-黄金の庭に告ぐ-
<第一部>5話:貴族はつらいよ

03.華やかなる州都の夜



 ティシュメに到着した晩、叔父の背を追った宴会の絢爛さに、レティオは眉を潜めたものだった。
 各地から集まった貴族たちを歓待しようと、州都ティシュメの最高権力者である総督エギルドが宴の席を設けたのである。本国から属州統治のために派遣される総督にあてがわれた屋敷は壮麗を極め、大理石の壁にはいくつもの宝石をちりばめた装飾が輝いている。細やかな石細工で装飾された回廊を踏み進むと、松明が灯された中庭に出る。金糸や銀糸を織り込んだ敷布や銀器の眩しさには目が眩むほどだ。そして運ばれてくる料理は色とりどりの珍味を盛った大皿を初め、見事な獣の丸焼きや遠方から取り寄せた甲殻類の素揚げなど、贅を凝らしたものばかりであった。
 ――皇帝が亡くなったというのに、よくここまで無恥でいられるものだ。
 そんな感想をレティオが抱けたのは、本国に住んでいた頃、これより更に豪華な宴会を見たことがあるからである。彼がただの辺境の若い貴族であれば、その華美な有様に思考など止まってしまっていただろう。
「よくおいでくださいました。あなたのことは知っていてよ。ヴェルスに名高きベルナーデ家のギルグランス様」
「これは光栄だ、奥方。今宵は神々も羨む宴にお招き頂き、栄誉の極みというもの」
 出迎えた総督の夫人に、叔父は音律豊かな声で謝意を示した。ジャドが見れば、猫を被りやがって、と渋面を浮かべることだろう。
 本国風に毛皮や宝石で着飾った夫人は、不躾な視線でギルグランスの姿を下から上まで一撫ですると、軽く瞳を伏せ、艶やかな笑みを唇から漏らした。
「かつては帝国軍で一二を争う美男子と目され、数多の女が惑わされたと聞いていますけれど、実際はどうということはありませんわね」
「っ」
 レティオの肩が動く前に、ギルグランスは一歩踏み出して甥を後ろに隠してしまった。
「そうだな。噂は噂。現実とはこんなものだ、奥方」
 そう言いながら、恭しく婦人の手を取る。大粒の宝石の指輪をいくつも填めた指を、そっと形の良い唇に寄せ、ギルグランスは微かに目を細めて笑った。
「そなたは惑わされぬようにな?」
「――」
 夫人の喉が僅かに動き、言葉が消えた。一瞬の囁きと共に身体を離したギルグランスは、丁寧に手を下ろしてやり、にこりと笑って宴の席へと向かっていった。じっとギルグランスの姿を目で追う夫人の姿に、セーヴェは平然としているが、レティオのお付として来た奴隷のピートなどは見事に顔をひきつらせている。ギルグランス本人は気楽な様子でレティオを隣につかせ、他の貴族たちに挨拶がてら甥の紹介を始めた。
 叔父のあらゆる手際の良さに、貴族たちと挨拶を交わしながら人知れず拳を握り締めるレティオである。あの程度で平静を失うようでは、自分はまだまだだ。いや、あれが真似できるとは思っていないが。
 間もなくして総督エギルドが姿を現すと、貴族たちの関心は一斉にそちらに注がれた。属州統治のために与えられた総督権限は、帝国軍を動かせるほどの絶大な力を持つ。地方貴族たちにとって、それは畏怖の象徴とも言えた。しかし肥えた四肢に紅い縁取りの長衣をまきつけ、仰々しく着飾らせた奴隷を幾人も侍らせて現れたエギルドに、レティオは良い印象を覚えなかった。
「よくぞお集まりいただいた! プシュラーナに住まう常久の神々よ、善きものの贈り手たちよ。今宵の酒宴に幸を注がんことを!」
 総督の胴間声を合図に、服の裾を太腿までからげた美しい少年たちが、杯に酒を注いで回る。その間に総督は賓客への謝意を示し、皇帝の死を悼み、各都市の更なる発展を祈願する。夜も更けた時間帯におびただしい灯火を以って執り行われる演説に、貴族たちは表向き黙って耳を傾けている。
「見ておけ、レティオ」
 叔父の囁きに、レティオはその横顔を見上げた。燃え盛る橙色の灯火に照らされた叔父の横顔は、まるで智慧の女神の祝福を得たかのごとく、凄惨な光輝を漲らせていた。
「――これが私たちの戦場だ」
 唾を飲んだレティオは、杯を持つ感覚を確かめ、炎を映し込んだ色の瞳で頷いた。


 一方、初回の乾杯を終えたギルグランスの胸中も、微かな苦味を含んだ緊張感に満ちている。
 質実を尊ぶギルグランスは貴族にありがちな膿んだ習慣が大嫌いだ。わけの分からん議論や安い享楽に時間を費やしている彼らを見ていると、口から火を噴きたくなってくる。それでいて重要な問題は大抵捨て置かれるのだから始末に負えない。
 明日からの大会議で予定されている、腐った魔物についての議論も、どうせほんの短時間しか割かれないのだろう。ヴェルスの都市議会は今回の大会議を頼っているようだが、ギルグランスはこの件に関しては大して期待していなかった。州都の貴族にとって重要なのは、いかに己の地盤を固め、金を儲けるかだ。しかも、ここ数年で活力を取り戻したヴェルスに富が流れるのを懸念する思惑もある。何よりも属州の長たる総督自身が、ヴェルスを良く思っていないのだ。
 そう。この総督というのがまた厄介なのだ。ギルグランスは、上機嫌に宴を楽しむ総督エギルドに横目を向けた。本国から各属州に一名ずつ派遣される総督は、徴税の他に州都での会議を総括する役割を担っている。これが有能な人間なら、会議の様相もまた違ってくるのだろう。
 だが、そういった優秀な総督は大抵国境に接した属州に取られてしまうのだ。帝国としても、人材を割くにあたっては国土の重要部を優先するに決まっている。お陰で戦線から遥か遠いド田舎によこされる総督など、ボケ老人か金の亡者かといった具合でろくな人種がいない。
 いや。前者であれば、まだどうにかなる。総督がボケている分、自分たちがしっかりすれば良いのだから。
 しかしこれが後者であった場合、事態はより深刻なものとなる。

