-黄金の庭に告ぐ- <第一部>5話:貴族はつらいよ 02.誰かがこれを、やらねばならぬ 本国より遥か西方に位置する属州ティレイアの州都ティシュメ。二つの川が出会い大河となる、その縁にそそり立つ山の麓に成った都市である。 西部の豊かな実りや鉱物を求めて商人が集うこの州都には、帝国各地の珍しい商品が集まってくる。往来は威勢の良い声で溢れており、道行く人の服装も様々だ。力強く生き続く彼らの脈動は、ヴェルスとは比較にならない規模で都市を賑わせていた。 「そういやフィラン、お前さん、ここに知り合いの貴族はいないのか?」 もしそうなら、身分を捨てたフィランは面倒な思いをするかもしれない。そんな気遣いを込めた問いに、フィランは苦笑しながら首を横に振った。 「いるわけがありませんよ。僕は貴族なんて名ばかりの分家出身ですから。家名でさえ知ってる人がいるかどうか」 「確かにテメェ貴族っぽくねぇしな」 「うるさいですよ。ジャド、あなたこそもう少し慎みを覚えたらどうです。ほら、そんな適当に積んだらまた倒れるでしょう!? オーヴィンももたもたしないでください」 「うーん、この荷物の角度が、もう少しこう」 「どうでもいいでしょうが!?」 議員用の宿舎の裏口で配下たちが騒ぎながら荷降ろしに精を出す一方、正門ではギルグランスとレティオが宿舎の主の歓待を受けていた。 「これは、ヴェギルグランス殿。よくぞはるばるいらっしゃいました。天の御恵みがありますように」 年老いた宿舎の主は、ギルグランスを見て目を細めた。ティシュメの役人でもある彼は、ギルグランスの父の代からの付き合いがあるのだ。続いて馬車から少年が降りるのを見つけると、老人の瞳は嬉しそうに輝いた。 「レティオ。すっかり逞しくなりましたな」 顔には出さなかったが、レティオは内心でムッとした。自分の名前も、愛称ではなく正式な名で呼んで欲しかったのである。だが、彼は己に求められる態度を忘れることはしなかった。 「……貴方様においても、ご壮健で何よりです。天神の祝福が届きますよう」 「はは。口ぶりもすっかり一人前になって」 レティオは握った右手の拳を左の肩につけ、帝国で定められた敬礼をした。早く認められたいがために、胸の内を悶々とさせながら。当主は隣で苦笑するばかりであったが。 「マダム・クレーゼ。遠路はるばる、疲れたことだろう」 途中でギルグランスたちの馬車に乗り換えたクレーゼは、差し伸べられたギルグランスの手を取って童女のように笑った。 「いやだわ。この程度で音を上げると思われているなんて」 「おや。ヴェギルグランス殿。その方は新しい奥方ですか?」 宿舎の主に問われて、ギルグランスはニヤリと唇を歪めた。 「無論――」 「違いますよ、うふふ」 がつ、と階段にかけられた当主の足が滑る。言わんこっちゃない、とセーヴェは力なく首を振った。 「相変わらず自由な日々を過ごされているようですな。神の怒りと女の怒りは何処で買うか分からんもんです、お互い気をつけましょう」 当主の気質をよく理解している宿舎の主の意味ありげな感想に、ギルグランスは気まずげに咳払いする。その横で満面の笑みを浮かべたまま、クレーゼはベルナーデ家の奴隷たちに囲まれて奥へと進んでいくのであった。 「……はて、あの女人、どこかで見たような」 一団が去った後、宿舎の主は立ち止まって呟いた。しかし奴隷が次の来客を知らせたため、疑念は尾を引くことなく、彼もまた慌しい一日に埋没していくのであった。 「部屋はともかく、中々いいところじゃないですか」 木張りの窓を苦労して開き、淀んだ室内の空気を追い払うと、フィランは外の景色に感嘆の声をあげた。広範な町並みの向こう、雄大な山が青空に美しい稜線を描き、その麓に横たわる大河の周りには無数の橋がかかって人々の営みを印象付けている。しかも海に近いこの大河では、他にはない美味な魚がとれるのだという。