-黄金の庭に告ぐ-
<第一部>5話:貴族はつらいよ

07.人の涙



 ――さて、何故このようなことになったのだろう。

「れ、レティオ様」
「……」
 レティオは、成人したばかりの若い掌に書簡を握り締めたまま、呆然としていた。その書簡の差出人は彼の敬愛する叔父ギルグランスである。夜明けと共に届いた書簡には、一言、簡潔にこう書いてあった。

『任せた』

 書簡を受け渡したセーヴェは、何もかもを悟った顔で瞑目している。その額に薄っすらと青筋が浮いているのに気付けるのは、息子のピートとギルグランス当人くらいなものだろう。
 各地から集まった貴族専用の宿舎では、他の貴族たちが登院の準備をする音で賑わいでいる。壁の向こうから馬や人の物音が聞こえてくる中、ベルナーデ家の部屋は重たい沈黙に包まれていた。
 有体に言えば、当主ギルグランスその人が、夜中に出ていったまま帰ってこないのである。
「い……如何されますか」
 隣から奴隷のピートが遠慮がちに聞いてくる。
 ――分かっている。分かっているのだ。叔父の遠大な思慮は、いつだって事の本質を見抜いており、今も最大の利を求めて奔走しているに違いないのだ。故に。故に、成人したばかりのレティオが一人で大会議に放り込まれることだって、十分にありうる話で――。
 フィランがその場にいれば「ないですよ」と冷静に言い放ったであろうが、生憎彼も叔父に付き添ってこの場にいない。レティオは生まれて初めて出会う恐怖に青褪めていた。叔父の後ろ盾なく、ベルナーデ家の代表として一人立つなど、考えも及ばない世界である。
「レティオ様。お辛ければ、本日は病欠として休まれても問題はありますまい」
 はっとして顔をあげると、セーヴェの老成した顔がこちらをひたと見つめていた。それは、今のレティオには魅力的すぎる提案であった。
 しかし、レティオは反射的に答えていた。
「いや。行く」
「レティオ様」
 ピートが驚きを込めて名を呼んでくる。レティオは叔父の書簡を握り締めたまま、セーヴェを正面に見据えて言った。
「この混乱した時に、家の両名が登院しなければ、流石に怪しまれるだろう。私だけでも行かなくては」
「よろしいのですな」
 セーヴェは幼さを残した橙色の瞳を見下ろし、一度だけ質した。そしてレティオが低い返事と共に頷くと、少しだけその眉をやわらかく動かした。
「ピート。馬車の用意を」
「は、はい。セーヴェ様」
 親子であろうと奴隷の間では名前を呼ぶしきたりになっている。ピートは頬を青褪めさせながらも、部屋を出ていった。レティオは剣を抜き払ったかのごとく眼を細め、後に続いた。
 体が震えるほどに鼓動が高鳴っている。この恐ろしさを、乗りこなさなければならない。叔父の期待に応えることは、彼の揺ぎ無い役割であり、――同時に、確かな喜びでもあったのだから。


