-黄金の庭に告ぐ-
<第一部>5話:貴族はつらいよ

09.輝く過去は美しくとも



「……良かったんですか?」
 フィランが問うと、老女は淡く頷いた。痛々しいその横顔に、笑みすら浮かべて。
「ふふ。もう涙も枯れたと思っていたけれど」
 己の胸に手を這わせ、しかしクレーゼは歩みを止めることをしない。その佇まいを見て、強い女性だとフィランは思った。覚悟と自制と己が誇りに固められ、毅然と背筋を伸ばしている。
 フィランは自問する。もしも自分が彼女の立場にあったなら、捨てられたと憎まれて尚、愛する者の為に生きることが出来ただろうか。そこまで冷静に己を押し殺すことが、果たして出来るか。簡単に決められる問題ではない。
 オルティア家からの帰り道、老女の付き添いはフィランだけだ。人目を嫌った当主は別の用事に向かい、他の配下たちは先に宿舎に戻っていた。別れ際、彼らの視線を受けてフィランは頷いたものだ。無言で戻ってきた老女は表情に出さず泣いているようで、フィランはそんな老女の護衛を遣ったのだから。
「でも、本当に商人たちには会わなかったんですか」
「ええ」
 返るのは軽やかな肯定だ。その事実を当主から告げられたときは驚いたものだった。あの当主は老女に商人たちへの接触を求めなかったのだ。これでは何の為にクレーゼを州都まで連れてきたのか分からない。
 けれどお節介と口にした昨晩の当主の眼差しを思い出す内に、フィランは僅かながらも察することが出来た。もしかするとあの当主は、テリウスの姿を老女に見せたかっただけかもしれない。貴族家の当主として家族を持ち、迷いながらも生きる彼の姿を。娘を救う為に仲立ちさせるなど、ひょっとすると微塵も考えていなったのかも。目的の為に手段を選ばぬベルナーデ家の当主は、同時に情理を忘れた男ではないのだから。
「黄金の庭。私はティシュメと同じくらいあの都市が好き。そしてあの都市と同じくらい、ティシュメが好き。だからこそ、もう帰ることはないと決めていたのだけど」
 老女はティシュメの青い空を見上げて言った。
「すっかりギルグランスにしてやられたわ。皇帝が崩御したらティシュメへ連れていくなんて。若い皇帝と聞いたし、まさか私より先に亡くなるとは思わなかったの」
 童女のような拗ねた声は、同時に酷く清々しい。吹っ切れるところがあったのだろうか。ヴェールを被った貴婦人に、夏の神の声も高らかな陽光が優しく注ぐ。
 貴族の高志と商人の強かさの双方を持ったクレーゼだ。フィランは苦笑と共に目を細めた。世界の全ての人間が彼女のようであるなら、悲劇の数は半分にも減らせるだろう。しかしフィランがそうであるように、人々は毅然としていられない。肩書きに囚われて押し潰され、あるいは欲望に目を晦ませ、迷夢に惑う。だからこそ、それを背負いきるクレーゼは何処までも眩しい。
 そんな彼女だ。わだかまりが解けた今なら、幸福を手にして良い筈で。
「あなたはこの都市に戻って良いと思います。鋼のクレッゼンタとして、あなたなら今でも十分に力を発揮できるでしょうに」
 フィランの提案を聞いて、クレーゼは珍しく灰色の瞳を見開いた。隣の若者を見上げて、そうしてくすくすと笑い出す。
「嫌だわ、フィランたら」
 困惑するフィランを面白げに眺め、クレーゼは歌うように告げた。
「もう幾年もの年月が過ぎたわ。未来は若い人々に譲らなくては」
 その言葉に反発を覚えるのは、自分がまだ若いからだろうか。眉根を曇らせて、フィランは空を見上げた。本物の力のある者にこそ栄光は与えられるべきだ。そしてクレーゼには既に環境がある。何故そこへ手を伸ばさないのだろう。
「ねえ、フィラン。あなたが今までの人生で一番輝いていたのはいつかしら?」
「え?」
 フィランは目を瞬いて老女を見返した。返答を待つ老女の笑みは悪戯っぽく、若者を困惑させる。
「輝いていた……のは」
 クレーゼと比べれば半分にも満たない人生である。しかし口に出すのが難しいだけで、脳裏には反射的に湧き上がる記憶の断片があった。それは、彼が軍に入ったばかりの時代――まだ何も知らなかった頃のことである。