流石にそんな暇はないだろうが、庶民街で遊べばさぞ楽しいだろう。 「ああ、宿以外はいいところだよ、ティシュメは」 部屋の隅にどっかりと腰を下ろして、オーヴィンが欠伸をする。彼らにあてがわれたのは宿舎の裏手にある安宿の三階である。当主の急事にはすぐに駆けつけられるものの、階上であるために水を汲むにも一階に下りねばならぬ不便で窮屈な部屋であった。 「確かにここで寝たくはないですね」 オーヴィンは屈強な腕を膝に置いて、薄く笑った。 「安心するといい。ここで寝れるなんて贅沢は考えない方が幸せだよ」 「はい?」 「んん、あの親父がじっと宿舎に引きこもってくれると思うか?」 「……」 振り向いたフィランの背筋に、寒気が走った。だから馬車で寝とけっつったのに、とジャドがニヤニヤしてくれる。しかし色を失ったフィランに苦笑したオーヴィンが、気を回して声をかけてくれた。 「まあ、お前さんはティシュメが始めてからな。今日の昼間はオレとジャドでやっとくから、下見もかねて見物に行ってきたらどうだ」 「いいんですか?」 「明日からはそれどころじゃなくなるしなあ。風呂に行きたいって言ってたろ、今の内に行ってきな」 それを聞いた瞬間、若者の目がぱっと喜色に輝く。 「じゃ、遠慮なく」 フィランはいそいそと自分の荷から必要なものを取り出して、燦然と立ち上がった。彼の手にあるものを見て、オーヴィンとジャドが顔を引きつらせる。 「……なんだそれ」 ジャドが恐る恐る問うと、フィランは戦いに目覚めた神のような面持ちで振り向いた。彼の腕に抱えられているのは、木桶と厚手の布が数枚、垢擦りべらと剃刀、香油と着替えにその他諸々。――完膚なきまでのお風呂セットであった。 「なんですか。これを持って戦場に行くとでも?」 「それ、全部自前か」 「当たり前です」 流石のオーヴィンも感心して唸ってしまった。フィランは顎を引いて表情を精悍に引き締めた。 「男には、やらねばならぬときがあるのです」 「こういう時に言うセリフじゃねぇぞオイ」 ジャドのツッコミを無視して、フィランは上機嫌に歩き出す。今にも「るんるん♪」と鼻歌でも聞こえてきそうな足取りだ。 「おーい、夕方には戻ってこいよ」 「分かってまーす」 聞いている側としては気味が悪いくらいの嬉しそうな返事を残し、若者は宿を出ていったのであった。 *** 二つの河が出合う町、州都ティシュメ。その二つ名の通り、都市は大河が合わさる位置に寄り添う山の麓に張り付くようにして建っている。悠然と聳える霊山は、吹き付ける北風から都市を守るのは勿論、他の地方にはない恵みを人々に齎しているのであった。 フィランは坂道を上りながら、町並みや道行く人々を物珍しげに眺めていた。彼と同じように坂道を登る人々は皆、木桶や浴布を手にしている。端には軽食を売る色とりどりの屋台がずらりと軒を連ね、魚を焼く香ばしい匂いが漂って食欲を誘う。そう、この道はティシュメの名物である大浴場に続く有名な温泉街なのである。 通常の都市にある浴場の湯は、単に水道水を沸かしたものを使っている。しかしこのティシュメでは、山から湧き出す天然の温水を使用しているのである。白く濁ったその湯は体をよく温め、病に効果がある他、肌も白くなるということで男女問わず絶大な人気を博している。湯治や美容のために遠くからやってくる旅行者は絶えず、ティシュメは通商の中心地であると共に観光地として栄えを得ているのである。風に混じる独特の湯の香りに、フィランは歩きながらにんまりとした。 坂道をあがりきると、ぱっと視界が開けてフィランは息を呑んだ。山の斜面を切り崩したそこには、巨大な列柱に囲まれた荘厳な建物が、陽光に照り輝いていた。整備された石畳には、無数の神々の彫像が飾られ、旅行者の子供たちが合間を走り回っている。中央の台座に最も高く座しているのは天神の妻にして歳長けき女神メデアだ。