-黄金の庭に告ぐ-
<第一部>5話:貴族はつらいよ

06.正義のチンピラ



 まるで同じ都市とは思えない夜の静けさは、不穏な緊張に満ちている。フィランは唇を引き結んで、闇に沈む州都の有様を瞳に映した。
 上衣で顔を隠したギルグランスが進む道を、セーヴェが灯りを持って照らしている。そんな主人の周りを守るように追従する配下たちは、武装しながらも軽口を叩くのを忘れない。
「今日はどの店も商売あがったりだろうなあ」
「けっ。肝の小せぇ奴らだぜ」
 昨晩の一件のために、娯楽を提供する店は軒並み門戸を閉ざしているのだ。帝国内での出来事とは思えぬ提案が総督から為されたことも人々の不安を煽ったのか、乾いた夜道に人気はない。
「造営官たちはすっかり総督の手下のようでしたからね。この都市は今、総督の手中ということでしょう」
「んん。とっととおさらばしたいもんだ」
「安心しろ。これから好きなだけ楽しませてやる」
 素直な感想を告げたオーヴィンは、前を行く当主のにこやかな言を聞いて、がっくりと肩を落とした。
「それにしたって、いい加減教えてくださいよ。一体何処へ行くんです?」
「どこだって構わねぇよ。襲われたらブチのめす、オレたちの仕事はそれだけだろ」
「あのですね、ジャド。僕はチンピラになったつもりはないですよ」
「いや。今宵はチンピラで構わぬ」
「はい?」
 眉を潜めたフィランに、ギルグランスは僅かに振り向き、口角を吊り上げた。当たり前のように追従する配下たちの中、フィランはますます混乱するばかりだ。
「あの、どういうことですか」
「親父が探してるのは商人だよ」
 のんびりとした口調で代わりに答えるオーヴィンに、フィランは首を傾げた。
「商人なんてこの都市には溢れ返るほどいるでしょう」
「こんなことになった日に、やっこさんたちが悠長に家で酒を飲んでると思うか?」
「それだって、大会議中は集会が禁止されてることくらい彼らも知っているでしょう」
「そんな淑やかなお嬢さんばっかだと嬉しいんだけどねえ」
「……まさか」
 静かに歩いていく当主の先に、灯火が見えた。奴隷の女が、頼りなげに道端に立ち尽くしている。彼女はギルグランスを見つけると、安堵した様子で近付いてきた。
「お待ちしておりました。こちらでございます」
 手を差し向ける先には、闇に沈む建物がひっそりと佇んでいる。看板は闇夜に溶けており、見るからに休業中の様子だ。しかし、そっと扉を開いた先には、着飾った貴婦人が座して待っていた。
「少し遅いのではなくて?」
 居丈高に呼びかけた貴婦人は、同時に蠱惑的な眼差しをギルグランスに注ぐ。何ですかこれは、とフィランの無言の問いかけを無視して、ギルグランスは微笑みながら言い放った。
「貴様らは待っていろ」
 ばたん、と締め出された配下たちは、ある者は肩を竦め、ある者はケッと鼻を鳴らし、そしてある者は手を伸ばしかけた姿勢のまま、固まるしかない。
 そして数刻後、ギルグランスが堂々と女の腰に手を回して出てきても、もう誰も驚かなかった。
「一人で帰れるか?」
「見くびられたものだわ。わたくしを子供だと思っているの?」
「そう強がるところも魅力的だが。火遊びも程々になされよ、夫人」
「まあ」
 着飾った貴婦人は肉付きの良い頬に手をやって、蠱惑的に笑った。
「今宵は助かった。心からの礼を言おう」
「わたくしに出来ることなら、何でも言って頂戴」
「ああ。頼りにしている」
 こめかみに口付けを受けた貴婦人は、何度も声をかけながら名残惜しそうに輿に乗って去っていった。
 その姿が見えなくなると、フィランは静かに当主に問うた。
「……ご当主。ひとつ聞いてもいいですか」
「なんだ?」
「今の婦人は、誰です?」
「総督の夫人だ」
「あなたに節操という概念はないのですか」
「美しい蝶と戯れて何が問題だというのだ」
 優雅に外衣を羽織ったギルグランスは、無人の通りを見据えて不敵に笑った。フィランは顔を手で覆うしかない。
「で、集会場の目星はついたんだな?」
 セーヴェが灯りの下に広げた地図を覗き込みながらオーヴィンが問うと、当主は笑った。世界の理を司る神々でさえ羨むほどに、愉しげに。