 フィランは名門貴族の分家の分家の三男という、貴族として最下層の身分に生まれついた。暮らしは平民同然であり、二人の兄の内長兄は家を継いだが、次兄は庶民の婿養子に出されたほどだ。故に彼が貴族として身を立てるには、帝国軍に身を投じて手柄を立てるしかなかった。
 だがそれは想像以上に険しい道のりであったのである。
 成人と共に入隊を許される帝国軍において、若き貴族たちは駿馬に跨り煌く武具を手に華々しく敵陣に突撃――。
 ……するのではない。
 貴族として入隊した者に課せられる初めの試練はまずひとつ。

 地味な書類仕事である。

 これを大抵の庶民は「貴族はいつも楽な仕事ばかりをして、血を流すのは民ばかりだ」と罵るが、フィランはそんなことを弄す奴の首を絞めてやりたいと常々思っている。
 広き国土を防衛する帝国軍の維持には、日々莫大な資金が動いている。それらの管理を行うのは全て、帝国の未来を背負う若き貴族たちなのである。兵士の給料から食料の調達、医師の補充に設備増強の手配。一度の戦争の為でない恒久的な組織運営には正確な資金の管理が必要なのだ。戦場においていかに金の管理が重要な役割を持つか、彼らはそこで身に叩き込まれるのである。
「はあ!? 何このワケわからん仕訳け方!? 全然数字合わないんですけど!? 前受金が負債扱いとかそんなん知るかーーッ!!」
 大量の会計報告書を前にフィランのようにキレて執務机をひっくり返した若き貴族は数知れない。しかもこれで徹夜した挙句、戦場にも出ろと言われるのだからたまったものではなかった。前線では朝の出陣の際にほぼ確実に目を真っ赤にした若い貴族の姿を見ることが出来る。これでは帝国貴族が屈強な武人揃いになるのは当然である。
 更にフィランはその出自が良くなかった。良家の坊ちゃまなら比較的安定した戦場をあてがわれるのだが、名声も後ろ盾もない彼は初っ端から南方の激戦区に放り込まれたのである。
 ここでは現場で成り上がった武人たちが幅をきかせており、生まれながらの貴族にとっては針のむしろも同然だった。貴族の身分を持てば入隊と同時に大隊長の地位につくことが出来るが、歴戦練磨の武人たちはその実力を正しく見抜く。認められぬ内は命令無視が当たり前、下手をすれば事故に見せかけて殺されることもある。現場の兵士とはいえ、無能な上官に仕えて無駄に命を散らしたがるほど愚かではないのだ。それにフィラン程度の家柄であれば、残念ながら死んでも誰も困らない。
 現場の武人に認められるまでにフィランが払った努力は並大抵ではないし、挫けそうになったのも一度や二度ではない。師の存在がなければ、きっと途中で故郷に逃げ帰っていただろう。
 帝国の為に。そして己の為に。
 そう、師と共に何度も口にした。血と砂の味を噛み締めて、砂漠の戦場を馬で渡り、荒ぶる敵をその刃で屠り、一般兵と酒を交わし、幾重にも連なる書類をその腕で捌いた。無頼とも貴族とも等しく渡り合うために、賭博も酒も社交も思慮も身に着けた。
 辛かったし、苦しい思いもした。しかし――とフィランは目を細める。
 帝国の為に全てを捧げようとした、それは無知故の幼稚な思いだったけれど。
 必死で先に進もうとしたあの頃が、最も輝いていたのではないかと。
 老女はフィランの返答を待たずに、静かに告げた。
「フィラン。その頃に戻りたいと思っても、戻れないと思わない? まるで今となってはあの頃のことが全て、幻だった気がして」
「……過去は全て幻想だと?」
「そう。人を縛り、夢を見せ、あるいは力を与えてくれる幻。それが過去だわ。だからこそ、幻想の中に置いておくべき過去もあるのよ」
 フィランは澄み渡った空を見上げた。老女の言う通り、あの頃にはもう戻れない。無心に生き抜くには、この心はあまりに沢山のことを知りすぎてしまったし、あまりに沢山の悲劇を見すぎてしまった。
 そして何よりも――己の心の穢れに気付いてしまった。
 僅かに顔をしかめたフィランの横、しかし老女は晴れ晴れとしていた。
「だって私たちは、今を生きているんですもの」
 歳の離れた老女と若者の合間をくぐるようにして風が吹き抜ける。全てに輝く風の女神が吹き込む夏のそれを感じながら、フィランは曖昧に返事をした。老女の言葉を真っ直ぐに受け止めるには、フィランの心はまだ脆すぎる。
 するとクレーゼは気分を入れ替えるように話題を変えた。
「さあ、すっかり世話になってしまったわね。今日はまだ用事があるの?」
 フィランはきょとんとしてから、大事なことを思い出したように小さな声をあげた。
「そうだ……」
 宿舎が視界の向こうに見え始めている。フィランは唐突に今までの疲労を思い出したように、呆然と呟いたのだった。