 内心で顔を引きつらせながら、ギルグランスは折を見計らって総督に近付いた。ギルグランスの存在に気付きながら総督が声をかけてこないのは、公の場では目下の者から挨拶するのが礼儀だからだ。かつては武勲を帝国全土に知らしめ、この会においても並々ならぬ存在感を持つギルグランスとはいえ、今は地方都市の議員でしかないのだ。その優越感に浸りたいがために、こちらからの挨拶を待っているのである。まことにムカつく事実であるが。
 このハゲ殴ったらさぞ気持ちいいんだろうなあと優美な想像をしながらギルグランスは挨拶に向かった。最低限の礼儀は通しておかねばなるまい。
 しかし口を開こうとした直前、ギルグランスより一歩先に総督に歩み寄った貴族がいた。
「総督殿」
 上品な服に身を包んだ貴族は、硬質な横顔で呼びかけた。若くはなく、一見物静かそうだが、眼差しが威圧的であるため一種の近寄りがたさがある。武人というよりは内務に向いていそうな男だ。
 ギルグランスは僅かに目を見開いて止まった。顔見知りの貴族だったのだ。その名を、エギルドは返答と共に告げた。
「オルティア家のテリウス。何か用かね?」
「出会い頭にこのようなことを言いたくないのですが」
 テリウスは、総督が付き従えた奴隷たちに目をやって答えた。
「皇帝が崩御されてからまだ一月と経っておりません。総督殿がこのように奴隷を飾り立て、盛大な宴を催しては、民に示しが付かぬものかと」
 ギルグランスは眉を持ち上げたが、エギルドは薄く笑っただけだ。
「ふふ。まさか属州の貴族から忠告を受けるとは、私も落ちぶれたものだな」
「総督殿」
「噛み付くな、テリウス。幾度も矢を放つ狩人ほど見苦しいものはない」
 慇懃なテリウスの表情に険が混じるのを見て、総督は肩を揺らして笑う。
「考えてもみろ。亡き皇帝は帝国を傾かせた暴君であった。民もその死を喜ぶ者が多かろう」
「貴殿は死者を冒涜するのですか」
 唸るようにテリウスが殺気を放つのを見て、ギルグランスは口を開くことにした。正直もっと言ってやれと応援したいところだが、この貴族の物言いは総督相手に実直に過ぎる。
「失礼。お話中のところ申し訳ありませんが、総督殿」
 さりげなさを装って、一歩を踏み出す。勢いを殺がれたテリウスはこちらを睨み、エギルドは悠然と顔を向けてきた。
「夜の闇を貫き、神の恩寵注ぐ晩餐に感謝致しましょう。このヴェギルグランスの顔に免じ、先日成人しました甥をご紹介させて頂きたい」
「ほう。甥というと、あの猛将ヴェラムボルトの忘れ形見か」
 総督の興味が完全にこちらに向く。テリウスはそれを忌々しそうに睨んでいたが、すぐに踵を返して去っていった。都市でも有数の堅物と聞いていたが、あれでは敵も多いだろう。
 ギルグランスはその後姿を横目で追った。彼こそ、ギルグランスにとって今回の遠征の最大の目的であるのだ。
 兄の謀反により故郷に戻されたギルグランスは、人質として一人娘を皇帝に押さえられている。しかし皇帝が崩御した今、娘を本国に置いておく理由はない。ギルグランスはこの機会を利用して娘を留め置いている貴族家に打診し、身柄の奪還を試みるつもりであった。そしてその貴族家は、テリウスと血縁関係にあるのだ。
 しかし、見るからに融通の効かなそうな男であった。打算を以って近寄るのは中々難しそうだ。
 レティオの紹介が終わると、エギルドは声を潜めた。
「あのテリウスという男、お主はどう思う」
 葡萄酒の杯を片手に問いかけられ、ギルグランスは目を眇めた。
「……良くも悪くも真面目かと」
「うむ。ここのところ、あれは私がやることの全てに文句を言いよる。あれが商人を疎んじているのは知っているか?」
 ギルグランスは短く肯定する。テリウスの商人嫌いは有名だ。この都市に古くから根差した商人と貴族のいがみ合いは、ここのところ激化の一途を辿っているのだという。
「私は全ての者に等しき権利を与える為と思っているのに、少しでも商人を贔屓にすると野犬のように吠え付くのだ。困ったものよ」
 肥えた唇から気味の悪い理想を語られて、ギルグランスは鼻から息を抜く。どこまで本気で言っているのやら。
 しかし自分にこんな話をするなど、必ず裏があるに違いない。ここ数年のヴェルスの繁栄は、結果として州都から多くの商人を流出させることとなった。それを疎む総督が、ヴェルス再興の仕掛け人たるギルグランスを良く思っている筈がないのだ。
 影で油断なく相手の思惑を探りつつ、ギルグランスは平素を装って会話を続ける。
「因習を拭うのは困難なことです。ガルダ人も最後まで彼らが生き方を捨てられなかった。解決には長い時間が必要と思われます」
 きっと解決する前にこの総督は金だけ稼いで本国へずらかるんだろうが。
 するとエギルドは、くぐもった笑い声を漏らした。
「さて、どうなるかな?」
 謎めいた発言に、僅かな悪寒を覚えてギルグランスはエギルドを見上げた。主催者として来客より一段高いところに立つ総督は、狡猾な笑みを肥えた頬に刻んでいる。
「仰っている意味が、よく分かりませんが」
「ふふ。耳をそばだて、絶えず様子を見ていることだ。その牙、折られることのないようにな。ベルナーデ家のヴェギルグランス。尤も、既に折られているのかも知れんが」
 口調に含まれる侮蔑の響きにレティオが僅かに眉を潜めたが、ギルグランスは微動だにしなかった。


