-黄金の庭に告ぐ-
<第一部>5話:貴族はつらいよ

05.ティシュメにいた女



「全く、面倒なことになったものだ」
 議員用の宿舎に戻ったギルグランスは、椅子に頬杖をついて呟いた。部屋にはセーヴェとレティオ、フィランがいる。
 テリウスの捕囚と、総督の提案。これら報に驚いたのは、むしろフィランの方であった。大博打を打ちにオルティア家に向かったカスケードの行方を気にしたのだ。巻き込まれてはいないだろうか。
「レティオ。どう思う」
 当主に呼ばれた少年は、重苦しい空間を透徹な瞳に映して答えた。
「テリウスは私たち貴族への見せしめとして、大会議初日に捕らえられたのだと思います。総督に逆らえば、ああなると」
「うむ。では、増税を初めとした提案の意図はなんだ?」
「自治を重んじる地方都市への牽制、……いえ、それだけではなく」
 レティオは眼を眇め、少し考えてから、一語一語を確かめるように続けた。
「私たちの住む属州ティレイアは、政体の腐敗により貴族家が衰退し、代わりに商人の力が強くなっています。その証拠に、ヴェルスでさえ叔父上が戻るまでは例の商人の手中にあるようなものでした」
 例の商人とは、ヴェルスの富豪エウアネーモスのことである。彼はヴェルスの穀物を不当な金額で買い占めることで、多くの富を握ったのであった。
「それらを増税や取締りによって弾圧することは、確かに貧しい民を救うことになるかもしれません。しかし、商人からの反発が避けられる筈がない。ならば、裏に総督の利を生むものが、何か……」
「良い。そこまで考えられるなら上出来だ」
 日頃から勉学に励んだ甥の成果を聞き、当主は満足げに頷いた。
「まあ皇帝崩御の騒乱に乗じて無茶な法を一時的に可決させ、落ち着いた後に廃案にする魂胆だな。その間に一部の息がかかった商人だけを法案から見逃し、代わりに利益を得るといったところだろう。悪知恵ばかり働く古狸め」
 そんな狡賢い総督に突っかかることも多かったテリウスは、今回の見せしめに丁度良い生贄だったに違いない。ギルグランスは顎をさすりながら、肘掛を指で叩いた。
「しかし叔父上。我々はテリウスの助力を仰ぐ必要があります。それが不可能となった今、別の手を考える必要があるのでは。それに提案の件も、通ればヴェルスには痛手ではないかと」
 レティオが聡明な横顔で問う。本来ならギルグランスは娘を取り戻すため、この会議を利用してテリウスに近付くつもりだったのだ。しかし当主はゆっくりと首を振った。
「望みが潰えたわけではない。むしろ好都合だ、これでテリウスに恩を売ることが出来る」
「まさか助けるつもりですか?」
 フィランが思わず口を挟むと、当主は不敵に唇の端を吊り上げてみせた。その表情に返答を雄弁に語られて、フィランは口元を歪めずにはいられない。
「無茶じゃないですか。総督を敵に回すことになりますよ」
「どうせ元から敵だ。むしろ、放っておく方が危険だあの肉塊は。今の内に軽く絞めておいた方が世の為というもの」
「旦那様、発言が不穏当に過ぎます。せめて例えるなら豚くらいに」
 セーヴェが涼しい顔でものすごいことを言う。
「叔父上、手立てがあるのですか」
 成人したばかりの甥に期待を込めて問われ、当主は顎をさすって頷いた。
「うむ、任せておけ。セーヴェ、急ぎ手紙の清書を済ませるように」
「畏まりました」
 セーヴェが淀みない動きで蝋版を取りに向かう。続いて当主はレティオに視線を向けた。
「レティオ。お前はまず会議に集中することだ。分かっているな」
「……わかりました。馬が気になるので見てきても良いですか」
 それを聞いて、フィランが目を瞬く。ギルグランスもまた僅かに驚いたようだったが、すぐ満足そうに笑った。
「そうだな。馬は環境の変化に弱い。よく気を遣ってやれ」
 レティオは礼をすると、踵を返して部屋を辞していった。


