-黄金の庭に告ぐ- <第一部>5話:貴族はつらいよ 04.波乱のはじまり 夏の残り香が未だ濃い季節とはいえ、朝のティシュメは冷える。靄がかかる山頂から吹き込む風が、その手を広げて夜の熱気を浚っていくからだ。早起きの人々は厚手の肩掛けを羽織りつつ、大気の冷たさに苦笑しあう。 だが、彼らと同じく早朝に立つレティオは、寒いなどと言っている場合ではなさそうであった。 「……うむ。中々立派な装いではないか」 公務用の橙で縁取りされた長衣を流麗に着こなしたギルグランスは、甥の姿を見て満足げに頷いた。だというのに本人は、賞賛をろくに喜べていない様子で、衣服や周囲の様子に目を泳がせている。 大会議初日。今日はレティオにとって、初の公務である。 成人した者だけが着用を許される長衣を着たレティオの頬は、今や緊張の余り青褪めていた。背後に控える奴隷のピートも、同じく全身を硬くしている。今日のレティオの着付けは父セーヴェの監修の元とはいえ、ピートが一人で行ったのである。主人の身だしなみに気を配るのは世話役を任された奴隷の重要な仕事だ。もしもレティオが議会で外見を笑われることがあろうものならと考えると、気が気ではないのだろう。 ギルグランスはそんな少年たちの姿を見て微笑した。自分とセーヴェが成人したばかりの頃も、傍からはこのように見えたのだろうか。 「レティオ。肩の力を抜け。お前も中々良い仕事をしているぞ、ピート。もう少し自信を持て」 「あ、ありがとうございます。旦那様」 普段よりも一段上ずった声でピートが頭を下げる。しかし世辞を抜きにしてギルグランスは若い奴隷の腕前に感心していた。ひだの数、帯紐の色、胸飾りの位置からサンダルの飾り細工に至るまで、精悍なレティオの顔立ちに嫌味のない美しさを添える仕上がりになっている。元の顔立ちが整っているせいもあるが、これはよく人目を惹くであろう。 そのとき、刻を告げる鐘の音が高らかに響き、屋根から鳥たちが一斉に飛び立った。レティオが、はっと空を見上げる。神々が祝福するかのような、雲ひとつない快晴であった。 「さて、出陣といくか」 宿舎の前には既にいくつもの馬車が乗り付けられている。ベルナーデ家一行は先頭の車両に乗り込むと、都市の中心にある会堂を目指した。 ――大会議初日。波乱に富んだ一日の始まりである。 *** すべらかな大理石の円柱を背にし、銀板の鏡に自らの顔を映す。長年の間、責務と重圧を負い続けた顔がそこにある。固く引き縛られた唇、一糸乱れず整えられた茶髪、闇を貫く眼差し。 ティシュメに名高きオルティア家当主、テリウス・レグル・オルティア。四十路を越えた彼の佇まいは、研ぎ澄まされた緊張で満たされている。そんな彼を鋼鉄に例える者は多い。そしてその冷徹さを遊び甲斐のないことに置き換えて厭う者も。屋敷もまた、彼の性格を体現したかのように、よく整えられていた。 「あなた。どうなされたのです」 ふと、テリウスは我に返って横を向いた。しっとりとした上衣に身を包んだ妻が、心配げな眼差しを向けている。絶世の美女というわけでもないが、真っ直ぐに伸びる樫のように慎ましい妻である。彼は薄く笑い、彼女の下へ歩み寄った。 「昨晩も眠れなかったのですか」 整えられた夫の頬を、妻は気遣わしげに指で撫でる。テリウスは愛撫を黙って受け止め、目を閉じた。 「いや。大したことはない」 「ここのところ、お休みになっていないでしょう。お疲れが顔にでていますわ」 「ああ……すまない」 その謝罪に偽りはなかった。自分の行動に文句の一つも言わない妻を見ていると、申し訳なさを感じる。婚姻の契りを交わしてからというもの、影に徹しながら支えてくれた、誰にも代えがたい女だった。 「今回の会議が終われば、数日は暇が出来るだろう」 「まあ。ではハンナとクルズにも知らせておきます。クルズは自分の名前が書けるようになったんですよ」 「本当か」 息子のクルズはまだ六歳になったばかりだ。普段は寝顔しか見ることができない息子の笑顔を思い出すと、テリウスの口元に微笑が浮かぶ。 「……それなら祝いに丁度良いな」 「え?」 「いや、気にするな」 テリウスは怪訝そうにする妻の前で首を振った。自分でも慣れないことをしていると分かっている。しかし――。 ――真珠は人の涙。人の想いの形。 ――あなたにも、次の誕生日に真珠をあげますからね。 遠い昔、顔も思い出すことの出来ぬ誰かがそう言っていた。痛みも寂しさも風化するほど昔のことだ。 『私はあの人とは違う。必ず約束を守る』 テリウスは孤独に育った男であった。両親を両親として認識したことは一度もない。母はいないも同然、父親は氷のように冷たい男であった。胸にはいつも大きな穴があいたようだった。 しかしそんな彼の虚無は、家族という存在を得ることで消え去った。 もうすぐ手配していた贈り物が届く筈だ。思えば、手配を頼んだ便利屋には無理をさせてしまった気がする。憎き商人たちの目を掻い潜って、彼らの手中から宝珠を買ってこさせたのだ。報酬は弾んでやらねばならない。妻と子供の為と思うと、普段は固く閉ざされた財布の紐も珍しく緩む。そんな自分がこそばゆく、テリウスはどんな顔をすれば良いか分からなかった。 「子供たちを頼む」 「はい」 貞淑な妻は口元を微笑みで飾り、静かに部屋を辞してゆく。その表情に寂しげな様子が垣間見えることを最近知って、テリウスはそのたびに胸を針で刺されたような心地になる。捨て置かれる寂しさを知っていれば、尚のこと。 早く仕事を片付けなければ。 大会議へ向かう準備を整えていると、奴隷が来訪客の知らせを持って現れ、テリウスは応接間へと移動した。 対になった鳥の絵画の間に設えられた扉から現れたテリウスを見て、カスケードは背筋が伸びる思いであった。彫像がそのまま動き出したかのような男なのだ。商人が強い勢力を持つこの都市で、貴族としての誇りに従って生きてきたのだろう。その為に民からは支持を得ているが、敵も多いと聞く。更に、表沙汰にはならずとも、彼には奇妙な噂が付きまとっているのだ。それは彼の系譜にまつわるもので――。 「例の物は手に入ったのか」 「は」 カスケードは逡巡をやめ、再度背筋を伸ばして目礼した。相手は名家の当主だ。余計なことを考えるものではない。しかも今回は人生最大の博打を打たねばならぬときた。 ごくり、と唾を飲む。 そうして覚悟を決めた彼は、きっぱりと言い放ったのだった。 「ご所望の品、確かにお持ちしました」 カスケード、人生最大のデマである。 結局、朝までに首飾りを取り戻すことはできなかったのである。故にカスケードは、クレーゼが提案した恐ろしい綱渡りを強いられることになったのだ。 テリウスは長衣の裾を払い、すっと目を細めた。他人の前では滅多に表情を変えない硬質な視線は、カスケードの心臓を鷲掴みするのに十分過ぎた。そもそも現場仕事が常のカスケードは、飾った駆け引きに慣れていないのだ。 「この地には手汚い商人も多い。苦労をさせたな」 「……勿体無いお言葉です」 「謙遜するな。奴らのやり口には私もほとほと困り果てている。金に取り付かれた奴らには、品性などという概念自体がないのだろうな、ただ、売れるものを売るだけなのだ」 テリウスは憎々しげにそう言うと、ふと声を和らげた。 「だというのに、そなたの仕事は早くて的確だ。隠密に事を進めるのは大変だったろう」 「……は」 カスケードは俯いて、首筋に浮いた冷や汗が悟られないことを神に祈った。これで本当に依頼の品を持ってきたのなら気持ちよく称賛を受け止められたのだろうが、今は息苦しいだけでしかない。 「して、品はどちらにある」 きたよきたよ。きちまったよ。 口の中で呟くと、半ばやけっぱちでカスケードは懐から上質な皮袋を取り出した。 「繊細なものです。お取り扱いにご注意を」 「うむ」 テリウスは手を伸ばしかけて、それをふと止めた。 「カスケード」 肩が飛び跳ねる音が、外に聞こえてくるかのようだった。『はぅっ!?』と声がでなかったのが奇跡だ。 「は、――はい」 脂汗をだらだらとかくカスケードを、テリウスは訝しげに見つめる。 「何故そのように手を震わせているのだ」 「は……」 ここで下手なことを言えば、カスケードに明日はない。彼はぐっと唇を食い縛った。ふざけるな。金を貰って一から生活を始めたのに、挫けてたまるものか! 「申し訳ありません。持っているものがものだけに、――私には重過ぎる品です」 そう。この皮袋の中身には本来、金二千の価値があるはずなのだ。実際はその辺の石ころと皮ひもが入っているだけなのだが。