 ***


「この程度の饗宴で満足するなど、所詮は田舎者どもよ」
 貴族たちを帰らせた後、エギルドは満足げに臥床にもたれていた。手に持った杯には、宴で振舞ったものより質の良い葡萄酒が注がれている。淵に煌く美しい泡を楽しみながら、エギルドは向かいの臥床に腰掛けた小柄な男に声をかけた。
「どうした。そのように心を騒がしていては、折角の葡萄酒が台無しではないか」
「……ほ、本当に大丈夫なのか」
 声には、押さえようのない焦燥が滲んでいる。小柄で白髪交じりの、四十がらみの商人である。落ち着きなく視線を動かす男を、エギルドは捕食者じみた光を湛えた眼で見据えた。
「当たり前だ、私を誰だと思っているのだ? 安心してこの場を楽しむが良い、これであの口うるさいテリウスを牢獄に入れることができるのだぞ。お前たちはもう不当に弾圧されることもない」
「何故、私にそこまで肩入れする?」
 口をつけていない杯を手にしたまま、ダグと呼ばれた男はぎょろりとした目でエギルドを伺う。闇に潜り続けた地下の生物の仄暗さが、その身体から立ち上るかのようだ。
「何を今更。あの堅物は私にとっても目障りだ。名門というから挨拶も兼ねて賜金を、しかもとっておきの女奴隷つきで贈ってやったというに、奴は手もつけずに送り返し、挙句に協力を拒みおった。私の厚意を台無しにした代償を、都市中の――いや、属州中の貴族に見せ付けてやらねばなるまい」
「お互いの利ということで、いいんだな」
「ああ。そうとも。それに新しく可決する法案はお前の商会のみ見逃してやる話もしたろう。これも僅かばかりの礼だ」
「……」
 ダグはごくりと唾を飲み込んだが、ややあって最上級の葡萄酒で唇を濡らした。それを是をとったエギルドは、喉の奥でくぐもった笑い声をあげた。
「そうだ、良いことを思いついたぞ。うまく証拠を掴めればあやつもまとめて始末できるかもしれん」
 怪訝そうに顔をあげるダグに、エギルドは爛々と眼を輝かせた。
「テリウスは放っておいても破滅する。代わりにお前はヴェルスのベルナーデ家を見張るのだ」
「ベルナーデ……?」
 ダグは不穏な気配に痩せた頬を震わせた。地方貴族の身分でありながら帝国軍で身を立て、州の誉れと謳われたかの家の兄弟はティシュメでも有名だ。だが今や片方が命を落とし、もう片方は故郷に成りを潜めて久しい。
「お前はあ奴が憎くないのか? 昨今のティシュメの不景気を作ったのはあの男だ。ヴェルスなどという荒くれた田舎にあの手この手で他州の商人を呼び込み、彼らの足をティシュメから遠のかせたのだ」
 滔々と語られる詭弁は、聞く者によって眉を潜められることだろう。エギルドの言の通り、ギルグランスの策によって実り豊かなヴェルスに注目が集まり、その分ティシュメの華やぎが翳ったのは確かだ。しかし歳長けき女神メデアを守護神に戴くティシュメは古くより通商の地として栄えた都市。賢い商人たちはその程度の逆風など者ともせず、彼らの多くはヴェルスに近いことを逆に利用し、質の高い食物を頻繁に買い付けては他州に売って利益を得ている。
 しかし時代の変化に疎いダグのような商人の眼には、人と富がヴェルスに注ぎ、まるで自らが付け入る隙などないように見えている。
「うまく奴の弱みを握るのだ。さすればベルナーデ家も我らの獲物にできよう」
 エギルドは今年から総督に就任した男だが、貴族たちから一目置かれるベルナーデ家の当主を忌々しく思っていた。何よりも、以前の大会議で穀物に対する税率を上げようとしたところを、ギルグランスに堂々たる抗弁で言い負かさて廃案に追い込まれたことが、エギルドに復讐心を植えつけていたのである。――ギルグランス本人に聞けば、そのようなことは既に忘却の彼方だろうが。
「頼んだぞ、ダグ」
「……」
「どうした?」
 ダグの眼に仄暗い感情が掠めたのも束の間。商人は了承を示して杯を飲み干すと、若くない身体を抱えて去っていった。彼が去った後、エギルドは嘲弄に頬を歪めた。
「ふん。ドブネズミめ、臭くて敵わん」

 屋敷を奴隷用の裏口から後にしたダグもまた、暗路に向けて一人呟いた。
「お前たち貴族はいつもそうだ。己だけが生きるために、蛇のように互い同士で食らいあい、後には血と怨嗟しか残さない。こんなクズどもに、どうして私だけがこうも虐げられなくてはいけないんだ」
 ベルナーデ家を見張る気など、ダグにはさらさらなかった。これ以上、総督の悪事に付き合うのもうんざりしていたのだ。テリウスを捕囚して貰い、ダグの商会に有利な法案を可決してくれたなら、後はもうどうでも良かった。
 隘々たる闇の底に向けられた怨嗟が、彼の瞳に鈍く輝く黒い炎を浮かび上がらせる。ダグは商人でありながら、総督の手駒でもあった。彼の人生は、いつでも暗く寂しい荒野を歩くかのようであった。
 妻子は中々成果の出せないダグを見限って家を出、今は貴族に見初められて裕福な生活をしている。その間にダグが作った僅かな儲けはことごとく税として貴族に奪われた。ダグの属する商会の長は、それでも貴族に対する礼を忘れるなと説き続けた。冗談ではない。いつか見返してやる。そう思ってはいるが、やはり貴族がいないと生活すらままならないのが事実だ。
 美の女神に愛されず、商才にも乏しい彼は、代わる代わる総督の下に入り、悪事の手伝いをしながらでしか生きられなかった。震える拳に爪を食い込ませ、己の身を呪いながら、ダグは呻いた。
「いつか見返してやる……」
 それは、叶わぬと知りながらも口に出さずにはいられない慟哭であった。


