-黄金の庭に告ぐ-
<第一部>5話:貴族はつらいよ

08.晴れた空



 貴様が守ったものは何だ。

 上天から惜しみなく降り注ぐ日光は、いつだって残酷な現実を照らし続ける。世界は明るく眩い煉獄だ。この手に掴んだ僅かなものさえ、ひたすら奪われていくばかり。

 貴様が守るものは何だ。

 己を見つめる他者の瞳。見るたびに、吐き気がした。憐れみの目で見るな。母の名を語るな。私は生粋の貴族だ。誇り高く不正に屈さぬ、私は貴族だ。

 己の矜持に何を持つ。

 汚らしい宝に群がる下賎な虫たち。疎ましかった。悪賢い手を使って力あるものに取り入ろうする。まるで人形の操り主は自身であるかのように。自分がそのような思惑の果てに生まれるに至ったのだと知ったときの絶望感は、きっと彼らには分からない。


 何の為に貴様は生きるのだ。


 あの日と同じ、強い陽光が降り注ぐ。二つの河が出合う都市も夏の終わり。季節の最後の輝きを放つにも似たそこに、人垣がある。百を超える瞳がこちらを見つめている。道を塞ぐ彼らを見て、テリウスは呆然とした。
 商人たちだ。色とりどりの服装。華美を着飾り、金銀きらきらと驕奢を欲しいままにする彼らが、口を閉ざしてそこに並んでいる。
「何の真似だ。通行の邪魔になる、即刻立ち去れ」
 先頭の造営官が槍を地につき威嚇する。しかし大岩のように頑なに、彼らはその場を動かない。テリウスもまた、喉の奥で呟いた。
『何をしている』
 まさかこの機に乗じて自分を嘲りに来たのだろうか。ならば何故黙っている。嘲弄すれば良い、石を投げれば良い。散々憎みあった貴族家の当主が、今や成す術もなく囚われているのだから。
「立ち去れと言っている!」
「テリウス殿」
 苛立つ造営官も何処吹く風、老いた商人が進み出る。眩しそうに細められるその瞳。
「貴方様の無実は明白。この横暴を許せぬと、これだけの者が集まりました」
 そのとき、はっとテリウスは目を見開いた。老人の発言にではない。彼の胸元へと、容赦ない槍の一突きが繰り出されようとしたのだ。業を煮やした造営官による赤と黒で塗られた「正義」の鉄槌は、しかし寸前で対象から大きく逸れることになる。
 矢であった。鋭い風切り音と共に飛来した一閃が、彼らの間を分かつように突き刺さったのだ。
 青くなった造営官は、各々矢の放たれた方向に槍を構える。しかし人出の多い昼の会堂前。貴族たちが、何事かと集まってもきている。見えない敵に表情を歪める彼らを前に、老獪な商人はにやりと口を歪めた。
「神々が我らに味方なさっている」
「ふ――ふざけるな! 神が貴様らのような下賎な者どもに手を貸すなど」
「ご存知ないか。プシュラーナの丘には知恵と商いを司る賢き女神が我々を見守っているのだと」
 ふふ、と太い唇で笑ってみせる彼の背後では、数多の目が敵意を宿して圧制を憎んでいる。ざわざわと集まる民衆と貴族。彼らに聞こえぬよう、商人は造営官に顔を近づけ、片目を眇めた。
「何故、とお思いでしょう。テリウス捕囚は商会にとって好都合であるのに、と」
 太った造営官の表情が凍りつく。モルダーは悪魔のように囁く。
「だが我々はアンタたちみたいな下種に手を貸すほど落ちぶれちゃいない。くたばれ、醜いひき蛙め」
「ま、待て――」
 後ろでそれを耳にしたテリウスが真意を問い質そうとしたが、老いた商人はぱちりと指を鳴らした。すると壮年の商人が歩みだし、大声を張り上げる。
「さあさあ皆様、足をお止め下さいまし。急ぎのあなたも今暫くお時間を。こちらにおわすはティシュメに名高きオルティア家のご当主様! テリウス・レグル・オルティア、女神メデアの誉れ高きティシュメに生まれたテリウス様!」
 元より会堂前に集うは、普段市井にて店を広げる商人の男たち。そのその物珍しさと相俟って、次々と商人が声を張り上げるたびに衆目が集まる。
「盗人には厳罰を。邪悪には懲罰を。栄えある帝国の系列にある我らがティシュメ、しかし重厚にして堅牢な法は、ついに暗黒の気運に包まれた!」
「テリウスの罪を責めたてる、悪鬼たちの悪事禍言。この晴れ間において捕らえ、裁き、慈悲なく排そうと企む。黒の御手に包まれたは天や地や!?」
「ああ、神もお嘆きになるだろう。ついに絶える由緒正しきオルティアの血。強きをくじき弱きを助くその生き方は罪なのか。真実の罪は何処にある? 彼を襲う汚れた魔手か。それとも、濛々たる闇に目を晦ませこの不正を看過する我々か!」
 元より客を寄せることに才気を見出されるのが商人である。テリウスの名は細波のように伝播し、奴隷から流れの旅行者、輿に乗った貴族までが野次馬根性でその場に集う。