 ***


 東の空では夜明けの女神が銀の御座から神々しく立ち上がっていた。雲間に差し掛けられる光は大河と山に守られた都市の瞼を優しく撫でるよう。照り輝く町並みを、フィランは今、丘から見下ろしている。
 前を行くギルグランスは目立たぬよう上衣を目深に被って顔を隠している。普段は何かと口うるさい筈が、今朝は珍しく無言だ。
 結局夜が明けるまで酒場に篭っていた当主は、休みながら待っていた配下の内、フィランだけを連れて隠密に都市を出たのであった。宿舎に残されたレティオがやや心配だが、戻ったセーヴェが状況を伝えていることだし、まああの少年なら何とかするだろう。何事も経験である、うむ。
 当主が目指すのは石切り場の脇にある拘置所であった。テリウスと接触するつもりだろうが、会って一体何をするのだろうか。商人たちとは何を話したのだろうか。疑問はいくらでも沸いたが、フィランはそれらを尋ねずにいた。こうなったら全て己の眼で見てやろうと、そんな気分だったのだ。
「何者だ」
 拘置所の入り口で、三人ほどの憲兵に立ちはだかられた。当主はにこやかに進み出て、銀貨の入った袋を彼らに握らせた。
「少々話したいことがある。何、貴様らに迷惑はかけない」
「……鐘が鳴るまでの時間なら許しましょう」
 後ろ暗い取引が成立するのを、フィランはげんなりとしながら眺めていた。流石は「金で解決できることを金で解決して何が悪い」を地でいくベルナーデ家当主である。
 石を切りだした跡に作られた洞窟に入ると、空気は一層冷たさを増す。テリウスは名家の出だけあって、入り口近くの比較的過ごしやすい牢に入れられていた。目が覚めていたらしく、こちらに気付くと注意深げに鉄格子の傍まで近寄ってくる。そしてギルグランスが上衣を頭部から剥ぎ取ると、驚いたように目を見開いた。
「――貴方は」
「夜明けの女神の名において、ベルナーデ家より心からの挨拶を。テリウス殿。時間の制約上、手短にいくがよろしいかな?」
 眉を潜めるテリウスは混乱した様子だ。当たり前だろう、顔見知りでしかないヴェルスの貴族が、突然早朝に押しかけてきたのだから。
「単刀直入に申そう。私には貴方を助けることが出来る」
 不敵な笑みを浮かべながら、ギルグランスは厳然と告げた。テリウスの瞳に驚きと喜色が一瞬浮かび、それが人の上に立つ者特有の慎重さに塗りつぶされる。
「……にわかには信じがたい話だ。ベルナーデ家のヴェギルグランス殿。何故私を助ける? 何の見返りを求めるつもりだ?」
 静かに問い返すテリウスを見て、フィランは意外な気持ちにかられた。悪夢のような一夜を過ごして憔悴しているのかと思いきや、テリウスの口調はしっかりとしている。始めて見るその顔立ちは厳しくとも凛としており、曲がらぬ意志の強さを感じさせた。いかにも己の道を一筋に生きてきたような男だ。元軍人のギルグランスを前にしても、圧倒された気配はない。
 ギルグランスは軽く笑ってかぶりを振った。
「大した見返りは求めません。私がまず求めることは、テリウス殿。貴方に頭を冷やしていただきたいのだ」
 あまりにさらりとした物言いに、テリウスの反応はやや遅れた。
「なんだと?」
「十分に分かったでしょう。敵を作り過ぎれば貴方のみならず、ご家族にも災厄を招くのだと」
 ギルグランスの低い声が、朗々と石造りの独房に響く。暫く唖然と黙っていたテリウスは、気に障った様子で眉を吊り上げた。
「貴方に私の選択を咎める権利はなかろう。私は私の正義に従い――」
「商人たちを虐げ、横暴な振る舞いすら是と認め、彼らの憎悪を買う選択を自らとったと?」
 不意に、ギルグランスのまとう空気が変わったように思えた。神の言葉を語る司祭から、剣を抜き放った戦神のように。
「理想で真実を隠すな、テリウス殿。貴方のしていることは子供と変わりない。己の絶対に縛られて、行き着く先は孤独な牢屋の中。振るう牙も爪も持たず、さあ、いつまで吼え続けるつもりか?」
「……貴様!」
 がしゃん、と格子が揺れた。テリウスがそこに掴みかかった為だ。ギルグランスはその様を面白がるように微笑んだ。傍にいたフィランですら背筋が寒くなるような、残忍で酷薄な表情だった。
「正義を振りかざすのはさぞ楽しかったろう? 己が義を布き、周囲に反発を振りまいて、復讐が叶ったとでも思っているのか。自己満足もそこまでいくと害悪だな」
 悪魔のようにせせら笑う老練の当主を見て、若き当主の頬に激情が浮かんだ。
「侮辱も大概にしろ。お前に私を詰る権利など」
 唸るような怒りを、ギルグランスは醒めた口調で遮った。