 ***


「さて、さっさと終わらせますか」
 水を酒のように煽ったフィランは手の甲で口元を拭い、金の目をギラリと輝かせた。元の顔が柔和なだけに、それだけで妙な凄みがある。
 これが道を踏み外した貴族の成れの果てってやつなんだろうか。カスケードは一人そんな感慨を胸に抱いた。

 失われた真珠の首飾りを求め、熱気の篭る夜の州都へと繰り出した二人である。フィランは護衛の仕事が終わると、風呂屋に忘れ物をしてきたとオーヴィンたちを言いくるめて抜け出したのである。彼はカスケードと同じように、巻き布で口元までを覆い、流れの用心棒を装っていた。余所見でもすれば輿や馬車に突き飛ばされる人ごみで、二人の正体を暴ける者はまずいまい。
 ティシュメの夜は観光地だけあって、熟れた果実が汁を滴らせるかのような狂騒に満ちている。扉が開け放たれた酒場からは賑やかな音楽が漏れ聞こえ、道端には薄絹をまとった娼婦たちが歌いながら艶かしく男を誘惑する。帝国はこの手の商売に関しては寛大で、夜ともなれば彼女らは大通りにまで姿を現すのだ。詩人はそんな女たちの美しさを高らかに謳い、名うての娼婦の評判を夜の街に知らしめる。
「前の皇帝が亡くなったときなどは、このような場所でも死んだように静まり返ったものだが」
 カスケードが呟くと、フィランは顔をしかめた。恋人がいる手前、あまりこういった世界に関わりたくないのだ。
「亡くなった皇帝は嫌われていましたからね。悲しむ者などいないんでしょう」
 皇帝が亡くなると帝国各地では牛などの生贄を供してその死を悼み、吟遊詩人はこぞって故人の武勇を語るのだが、今回亡くなったのは暴君で有名な皇帝だ。詩人たちの歌にはその死を悼むより、彼の生涯を通して人生の虚しさを語るものが多い。
 フィランは喧騒から我が身を隔てるように瞼を伏せた。皇帝が倒れた今、帝国は滅亡への道を辿るのだろうか。未だ帝位は空席にあり、各地で猛将たちが名乗りをあげているそうだが、決定的な強みを持つ者はいない。混乱が長引けば周辺諸国も黙ってはいないだろう。民は日々の暮らしを守ろうとしているが、――この華やぎがいつまで続くか。
『この国は大きくなりすぎた』
 フィランは思う。人の手では抑えきれぬほどに膨れ上がった帝国は、風化し、形骸化し、爛熟しきってしまった。民は豊かな暮らしを当然のものとして享受し、執政者は端から始まる崩壊に目を瞑る。
 醜い。
 この国は、このままではきっと滅びる。
 否。――滅びてしまえ、と願う自分がいる。
 所詮人の作った虚像の塊だ。己が縋ったものの末路を見、己の不徳を思い知れば良いのだと、フィランはそう考えている。
 とにかく今はベルナーデ家の者に勘付かれる前にさっさと用事を済ませてしまわねばならない。
「そこの道を曲がったところだ」
「ええ。ところで、依頼人にはいつ首飾りを引き渡す予定なんですか」
「明朝だ」
「……」
 聞くんじゃなかった、とフィランは心の底から思った。