「勘違いなさるな、オルティア家の当主よ」
 次第に祭りのような喧騒に包まれる最中、テリウスに向けてモルダーはそう言った。
「我々とてアンタはやりすぎだと思ってる。我慢がならねえ、殺しちまえと叫ぶ奴も多くある。なのにアンタがそこで呼吸できているのは、あのお方の血を引くからだ」
 騒ぎを止めようとする者、いよいよ盛り上がる者、何事かと事実を検めようとする者。狂騒に満ちた世界に切り離されたそこは、むしろ静寂であるようにテリウスには感じられた。
「待て……私は」
 テリウスは眉を歪めて首を振る。
「私は貴様らに守ってくれと言った覚えなどない。勝手な振る舞いは許さぬぞ」
 モルダーは薄く笑った。
「我々に自由を尊び義を通せと言ったのは他ならぬこの帝国。そして我々は義を貫く。我々の義とは、鋼鉄の意思を持つあの方の遺志を継ぐこと」
 飄々と答えるモルダーを前に、テリウスの感情は膨れ上がる。そうやって誰もが己に母を重ねるのだ。世界はテリウスを見ず、その向こうにある女人ばかりを瞳に映す。そしてテリウスの知らぬ影のことを、唇で語り継ぐ。
 テリウスは長い間、その影から逃れたくて逃れたくて。
 付き従わせる悲劇の残像でなく、ただ、自分を見て欲しくて。
「やめろ」
 喉の奥から、掠れた声が絞り出された。
「貴様らに哀れまれる筋合いなど」
 刹那、モルダーが眼を鋭く輝かせた。
「黙れ、テリウス」
 それは、長い年月を経て古びた扉を堂々と開くかのように、テリウスの耳朶を重く叩いた。