「そんなに自分を捨てた母が恋しいのか」

 時が止まったかのようだった。テリウスが愕然と口を開き、しかしそれは空気を食むだけ。フィランの顔にも衝撃が走ったが、既に情報を得ている彼はゆっくりと真実を胸に落とした。
 ああ、このオルティア家の男は。
「――な」
「どうした。打ちひしがれて哀れみでも誘うか」
 あの、老女の。
「……違う」
「何が違う? また都合よく考えるのか。現実から目を逸らして悲劇の息子を演じるつもりか!」
 たった一人の――。
「ぅぁ……」
 悲鳴とも嗚咽ともつかない声で、テリウスが呻く。反論せねばなるまいに、恐怖に震える喉は一向に言葉を振り絞る様子がない。
 ギルグランスはそれを透徹な眼差しで見下ろした。憐憫でも憤怒でもない、一個の人としての横顔。フィランはそこに見る。膝をつくことも、目を背けることすら許さぬ厳然とした表情。それは屈することなく、逃げることなく生きてきたが故の鮮烈な輝きだ。常人から見れば、目を焼かれかねないほどの。
「テリウス、よく聞くが良い。商家よりオルティア家に嫁いだ貴様の母はただの一度も貴様を裏切っていない」
「何を……知っているんだ」
 いつの間にかギルグランスの口調から余計な装飾が消えていることも気付かず、テリウスは問い返す。鉄格子に手をかけ、崩れ落ちそうになりながらも弱々しく抵抗する。その横顔を見て、フィランはあの老女によく似ていると思った。否、横顔だけではない。彼がまとう凛然とした空気、振る舞い、そして曲げられぬ生き方。悲しい程に、親子は似通っているのだ。
「考えたことがあるか、あの頃のことを。商会長であった父が倒れ、後ろ盾を失った彼女はそのまま立ち続けることも出来た。しかし貴様の父親は何を考えたと思う」
「……」
「貴様の父親にとって、彼女は優秀に過ぎたのだ。彼女の力を恐れたが故に、貴様もろとも抹殺し、商家を押さえ込もうとした。貴様が望む、貴族だけが支配する世界に戻そうとしたのだ。――そのとき、貴様が人質に取られたことなど、貴様は覚えていないだろうがな」
 テリウスの唇が、微かに震えた。ギルグランスは構わずに淡々と続ける。
「故に彼女は貴様を生かすことを引き換えに、自ら身を引いた。そしてその後も裏切ろうとする貴族の勢力を分散させて貴様を守ったのは、彼女を慕う商家の男たちだ。優秀な商人がそんなことにかまけている間に、彼女の一家も没落してしまったがな」
 フィランはそれを聞いて瞑目した。そうだったのだ。当主の言った通り、クレーゼは選択を迫られたとき、自らの誇りよりも愛する者を選んだ。
 愛する者とは、たった一人の息子だったのだ。
 後にフィランは聞くことになる。取引をした彼女は、息子を残して都市を出た。しかし英雄の存在を疎ましく思っていた一部の貴族は、彼女を生かしておく気などなかった。その情報を逸早く聞いた屋敷の庭師が彼女を追いかけ、追っ手からその身を守ったのだという。女好きで調子の良い小柄な庭師。彼はそのまま、女を守り続けている。何十年も経った、今でさえ。
「嘘だ。貴様がそれを知っているわけがない」
「哀れだな、テリウス。自らの血を否定する者ほど哀れな人種はおらぬ」
「黙れ……っ」
「何故彼女が貴様を己の下でも商家の下でもなく、貴族の下に置いたか分かるか。その身をすり減らして都市に尽くし、志半ばに去ることとなったあの女人が貴様に託した想い、それが貴様には分かるか」
「黙れ!」
 痛々しい呼び声だとフィランは思った。彼に託された想いは余りに重過ぎる。けれど、閉ざされた理想への想いを残して背を向けねばならなかった彼女は、どんな気持ちで彼を置いていったのだろう。息子が苦しみながら生きると分かっていて、それでも彼を置いていった。その顔は、どんな色を湛えていたのだろう。
 テリウスは、それ以上の言葉を持たなかった。鉄格子を掴んだまま呼気を整えている。
「分かっているのか? このままでは貴様の妻子は奴隷に落とされる」
「……」
 項垂れた肩が僅かに震える。
「貴様を守ったものは何だ。貴様が守るものは何だ。己の矜持に何を持つ。何の為に貴様は生きるのだ」
 そこに先ほどのような攻撃性はない。ギルグランスは眼光を緩め、州都の貴族に語りかける。
「難しいことではない。暫くそこで考えていろ」
 ギルグランスは踵を返すと、ゆっくりと歩き出した。
「待ってくれ」
 格子を掴んだまま、目を合わせることも出来ずにテリウスが呼び止める。
「会ったのか、――彼女と」
 肉親と呼べぬが故に婉曲した表現を聞き、ギルグランスは足を止めた。彼が笑ったのか瞑目したのか、背を見つめるフィランに推し量ることはできない。しかし返答は不思議な音律を伴って、低く洞窟に反響した。
「許してやれ。苦しんだのは貴様だけではない」
 そのまま歩き出すように見えて、老練の当主はこんなことを呟いた。
「私は兄と妻に先立たれた。どちらも腹が立つほど出来た人間だった。その存在を恐ろしく、あるいは疎ましく思ったこともある」
 テリウスはゆっくりと顔をあげる。フィランもまた、口の端を引いて目を眇めた。広い背中に隙はなく、その立ち方にぶれはない。長年雨風に吹かれたかのような、強く頑健な当主の姿を、朝日の逆光が染めている。
「それでも私は今でも思うよ。――彼らが生きていれば、と」
 それは届かぬ思いがあることを知った音色だ。かつん、とサンダルが地を叩く。灰色の髪を靡かせ、ギルグランスは歩き出す。
 フィランは黙ってその背中に一礼してから、後を追った。テリウスはもう彼らを呼び止めなかった。