この都市の守り神でもある女神の牝牛のように優しい眼差しに見下ろされ、フィランは少年のように頬に血を上らせた。 「……すごい」 喧騒ですら遠くなるような景色に心を打たれ、しみじみと呟く。ティレにも見せてやりたい光景だ。 脇の方では商魂たくましい女たちが、土産物や飲料を売っている。特にプラクという牛の乳を発酵させたものに蜂蜜水を混ぜた飲み物は、すっきりとした酸味が特徴であり、上がったら必ず飲もうとフィランが心に決めていた名物品である。しかし、身なりの良い男が屋台の前で何やら文句をつけているようだ。浴場は公用地であり、勝手な屋台の経営が認められていないのだろう。女はだんまりを決め込んでいるが、男は引こうとしない。 「またテリウス様だよ」 「あそこまで商人を目の仇にしなくたってねえ。真面目なのか暇なのか」 「あれさえなけりゃ、いい人なんだけどねえ」 そんな囁きが群集の合間から漏れ聞こえてくる。この辺りではよくある光景のようだ。しかし振り向いた男が周囲を睨むと、人々は揃って目を背けるのであった。男は忌々しそうに彼らを見やると、奴隷を伴って去っていく。 そんな光景にさして興味も沸かず、浴場に入ろうとしたそのときだった。 ざわっと空気が沸き立った。元軍人の血が反応し、フィランは反射的に背の槍に手をかけながら振り向いた。短い悲鳴が交錯したのは、食べ物屋の建物内からであった。程なくして、入り口から一人の男がまろび出てくる。鍛えられた体つきをした中年の男だ。それを追って出てきたのは食べ物屋の女将。眦を吊り上げた彼女は、杓子を振り回しながら大声で叫んだのであった。 「お待ち!! 食い逃げは許さないよっ!」 そう言うなり、人々を押しのけて男を追う。どうやら逃げているのは無銭飲食に走った愚か者らしい。犯人の逃亡経路に立っていたフィランは揉め事を嫌ってその場を退散――しようとした。 だが、大地を見下ろす神々は気まぐれなことでも有名である。妙に慣れた動きで走る男とフィランの視線が交わったそのとき、男は太い眉の下にある目をクワッと見開いたのであった。 「き、貴様はっ!?」 「え?」 「た――助けてくれっ」 フィランは瞠目して後ずさりした。いや、こんな男に見覚えはない。 「あの、人違いです」 そんなフィランの発言など気にもせず、男はがっしと肩を掴み、こう詰め寄ったのである。 「金を貸してくれ!」 なんでだ。 というかアンタ、誰。 フィランは心の底からそう思ったのだが、口にだす前に女将が追いついてきた。 「さあ、出すもの出してもらおうか!?」 胃の腑が縮こまるような怒声に、周囲の注目が集まる。女将は男に縋りつかれたフィランをギロリと睨めつけてきた。 「アンタ、こいつの知り合いかい? なんとかしとくれよ!」 「え、いえ……ものすごく無関係なんですが」 「貴様、私を忘れたというのか! 貴様にとってあの日々は嘘だったのか!?」 「変な誤解を招く発言はやめて下さい!?」 ヒソヒソと話し合う乙女たちを横目に青くなるフィランである。だが少し落ち着いてみると、確かにその男の声には聞き覚えがあった。そう、この声は――。 「……まあ、すぐに分からないのも無理はない。あのとき、私は顔を隠していたからな」 男がそう言った瞬間、稲妻のようなひらめきが走ってフィランは口を開いた。 「ま、まさか」 「いいからさっさと代金をお寄越し!」 「ひっ」 地元のおばちゃんに迫られて、フィランは視線を男に向ける。男は弱りきった顔で頷いた。頼む、と言わんばかりの表情。既に膠着状態にあり、穏便な解決の為に動けるのは自分しかいない。そんなことを自覚せざるを得ない今日この頃。 「……分かりました。いくらですか」 根畜生と心の中で呟いてから、フィランは財布の紐を解くのであった。 *** 「あなたね」 「面目ない」 持参の木桶を恨めしげに見やりながら、フィランは深々と溜息をついた。