「あの時、母を失ったのは貴様だけではないのだ」

「――」
「とうさま」
 己の深淵に触れて愕然と目を剥くテリウスの耳に、喧騒を掻き分けて幼い声が届いた。
 ぞっと背筋が凍りつき、見開いたままの瞳で振り向く。人々の波の内、彼らの足元を懸命に走る幼子は一筋の光のよう。その瞳に切迫した想いを込め、障害物に押されてぶつかりながら、必死に父の姿を追う。
「クルズ」
 囚われた父の姿を見ようと出てきていたのか。その毬球のような体は今にも人波に踏み潰されてしまいそうで、テリウスは目の前が白む思いで息子の名を呼ぶ。テリウスを囲んでいた造営官たちは、闖入者の出現に槍で以って相対した。しかし火がついた矢のように、子供の足は止まらない。
 己の鼓動が聞こえた。嫌な音だ。生の呼吸を嘲笑うように知らしめるその音が、テリウスはこの上なく嫌いだった。
 誰かが耳元で囁く。整然と生きよ。己を殺せ。貴族として冷然と。個ではなく、ティシュメにある貴族家の長男として当主として――。
 クルズの小さな体が、交差した槍の壁によって跳ね返る寸前。
「どけ……どけっ!!」
 血が沸き立ち、ぱっと目の前が白んだ。縄で繋がれた腕を振り上げて造営官の後頭部に一撃を加える瞬間、まるで夢の中にいるようだった。
「クルズ!」
「とうさまっ!!」
 頬を涙で濡らした幼い子供が、脇目も振らずに飛び込んでくる。受け止めた体は小さくも、確かな人の質量を持っている。どうしてここに、と問い質す前に、向けられたクルズの表情にテリウスは気圧された。
「とうさま! ねえ、嘘だよね。悪いことなんてしてないよね。帰ってきてよ! 皆心配してる、とうさまがいないから――」

 行かないで。
 行かないで、かあさま。

 あの日と同じ、陽光の降り注ぐ日だ。
 あの日と同じ顔をした子供が、必死で手を伸ばしている。
 奪われることを知らない子供。
 奪われることを知って、絶望と共に生きた自分。

 自分を殺すということは一体何だろう。
 貴族としてあろうと徹した。厳格な理路に思考を固め、それが正義と己の道を敷いた。母の影から逃れるように。母の影を忘れられるように。
 同じところばかりを巡る論理。商家が憎い。奴らに良い思いをさせてはならぬ。型に嵌らぬ生き方を許容できぬ。故に我が身の箱に閉じこもり、知らぬ論理で動く世界を憎んだ。
 しかし、ああ、これは何ということだろう。
 誰かを守りたいという思い。それがどうして、箱の外の者たちのように、自分を動かすのだろう。
「クルズ――クルズ、すまない」
 膝をつき、息子の頭をかき抱いた。恥も外聞もないその姿を、昔の自分であったらきっと憎んだろう。
 しかしいつまでも箱の中にはいられない。繋がれて動かぬ腕で、しかしクルズの小さな体を抱え上げ、テリウスは辺りを見回した。何があろうと、息子だけは助け出す。その野獣のような瞳が、モルダーを捉える。
 一連の出来事を目を細めて見守っていたモルダーは、しわがれた頬を歪ませた。その色あせた唇から罵倒が飛ぶと踏んだテリウスは息子を庇うように睨み付けたが、反応は予想外であった。モルダーは指を揃えて合わせた手を顎につける。それは商人たち特有の敬意を込めた挨拶であったのだ。
「私も、お前も、かつて導を失った。暗中を歩く我々に、燦然たる答えを出してくれる母はもういない」
 寂しげに笑うモルダーは、しかし眼光を輝かせる。
「だから、残された者で道を作るしかないのだ。我々は貴族の脅しに屈さぬ、揺るがぬ、通させぬ。我々の世界を勝ち得る為に。だが人の掟からはみ出す馬鹿者どもを法で裁くのは貴様らの役割だ。互いに天秤の先の錘を見据え、戦おうではないか」
 そこまで流れるように言ってみせてから、一瞬だけ商人は瞳に憂愁を滲ませた。

「それが、強く気高いあの方への弔いだ」

 眩暈を覚えてテリウスはこめかみに指を這わせる。抱いた息子の息遣いが、とても近い。人のざわめきが耳をかき鳴らす。数多の命が密集しているためだ。人はそこにいるだけで、重みを持つ。想いは空間を歪ませ、時すら超えるというのだろうか。
 ああ、きっとそうだ。
 悲しく愛しい、それは事実だ。
「あなた!」
 人ごみを掻き分け掻き分け、折れてしまいそうな女人が駆けてくる。その瞳に涙を溜めて。
「クロエラ」
 飛び込んできた妻を迎えたとき、胸には確かな痛みが走った。
 何故、自分は生まれてきてしまったのか。永遠の命題に魂は苦しんだ。生まれてこなければ良かった。そう泣いた夜もあった。しかし世界はテリウスを飲み込んで、力強い。こうしてテリウスが妻を愛するのと同じこと。
 テリウスが憎まれる以上に、テリウスが母を憎む以上に、母は世界に愛されていたのだ。