 カスケードが案内したのは、夜の街でも一際華やかな一角にある大きな酒場であった。見るからに流れ者が多く集まりそうな店だ。カスケードは真珠の首飾りを買い付けた帰り道、この酒場に寄ったらしい。
「って、なんでそんな大切なもの持って酒場に入るんですか!?」
「違うのだ! 馴染みの客に声をかけられてな、どうしても断れずに一杯だけと」
「あなた馬鹿でしょう!? そこは意地でも断るところでしょうが!」
「うぐ、それはそうだが……」
 気まずげにカスケードは目を逸らした。
 詳しく聞くと、声をかけてきたのはダグという便利屋の常連客であったらしい。普段より平気で犯罪寸前の仕事を依頼してくるものだから、扱いに苦労していたそうだ。
「何かとすぐに都市の有力者の名を出してな。どうなっても知らぬぞ、と」
「ようするに小物なんですね」
 会ってもいないのに商人の成りがなんとなく想像できてしまうフィランである。
「あ、ああ。だからそのときも一杯だけと言われて」
「滅茶苦茶怪しいじゃないですか、それ」
 腕組みをしてフィランは溜息をついた。商人であれば、カスケードが真珠の首飾りを手に入れた噂を耳にすることもあるだろう。人柄を聞く限り、横取りされたとも考えられる。
「しかし、証拠もないのに疑うのは良くない」
「……あなたはそれでよく前の仕事をしていましたね」
 フィランは辟易して肩を落とした。何処からどう考えてもその商人が犯人候補ではないか。
 しかしカスケードは足元に目を落とし、こんなことを呟いたのだった。
「いや。確かに昔は全てを疑ってかかったさ」
 不意に胸をつかれた気がして、フィランは目の前の男を見た。カスケードは酒場の壁を背に、流れ行く人を眺めて目を細めている。
「だからこそ今は、人を疑いたくない」
「……何を言ってるんですか」
 とっさの反論が弱々しくなったことに、フィランは内心で舌打ちをして、口早に言い返した。
「平穏を手にしたときこそ気を抜かず、疑うことを忘れぬべきです。そんなことを言っているから足元を掬われるんです」
「お前はまだ疑って生きているのか?」
 今度こそ、フィランは胸を杭で穿たれた気分を味わった。カスケードは、黒々とした眼差しでフィランを見つめている。
「お前があの当主殿に娘の正体を伝えていないことに、私は少し驚いている」
「その話題を出すなと言った筈ですが」
 刃の切っ先を思わせる遮りに、しかしカスケードは微かに頭を振っただけだった。
「ようやく得た安穏の中で、お前は、まだ追われていた頃のように気を張り詰めているのか。それでお前は幸福か?」
 問いによって痛みを覚えなかったかといえば、嘘になる。しかしフィランは眉を潜めたまま、その苦痛を全身で受け止めた。そして槍を打ち振るうように口を開いた。
「僕の幸福なんて、どうでもいいことです。僕の望みはティレが静かに暮らせること、それだけですから。今いる場所に全てを委ねるつもりなんて毛頭ありません」
 一点の曇りもない決意を受けて、カスケードは微かに目を細めた。そこに哀れみが込められていることが、フィランの心を苛立たせる。しかし会話が平行線を辿ることは目に見えていたので、フィランは自ら視線を逸らした。
「とにかく。僕はその商人が怪しいと思います。この酒場で落としたのは間違いないんでしょう?」
「ああ、恐らくは。酒場を出て少し歩いたところで、なくなっていることに気付いたのだ」
「……」
 フィランは柔らかい髪の毛をかきむしった。この元暗殺屋、どこぞの当主に金を貰って骨の髄まで鈍ったんじゃなかろうか。
「なら中で情報を集めましょう」
「だがな。もしもダグ――あの商人が盗んだとしても、酒場で情報は得られぬのではないか」
「そんなことはありません。貴方がいかに抜けていたとして、手がかりくらいは落としていてもおかしくない」
 そう。初めからないと決め付けては、元も子もない。出来る手は全て尽くす、それがフィランのやり方だ。
 フィランは表情を引き締めると、酒神の像をすり抜けて酒場へと分け入った。内装は比較的清潔に整えられており、観光客も多いようだ。香ばしく焼いた肉や魚をつまむ人々の合間を、せっせと女中たちが給仕に勤しんでいる。賭博に興じる男たちがどっと沸けば、娼婦が嬌声をあげて勝者の腕に絡みつく。夜の酒場の様相は、浮かされたような熱気に包まれていた。
「……何処から聞くのだ」
 カスケードが問うと、フィランは仏頂面で鼻から息を抜いた。
「確かに全員に聞くのは骨ですね。仕方ありません、ここは強硬手段です」
「は?」
「少し待ってて下さいね」
 それだけ残して、フィランは場内で最も盛り上がる一角へと歩いていった。彼が立ち止まったところを見て、カスケードはぎょっと目を剥いた。


「ちょっと混ぜて貰えます?」
 賭博に興じていた男たちは明るい声にぴたりと動きを止めた。いくつもの視線が声の主に突き刺さり、驚きと呆れにとって代わる。そこに立っていたのが場違いなほどに柔和で健康そうな顔立ちをした若者だったからだ。
 良く言えば人当たりが柔らかく、悪く言えば世間知らず。そんな雰囲気をまとった若者は、空いた席に腰掛けて明るい金色の目で笑った。
「どうも。新参者ですがよろしく」
「――兄ちゃん。悪いこた言わねぇからやめときな。若いからって無理すると痛い目見るぜ」
 冷ややかな空気が漂う中、奥の方に座った男が酒を舐めながら嘲笑う。しかし若者はさして気にした様子もなく、掛け金を出して卓上の革札を見回す。それを見てある者は失笑し、ある者は呆れたように溜息をついた。そして若者を無視して賭け事が再開されようとしたときだった。
「六切り、三七、餌遣りに階段あり。女神の使い道は?」
 一瞬、時が止まったかのようだった。馬札を使った賭博の決め事を、卓上に散らばった札を見ただけでさらりと口にした若者は、札を待ちきれないというように、こつこつと指でテーブルを叩く。真顔になった男の一人が、口に含んでいた噛み葉を吐き出して探るような眼差しを若者に向けた。
「二止めだ。ついでに音消しはなし、引きは三度までだ」
「結構」
「容赦はしねぇぜ。勉強料と思ってたんまり払ってもらおうか」
 鋭い眼差しをかけられても、若者は臆した様子がない。代わりに彼は薄く笑って皮製の馬札を受け取った。


 ***


 私は、夢を見ているのか。
 数刻が過ぎ去った頃、カスケードは茫然自失の呈で若者の後姿を見つめていた。
 初め、フィランが迷わず賭博卓に向かったときは度肝を抜かれたものだ。
 やめとけ。心からそう叫びたかった。ここは素人向けの店ではあるが、相手は見るからに用心棒や無頼に片足を突っ込んだ者ばかりだ。賭博に慣れた彼らは初心者が適う相手ではない。というか何をする気なのだ。彼ら相手に一稼ぎする? それで首飾りの金を賄おうという魂胆か。それこそありえない。金二千など、店の全ての硬貨を集めたところで足りるものか。それにボロ負けしたとして、カスケードに彼の負債を払ってやるほどの余裕もない。これが無知の為せる技か。そういうことか。
 そして一人震えていたカスケードには、更なる驚愕が待っていた。
 そう、目の前で、今。