「総督の狙いも目星がついた。さて、蝶の齎した情報を、最大限活用しなくてはな」


 ***


 人の心を愉しませる優美な酒も、今やその効力を忘れたように杯の中にたゆたうばかりであった。重苦しい空気の漂う酒場の息苦しさは、地下であることのみに帰結するとはとても言えない。数多の視線を受けて、ダグはもう一度熱弁を繰り返した。
「今こそが千載一遇の好機です。どうかご一考を」
「総督殿は、我々にはあくまで静観を貫けと言うのだな?」
 最も奥の席に杖を手に座した老人が、猫のような眼差しでダグに問い質す。老人はこの都市で最も勢力の大きい商会の長モルダーであった。元々は何の権力も持たぬ一介の商人であったが、その才気に魅せられた多くの者を従えて、今この座に就いている。幾重の修羅を越えたその発言力に気圧され、ダグは汗を拭いながら頷いた。この商会長モルダーが総督の提案に表立って反対することは目に見えていた。今日の人目を忍んだ集まりも、反旗を翻すための会議の場であったのだ。故にダグは熱弁を奮って説得せねばならなかったのだ。
「はい。だから今回の法案にも逆らわずに従ってください。総督は相応の態度で報いると約束しているのです」
「しかし、総督など三年もすれば変わってしまおう。後に残るのは腐った政治の残骸のみ。後任者が腐敗を我々ごと切捨てぬと誰が約束できる?」
「この都市に真面目な統率者が派遣されてきたことなど今までにありますか」
 僅かに商会長が押されたのを見て、ダグは腕を広げて続けた。
「新たな総督に代わろうと、踏襲するも良し、傀儡にするも良し。この都市の主は我々商人。手綱は商人が握るのです」
 それは総督の思惑に従ったとはいえ、ダグの本意でもあった。ダグは見返してやりたかったのだ。我が物顔で実権を取り続ける貴族は、自らを棚に上げて金を卑しいものと見下し、商人を下等に扱う。ならば、彼らが甘い顔をする限りはこれに従い、着々と力をつければ良い。いつか、立場の逆転によって彼らを嘲笑えるように。
 モルダーは杖に手を載せたまま、暫くダグを見つめていた。そして、――肩を落とし、ダグの予想とは異なる回答を紡ぎだす。
「……それは、一部の商人のみが利を手にする世界だな」
「何を弱気になっているのですか! それこそが商人の本質ではありませんか」
 ダグが思わず反論すると、周りの若い商人たちも口々に発言した。
「そうです、商会長。頭を使い好機を逃さず、より利のある地盤を固めることこそ我らの本懐。私はダグの提案は悪くないと思います」
「私も賛成です。確かに他の商人には悪事に見えましょう。しかしここで我らが力をつければ、総督に対抗することも出来ます」
「他の商人も気付かれないように救ってやれば良いのです。あの総督は慢心が過ぎる、必ず隙はある筈だ」
 にわかに空気が熱を持ち、活発な意見が取り交わされる。それは一時、収集がつかなくなるかとも思われたが、モルダーを初め、古参の商人たちが巌のように沈黙を保っているがために、次第に静寂に覆われていく。
 それを破ったのは、ダグの静かな声だった。
「もう、クレッゼンタ様の時代は終わったのです」
ざわり、と空気が音もなく沸き立った。モルダーの取り巻きの何人かが目の色を変え、ダグを睨み据えた。
「ダグ、無礼もその程度にしろ」
「無礼ではありません。事実ではありませんか」
 僅かに震えながらも、ダグは最後まで言い切った。それは、場合によっては殺されても文句の言えない禁忌の呪文であった。しかし、古参の商人たちは気付く。この場で孤立しているはずのダグと共に、多くの若者たちがこちらを見つめていることに。
「クレッゼンタ様が失踪されてからの混乱を鎮めたのは、商会長、確かにあなたです。そして我々はあなたの指示の元、クレッゼンタ様の意思を継いで、貴族と向き合いました。常に敬意を払って頭を下げ、貴族の言葉に従い、悩めることがあれば彼らを頼り、彼らを主として信じましたとも」
 ふるりと拳が震える。握り締めてきた苦悩を、ダグは同胞に向けて打ち放った。
「しかし貴族どもは何を以って我らに報いたのですか! 奴らがこれまでにいくつ我々に不利な提案を議決したか知っているでしょう。奴らは際限なく我々から奪おうとする!」
「ダグの言う通りです。特にオルティア家のテリウスのやり方に私は我慢がなりません」
 堰を切ったように、若者が机を叩いて声を張り上げた。
「いくら商会長のお達しといえ、あれを黙認するのは限界です。たかが景観を損ねる、風紀が乱れるなんて理由で何人の同胞が売り場を失い路頭に迷ったか! それでも商会長は黙っていろと言うのですか。私はあの男の正義ぶった顔を見るだけで虫唾が走る!」
「おい、言いすぎだぞ!」
「言いすぎなものか。ここにいる大半は同じ思いだろうさ。もう媚び諂うのも限界なんだ、綺麗ぶったテリウスも腐った貴族共も! 違うか!?」
 投げかけられた問いに、集まった数十人の商人たちが互いに顔を見合わせる。けれど、誰もが心の何処かで疑念を抱えているのは確かだった。そして鋼のクレッゼンタと呼ばれた伝説をその目で見ていない若者たちを中心として、今のやり方に疑問が広がっていることも。