 妻子を伴って立ち尽くすテリウスに、ニヤと笑ってモルダーは踵を返す。既に群集は横暴だ職権乱用だと総督への不満が飛び交う集会になりつつある。
「何事だ! ええい、静まれ。静まらんか!」
 輿に乗った総督が血相を変えてやってくると、彼は獲物を見つけたように目を輝かせた。
「さて、あの方の得意技でもかましてやるとするか。見ているが良い、テリウス。この都市は鋼のクレッゼンタを忘れはせぬ」
 人ごみにまみれて揺れる豪奢な輿にしがみ付き、総督は唾を飛ばす。
「首謀者は何処だ!! 勝手な集会の開催はあれほど禁じ――」
「総督!」
「お助け下さい、総督!」
 にゅっと伸びた二本の手が、金糸を縫いこんだ総督の上衣を掴んだ。目を剥いてその不敬を咎めようとした総督の体が傾く。反対側から別の商人が輿に上半身を乗り上げたのだ。
「助けて下さい総督! 私はもう耐えられません、反対側の店屋の主がパコパコの実を売るばかりに匂いがうちの商品にまで移っちまうんでさあ。パコパコの実の売買を取り締まる法律を作ってくだせえ!」
「な、なんだお前は! そんな馬鹿げた法律」
「総督さまーっ! 私の話を聞いて下さい、まずは穀物です! 穀物の取引に手を加えてくださいよ、一部の商会に買い叩かれちゃって価格は吊り上り私たちの首まで吊り上りそうなんですーっ」
「ぐえっ!?」
 前方から更に衣服を引っ張られて首が絞まりそうになる総督である。
「その前に税金です総督! 贅沢品税二割は分かりますが、属性税分はもうちょっとどうにかなりませんか!? ほら人助けだと思って」
「いや奴隷の管理が先です総督! 奴隷商人の奴ら無茶苦茶暴利貪ってますぜ!? 総督はそんな不正許しませんよね許さないんですよね!?」
「総督、うちで犬が生まれたんですけど一匹銀貨一枚で如何っすか!? 茶色と白の可愛いブチなんすけど!」
 商人によって一斉に群がられた総督は沈没寸前の船にしがみ付くかのよう。造営官も衛兵も、あまりのことに呆然と立ち尽くしている。血走った目をした商人たちへ、恐怖と畏敬の視線を送る者までいる始末。