あの場に留まるにはあまりに衆目を集めすぎたため、ひとまず男を連れて落ち着ける店に入ったのだ。男はすまなさそうに項垂れている。 それはかつてはるばるヴェルスまでフィランを追いかけ続けた殺し屋の長その人であった。ベルナーデ家に捕らえられたときには顔を布で隠していたために気が付かなかったが、仄暗い眼光や低い声には確かに覚えがある。 何度ついたか分からない溜息を、またつくしかない。まさか自分を殺そうとした人物を助けることになるとは思っていなかったフィランである。しかも罪状が食い逃げときた。 「……こんな人たちに追われ続けた自分が情けないですね」 「ち、違うのだ。このようなことになる筈ではなかった」 素面を晒した殺し屋の長は、眉間に懊悩のしわを寄せて首を振った。雑に切った濃い橙色の髪は後ろで結わいてあり、彫りの深い顔にはどっしりとした大人らしさがある。こうやって見ると、何処にでもいるちょっと強面な筋肉質の親父であった。着ている服も一般市民の着る短衣だ。 「じゃあ教えてもらいましょうか。金二百五十も渡されてティシュメで何もかも忘れて何一つ不自由なく素敵なまでに幸せな生活を始めたはずのあなたが何故どうして温泉前の食い物屋で無銭飲食したのかその理由を僕に分かるように簡潔にまとめて説明して貰えますよね今すぐ可及的すみやかに?」 ここまで一息で言い切るフィランの眼光に、流石の殺し屋の長もたじろいだ。フィランとしては一刻も早く風呂に浸かりたい思いで一杯なのだ。 「ああ――あの金は、確かに良かった」 殺し屋の長はそう言ってから、フィランを見て慌てて取り繕った。 「いや、無駄に使ったのではない。我々は話し合って決めたのだ。もう、あのような商売はやめようと」 そこで彼は一度言葉を切った。観光客で賑わう店内に、明るい竪琴の音が鳴り続いている。 「他人にどう思われようが構わぬ。我々は、そう決めた」 フィランは無言で水を啜った。金を得て人を殺す仕事は、いつの時代でもある商売だ。そして仄暗いそこに一度足を踏み入れてしまえば、抜け出すことは早々叶わない。逃げ出した者にはいつか制裁が下る、それが彼らの不文律だった筈だ。 しかし殺し屋の長は言い訳をしなかった。疲れた目をぼんやりと彷徨わせる彼を、フィランは詰る気になれなかった。フィラン自身も、追うべき責務を投げ出した身だ。生きていれば、様々なことがある。彼らの思いは、きっと彼らにしか分かるまい。フィランの思いが、固有のものであるように。 殺し屋の長は、ティシュメに来てからのことをぽつぽつと語りだした。 彼らは初め、便利屋として商売を始めたのだという。ギルグランスから貰った金を元手に建物を買って事務所とし、元暗殺者としての鼻と腕を武器に、市民の悩みに真っ向から立ち向かったのである。すると思いの他うまくいった。護衛から情報収集、子供のお守から犬の散歩まで、人員を回しつつやりくりしていくことで、依頼は順調に増えていったのである。 しかし、と殺し屋の長は表情を暗くした。ある日、店の評判を聞きつけた一人の貴族が彼らの元にやってきたのだという。 貴族の名はテリウス・レグル・オルティア。ティシュメでもとりわけ地位の高い名家の当主だ。その名を聞いて、フィランは微かに目を見開いた。あの温泉の前にいた男のことだろうか。彼の依頼は、三綴りの白真珠の首飾りの調達であったらしい。 「白真珠? 貴族の当主なら、そんなことをしなくても手に入りそうですが」 フィランはそう眉根を寄せた。白真珠は、宝石商人の手で帝国に広く流通する装飾品だ。庶民の手には届かぬ代物だが、裕福な貴族にとっては珍しいものでもない。 「うむ。しかし、依頼主の御所望は、涙型の白真珠であったのだ」 殺し屋の長は深刻そうに説明した。海中に住む貝からとれる真珠には、美しい球以外にも様々な形をしたものがある。大抵歪なそれらは屑真珠と呼ばれて安価で取引されるのだが、時折生まれる特殊な形状をしたものには、球形のものよりも高い値がつくのだ。