「――そういえば、風呂に行ってません」


 ***


 総督エギルドから直接呼び出されたとき、ギルグランスは肩を竦めたものだった。用件は十分過ぎるほど分かっていたのだ。しかしだからといって「言われなくとも重々分かっとりますんで」と断るわけにもいかない。世の会議の八割が開始前に結論が出ているのだと言ったのは何処の誰だったか。
 ただ、出会い頭のエギルドにかけられた言葉は予想の斜め上をいっていた。
「貴様、ただでは済まさぬぞ」
 本国の元老院から選出される総督は、会堂近くの屋敷を居住用に与えられている。そこまでわざわざ足を運んだというのに、出会った瞬間に犯人扱いである。騒乱のせいで手足に包帯を巻いたエギルドは怒りで赤黒くなった顔でギルグランスを指し示した。
「……仰っている意味が、よく」
 それを見てどっと疲れが押し寄せてきたギルグランスが溜息交じりに返答すると、エギルドは執務机からずいっと体を押し出してきた。
「よくもぬけぬけと弄すものだな?」
 頬を憤怒に撓ませるエギルドは、ギルグランスが商人と結託してテリウスを助け出したと確信しているようだった。今回の一件でテリウスの捕囚はうやむやとなり、都市全体の思惑がテリウス擁護に回ってしまった。総督の面目は丸潰れである。
 しかし確たる証拠もないのにこの口ぶりである。恐らくこの辺りの貴族で一番目につく奴だったからと決め付けたのだろう。それか、大会議でレティオにやり込められたことを根に持ったか。地方貴族上がりで武勲を立てたベルナーデ家は、本国の貴族から何かと妬みの的にされることが多かった。帝国の仕組みは身分の分け隔てなく優秀な人材を登用するが、人の仕組みはそう単純にはいくとは限らないのである。
 ここで波風を立てるのも良策と思えず、適当に受け流してさっさと帰ろうと考えたギルグランスに、不意にエギルドはこんなことを言った。
「こそこそと動き回りおって。所詮、兄とは違って影を這いずることしか出来ぬ身よ」
 奴隷のセーヴェの頬が僅かに強張り、ギルグランスは唾を飛ばす総督を見据えた。
「どうせ軍でも兄の面を使って散々良い思いをしたのだろうが。その証拠に兄が死んだ途端に尻尾を巻いて逃げおって」

 ギルグランスの兄が犯した謀反は、帝国の機密事項として徹底的に秘匿されている。民から英雄視すらされた兄が反旗を翻したなどと知れ渡れば、帝国の威信に関わるからだ。故に兄の罪を被って軍を追われたギルグランスの事情を知らず、逃げたと評する貴族は少なくない。
 ベルナーデ兄弟の名で栄誉を得た二人はよく比較されたものだが、多くの場では兄の方が優位にあった。数々の遠征に参加して輝かしい戦績をあげた兄と、北の果てにおいて防衛戦に身を費やしたギルグランスを比べると、どうしても地味な弟の方が見劣りしてしまうのだ。防衛の重要性を心得た武官の一部には兄より弟を評価する声もあったが、人々は一般として華を求める。兄が秀でているとされても仕方のないのが現実であった。
 故にエギルドがギルグランスを蔑むのも、怒りに任せたのなら自然なこと。ギルグランスは言い返すつもりもなかった。下手に言い返せば兄の謀反を悟られる。羨望を集めた男が反逆した事実が公になれば、帝国を揺るがす混乱の火種になりかねない。
『まだ守るつもりか』
 懐かしい兄の声が蘇る。強い眼差しと明瞭な声。日に焼けた肌には生傷が絶えず、なのに生の気配は溢れんばかりであった。
『確かにお前にはそれが似合ってんのかもな、ギル』
 そうだ。地位を奪われ僻地においやられて、未だに自分は帝国を守ろうとしている。それは過去の栄光にしがみ付いているからだろうか。いや、違う。
 兄が反旗を翻したからこそ、その事実を呑まなければならなかったからこそ。
 その絶望と怒りを抱えなければならなかったからこそ、老練の当主は口を噤む。