「……少し、変わりましたね」
 少年の姿が見えなくなってから、フィランが感慨を込めて呟く。前ならもっと不安げに叔父の思惑を質していたことだろう。それに自ら馬の世話を買って出ることなどなかった筈だ。
「うむ。物の見方が変わったようだ。貴様のお陰だろうな」
「はい?」
 顔を向けると当主の笑みを含んだ視線とぶつかって、フィランはたじろいだ。
「貴様と会わせてから、あれにも覇気が戻ってきた。ピートから聞いたぞ、馬術の腕も上がっているそうではないか」
 フィランは当主の頼みで今でもレティオの馬術を見てやっているのだ。しかし少年の成長の早さに舌を巻いているのは彼も同じだった。
「それはレティオ自身の努力の成果ですよ」
 謙遜ではなく、フィランは本気でそう感じていた。努力で才能に勝つことは出来ないと人は言う。だが、努力出来る力も才能の一つだとフィランは考えている。たゆまぬ決意を持ち続けるのは、誰にでも出来ることではないのだ。事実、レティオの修練への熱心さには驚くべきものがあった。
 当主は音律豊かな低い声で笑い、若者の言葉をやんわりと止める。
「しかし、それを引き出したのは貴様だ。――礼を言うぞ、フィラン」
 まさか面と向かって感謝されると思っていなかったフィランは、目を瞬かせた。思わず返す言葉を失ってしまい、彼にしては珍しく視線を泳がせる。
「き――気持ち悪いこと言わないで下さい。僕じゃなくたって同じ結果になったでしょう」
「本当にそう思うか」
「知りませんよ。僕は僕なりに最善を尽くしただけですから」
「白真珠の首飾りの件でも色々と動いたそうではないか」
「だから知らないって……」
 そこまで言いかけて、フィランは停止した。
 目線を戻すと、当主が優雅に杯に口付けるところだった。
 聞き間違いかと都合よく考えるには、あまりにはっきり聞こえたその単語。
 真っ青になったフィランを見て、当主は悪戯を成功させた子供のように笑った。
「馬鹿者。この私の目を掻い潜れるとでも思ったか」
 余裕の邪笑を前に、若者の全身から血の気が引いていく。ギルグランスは部屋の隅に追い詰めた獲物をいたぶるような表情で頬杖をついた。
「酒場では中々景気の良いことをしたそうだな? 全く、無茶をするものよ」
 あなた程じゃないですとフィランは主張したかったが、そんなことが出来る状況ではなかった。
「な、なんで知ってるんですか!?」
「あのように長時間抜け出したことが不審を買わなかったと思っているのか。馬鹿め、オーヴィンが心配して途中から探しに行っていたのだぞ」
「それにしたって、首飾りのことは……」
 髪に手を差し込んだフィランは、次の瞬間目を見開いた。
「まさか、マダム・クレーゼからも話を?」
 当主はにっこりと微笑んだ。
「あの女人とは数十年来の付き合いだからな」
 フィランは座り込んで頭を抱えたくなった。そんなフィランを面白げに眺め、当主は鼻から息を抜いた。
「縁ある者の頼みだ。彼の顔に免じて今回は許してやるが、次回からは私に断ってから引き受けろ」
「……分かりました。申し訳ありません」
 本当はティレの真実を知るカスケードとギルグランスを近づけたくなかったのである。フィランは苦虫を噛み潰す思いで頭を下げる。
「それにしたって、どうしてあんなところにマダム・クレーゼがいたんですか」
 問うと、脇で手紙の清書に勤しんでいたセーヴェが手を止めた。ギルグランスも、口の端を曲げて顎鬚を撫でる。そこに秘密めいたものを感じ取ったフィランは詮索をやめようとしたが、思いがけず当主は自ら口を開いたのだった。
「あの女人は、元々ティシュメの商家の娘御であったのだ」