 ***


「真珠はね、人の涙と言われているのよ」
 軽やかな唇が紡ぐ言葉は、しかし何処か悲しげでもある。ヴェールを被ったその横顔に、かつての若さはない。老女は、思慮深い眼差しで朝日の中を歩いている。
 その隣で、カスケードは気遣わしげに眉を下げていた。老女には不思議と周囲の者を清廉とした心地にさせる風格があった。その足も、広い州都にあって迷うことはない。
「真珠は人の想いの結晶。だから人は大事な日に真珠を身につけるのだわ。婚儀のとき、葬儀のとき。幸せなとき、悲しいとき」
 失われた真珠の首飾りに心当たりがあると、カスケードはクレーゼに呼び出されたのである。待ち合わせ場所に辿りついたとき、彼女はヴェールに顔を隠しながら、じっと州都の町並みを見つめていた。
 そこは川沿いの貧民街であった。当然のように足を踏み入れようとするクレーゼを止めると、彼女は穏やかに笑った。
「あなたがいるから安心しているわ。腕が立つのでしょう?」
 不思議と心を鼓舞する声だった。カスケードは何かあれば担いで逃げるつもりで、クレーゼの後を追った。
 川沿いには吹けば飛ぶような木板を重ねて作られた住居が連なっている。クレーゼは足早に歩き、中ほどで足を止めた。とある住居をじっと見つめ、確信を得たようにカスケードに告げた。
「悪いけど、ここは私に任せて頂戴ね」
 クレーゼが戸を叩くと、中からデフィスが現れた。デフィスはクレーゼの後ろにいるカスケードを見た途端、ぎょっとして踵を返し、窓から逃げようとした。
「待って、デフィス」
 老女の一言に、不意にデフィスの足が止まった。貧相な室内に、ゆるゆると彼はこちらを向く。その唇が、衝撃に戦慄いている。
「……クレッゼンタ様?」
「あなたは相変わらずの暮らしね。どうしたの、そんなに怯えて」
「あ……ぅあ……!」
 瞬時にしてデフィスは地に這いつくばり、頭をこすりつけた。そのまま頭を抱えて自身に言い聞かせるように呟く。
「夢だ、これは夢だ……。こんな朝にクレッゼンタ様がいるなんて、夢に違いねえ……」
 その時クレーゼの横顔に浮かんだ寂しげな笑みに、カスケードはどう言葉をかければ良いか分からなかった。クレーゼはデフィスに近寄ると、ゆっくりと膝をついて彼の頭に触れた。
「あなたは正直者だけれど、たまに心が弱くなってしまうことがあるわね。けれど盗みはいけないことだわ。前にも私がそう言ったことを覚えてる?」
 デフィスの瞳から涙が溢れ、嗚咽が漏れた。
「辛くて悲しいことばかりだけど、きちんと前を向いて生きるの。大丈夫、あなたならきっとできるわ。だから、盗んだものを返してくれるわね?」
「へえ、へえ……!」
 夢と現実の境がつかないのか、咽び泣きながらデフィスは部屋の奥から包みを持ってきた。これまでに盗んだものの全てだろう。カスケードが探ると、真珠の首飾りも確かに入っていた。デフィスは再び顔を地につけてクレーゼを拝んだ。
「申し訳ありません、クレッゼンタ様。俺はあんたの言葉をこれまでに何度も、何度も破って……っ」
 クレーゼは瞑目すると、慈愛の女神がそうするように、優しくデフィスの頭を撫でた。
「ええ。罪は誰でも犯してしまうものなのだわ」
 カスケードは痛ましげにクレーゼを見た。予感はあったのだ。この老女に似た眼差しを、カスケードは見たことがある。そして耳にしたことがある。たったひとり先陣を切る戦の女神のように、かつて都市に凛然と立った女人の物語を。
 そして、残されたが故に孤独に生きた、一人の貴族の男の物語を。
 静かな朝日に照らされて、クレーゼは何度となくデフィスの頭を撫でた。
「だからね、繰り返してはいけない。前へ進まなければいけないのだわ」