「これで済むと思うな。貴様の首などすぐに引き裂いてやる」
 ギルグランスは微動だにしなかった。その瞳には怯えどころか底冷えする光が浮いており、顔を歪めたのはエギルドの方だった。眼光だけで圧殺するかのような老練の当主の表情は、燃え滾る彼の心の内を映し出す。
「仰りたいことはそれだけか、総督殿」
 気圧されて口を閉ざしたエギルドに向け、ギルグランスは返答した。
「貴族は民の為にあれ。そう紡ぐ端からほつれて穢れるのが人なのでしょう。しかし穢れきった者どもの混沌にあってむしろ輝くのはまた義。それこそを示すべきが貴き一族、貴族です」
 厳然と告げる唇に迷いはなく、立ち位置にぶれはない。
「しかし今回、義を貫いたのは他ならぬ商人の側。その姿を喜ばしく思った神々が彼らに味方しても仕方のないことでしょう。ただ、それだけのことです」
 かつてベルナーデ家の始祖は言った。心から人を愛し、心から人として生きよ、と。ならばこそギルグランスは誇りを捨てない。――捨てることが出来ないのだ。
 後ろに控えたセーヴェはその身を空気としながらも、そっと瞼を伏せた。総督を前に揺るがぬその姿に、心からの敬意と僅かの憐憫を込めて。 「失礼ながら、用があるのでこれにて」
 長衣の裾を優雅にさばき、踵を返す。
「……奇麗事を」
 憎々しげな反論を背中に受けても、老練の当主が振り向くことはなかった。


 ***


 全てはベルナーデ家のせいだ。そう考えていたのはエギルドだけではなかった。
 自宅で散々物に当り散らしたダグは、疲れきった腕をだらりと下げて椅子に座っていた。憎きテリウスを捕らえ、ダグに有利な法案を可決させるまであと一歩だったのに、全てをあのギルグランスとかいうふざけた当主に無茶苦茶にされてしまった。
 事件の後になってエギルドに会いに行ったダグは、出会いがしらに棒で殴られた。何故ベルナーデ家をしっかり見張っていなかったのだと、エギルドは声を荒げてダグを叱責した。
 総督の方だって子供のようなベルナーデ家の跡継ぎに言いくるめられて法案を通すことが出来なかったのだ。失敗したのはお互い様だ。なのに虐げられるのはダグの方だった。
「私は悪くない。私は悪くない、私は悪くない……」
 頭を抱えて机に突っ伏す。酒に頼ることもできなかった。ダグは酒に弱くすぐに頭痛を引き起こしてしまうためだ。
 憤怒と憎悪が腹の中から黒い衝動となって沸き起こっていた。何か仕返しをせねば気が済まない気持ちであった。顔をあげると、戸棚の中に二枚だけ残った皿が目に入る。他のものは全て床に叩き付けてしまった。残っていたそれは、出ていった妻と子の食器だった。
 どうしてこうなってしまうのだ。自分が何をしたというのだ。
 残された家族の食器は、何も語りはしない。
 どうすれば良いかと考えて、ふらふらと家を出た。足は議員用の宿舎の方へ。あるいはベルナーデ家の弱みを今からでも見つけることができれば、名誉は挽回できるかもしれないと思ったのだ。何の名誉だ? それは、総督からの信頼だ。あの身も心も肥え太った豚のような総督の。
 あまりの惨めさに涙が出そうだった。しかし今から商会に戻ってもモルダーは自分を許さないだろう。彼に出来ることは、これしかない。
 各地の貴族たちが利用する宿舎は景観が美しく整えられ、花壇に美しい花が咲き誇っていた。ここで待ち、ギルグランスが出てきたところで胸にナイフでも刺してやろうか。そうすれば、付きまとう黒い靄を払うことができるだろうか――。
 そんな優美な妄想を浮かべながら、裏手に回る。特に意味があってのことではない。そこは高い壁で仕切られており、ダグは鼠のように越えられない壁を見上げることしか出来なかった。
 しかし、悪戯好きの神が運命を招き寄せたのだろうか。ダグは、たむろう二つの不審な影を見つけた。彼らを暫く観察して、ダグは口角を吊り上げる。様子を見るに、彼らは侵入経路を探っているのだ。自分も同じことをしたことがあるため、断定までにそう時間はかからなかった。
 彼らも何処かの貴族に恨みでもあるのだろうか。ならばついでにベルナーデ家も狙ってもらおうとダグは考えた。嫌がるようなら、ここを調べていたことを貴族にばらすと脅せば良い。幸い、見る限り背は高いが線が細く、屈強そうな男たちではない。
 怨嗟の笑みを浮かべながら、ダグは背の高い男たちに声をかけたのであった。




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