 二つの河が出合う都市にはその昔、鋼の二つ名で呼ばれた女があった。
 横暴を振るう貴族たちの間に分け入った彼女は、彼らに幾度となく民の保護を求めたのだという。それも今見ているような強引な方法で。一人や二人の懇願なら突っぱねることもできる筈が、大軍のように押し寄せられては首を縦に振らざるをえないというもの。ある貴族はぽつりと漏らしたものだ。私たちは何時の間にやら、奴隷のように民衆へ奉仕しているものだ、と。
「……なんとも、まあ」
 大混乱の会堂前を遠巻きに眺めながら、フィランは口の端をぴくぴくさせていた。これはもう叛乱の域に達してはいないだろうか。
「中々良い眺めではないか」
 腕を組んだギルグランスは気持ち良さそうに風に吹かれている。すると後ろから大柄な男がのっそりと姿を現した。当主は振り向きもせずに短く声をかける。
「ご苦労」
「……簡単にいってくれるよ、相変わらず」
 疲れた面持ちをさすりながら、オーヴィンは頭を振った。彼は近くの屋根に弓を持って潜んでいたのである。造営官の凶刃を矢で止めたのは、ベルナーデ当主の機転とオーヴィンの技量によるものだったのだ。ちなみにテリウスの屋敷に飛び込んでこの騒ぎを伝え、妻子をおびき出したのはジャドの俊足の賜物だ。本人はフィランの隣でへたりこんでいる。ベルナーデ家の当主は何処までも人使いが荒いのだ。
「それにしたって、よく商人たちも動きましたね。これもマダム・クレーゼの威光ってやつですか?」
 ギルグランスはそれを聞いて薄く笑った。
「何笑ってるんです」
 腕を組んで唇の端を持ち上げているギルグランスを、フィランは訝しげに見上げた。悪戯を成功させた子供のように、当主はにやにやと笑みを絶やさない。
「マダム・クレーゼの威光、か」
「はい? だってこの人たち、あの人の顔を立てるために来てくれたんでしょう?」
 そうさせるための切り札として、当主はクレーゼをティシュメに連れてきた筈なのだ。すると当主は音律豊かな笑い声をあげた。目前では、未だ祭りのような狂騒が続いている。
「さて、もう一仕事だ」
 この分では午後の大会議は中止だろう。混乱の収拾には暫くかかるに違いない。
「行こうか。マダム・クレーゼ」
 耳に届いた瞬間、唐突に背筋を触られたような心地がし、振り向いたフィランの瞳が弾けた。
 何時の間にそこにいたのだろう。日向に立つギルグランスの数歩後ろ、建物の影。そこに、結い髪も美しい老女が一人、静かに佇んでいたのであった。


 ***


 華奢な黄金の鎖をたゆませ、涙の形をした真珠が揺れている。美しい首飾りだ。一粒の真珠以外に過多な飾りのないところが逆に凝らされた意匠と見えて、楚々とした輝きはまるで人の想いを秘めたよう。
 幼い眼が呼吸を忘れたようにそれを凝視している。七色の色彩は瞬きをするたびに形を変えて大きな瞳に映り込み、そのたびに二人の子供は魅入られたかのように小さく声を漏らすのだった。
「とうさま。ねえとうさま、とってもきれい!」
 やっとのことで屋敷に戻ったテリウスは愕然としたものだ。先に返した息子を含めた二人の子供たちが、各々真珠の首飾りを陽光に翳して遊んでいたのだから。
 本来会議が終わったら贈ろうと思っていた首飾りだ。勝手に棚から出してしまったのかと思って問うと、子供たちの答えは要領を得ない。
「おじちゃんが来て」
「くれたの、どうぞって」
「受け取ったのはハンナよ」
「クルズも見た。まっくろなおじちゃん、犬みたいだった」
「とうさまとかあさまにもひとつあげる。大丈夫、ハンナとクルズのはあるんだから」
 娘に無邪気に首飾りを差し出されて、これでは立場が逆だ。
「あなた、これは……?」
 困惑顔の妻を横に、どう説明したものかと窮するテリウスである。昨日からの出来事で疲労にねばつく思考は、彼に怜悧なひらめきを与えてはくれない。息子のクルズはすっかり真珠の輝きに魅せられて座り込んでいるし、姉のハンナは両親に喜んで貰おうと精一杯だ。
「……」
 テリウスはゆっくりと膝をついて、娘から首飾りを受け取る。繊細な手触りのそれは、握れば脆く砕けてしまいそうなほど。世界の片隅に残された本物の輝きにも見えて、娘に礼を言ってからテリウスは立ち上がった。
 そのまま妻の首に腕を回し、後ろで首飾りの止め具をひっかけてやる。
「あなた?」
 不器用な手先では金具を留めるのに酷く時間がかかってしまったが、妻が自ら指を添えて手伝ってくれた。
 体を離し、胸元に収まった首飾りを眺める。当惑する妻に、テリウスは吐息をつくように言った。
「案ずるな。天界におわす神が授けたのだろう」
 きっとそれは、あまりに自分に似合わぬ言動で。驚いた顔をする妻を、真っ直ぐに見ることが出来ない。神を敬わぬテリウスではなかったが、心の中ではその存在を疎んじていた。この国の神々は人が正しく生きたからといって、必ずしも幸を注ぐわけではないのだから。
 しかしそれが真理なのかもしれなかった。凝り固まった己の正義を押し通せば、悲劇を免れえぬこともある。あのとき無理に商人たちを追い払っていたらどうなったろう。全てを奪われて虚無に打ちひしがれ、また誰かを憎んで生き続けることになったかもしれない。
 酷く疲れていた。真珠の首飾りを渡すための言葉をあれだけ考えたというのに、それらは端からみるみる消えていく。しかし、守るべきものがそこにある。愛する者がいるということは、誇らしいことだ。
 テリウスは封じられた疑念に、そうして手を伸ばした。
 母も、愛するものがあるその誇りを、きっと押し通したのではないかと。