「総督がテリウスを捕らえたのは僥倖だ。このまま処分して貰えばいい、その分の返礼として今回の提案を呑もうじゃないか。奴らが狡猾であるなら、私たちはもっと狡猾であればいい!」
「言いたいことはそれだけか、若造」
 低く落ち着いた声であった。それでいて、幾多の年月を重ねた声は全員の耳を打った。熱弁を奮っていた商人は鞭で打たれたかのように固まり、場の空気は再び静寂の内に戻る。
 集まった者々を見回した商会長モルダーは、一重の隙もない佇まいで続けた。
「確かに今回の件を呑めば我々は救われよう。しかし他の商会はどうなる」
「で、ですから、喰うか喰われるかというこの世界で他人の心配など……」
「理を学びなおせ、小童が。一部の者が利を得るのは成程世の倣いであろう。だが、全ての者に契機は齎されるべきだ。この世は公平でなくとも、公正でなければならぬ」
「しかし、テリウスをこのまま見過ごせというのですか」
「そうです、商会長。総督は我々が従わない場合は、テリウスを保釈しかねません。そうなれば元の木阿弥です」
「それで構わぬ」
 モルダーは、ダグの必死の弁明をそよ風のように受け流す。
「テリウスもやりすぎたが、今回の件で十分に懲りるだろう。むしろ腐った貴族どもとやりあうには、奴の力が必要だ」
「なんと気弱な」
「気弱なのは貴様らだ。無闇に刃を振るうのではなく、毅然と立ち向かう術を知ることだ」
 ダグを初めとした者々は、反論できずに唇を噛み締めた。しかしダグだけは、鼻に皺を寄せて体を震わせていたが、不意に息を吐いた。
「商会長、分かってください」
 その声音に一種の狂気じみた震えを感じ、モルダーは僅かに眉を動かした。
「もう、選択の余地などないのです」
「――どういうことだ?」
 ダグの額に汗が浮いている。その頬に凄絶な笑みを浮かべ、ダグは卓に身を乗り出した。
「外には造営官たちが集まっています。大会議中の勝手な集会は大罪に値します、――乗り込んでくる理由には事欠きません」
「ダグ、――貴様」
 ぎらりと鋭利な光がモルダーの瞳に輝く。商人たちが息を呑み、選択を迫るダグを見つめる。うだつの上がらぬ気弱な商人に、まさかそんな脅しが出来ると思っていなかったのだ。
「つまらん正義ごっこは終わりです。我々は変わる必要がある。強者になるのです。これまで虐げられてきた分を、今こそ取り戻すのです!」
 張り詰めた空気の中、小柄な商人と静かなる商会長の視線が重なる。
 その時であった。
「あの、ですから今日は閉店していまして」
「うるさい」
 ばりん、と破壊音が一つ。造営官の足音と勘違いした商人たちが浮き足立つ間もなく、閉ざされた扉が豪快に蹴破られた。
 濛々と立ち上る土煙の中、ゆらりと姿を現した影が、みるみる人の形を織り成す。奴隷を伴った偉丈夫である。彼は商人たちが呆然と立ち尽くす天井の低い地下の集会場の有様を眺め、重々しく感想を述べた。
「うむ。面々が揃っているようだな。私もまぜろ」
 突然の闖入者に、平然と対応できたのは商会長一人であった。
「……ヴェルスのベルナーデ家だな」
 ヴェルスのベルナーデ。その名を耳にした商人たちに驚愕が浮かぶ。辺境から実力だけで元老院議員まで出世した貴族家の武勇は、州の誉れとして子供にまで知られているのだ。
 しかしそんな傑物を前に、モルダーは一片の怖じすら見せなかった。
「余所者が、何処でこの場所を知った」
「なに、舞う蝶を追いかけていたら偶然辿り付いたまでだ」
「ここに蝶はおらぬ。別の場所を探すが良い」
 モルダーの凍えた威圧を受けたギルグランスはしかし、まるで心地よい宴会場にいるかのように呵々と笑った。
「そなたが商会長のモルダーか。まずはそなたに土産がある」
 僅かに眉を上げたモルダーに、ギルグランスはふと視線を和らげた。
「庭師からの伝言だ。――息災である故、心配なされるな、とな」
 刹那、それまで巌のような静けさに満ちていたモルダーが、稲妻を受けたかのように硬直した。がたりと椅子から立ち上がり、見開いた目にギルグランスを映す。
「き、貴様、今何と」
「それから、上の造営官どもだが。私の配下が返り討ちにする故、時間はたっぷりとある」
 ギルグランスは適当な椅子を見つけると、粗末なそれを引き寄せて、どっかりと座り込んだ。卓に肘を置いて、辺りを見回す。その堂々たる振る舞いに商人たちが口を挟めずにいるのも仕方のないことだ。彼の数々の悪名じみた伝説は、このティシュメにまで届いているのだ。特にヴェルスで悪徳を行った商人十数名をたった一人で半殺しにした話など、商人たちの間には邪神の業とまことしやかに囁かれている。何よりも、たった今目の前で、彼らの旗頭である商会長が気圧されてしまったのだ。
「そう固くなるな。別段、貴様らに特別な恨みはない。しかし不味そうな酒を飲んでいるものだな? このような集会を開いておいて、既に決心はついているだろうに」
 橙色の灯りに商会長の脂汗が光っている。
「――目的は何だ」
「うむ」
 汗ばんだモルダーの問いに対し、ギルグランスの回答はあっけらかんとしていた。