「四二、三捨て。二枚下さい。――取り取りで上がり」

 わあっと場内が沸く様は、まるで別次元を見るかのようだった。既に場内で賭博卓を見ていない客はいない。彼らの注目の先では、若者がしなやかな札捌きで次から次へと勝ちの手を繰り出す。その度にある者は盛り上がり、ある者は感嘆の溜息を漏らした。
 今や騒乱の中心人物となったフィランは、つまらなさそうに手持ちの馬札を中央に返す。彼の手元には、銀貨がうずたかく積もっていた。
「夢、ではないな」
 自分の頬をぐにぐにとつねってしまうカスケードである。

「あんちゃん、一体何処のモンだ」
 そうフィランに問いかける男の表情には、焦燥と脂汗が共に浮いている。今や牙を隠すこともしないフィランは、にやりと口元を歪めて答えた。
「さて。地獄の底からやってきた、とでも言いましょうか」
 気取った言に、娼婦たちが揃って熱い眼差しを送る。それを意にも介さぬ様子で、フィランは手元に集まった銀貨を弄くった。これ以上目の前の男たちから巻き上げれば、いらぬ暴力沙汰を引き起こす可能性がある。そろそろ引き際かもしれない。
 そう判断したフィランは、改まった様子で口を開いた。
「皆さんに聞きたいことがあるんです。――ただ、その前に」
 ぴん、と慣れた手つきで銀貨の一枚を弾き上げる。本当にこいつ元貴族か、とカスケードは戦慄する思いだ。しかし、彼は続けて更に恐ろしいことをのたまった。
「お姉さん。この酒場にいる全員に上等な酒を一杯ずつ」
「は」
 盆を抱えて若者の手練に見入っていた店員の娘が、呆けたように聞き返す。聞こえなかったのかという風にフィランは眉を上げてみせた。
「僕の奢りだと言っているんです。これ、お代」
 銀貨の山を指差す若者を見て、しかし店員の娘は固まっている。同時に卓を囲む者たちも呆気に取られて静まり返った。
「……あ、あんちゃん、何を」
「何って? これは僕の金でしょう、何をしようと僕の自由です」
 そっけない仕草で髪をかきあげて、フィランは立ち上がった。卓に指を置いて、周囲の者たちを見回す。まるで、将軍が配下たちを見定めるような眼差しだった。
「いいですか、少しでも恩義を感じたなら情報をよこしにきなさい。ダグという商人の情報が欲しい。じゃあ、その辺をぶらついているので」
 よろしく、とにっこり笑ったフィランは、踵を返して一直線に出口を目指した。若者が出て行ってからも、暫く酒場は静まり返ったままだった。


 ***


「いや、これはどういうことなのだ!?」
 店を出た瞬間、カスケードはフィランに詰め寄った。
「あれは何だ、賭博が出来るなど聞いておらぬぞ」
「ちょっとやんちゃな時代がありましてね。まあ、地方の酒場くらいでしか通じない手ですよ」
 さらりと言ってのけたフィランは、説明するのも面倒という具合に目を眇めた。その様を見て、カスケードは首を振ってしまう。前々から思い切りの良い若者だとは思っていたが、まさかここまでとは。
「しかし、これで情報が来なかったら……」
「来なかったら来なかったでそのときです。大体、二日前のネタが酒場に残ってる方が奇跡なんですから」
 フィランはそう言ったが、程なくして酒場から出てきた商人風の男に声をかけられた。
「いやはや、素晴らしいものを見せて頂きました」
 背後には二人の奴隷を従わせており、更に輿が用意されている。中々に富裕な夜を楽しんでいるようだ。
「あの手捌き、あの落ち着き。何よりあの気前の良さ。もしや、さぞ名のあるお方なのでは?」
「……」
 先ほどとは打って代わって、フィランの表情に温度はない。それを見て余計な世間話は無用と気付いたらしく、商人風の男は笑って本題に入る。
「ダグですか。あれは臆病だが狡賢い男だ。総督の腰巾着になってからは、かなり汚い仕事にも手を染めていると聞いていますよ。あなたが欲している情報はもしや、二日前の彼の動向ですか?」
 指摘されて、フィランは内心でどきりとした。探るように見返すと、連なる酒場の灯りに頬を浮かび上がらせた商人風の男は深く頷いた。
「いや、ダグの情報を知りたがるということで、ピンときましてな。二日前、私はダグがあそこで飲んでいるところを見ていたんですよ」
 それはつまり、カスケードとダグの邂逅を目撃していたということか。
「何か不審な点はありませんでしたか?」
「はっきりと話を聞いたわけではありませんが、ダグはしきりにオルティア家のことを気にしていたようでしたな」
 そうなんですか、と隣に聞こうとして、フィランは眉をあげた。カスケードが、すり足で後ずさっている。話しかけてくれるな、と全身で告げるようだったので、フィランは商人との会話に戻った。
「それで、他には?」
「うーん。これはダグに直接関係のないことなのですがな」
 商人は猫のように目を細めてあわせた手を口元に当てた。
「デフィスというスリの男が、獲物を狙ってうろついていたのです。そいつがダグの話し相手に不自然に近付いていったものですから、ダグがいなければ声をかけてやろうと思ったのですが……どうされました?」
 話す内に肩を震わせ始めたフィランは、クワッと目を見開いて背後を睨みつけた。
「ちょっとカスケード!? 単に掏られただけじゃないですか、一体どこまで抜けてるんです。情けないったらないですよ!?」
「お、おい馬鹿! その名前を――」
「うん、カスケード?」
 商人はつと隣に立つカスケードに目を移した。あ、とその口が開かれた。