 明るい陽光が降り注ぐ。境界がぼやけ、幻想すら見えるのではないかと思うほど。
 老女が立っていた。不意に吹き込む優しい風のように。テリウスは初めそれを、幻と信じ込んだ。列柱の向こうから静々と歩いてくる、背筋の伸びた女人の姿を。
 まるで己が庭を闊歩するような足取りで、老女は少し離れた場所に立ち止まった。手の中の真珠から目を離した子供たちが、不思議そうに首を傾げる。
「かあさま、あの方はだあれ?」
 賢い姉のハンナが先に問うた。妻は眉を曇らせて、こちらに頼る視線を向けてくる。それで幻でないことを認識したテリウスは、今度こそ言葉を見失った。
 美しく結われた後ろ髪。前で淑やかに重ねられた手首の細さ。立ち姿一つ見ても、衆目を集めずにはいられない。老いて尚、凛然とした品を忘れぬ佇まい。
 その口元が綻び、笑う。とても寂しげなそれは、まるで今の距離が精一杯だというよう。
「逞しくなりましたね」
 声は、耳を介さずに直接心に響き渡るようだった。老女は言葉を選ぶように瞼を伏せ、そして開く。
「一つ、言っておくわ。私は何もしていません。貴方を助けたものと会話することも、ましてや何かを乞うことも。私はただ、見ていただけ」
 穏やかだが空気によく馴染む音色は、静かに人の心に訴えかける。鋼のように透徹なその意志を。
「貴方は自力でこの空間を勝ち取ったのだということを、忘れないで。そしてこれからも、己が誇りに賭けて生きなさい」
 自分が立っていることが信じられなかった。陽の袂でこちらを向く老女の眼差しに貫かれたように、テリウスは呆然としている。妻のクロエラが、不審げな目線を老女に向けた。すると老女はにっこりと笑う。邪気のない表情を見せられて、クロエラは思わずといったように頭を垂れた。誰に強制されたわけでもなく、目の前の老女の懐の広さを空気で感じ取ったのだ。
 老女は不思議そうに座り込み、あるいは母にしがみ付く子供たちを見て、目を細めた。そして彼らの持つ真珠の首飾りを瞳に映し、吐息を漏らす。しかしそれも僅か、毅然と踵を返す。影から生まれたものが、影に帰っていくように。
 テリウスの呪縛が、刹那の間に解き放たれた。
「――母上っ!」

 それはとても晴れた日だ。
 真珠は、人の涙。人の想いの形。
 婚礼の折、葬儀の折。人が交わるそのときに、だから真珠を身に着けるのだと。
 そう微笑みながら語ってくれたあの人が、無言で背中を見せた。

 そう、それは今日のように晴れた日だ。
 愛する者を舞台に置き去りにした、その想いの形を何と名付けよう。
 けれど、あの日、あの時。あの人が今と同じように一言でも紡いでいたなら、きっとテリウスは気付いたに違いない。彼女の想いに名をつけたに違いない。

「幸せになりなさい、テル」

 ――もしも、震えて掠れて、今にも泣き出しそうなその声を聞いていたなら。




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