「ちょっと酒を飲みにきた」


 ***


「おかしいでしょう!?」
 長槍を素早く振るいながら、フィランは悲痛な叫びをあげた。周囲に群がる造営官どもは、吐き出される怒りに思わず一歩引いてしまう。それほどまでに目を血走らせた若者の訴えには鬼気迫るものがあったのだ。
 全ての元凶は、言うまでもなく彼を金で買い叩いた主その人である。
『この店の扉は誰も潜らせるな。それだけだ』
「それだけ! それだけって言いましたよあの人、相手は造営官ですよ造営官!? 治安を司る法の番人ですよ!? そいつと戦うとか何考えてるんですか!? ええ、僕たちに名実共に犯罪者になれと? ありえない、ありえないでしょう!?」
「きゅー!?」
 槍の石突をまともに鳩尾にくらった造営官が悲鳴をあげて昏倒する。
「こ、こんなことをして無事でいられると――」
「ハハッ、知るかよ!」
 口元に好戦的な笑みを浮かべ、目を輝かせてジャドが武装した集団に素手で踊りかかる。獣が首に食らいつくかのような動きで相手の頬を力強く殴り飛ばし、返す身のままに次の造営官を潰しにかかる。
 今や荒ぶる二人の武人によって、集まった造営官たちは完全に足止めをされていた。向かえば骨の一本二本を持っていかれることは明白で、手出しできる者がいないのだ。
 集会場の扉の前でのんびりと欠伸をしているオーヴィンに、槍を持つ赤髪の造営官が唾を飛ばしながら叫んだ。
「な、何者なのだ、貴様らは!」
「んん、――正義のチンピラ?」
 違うか、とオーヴィンが呑気に呟いた瞬間だった。風がごうと唸り、造営官たちの足元から土煙が立ち上る。突然の出来事に彼らは視界を奪われ、右往左往するばかりだ。
「ま、魔法使いか!?」
 オーヴィンは苦笑しながら手を振った。
「そうカッコよく呼ばれると恥ずかしいねえ。ここは大人しく引いておくことをオススメするよ。俺はともかく、こっちの二人は凶暴だからなあ」
「何処の手の者だ。商会か、貴族か!?」
「んん、どっちでもないよ。今日はお前さんたちが目についたから、ぶちのめしてるだけ」
「ふ……ふざけるな! 我らに渾名すは重罪ぞ!?」
「そうでしょうよだから僕は嫌なんですよ!?」
 フィランは今にも泣き出しそうだ。
 そのとき、闇の向こうから聞こえた多数の足音に、赤髪の造営官の顔に喜色が浮かんだ。増援が到着したのだ。
「我々の鉄槌に逆らえると思うな! これだけの人数には貴様らとて勝てるまい!?」
「んん。これは面倒くさそうだ」
 松明の数に、オーヴィンが欠伸交じりに呟く。合流した仲間を見た赤髪の造営官が凄惨な笑みを浮かべ、槍を振り上げようとした瞬間だった。
 踏み出しかけた足が、冥王の黒き手に捕まれたように固まった。驚愕を露にしながら、上体から前方に倒れ伏す。投げられた縄が足に巻きついたのだと、痛みの中で気付く前に、彼は仲間たちの悲鳴を聞いた。同時に頭上から石礫が降り注ぎ、造営官たちが一斉に浮き足立ったのだ。
「大丈夫か!?」
「うん?」
 オーヴィンが顔をあげると、屋根に六つの気配がある。その内の一つが真横に降り立ち、フードをあげて目を見せた。
「……」
「……」
「どちらさま?」
「お前も忘れたのか!?」
「カスケード!? あなた何でここにいるんです!?」
 間断なく注ぐ矢を避けて下がったフィランが、闖入者の正体に気付いて眼を剥く。それを聞いてオーヴィンがぽんと手を拳で叩いた。