それでも、いかにもというように取り繕ってみせる。するとテリウスは納得したように頷いてくれた。 「確かに、お前には心臓に悪い品物だったな」 「は」 深々と頭をたれ、皮袋を捧げ持つ。テリウスはひょいとそれをつまみ上げ、無造作に中を確かめようとした。 「うぁ、お待ち下さいッ!」 一瞬奇声をあげてしまいながらも全力で止めるカスケードである。反射的に手を止めたテリウスは、不審げに眉を潜めた。 「何だ」 早く現品が見たくて仕方がないのだろう。若干の苛立ちが込められた問いかけは脳髄を焼くかのようであったが、カスケードは腐っても元殺し屋であった。涼しい表情を取り繕い、声を低くして語る。 「ご当主様、恐れながら。それをお使いになるのは、いつ頃を考えていらっしゃいますか」 「……七日後の息子の誕生日だ。それがどうした」 カスケードは、浅く息を吐いた。潜り抜けてきた修羅場を思い出せ。あの時頼りにした刃よ今こそ舌に宿れ。そう念じながら、芝居がかった仕草でほっと息をついてみせる。 「それなら良かった。実は、この首飾りには呪い(まじない)がかかっているのです」 「呪い?」 テリウスの表情が険しくなるのを見て、ここが正念場だとカスケードは自覚した。怪しげなものを嫌うテリウスを、どう説得できるか。まさに人生の分かれ目である。戦線の火蓋は、今ここに切って落とされたといえよう。 いざ、参らん。 すっと息を吸い、弾丸のように彼は喋りだした。 「はい。実を言いますと、これを私に売った商人は魔術師でもあったのです。彼は親切な商人でした。この首飾りは誰かへの贈り物かと聞いてきたのです。いいえ、勿論ご当主様の名など一度も出しませんでした。故に私の主人が大切な方へ贈るのだろうと、そう答えたのであります。すると商人は、この首飾りに呪いを込めようと言ったのです。ええ、ええ。当然で御座います、妙な術を施せばただでは置かぬと私は凄んでみせましたとも。しかし商人はにこにこと、それはもう純朴な笑顔を浮かべて言うのです。これは、持ち主を幸福にする良い呪いだと。むしろ、悪しき呪いをかけたところで私に何の得があるのだ、と」 ここまで一息。更にテリウスが口を挟む前に息を吸い、カスケードは言葉を継いだ。 「彼は言いました。ここのところ、皇帝の崩御や本国の天変地異など、様々な災いが帝国を覆っております。だからこそ、だからこそです、ご当主様。我々は良き呪いを以ってして、帝国を栄えある国にしてゆかねばならないと。商人は笑ってそう言ったのです。私は感銘を受け――ご無礼をお許し下さい。ご当主様のご許可なく、呪いの施しをしてしまったのです。商人曰く、その皮袋は次の新月の日まで決して開けてはならぬとのこと。しかし新月まで待てば、真珠の輝きは七色にまばゆいばかり、持つ者に紺碧の髪持つ海神トリアイノの加護が宿るそうです」 「……」 疑うというより、むしろ呆気に取られた様子でテリウスは固まっている。やや目を血走らせたカスケードは、詰め寄らんばかりの勢いで声を大きくした。 「無論、勝手な振る舞いに対する懲罰は覚悟しております。しかしご当主様、私はご当主様の益々のご発展とご盛栄を願い、首を縦に振ったのです」 喋りながらカスケードは考えた。相手は見るからに怯んでいる。ここはあと一手、決定的な一手が必要だ。 それは一体何だろう。勝負を左右する、刃の一閃にも似たその一手。 「オルティア家に神々の恩寵と加護が注ぐように」 いや、違う。もっとテリウスの心を動かすものでなければいけない。額に汗を浮かべて、カスケードは考える。心を動かすもの。真珠の首飾り。魔術師と呪い。息子の誕生日の贈り物にする――。 不意に閃光が脳裏で瞬き、カスケードはクワッと目を見開いた。 「貴方様の奥方と御子様の行く手へ、白鳥が歌い、燕はさえずり、蝉もまたその行幸を祝うよう!」 わんわんと響いた声が静まると、辺りにはカスケードの荒い息だけが残った。テリウスはもはや口半開きで思考を停止させていた。 暫しの時間が経過すると、テリウスは信じられないというように首を振った。 「……驚いたな。そなたはもう少し落ち着いた男と思っていたが」 「は、申し訳ありません、つい」 カスケードの心臓は今や爆発しそうなほど波打っている。平衡感覚が失せ、膝をついてしまいそうだった。 