 ***


 午後の日差しを受ける白い壁に、細い影が薄く落ちる。門戸の横で番をしていた奴隷がふと顔をあげると、ヴェールを被った老女がすぐ傍で壁を見上げていた。
「何か御用ですかい」
 何時の間にそこにいたのだろう。そんな不審を抱いたが、清廉と伸びた背筋に白い衣が強く印象付けられ、彼に居丈高な言葉遣いを躊躇わせた。すると老女は凛とした佇まいを崩すことなく、奴隷に顔を向けた。
「ここには昔、高名な商人が住んでいたと思うのだけれど」
 灰色の髪を美しく結い上げた、穏やかな女人であった。奴隷は小椅子に座ったまま、肩を竦めた。
「ああ。そりゃあ何十年も前の話だよ。でかい商会の主人が住んでたそうだがね、そいつが死んでからは跡継ぎの問題で流血沙汰にまでなって、一家は離散しちまったそうだ。今は土地ごと総督に召し上げられて、宴会用に使われてるよ」
「……だから昼間はこんなに静かなのね」
 老女の唇から漏れた感想は、まるで心の表面を滑っていくかのように乾いていた。人々が行き交う道の中にあって、そこだけが奇妙な静けさに包まれたかのようだった。
「この家に縁があったんですかい」
 老女は答えず、代わりにぽつりと呟いた。
「儚いものね」
 白い壁に手を触れて、ふわりと目蓋を伏せる。
「全てを守りたい。全てを幸福にしたい。それはなんて傲慢な夢でしょう。私は、全てを守るどころか、たったひとつの約束を守ることさえ出来なかったのにね」
 それは奴隷の理解を超えた独白であった。老女は静かな意思を込めた眼差しで、ひとり微笑する。
「だから今度こそは、守らせてあげないといけないのだわ」
 奴隷は、不思議な感覚に捕らわれたまま、老女の横顔を見上げていた。風に吹かれて尚強く、その姿は老いて尚、清廉な女神を思わせた。