 ***


 大会議は相変わらず総督の独壇場であった。ヴェルスに現れた腐った魔物の件について、ヴェルスの二人官が上告したが、予想通りまるで相手にされずに次の話題へと移されてしまう。他の都市の問題も同様に、エギルドの巧みな弁舌によって瞬時に捌かれていく。
 じりじりと貴族たちの動揺と焦燥が高まっていく中、レティオは嵐の中に投げ出されたような心地であった。公共工事の遅れや、凶悪な盗賊団の台頭、鉱山の開拓状況など、時間をかけて審議されるべきものばかりなのに。半円型の会堂の最前席に座るエギルドによって、それらが蛇に飲まれる卵のように消えていくのを、ただ見守るしかない。
 地方貴族たちの上告をさっさと済ませてしまうと、エギルドは立ち上がって振り向き、禍々しく口元を歪めた。
「さあ、次の審議に移ろう――と言いたいところだが、ここで私は皆に言っておくことがある」
 そう高らかに告げてから、議会の進行を賜る議員に目配せを送る。完全に主導権を奪われた議員が発言を許す合図をすると、エギルドは演説台に上って腕を掲げた。
「私がこれから話すのは他でもない。昨日捕囚されたオルティア家当主の件である」
 音が耳を打つと共に、緊張で空気が薄くなったようにすら感じられた。固唾を呑む議員たちの視線を受けて、エギルドは満足げに目を細めた。
「そう難しい顔をするでない。私とて、あれは本意ではなかった。法に従わなければならなかった私の苦悩を、どうか皆にも理解して欲しい」
 静まり返った議会に、エギルドの朗々とした声が響く。
「当主の尋問は午後からだ。私は彼の改心を期待している。ただ独断で兵を動かし民を押さえつけるだけでは、正しき君主とは言えぬことを、彼に指し示してやりたいのだ。それは皆の総意でもあろう?」
 何を考えているのだ。レティオは、体を強張らせながら続きを聞き、愕然とした。
「故に私は午後にでも彼に伝えたいと思う。――今回の法案の決議の一報を」
 耳元で空気が沸き立ち、衝撃は稲光のように議員たちの背筋を駆け抜けた。提案されてから一日で決議される法案など聞いたことがない。
 これには、各都市の議員が中心となって一気に反発の声があがった。
「あまりに強引ではないですか。何の統制もとれぬまま適用されることになります」
「左様です、これでは議会の意味がありません!」
「静粛に、静粛に!」
 進行役が槌を叩きながら呼びかけるが、彼らの声は止まらない。しかし、不気味な沈黙を守る総督の姿に、次第に罵声の波も引いていく。
「皆の者の気持ちは、よく理解している」
 静まった議会の中で、エギルドは厳かに告げた。
「だが、皇帝が崩御した今だからこそ、我々は団結し、民を正しき方向に導かねばならぬ。州の有様を見よ! 正しく導かれぬばかりに、民は思い思いに生き、貧富の差が広がり、多くの者は明日を不安がっている。我々は民を統べる者としてまずは意思を示さねばならないのだ。我らこそが導き手であるという、その意思を!」
 それが虚飾に彩られた詭弁であることを、その場の議員の半数は理解していた。だが、楯突けば確実にテリウスと同じ末路を辿ることになることも、同時に理解していた。
 彼らが反発を喉の奥に飲み込もうとしたその時、少年の声が重苦しい沈黙を打ち砕いた。

