受け止めるにはあまりに凄絶な現実を持ったそれは――。

 人間だ。
 一度死したはずの、人間だ。

「うぁ……」
 目を見開いたフィランは一瞬、我を忘れかけた。瞳は現実を捉えているのに、頭がその禍々しさを処理できない。胸中で吐き気が荒れ狂っている。明らかに死して肉を腐らせた者が、剣を持ち、ゆらゆらと襲い掛かってくるなど――。
 人影は突然、それまでの大人しさを忘れたかのようにフィランに斬りかかった。




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