 ***


 明かされたクレーゼの来歴は、フィランにとって意外な事実であった。不意をつかれた気分で老練の当主に聞き返す。
「僕はてっきり貴族の出かと思っていましたけど」
 クレーゼの上品で懐の深い振る舞いは、格式高い家で培われたものに違いないのだ。怪訝そうな若者に、当主は座れと目で促す。渋々壁から離れて当主の向かいに腰掛けると、老練の当主は杯を差し出してきた。
「付き合え。少しばかり込み入った話になる」
「……」
 フィランは戸惑いつつ、会釈と共にそれを受け取った。弱いわけではないが、さりとて酒豪でもないフィランである。対する目の前の偉丈夫は葡萄酒を割りもせずに楽しんでいるようだ。何処まで付き合えるものか、僅かな不安があった。飲み過ぎで記憶を飛ばし、ありえない醜態を晒した経験も少なくないフィランであれば、尚更のこと。ちなみに失敗談の一つを挙げれば、フィランは酒樽を持たされて一気飲みの囃子声が上がったところで記憶が途切れ、気が付くと見知らぬ広場の噴水に浮かんでいたことがある。脱出した後、まず初めに人を捕まえて聞いたのは「ここは何処ですか」だった。あまり人に言いたくない黒歴史だ。
 そんなことを考えている間にも、ギルグランスは器をとってだくだくと葡萄酒を注ぐ。普通、当主に給仕させるなど配下としてありえないことだが、本人は気にした様子もない。傲岸不遜だが、こういった面では砕けた男でもあるのだ。フィランはそんな当主の型に囚われない振る舞いが嫌いではなかった。戦場にあっても部下から慕われる司令官だったに違いない。そう思うと、僅かに胸が痛む。
 礼を言って酒を口に含むと、濃い香りが鼻腔を刺激する。苦味が強い酒だった。
「貴様が彼女を貴族と思うのも仕方ない。あの女人は、商家に生まれた身でありながら、貴族に差し出されるべく育てられたのだからな」
「……どういうことです?」
 聞くと、ギルグランスは杯で舌を濡らした。灯火に浮かび上がる部屋に会話が途切れれば、セーヴェが書き物をする僅かな音だけが聞こえてくる。
「この都市に根付く諍いのことは耳に入っているだろう。当時の商会長はその調停役として、実の娘であったマダム・クレーゼをある貴族の当主に嫁がせたのだ」
 それは、人の世において決して珍しい話ではなかった。婚姻による平定は、当人たちの心情を除けば最も効果の望めるやり方だ。
「マダム・クレーゼはよくやった。貴族と商人の橋渡しとしての己の役目を、あの女人は期待以上の成果で報いたのだ。次々と指針を示し、自ら先導して諍いを鎮め、都市中に人民の行く手を照らした。一時期は都市中の崇拝の対象だったそうだ。代わりに、ヴェルスに遊びに来ることなどなくなってしまったがな」
 遠いものを見るような当主の語り口を聞いて、フィランの脳裏には当時の様子がまざまざと描き出された。
 背筋の伸びた若い女が、凛然と立っている。貴族として、節度ある威厳と民を守る意志を。商人として、苦難に負けぬ強かさと彼らを負って立つ者への敬意を。針のむしろであることを構わず、思慮なき言葉をかけられることを厭わず、女はたおやかな足で苦難を乗り越え続けたのだ。
 きっと今でも彼女の眼差しが人を惹き付けるのは、そんな己の使命に生き続けた為だろう。強い意志は、ただのか弱い小娘を強靭にする。だからクレーゼの背はいつだって毅然と伸びているのだ。
「商人のみならず、貴族からも畏敬を集めた女人だ。今でもこの都市には、影で伝説のように語り継がれている。そのときだけは、自然と争いも治まったのだからな」
 そう語る当主の口ぶりは、酒と同じほどに苦々しい。全てが泡沫の夢であったのだと、知っている者の表情だ。
「……もしそのままだったら、今でもどこぞの名門を支えていたんでしょうね」
「神は停滞を好まぬからな。特に女神は強き女人に妬み深い」
 ギルグランスは溜息をつくように言った。
「彼女がここを去ったのはいつごろなんです」
「四十年も前になる。絶大な権力を握っていた商会長が亡くなり、跡継ぎ争いによって彼女の実家が傾いた。貴族と商人、両者の均衡が崩れたということだ。彼女もただでは済まず、結果的に都市を後にした。まるで貴様のようにな」