涙型の真珠も、その一種であった。 「ちょっと待って下さい。それだって、奴隷に探させれば手に入るでしょう。わざわざあなたたちみたいな強面に頼む理由が分かりませんよ」 「……強面は余計だ」 流石の殺し屋の男も気に障ったのか、憮然と言い返した。 「いいか。この都市には複雑な事情があるのだ」 彼は、木の椀に乗った干し果物に手を伸ばしながら、小声で話し出した。 二つの河が出合い、交わる州都ティシュメ。しかしその実、人間社会では二つの勢力が対立している。一つは総督から名誉を賜り、ティシュメに長らく栄える貴族たち。そしてもう一つは、通商の地としても有名なティシュメの大動脈を司る商人たちだ。 文武を尊ぶ帝国において金は人の目を晦ます卑しいものとされ、商人の身分は平民の中でも低い。商才のある者は富豪になることは叶っても、貴族たちの前では頭を垂れなくてはならないのだ。 貴族の言い分からすると、彼らが自由に都市を行き来して物が売れるのも、帝国貴族が国を守り、街道を整備してやった為ということだ。商人もその道理は分かっており、貴族に従うことを常としてきた。 しかし、力をつけたティシュメの商人たちはこの扱いに満足しなかった。真の富を持つは我らだと考えた彼らは組合を結成し、権力を狙って貴族に歯向かったのだ。 「初めはふざけた嫌がらせだったらしい。落とし穴を掘るとか、扉に水が入った桶を仕掛けるとか」 「……暇そうですね、あなたたちの都市」 「違う! これは深刻な問題なのだ」 殺し屋の長は苛立たしげに首を振った。 「両者の関係は日に日に悪化している。今となっては殺しに至らないのが奇跡的な程だ」 聞けば、そのことで殺し屋の長たちも随分と苦労したのだという。フィランは頬杖をついて目を眇めた。 際限なく富と権力を望むのは人の性だ。そうして得られる筈の権力が得られぬとき、人の心は逆上の炎に包まれる。フィランにとってはどちらの事情も知ったことではないが、気持ちは理解できた。繁栄の陰には必ず闇がつきまとう。人の世が醜いのは、どのような上面を被せようと同じようなものだ。 「依頼者のテリウスは、特に商家を嫌っていることで有名なのだ」 「ああ。だからあなた方に仲立ちを頼んだ、と」 フィランは納得した。涙型の真珠などという貴重品の情報は、商家を渡り歩かなければ得られぬものだ。テリウスという貴族の当主は、故に家とは関わりのない便利屋を使うことにしたのだろう。 「無論、依頼主の名は明かさぬようにと厳命された」 「そうですか」 仏頂面で干し果物を噛み砕いたフィランは、それを飲み込むと一拍おいて、にこりと笑った。 「で、それがあなたの食い逃げとどう関係が?」 ここまで長々と説明しといて大した話じゃなかったらただじゃおかねえ、と眼差しだけで問いかると、殺し屋の長はややのけぞった。 「い、いや。それがな……」 言いにくそうに、殺し屋の長は口元を歪めた。 曰く、彼は仲間と共に商家を巡り、目的の品物を発見したそうなのだ。かなりの金額であったが、依頼主にためらいはなかった。値段分の金を渡された殺し屋の長たちは、商家で真珠の首飾りを買った。 「そこまでは良かった」 「ええ」 「だがな、事故があった」 「どんな事故ですか」 「帰り道で首飾りを紛失した」 「え」 「六人総出で探し回ったが、そのとき誤って別の商人の売り物を台無しにしてしまって」 「は」 「怒り狂う彼から逃げ惑って六人とも散り散り、事務所はその商人に抑えられて近づけぬ」 「……」 「それで仲間を探していたのだが、腹が減って、つい」 いやお前だからって食い逃げはないだろうと突っ込む前に、フィランは眉を潜めて尋ねていた。 「つまり、依頼主の金で買った大切な品を失くしてしまった――ということですか」 「そういうことだ」 「ちなみにいくらですか」 「金二千」 フィランは、血の気が引いていくのを感じた。 