「おお。そういえば、あの時の。元気だったか?」
「ああ、仲間とはぐれていたのだが、合流できたので駆けつけたまでだ。我々は当主殿への恩を忘れはしない」
「助かった。これで手が抜ける」
「何を呑気に会話してるんです!?」
「っしゃあ! 暴れるぜ!」
「ああもう!」
 半ばヤケクソでフィランは矢を掻い潜ろうとする造営官を槍の一閃で吹き飛ばした。鍛えた足腰から繰り出されたその一撃に、造営官は背中から壁に叩き付けられて呻き声をあげる。
「ひ、引け!」
 怯んだ造営官たちはある者は武器を投げ捨てて逃げ出し、ある者は武具を持ちながらもじりじりと後退する。武官とはいえ、国境から遥か離れた州都で民衆を相手にしている彼らと、日々実戦に明け暮れているベルナーデ家の男たちとではは、格が違うのであった。――どちらが幸せなのかは、神のみぞ知るところであるが。
「なんでここにまで来るんですか。例の真珠は見つかったんでしょうね?」
 勢いをなくした武官たちが波が引くように去っていく中、フィランは憎々しげにカスケードに囁いたが、返答を聞いて怒りを通り越して呆れ果てた。
「いや。まだ見つかっていない」
「……あの。あなたは馬鹿ですか?」
「そのようなことよりも、恩に報いる方を優先すべきだろう」
「は……」
 フィランは言い返す気力も失せて、侮蔑の吐息を口の端から押し出す。しかし前を見つめたまま、カスケードは薄く笑った。
「私はな、楽しいのだ」
 不意に夜風がふわりと舞い降りる。未だに坂の下では造営官がどうしたのかと叫んでいる。そんな狂騒を前に、カスケードはこの上なく上機嫌であった。
「明日をも知れぬ日々であることに代わりはなかろうと、こうして堂々と生きていることが、今は楽しい」
 そんなカスケードの妙に晴れ晴れとした表情は、何故だか神経を逆撫でされるように感じられた。フィランは、声を低く押さえて言い放った。
「自分の性根を弁えたらどうです。そんな生活だって、いつか終わりが来ますよ」
「ああ、終わるだろう」
 あまりにはっきりとした答えだった。カスケードは、諦観を秘めた暗い色の瞳を、しかし閉じることをせずに、横顔で笑ってみせた。
「それで構わない。だからこそ私は、せめて当主殿にいただいた命が終わるその日まで、己に恥じぬように、ただ生きてゆこう」
「……」
 この男は、大馬鹿だ、と。そう思いながらも言葉にできなかったのは、届かぬ高みを見てしまった気分になったからだ。迷うことなく、疑うことなく。そんな生き方は、優美で、甘美で、おぞましいほどに羨ましくて。
 唐突に吐き気を覚えたその時、間延びした声がフィランを現実に引き戻した。
「うおーい、フィラン。とりあえず片付いたぞー」
 造営官たちの様子を身に行っていたオーヴィンが、欠伸まじりに戻ってくる。
「ケッ。どいつもこいつもたわいねえ」
 暴れ足りないと言わんばかりに肩を鳴らすのはジャドだ。フィランはぐっと口元を引き締めて、彼らの元へ合流しようとした。
「ああ、そうだ」
 後ろのカスケードの呟きを、フィランは最後まで聞かなかった。しかしカスケードはそんな若者の機微に気付かず、聞こえていると思い込んで続けるのであった。

「真珠の件だが、ひとつ当てがあってな――」




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