「え?」
 突然矛先を向けられて、フィランは目を瞬く。
「追い詰められたあの女人は、愛する者を最優先にしたということだ」
「……」
 その意味するところを汲み取って、若者は盛大に眉を潜めた。
「待ってください、それってもしかしてあの色ボケ島長と駆け落ちしたってことですか!?」
 酒が入ったせいで多少の暴言が混じるのは勘弁して頂きたい。
 当主は暫し思案するように唸ったが、言葉を選ぶようにして頷いてみせた。
「結果的には、そうなるな」
「そんな……」
 戦慄を隠すことが出来ないフィランである。一体あの小柄でつるりと禿げ上がったジジイの何処が良かったのだ。今のクレーゼの顔立ちを見るに、若い頃はさぞ美人だったに違いないのに。いや、美人だからこそああいう方が良かったのか。いやいや、もしかしてあの島長、若い頃はものすごい美男子だったとか? まさか。今の島長を見る限り、それはありえない。下手をすれば腰が曲がる前からクレーゼより背が低かったろうし――。
 いや。そもそも立場が危うくなったからといって恋人と逃げるような女人だろうか、あの老女は。
「……分かりません、あの人の考え方が」
「人の主義にケチをつけるな、槍使い。貴様とて単純な恋心ばかりであの娘と逃げてきたわけではないのだろう?」
 図星をさされて、フィランは口元を歪めた。
「ならどうして今頃ティシュメに来たんです」
 フィランがあの老女だったとして、一度捨てた故郷に戻るなど考えられない。未練があって戻るくらいなら、そもそも駆け落ちなどしていない。
 すると、当主は遠くを見るようにして息を抜いた。
「私が呼んだのだ。あの女人の力が必要かと思ってな。それに――いや、後は私のお節介だ」
 何かを言いかけたギルグランスは、それを杯で塞いで苦笑する。
「幼い頃からの付き合いだからな」
「ヴェルスにはよくいらしてたんですか」
「ああ。夏のたびに遊びにきたものだ。それはもう花を戴く女神ハリュモナのように美しかったぞ」
 陶然とした語り口に秘められた思いを感じ取って、フィランは片眉をあげた。
「……まさかとは思いますけど、手出ししてないでしょうね?」
 当主はニヤリと笑った。
「寝言を。あれを手出ししなくて何に手出しするのだ」
「死んで下さい今すぐに」
「貴様の趣味に比べれば真っ当だろう、一体あの娘は何歳年下でいつ出会ったのだ?」
「ぼ、僕のことはどうでもいいでしょう!? それに結局マダム・クレーゼは別の人と結婚したんでしょう」
「ははは、それが大人の恋愛というも――」
「兄君とどちらがクレーゼ様を嫁にするか殴り合いの喧嘩をした挙句、揃ってフラれていらっしゃいましたね。旦那様がまだ十にもならぬ頃の話です」
 ぎょっと当主が振り向くと、長年連れ添った奴隷のセーヴェが仏頂面で立っていた。
「せ、セーヴェ!? 貴様余計なことを――」
「書簡の清書が終わりました。ご確認を」
「う、うむ……?」
 絶妙なタイミングで仕上がった手紙を渡され、口を閉じてしまう当主である。フィランは後でゆっくりセーヴェに詳細を聞こうと決意した。
「してフィラン、貴様に訊いておくことがある」
「はい?」
 清書された書面に目を落としたまま、当主は静かに告げた。
「座して待つ者に恵みを降らすほど天は暇ではない。扉の前の貴様はさて、どうする?」
 試すような問いかけに、フィランは顎を引いた。この件にこれ以上深入りするつもりか、と当主は問うているのだろう。まだフィランは無関係を装うことの出来る場所にいるのだから。
 過去に師と仰いだ人にも、似たようなことを問われたものだ。これ以上踏み込めば、いらぬ淀みを知ることにもなろう。無鉄砲な好奇心が良き結果を招くと思うほど彼の頭はめでたくない。フィランは苦い酒を舌の上で転がした。脳裏に、穏やかに佇む老女の姿が思い浮かぶ。
「……あなたが言う、『お節介』の意味を教えて下さい。それが本物なら、いくらでも力は尽くします。僕も彼女には世話になった身ですから」
 注意深い返答を聞いて、ちらと視線をあげた当主は満足そうに笑ったのだった。
「よろしい。では今晩は私の供につけ」