だが、テリウスは息を抜いてこう言ったのである。 「いや、しかしそなたが私たちを心から案じているのはよく分かった――感謝しよう、カスケード」 「はっ」 カスケードは胸に手を当てて礼をした。心拍の音が当主に悟られないように祈りながら。 「そのような術がこの袋に封じられているとはな」 「はい。次の新月ならば、六日後。ご当主様がお使いになる七日後には十分間に合うものと思われます」 「うむ」 当主がゆっくりと頷くのを見て、カスケードの心に勝利の女神の微笑みが差し込んだ。 ――いける。 ぐっ、と拳を握るカスケードである。 これで六日の間、時間を稼ぐことが出来る。後はデフィスから首飾りを取り戻し、この屋敷に忍び込んで皮袋の中身をすり替えるだけだ。貴族の家は広く開放的であるため、商人の家より侵入が容易なのである。それに大会議中はテリウスも忙しく、家を空けがちだ。 これが、昨晩フィランやクレーゼと顔をつき合わせて出した結論であった。問題は品の取り戻し方にあるのだが、これは六日の間に考えれば良いだろう。品さえ取り戻してしまえば、後はそう苦労すまい。 とりあえずこれで安心できるというものだ。緊張が抜けたカスケードは今更ながらにどっと疲労が押し寄せてくるのを感じた。 しかし、この国の神々はある時、理不尽なまでに気まぐれなのである。 「そこまでやってくれたのは嬉しいのだがな、カスケード」 カスケードは燃え尽きた顔をテリウスに向ける。テリウスは珍しくその口元に苦笑を浮かべていた。この人も笑うんだな、と。疲労に満たされているときは、どうでもよいことばかりが脳裏に上る。 「私はそういったまやかしは信じぬのだ。それよりも現物が見たい」 「……は」 事態を理解するのに数秒かかり、間抜けな声で返すしかない。近い位置に立つテリウスが、何故だかとても遠いところにいるような気がして。 「すまぬな。そなたの気持ちだけは、しかと受け取ったぞ」 「え……え、え!?」 カスケードは悟らねばならなかった。 自分が必死で切りつけていた相手が生身の人間ではなく、鋼鉄の塊であったことを。 『……そういえば、庶民の術とか縁のなさそうな御仁であった』 生まれながらに貴族であった彼にとっては、術による幸も不幸も子供騙しでしかないのだろう。 カスケード、人生を賭けた戦いにおいて華々しく散る。 そんな句が脳内を過ぎり、自分は死んだら詩人の歌に載ることができるのだろうかと走馬灯のような考えが過ぎった。 テリウスは既にきつく結わえた皮ひもを解きにかかっている。ああ、終わった。これで中身を見たテリウスの目が失望に染まり、怒りは不敬罪となってカスケードの注ぐのだ。 せめて。せめて、仲間と最後に一目会いたかった――。 精根尽き果てて消沈するカスケードの前で、テリウスが紐を解きかけたそのときだった。 突然、地を槍の石突が叩く物々しい音が響き渡ったのである。テリウスははっと顔をあげ、外の方向に首を向けた。カスケードは一瞬フィラン辺りが助けにきたのかと思ったが、ここにいないフィランが中の様子を察知できる筈がない。しかも音量からして襲来者が一人とは思えなかった。 続いて、太い声が屋敷中に響いて空気を震わせた。 「オルティア家のテリウス! オルティア家のテリウスはいるか!」 「……なんだ、騒々しい」 呼び声は繰り返し発せられる。部屋の隅に控えていた奴隷たちが不安げに主人を見上げると、彼は忌々しげに首を振って皮袋を奴隷に渡した。そのまま、足早に外へ向かっていく。 命拾いしたに違いないというのに、カスケードの胸には言いようのない不安が上った。暗がりに生きてきた者特有の鼻の良さで、彼は事態の重さを瞬時に察知したのである。首飾りのことも忘れて、カスケードは思わず後ろ姿に声をかけた。 「ご当主様! 行ってはなりません」 テリウスは立ち止まり、冷ややかな眼差しをカスケードにくれる。 「そなたには感謝していると言ったが、私に指図するほどの地位を与えたつもりはない」 「……」 刺すような一声に、カスケードは返す言葉を持たなかった。神経質な足取りで玄関へと向かうテリウスを、己の予感が外れることを祈りながら追うしかない。 偉人の彫像で飾られた玄関では、家の奴隷たちが来訪者によって取り押さえられていた。彼らが持つ槍の形を見て、テリウスの横顔から色が消えた。