 男二人の野太い悲鳴があがったのは同時であった。

「お前、俺の商品を台無しにした奴だな!?」
「に、逃げるぞフィラン!!」
「えっ、えええ!?」
「おい追えッ! 逃がすなーーっ!?」
 商人が命じると、慌てて奴隷たちが掴みかかってくる。フィランとカスケードは身を捩じらせて第一波を避け、そのまま走り出した。
「な、何なんです!?」
「言ったろう、例の首飾りを探している途中で別の商人の商品を壊してしまったと」
「一々何やってるんですかあなたは!?」
「とにかく逃げるぞ!」
「あーもう!!」
 夜の人ごみをかきわけて走り抜ける。しかし少しも行かない内に、フィランとカスケードの距離が離れ始めた。カスケードは元暗殺者とだけあって人の避け方がうまいのだ。最小限の動きで蛇のように人の合間を縫う後姿を見て、フィランは舌打ちをしながら足を速めた。こういう暗殺者らしいところに、どうして性格が追いつかないのだろうか。

「それで、デフィスという男はここに住んでいるんですね?」
 商人の手を振り切った後、賑やかな歓楽街の一角で、フィランは安っぽい造りの集合住宅を見上げた。カスケードの情報によると、スリの犯人候補はこの住宅の最上階を住処としているそうなのだ。
「ああ、前に仕事で捕まえたことがあるのだ。あの時は反省して真面目に働くと言っていたが……」
「あなたみたいなカモがほっつき歩いている世の中じゃ、誘惑的すぎますからね」
「お互い様だ。お前も逃亡中は私たちよりもその辺の盗賊に襲われることの方が多かったんじゃないのか」
「う、うるさいです。こちらには余裕がなかったんですよ。あなたには関係ないでしょう」
「関係ないものか!? 追うこちらも奴らに襲われたのだぞ。大体お前の無茶な判断は目に余るのだ。フォルナムの森で悪趣味な罠を仕掛けて逃げただろう、後から来た私たちと怒り狂う盗賊が鉢合わせになったあの恐怖がお前に分かるか!?」
「分かってたまりますか!? そもそも貴方は命のやりとりがどういうものであるか――ああもう、さっさと行きますよ!?」
 怒りの勢いでフィランは家に踏み込みかけ、出会い頭に人影と衝突した。
「デフィス!?」
「っ!?」
 出てきた中年の男はカスケードを見るとぎょっと肩を跳ね上げ、夜道に逃げ出そうとする。しかし、同時にカスケードの足が、豹が獲物を捕らえるような素早さで大地を擦った。音を立てることなくデフィスに飛び掛り、首根を押さえて引き倒す。
「貴様、首飾りを返してもらおうか」
 低い声で唸るように凄むと、デフィスは細い腕を哀れに動かし、慈悲を乞うた。
「いてぇ、やめてくれよ。なんだよ、突然――ふぐっ」
「さっさと話せばこれだけにしておいてやる」
 苦痛を与える箇所にわざと拳をめり込ませ、カスケードは首飾りの在り処を質す。すると、デフィスは涙ながらに犯行を認めた。しかし盗んだ首飾りは別の根城に置いてあるのだという。
 この時点で既に売り飛ばされていたなら潔くカスケードを見捨てようと決心していたフィランは、内心で舌打ちをしてデフィスの隣にしゃがみこんだ。
「ならさっさと案内して頂きましょうか。僕はね、こんな茶番を一刻も早く終わらせて帰りたいんです」
 優しく微笑むその目が全く笑っていないためか、デフィスは恐怖に顔を引きつらせ、カクカクと首を縦に振った。
 その時、にわかに背後が騒がしくなった。怒声と悲鳴が沸き起こり、フィランはそちらを見て愕然とした。
「逃げろ! 造営官の取り締まりが来るぞ!」
 先ほどまで賑やかだった歓楽街が一変し、戦神が風を噴き回したような混乱に満ちていた。店がまたたくまに戸を閉め、逃げ惑う娼婦や詩人、客たちで道々が混沌を呈す。その向こうから、夜に眩い松明の光を持つ無数の影が、無慈悲な行進を続けては人々を捕らえているのだ。彼らの罪状を、耳が痛くなるような大声で叫びながら。
「歳長けきメデアの名においてここに告げる。オルティア家のテリウスの命である! 恐れ多くも皇帝のご崩御なさられたこの期に及び、なんたる堕落! なんたる放埓! 乱れた風紀を正し、真なる正義を打ちたてよ!」
「な……何がどうなってるんですか」
 彼らが都市の治安を取り締まる造営官たちであることを、その特徴的な身なりから理解したフィランは、背筋に寒気を感じた。大会議中とはいえ、このように歓楽街が一斉に取り締まられるなど、聞いたことがない。
 しかも間の悪いことに、蜘蛛の子を散らすように走り去る人々の合間でデフィスを取り押さえるフィランたちの姿が、造営官の目に止まった。
「そこの者、暴力及び略奪に属する卑劣な行為は厳罰に値するものと知れ!」
「――っ」
 造営官の手下らしき奴隷たちが、長い警棒を持って襲い掛かってくる。どちらが暴力の徒だ、と叫びたいがそうもいかない。十名を数えるほどの人数に、逃げられないと瞬時に判断を下したフィランは、一人目に自ら突撃して肘内を食らわせた。二人目が振りかぶった棒を腕で防ぎ、膝を落として下からせり上げるように顎に掌底を打ち付ける。だが、三人目の突進を避けることができず、共倒れになってしまった。反射的に膝を振り上げて振り切ったが、次々と新手が遅いかかってくる。こうなってはフィランが足止めをし、その間にカスケードを逃げさせるしかない。ここで別れれば落ち合うことは不可能だろうが、もう十分に義理は果たしたつもりだ。さっさと逃げろ、と叫びかけたとき、フィランはそこに本人がいないことに気付いた。代わりに、脱兎のようにデフィスが駆け出している。
「え?」
 黒い影が闇を縫うように駆け抜けたのはその時だった。次の瞬間、奴隷の一人に影が重なる。その奴隷が音もなく崩れ落ちるのを見守る間もなく、フィランは腕をとられて横道に連れ出された。
「安心しろ。先ほどの奴隷は暫く呼吸できないだろうが、死にはしない。こちらだ、急げ」
「ちょっと、貴方――」
 カスケードは細い道をいくつも折れて、雑多な瓦礫が積んである場所を軽々と飛び越えると、大通りの方を伺った。
「テリウス殿の命とか言っていたな。ありえない、あの方がこんな無茶な方法で……」
 灯りのない夜道でも、カスケードがまるで平静を失っていないことは、声の調子から簡単に察することができた。それが、フィランの不審と苛立ちに火をつけた。
「カスケード。あなた、何やってるんです」
「む? 何がだ?」
「何がって、あなた……」
 眉間に皺を寄せて、フィランは声を鋭くした。
「何故デフィスを逃がしたのかと聞いています」
「ああ。お前が造営官に捕まったら面倒だろう。あの人数ではお前でも苦戦したはずだ。だが、顔もほとんど見られなかった筈だ、問題なかろう」
 失笑するほどの、馬鹿馬鹿しい答えだった。フィランは侮蔑の呼気を唇の端から押し出した。
「……それで僕を助けた気になっているんですか」
 フィランの発言に温度がないことに、カスケードが振り向く気配があった。フィランは淡々と詰問を続けた。
「あなたね。職を変えて頭が緩くなったと思ってましたが、ここまで失望させてくれるとは思いませんでしたよ。僕より自分の心配をしたらどうです? どうしてむざむざ犯人を逃したりなんかしたんですか。もう明朝には間に合いませんよ」
「逃がさなければお前が捕らわれていたではないか」
「は――」
 脳髄が焼かれるような激しい嫌悪感を覚えて、フィランは声を荒げた。
「馬鹿じゃないんですか。目的を失ってまで僕を助けて、あなたに何の利があるんです。結果的に何もかもただの無駄骨に終わっただけじゃないですか」
「ならばお前を見捨てれば良かったとでも言うのか?」
「そうですよ。それなら僕だって諦めがついたものです。そもそもあなたの脅迫で働かされてたんですし、自分の身くらい自分で始末をつけます。それをここまで見事に裏切ってくれて、失望もするというものです。僕を助けて安い自己満足にでも浸ってるんですか?」
 ふと、静寂が二人の間に落ちた。カスケードは闇に紛れて、しかし、じっとフィランを見つめているようだった。怒りを放った筈が、逆に追い詰められたような心地に、フィランは唇を噛み締めた。
「フィラン」
 カスケードはフィランの名を呼ぶ。そこに、深い闇を見つけたように。
「お前は、あの家の者たちの前でもそのように振舞っているのか?」
 問いかけは、肌に棘となって突き刺さる。小さな傷が、やがて痛みを放ち始める。
「何故、そんなことを聞くのですか」
「あの家は、お前にお前が望むようには接してはくれないだろう」
「余計なお世話です」
「お前は何をそんなに恐れているのだ」
 今度こそ、呼気を止められた気がした。無様に心が揺れ動くのを自覚して、フィランはカスケートに掴みかかりたくなる衝動を必死に堪えた。目の前の男を否定したい。何も聞きたくない。見たくない。
「おい、フィラン」
 名を呼ぶな。聞いてしまったら、見てしまったら、浅ましく期待してしまうではないか。信じてしまうではないか。自分の足で、立っていられなくなるではないか。