「それって、すごくまずいんじゃないですか」 「ああ、そうだ」 「……」 「……」 フィランは、木桶を抱えると無言で立ち上がった。殺し屋の長は素早くその裾を掴んだ。 「離してください! 僕は無関係です!?」 このような揉め事に関わるなど冗談ではない。フィランは逃げ出そうとするが、相手も必死だ。 「た、助けてくれ! 共に首飾りを探してほしいのだ」 「なんで僕が助けなきゃいけないんですか! 折角風呂に入って仕事に清々と勤しもうって時に」 ぎゅうぎゅうと揉み合っていると、奥から主人が慌てて叫んだ。 「お客さん、暴力は勘弁ですぜ! やるなら外でやって下され」 「頼む」 懇願されて、フィランは渋面を浮かべる。本気で勘弁して欲しかったのだ。すると殺し屋の長は、ややためらってから、低い声で告げた。 「こんなことを言いたくはないのだが――お前は私に借りがある筈だ」 一瞬、言葉の理解に至らず、フィランは返す言葉を見失う。だが、乾いた布を水がじわじわと浸食するように、不安が喉元まで競りあがった。服の裾を掴んだまま、殺し屋の長は静かな眼差しでこちらを見上げる。そして紡がれた言葉は、フィランの思考を確かに貫いた。 「私はあのとき、あの娘の正体を明かさなかった」 殴られたかのごとき衝撃に、フィランは唇を震わせた。全身が氷のように冷たくなり、呼吸が掠れる。殺し屋の長は、噛んで含めるように続けた。 「そうだ、私は依頼主から聞いて知っていた。お前とあの娘の事情も全て。ベルナーデ家に囚われたとき、私は真実を語ることもできたのだ」 ごくりと息を飲み込むと、凍えた光を瞳に湛え、牙を剥くように男を見下ろす。 「……何故、言わなかったのです」 峻烈な殺気を込めた眼光に、しかし殺し屋の長は怯まなかった。こちらを見返して、殺し屋の長は僅かに目を細めた。 「ギルグランス殿といったか。あの当主殿と同じだ。我々とて、……もう、いらぬ血を見たくなかった」 フィランは不可解さに顎を引く。あの時真実を口にされていれば、事態は完全にひっくり返っていただろうに。眼前の、自分よりずっと歳を重ねた男の考え方が、フィランには全く理解出来なかった。理に沿わぬその生き方に、フィランは苛立ちを覚える。嫌悪に近い、苛立ちを。 二人の間には暫くの沈黙が落ちた。フィランはじっと机の染みに視線を落としていたが、ややあってようやく肩の力を抜く。殺し屋の長が手を離したが、フィランはもう逃げるつもりはなかった。 「全く。恨みも借りも、何処で買っているか分からないものですね」 苦悩を塗り込めて吐き捨てる。殺し屋の長は、ふと口元を歪めた。 「人の世は、持ちつ持たれつ。そういうものだ」 「冗談じゃないですよ。いいですか、今回の協力で借りは返します。その代わり、今後そのことを口にして御覧なさい。八つ裂きじゃ済みませんよ」 「心得た」 フィランは煩わしい杏色の髪をかきあげて、腰に手をやった。 「あなたの名は?」 「ああ。そういえば名乗っていなかったな、半年も追いかけていたのに」 「出来るなら一生知りたくありませんでしたよ」 憎まれ口を叩くと、殺しから足を洗った男は薄く笑った。 「私はカスケードと呼ばれている」 そう名乗り、こちらをまじまじと見つめて続ける。 「お前の名は確かフィラルディーンだったな」 「その名前で呼ぶのはやめて下さい。僕のことはフィランと」 反射的に言うと、カスケードは怪訝そうに見返してきた。 「神に捧げた名ではないのか」 フィランはふっと笑って、首を振る。神の前で誓った名は、今の彼にとってただの枷でしかない。神も貴族も、彼の前では意味を成さないのだ。 「捨てましたから。神の祝福なんて、僕には必要ありません」 カスケードは何かを言いかけたが、そうかと返すに留めた。フィランは苛立ちを胸に抱えたまま、前だけを見つめて店を後にした。 Back |