朱と黒で塗られ、先端に正義の印をつけたそれは、都市の司法をつかさどる造営官の証だ。法の番人である彼らには、議会の決議さえあれば議員の逮捕すら許されている。そして彼らの中央に立つ太った男が、テリウスの姿を見て表情を醜悪に歪めた。 「オルティア家当主、テリウス・レグル・オルティア! 剣持つ正義の神の御名において、法廷への出頭を命じる! そなたにかけられた罪は不当な権限の行使及び、弱者からの搾取! そなたの真実を、神の名の下に明らかにせよ」 「――馬鹿な」 掠れた声が、震える唇の端から零れる。傷つけられた誇りは烈火となって頬を震わし、テリウスは造営官の男たちを鋭く睨みつけた。 「誰がそのような馬鹿げたことを! この私が法に背いただと? 神に誓ってそのような謂れを受ける筋合いはない!」 「残念ながら証拠が提出されています。ティシュメに名高きオルティア家の当主よ。あなたは昨晩、その職権を利用して造営官たちに不当な取締りを行わせました」 「なんだ、それは。私は何も――」 「これ以上の答弁は法廷にて示していただきますよう」 「あなた!」 不意に背後から鋭く呼びかけられ、テリウスは振り向いた。表情を蒼白にした夫人が、見開いた瞳を震わせている。 「クロエラ、来るな!」 「神の栄光注ぐ帝国ファルダの法による。内刑法第五章三十四節。罪の疑いにより出廷を求められた議員は、すみやかに造営官に従う義務を負う。テリウス殿、どうぞこちらへ」 テリウスは唇を引き縛って考えた後、静かに決心したようだった。 立っているのもやっとという様子の妻へ目礼をし、背筋を伸ばして進み出る。 「……分かった。従おう」 「賢明な判断です」 太った男はニヤリと笑って、踵を返す。テリウスの姿はあっという間に槍を持った男たちに囲まれ、外へと連れていかれてしまった。 当主の姿が見えなくなると、糸が切れたようにテリウスの妻の体が傾いだ。 「奥様!」 慌てて女奴隷がその体を起こし、奥へと運んでいく。他の奴隷たちも、ある者は愕然とし、ある者は無言で後片付けに入りながら、必死で己の平静を取り繕っているようだった。 「……なんということだ」 佇立したカスケードだけが、誰もいない玄関を呆然と見つめていた。 玄関に切り取られた空は澄み切った晴天が広がっていた。誰かが耳元で夢だったのだと囁けば、信じてしまいたくなる程の青空であった。 *** 「オルティア家のテリウスが捕らえられた」 大会議の初日から、会堂は物々しい空気に包まれていた。叔父と供に登院したレティオは、胸が冷える思いを味わいながらも、貴族たちの間断ない噂話に注意深く耳を澄ませた。 事件は今朝のことで、前触れのないその捕囚は、総督の悪辣な権限行使によるものという意見が強かった。貴族たちの中では、テリウスが罪を犯す人柄ではないという認識で一致しているようだ。しかし、陰謀によって捕らえられたという説には、このような声も聞かれた。 「都市の商人たちを目の仇にして、彼らに不利な議案を次々と可決させたお人だ。報復されても仕方ないだろう」 レティオはテリウスと面と向かって話したことはないが、彼は孤高な男であったようだ。貴族たちを見ていると、テリウスに上辺の同情はあっても、彼個人を案じている様子はない。 そして、その言葉の端々に流れる微妙な感情に、レティオは眉を潜めた。 「彼は生まれが特別だ。悲劇は避けられなかったろうさ」 会堂の正面に聳える皇帝の彫像には、その死を悼んで肩に黒い布が掛けられている。嘆きの歌を沈鬱な面持ちで歌い、清めの塩を道々に振りまくのは青い衣の司祭たちだ。議事堂の脇にある神殿からは早朝に供された生贄の煙が昇り、空の高みに吸い込まれていく。 大会議の開催を告げる鐘が鳴り響き、同時に番兵たちが槍の石突で地を叩きはじめる。そして事件の首謀者と誰もが疑わぬ総督その人が、会堂の演説台で呼びかけた内容は、貴族たちを凍りつかせ、この会議が開かれた真の意味を彼らの眼前に突きつけたのであった。 総督の提案は、穀類を中心とした食物の増税、並びに取引場所の規制と取引額申告の義務化。更には治安維持のための駐屯兵団の増員と、関所の増設。それらは、帝国内にあって異常なまでの独裁的な内容であり、明らかな商人たちへの弾圧もであった。 Back |