「私は反対します」

 総督に向けられていた視線の数々が、議員席の一つに集まった。


 我慢がならなかった、というのがレティオの本当のところである。冷徹に様子を見ていた方が得策だったかもしれない。そんなことがちらりと脳裏を過ぎったが、時間は巻き戻ることがない。
「これは、『あの』ヴェラムボルトのご子息ではありませんか。どうされました?」
 耳に障る声で父の名を強調され、子猫を見るような目を向けられる。怯みそうになったが、表情が外に出ない性質が幸いした。レティオは長衣の重圧に潰されそうになりながらも、はっきりと口を開いた。
「増税には反対します。いくら豊かな商人から税をとるといえど、早計に進めれば商人の格差が一層大きくなります」
「ほう。中々どうして賢い意見ですな。しかし、あなたはまだお若いようだ。この混乱の中、我が州の財政は決して思わしくない。負債はどう埋めていくというのですか?」
 ひんやりとした空気が首筋を流れるのを、レティオは感じた。
「……私たち貴族が、その財を差し出せば良いでしょう」
「素晴らしい心がけだ、ベルナーデ家の若き貴族殿。しかし、己の権利ばかりを主張する民に餌ばかりちらつかせては逆効果ですぞ」
「言っていることは分かる。だがまず変わるべきは私たちだ。接待にばかり金を使い、毎晩のように饗宴に溺れるような貴族を、民は決して慕わない」
 瞬間、弾けたように総督は笑い出した。
「なんと豪胆な! 気に入りましたよ、貴方は真に清い心をお持ちである。父親が赤き獅子であれば、貴方はまるで白妙の毛皮を持つ銀狐だ」
 不快感に内心で眉を潜めるレティオに、エギルドは醜悪なまでに唇を歪めてみせた。そして、腕を軽く持ち上げて会堂を見渡した。
「しかし見なさい。この地に生きる人々の多様な様を。民の導き手である我々は、彼らに呑まれぬよう、強き狼でなければならないのです。その為には、時に牙を剥かねばならぬ」
「民を押さえつけることも、時には必要であると?」
「そう理解していただいて結構。民は己の保全しか考えない。それでいて民は自らの権利を主張したがる。故に我々は、時に鞭を以って彼らと対峙せねばならぬのです」
 レティオは唇を引き結んだ。彼が学んだ弁論術では、とても敵いそうにない相手だ。だが、心の奥底に雫が落ちるように、彼は顔を上げて返していた。
「……貴方は民を信用しないのですか」
 レティオの声は小さくとも、低く会堂に響いた。それは余計な修飾を含まぬ、純粋な思い。だからこそ、人の心を打つこともある。
「民とは迷える羊のようなものです。彼らが誤った方向に進もうとするなら、叱りつけるのは我々の役目でしょう?」
 レティオは鮮やかな橙色の瞳を細めた。――馬の師の言葉が、胸に蘇った。
 それが、一振りの剣にも似た理を以って彼の口を開かせた。
「私たちが民を信じなくてどうする。相手を信用しないものは、相手にも信用されないだろう。民は羊などではない、民は人間だ!」
 朗々と放たれた言葉は、議会の天井に反響し、そして初めて総督が回答に窮したように頬を歪めた。
 灯り窓から注ぐ陽光を受けながら、レティオははっきりと結んだ。
「私たちから搾り取るならまだしも、民から搾り取る提案を早急に決議するなど、賛同できない。私は反対する」


 ***


「見事でした、レティオ様」
 会堂から出た途端、奴隷のピートが感極まったように言う。しかしその賞賛を、レティオは仏頂面で受け止めた。
「言いたいことを言っただけだ。あれで伝わったかどうか」
「少なくとも足止めが出来たのは事実です。ベルナーデ家らしい答弁であったかと」
 セーヴェが冷静な口調で言うと、レティオは短く頷いた。
「ひとまず今日は乗り切ったということか」
 あの後、他の貴族たちの意見もあって、可決されかけた総督の法案の議論は、明日の会議に持ち越されたのである。レティオの功績は、誰の目にも明らかだった。
 しかしレティオは総督の眼に刃のような光が宿ったことに気付いていた。これで総督を完全に敵に回したことになる。下手をすれば自分と叔父も、テリウスの二の舞となるであろう。
「一々気にしていても仕方ない」
 口の中で呟いて、拳を握る。そう、帝国人として身を立てるため、こんなところで挫けているわけにはいかない。誰よりも強くならねば。
「れ、レティオ様!」
 レティオはピートに顔を向けた。午後の議会開始までの僅かな時間、外の空気を吸うために多くの議員が散らばって会話や休憩をしている。そんな彼らの目線は、等しくピートと同じ方向を向いていた。
「テリウスです」
 セーヴェが短く事実を告げる。会堂前の階段の元に、後ろ手に縛られたテリウスが造営官に囲まれて歩かされている。午後の公判のために連れてこられたのだろう。
 しかし、それ以上に驚くべき光景が目の前に広がっていた。
 会堂正面、裁判所への入り口の近くに出来た人だかり。
 青々とした空が広がっている。二つの河が出合う都市、州都ティシュメ。雷に打たれたように立ちすくむレティオの眼下で、テリウスの前に数十名の商人たちが立ちはだかっていた。




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