 ***


 伸ばした手が、届かなかった。
 やわらかな温もりが次第に離れていくのに、幼い瞳はそれを止める手立てを知らない。
 身を切り裂くような叫び声も、広い屋敷には虚しく霧散して。淀んだ身に残るは焦げついた悲しみばかり。
 明るい陽光の差し込む日だというのに、その光は残酷な現実を照らし続けた。豪壮な屋敷。立ち並ぶ神々の彫像。高い天井に描かれた絵画。並ぶ円柱。背の高いそれらは、いつだって彼を高圧的に見下ろす。一人でいるには侘しすぎる空間。
 捨てられたんだ。
 泣き疲れて冷たい床に仰臥しながら、呟いた。

 僕は捨てられた。
 母さんは、僕を捨てた。

 体は生きる力を求める。生きる理由を求める。一刻でも長い生を得るために、そこに意味を見出そうとする。
 故に彼が憎悪を糧としたのも、自然なこと。
 母の一族を恨み、己の出生を恨み、世界を恨んだ。
 孤独な戦いは、既に始まっていたのだ。
 そう。あの優しい後姿が、静かに遠ざかった昼下がりから。
 幸福に手を伸ばしても届かなかった、あの昼下がりから。


「っ」
 目覚めた瞬間、自分が何処にいるのか分からなかった。しかし全身を包む違和感が、起き抜けの呆けた意識に冷水をかける。ここは日常の邸宅ではない。
 一呼吸の間にテリウスは、そこが拘置所であることを思い出した。そして自らに降りかかった事態に思い当たり、顔に張り付いた掌を引き剥がした。ここ数日の疲労が祟ったのか、僅かの間、座ったまま意識を落としてしまっていたのだ。
 都市の外れ、石切り場の脇に設けられた拘置所は、冷たい空気で満たされている。僅かに差し込む光の色を見るに、どうやら夕暮れらしい。薄暗いそこに屋敷の快適さは欠片もなく、テリウスは周りに変化がないことを認識して、再び掌で額を覆った。
 一体どういうことだ。正当な手続きがあったとも思えぬ横暴に、テリウスは未だ混乱から抜けきることが出来ない。目を閉じれば役人の醜悪な笑い方ばかりが思い起こされ、自然と眉間に皺が刻まれる。
 妻と子供たちは無事だろうか。奴隷たちはしっかりと留守を守っているだろうか。――否、そもそも自分はあそこに帰ることが出来るのだろうか。
 いいや、と首を振る。陽炎のような希望に縋るほど、テリウスは甘い人間ではない。商人との結びつきが強い総督は、己のことを疎んでいる。このままではろくな裁判もされぬまま、刑に処されることだろう。恐らくは、この属州の全ての民への見せしめとして。
 邪魔者を始末した総督の横暴は、増長を続けるに違いない。すぐにここを出て、民の暮らしを守らねばならないのに。何も出来ない自分の無力に、テリウスは唇を噛み締めた。
 テリウスはこれまでに、自身にも、他者にも、正しい姿を求め続けた。彼にとって、清く慎ましく生きることが美徳であり、利己的で驕慢な振る舞いことが最大の悪徳であった。
 全ての人が、その生き方の尊さを理解し実践すれば。たったそれだけで、世界は平和になる筈なのだ。自分の家内がそうであるように。
 しかし、贅に慣れた外界は狂乱の神が宿ったかのように、日がな腐った饗宴と唾棄すべき陰謀を張り巡らす。誰もが言う。贅があるなら求めるべきだと。誰もが言う。清濁を呑み込んでこそ正しきが成り立つのだと。目指す場所を持たず短絡的に富を求め、ただ時を浪費していくだけの者々が、まるでそう言うだけで赦しを得られると思っているかのように。
 そんな影どもを憎みながら、自らに恥じぬ生き方をした。
 なのに正しく生きた筈の自分が、誰の共感を得られることもなく、こうして檻に繋がれている。
「……クロエラ。クルズ、ハンナ」
 妻子の名を、救いを求めるように呟く。七日後には息子の誕生日が迫っているというのに、自分は何もできはしまい。贈り物をすると約束したのに。その約束は、果たされない。
「私は、また繰り返すのか」
 ひとり呻く。置き去りにされた息子の呆然とした顔が、目蓋の裏に描かれる。違う、それは――幼い日の自分自身だ。信じていた足元を突き崩され、立ち上がることもできなかった幼い子供。真珠のような涙をその目から零して、絶望に咽ぶ。
 駄目だ、それだけは。そんな想いを、我が子にだけは味あわせてはならない。
 ならば、どうすれば良かったのか。どうすれば良いのか。
 孤独な貴族の懊悩を他所に、夕日は美しい残光を差し掛けながら沈んでいく。




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