 そしてまた自分は、あの時のように。


 誰にも依らず、誰よりも強く、鋼の意思を持って生きようとした瞳が、歪む。そこに、自分の本質と闇があることを、理解してしまっているからだ。
「うるさいです、黙ってください」
 心が盾を振りかざすように、他者を拒絶する。理解などされなくていい。誰に見放されようと、この身体は愛しいものを守るために生きていける。だから。
「――うるさいんですよ、貴方は」
 押し出すように告げ、カスケードが再び口を開きかけたそのときだった。
「……フィラン?」
「え?」
 突如、後ろから名を呼ばれる。良く知った声だ。しかしこの場にはあまりに似つかわしくない、意外すぎる声であった。
 振り向くと、灯火を持った人影があった。そっとヴェールをもたげ、灯りにその表情を露にする――。
「ま、マダム・クレーゼ!?」
「まぁ。おかしなところで会うものね」
「いやそんな呑気に返さないで下さい」
「なんだ、知り合いか?」
 カスケードが不思議そうに首を向けてくる。するとクレーゼはそっとヴェールを戻した。
「お取り込み中のようね。お邪魔だったかしら」
「……いえ。マダム・クレーゼ。何故あなたがここに」
「あら。あなたこそ何故ここに?」
 悪戯っぽく聞き返されて、気まずげに目を逸らすフィランである。お忍びなのはお互い様だったようだ。
 若者の困惑を見てとると、クレーゼはくすくすと笑った。
「困らせてしまったわね。ごめんなさい、つい気持ちが浮ついてしまって」
 フィランはヴェールに身を包んだクレーゼをまじまじと見つめる。たった一人で危険な夜に出歩くなど、何を考えているのだろう。
「お困り事かしら?」
「ええ、ちょっと。いや、すごく困ってます」
「まあ」
 頬に手をあてたクレーゼは、少し考えてから気遣わしげに見上げてくる。
「私でよければ力になるのだけれど……」
「ならば、私から説明させて頂く」
 カスケードが事情を説明し始めると、クレーゼは初め静かに聞いていた。しかし次第にその目を丸くし、ある人物の名が出た瞬間、彼女は思わずといった様子で話を止めたのだった。
「テリウス? 今、――テリウスと言ったの?」
「ええ。オルティア家の当主、テリウス殿です」
「……」
 クレーゼは暫く沈黙した後、打って変わって静かな声で告げた。
「そう。あの子が……」
 老女の顔は暗がりに隠され、感情の推移が伺えない。黙り込んでしまった老女を前に、フィランとカスケードは再び顔を見合わせた。




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