-黄金の庭に告ぐ-
<第一部>5話:貴族はつらいよ

01.ベルナーデ家御一行、いざ州都へ



 のびやかな青空に浮かぶ雲の間から、陽が射した。光の筋が幾重にも降り注ぐと共に視界が明るくなり、濡れた花々が輝きを取り戻す。轍を車輪が咬む音に驚いたように、虫たちは羽を七色に輝かせてついと舞う。
 そんな辺境の街道を行くのは二台の馬車だ。砂利をひいて水はけを良くした道を、軛をつけた馬が足音軽く進み行く。朝に軽い雨が振ったためか、両脇に広がる湿地帯では水溜りが明るく輝いていた。
「悪いわねえ」
 狭い馬車の中で、老女クレーゼは男たちに向けて微笑んだ。新鮮な空気が入ってくるようにと風よけの幌を少しまくりあげてやったオーヴィンは、面映そうに頭をかく。
「いや、窮屈な思いをさせてすいませんね。フィラン、あんまり揺らさないでくれよ」
「分かってますよ」
 陽のあたる御者台で二頭の馬を御すのはフィランだ。巧みに二つの手綱を操って、老女を気遣うように速度を緩めながら次の中継地を目指す。辺境の属州では本国と違って街道の作りが立派でないため、歩みを少し早めただけで乗り心地は一気に劣悪になってしまうのだ。
 ちなみに馬車の奥の方ではジャドがひっくり返って大いびきをかいていた。


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 5話:貴族はつらいよ


 夏の終わりの街道である。ベルナーデ家一行は、州都ティシュメで開催される大会議へ一路邁進中であった。属州ごとに行われる大会議は本来は年に一度、春に召集されるのだが、今回は皇帝死去という急報を受け、各都市に緊急招集がかかったのだ。ヴェルスからは都市議員の最高職である二人官の他、神祇官長のギルグランスや他の有力貴族たちが呼ばれていた。来期の二人官を目されているギルグランスにとって、各地の貴族たちが一同に期す舞台は重要な場である。誕生日を迎え、晴れて成人となったレティオにとっても、これが初めての公務であった。
 そして、ベルナーデ家の者の胸には、もう一つの目的があった。それは、人質として本国に囚われているギルグランスの娘を取り戻す足がかりを掴むことだ。皇帝崩御という機会を逃すわけにいかない当主の脳裏には、あらゆる秘策が練られていることだろう。

 ギルグランスとレティオは、前を行く大振りな馬車に奴隷たちと乗っている。フィランたち灯台島の民はギルグランスの正規の配下ではないため、後続の馬車に乗せられているのだった。そもそも当主ほどの人物になると配下には貴族階級の者がつくのが普通だ。それを当主本人が「貴族が護衛とか堅苦しくてヤダ」と我侭を抜かすだけで、この有様は一般的でない。当主の脳内では徹底的な実力主義が布かれているだけなのだろうが。
「気分が悪くなったら言って下さいね。脇道で休むことも出来ますから」
「ええ。そう言って貰えるとありがたいわ」
 クレーゼは膝掛けを引き上げながら、穏やかに頷いた。
 フィランは州都での大会議に、まさかクレーゼまでもが同行するとは思っていなかった。ティシュメまでは馬車を使って丸二日かかるのだ。老体には辛い道のりだろうに。それに、当主を暗殺されかけたベルナーデ家では厳戒態勢が布かれているのだ。今回同行する奴隷たちも、選ばれたのは武芸に秀でた者が多い。このように警戒を強めている最中、何故当主はこの老女を連れて行く気になったのだろうか。
「フィラン。あなた、ティシュメは初めてだったわね」
 こちらの疑問を他所に、クレーゼは優しい眼差しを向けてくる。そう言われると、フィランはにんまりと笑みを浮かべた。ティシュメに行くと聞いて、彼の心はこの上なく弾んでいるのだ。
「はい。楽しみです」
「あそこ魚がうまいもんなあ」
 オーヴィンがしみじみ言うと、フィランはクワッと目を見開いた。
「違います! ティシュメといったら温泉でしょう、ティシュメの秘湯!」
「んあ? あー、そういやでかい浴場があった気も」
「でかい浴場? そんなチンケな言葉で表せるもんじゃないですよ、ティシュメの浴場は」
 オーヴィンは振り向いた若者の剣幕に圧されてややのけぞった。フィランの瞳は炎を宿したかのように燃え盛っていたのだ。フィラン二十二歳、帝国ファルダの元貴族にして無類の風呂好きである。
「テラン山から湧き出す秘湯は精霊の雫と呼ばれていて、太古の時代に天神トロイゼが体を休めたとも言い伝えられています。勿論蒸気浴と冷水浴も完備、名匠が手がけた神々の彫像を眺めながらの入浴はまさに天のも昇る心地だとか。肩こり腰痛に効く他疲労回復・健康増進にもってこい。これを行かずしてどの温泉に行けるものか!」
「分かった、分かったから落ち着いてく」
「落ち着けるものですか!」
 若者の熱気を受けたか馬脚が乱れ、馬車が大きく揺れる。その勢いでジャドが荷物に頭をぶちあてて悲鳴をあげ、オーヴィンが必死でなだめる。クレーゼは馬車の骨組みに捕まりながら、眉を下げてころころと笑った。

「……奴ら、大丈夫か?」
 会議の資料に目を通していたギルグランスは、賑やかな後続の気配にちょっぴり不安になった。
 先頭の馬車にはうんざりするほどの巻物が積まれ、砂利を車輪が咬む音だけが単調に続いている。時間を片時も無駄にできない貴族たちは、移動時間も書類の処理に追われているのだ。レティオはせっせと巻物を開いては目を通し、不明点を叔父に問う。今回の会議は彼にとっての初舞台だ。何かに没頭していないと落ち着かないのだろう。少年の横顔は、弓を引き絞ったかのような緊張に張り詰めている。
 目の疲れを感じて暫し休憩をとることにしたギルグランスは、読んでいた巻物をセーヴェに渡した。目蓋を閉じて思慮に沈むと、様々なことが思い浮かんでは消えていく。隣にいる甥のこと、これから向かう州都のこと。そして、ヴェルスに残してきた者のこと――。
 今回の旅路に、エルはついてきていない。
 ギルグランスは馬車の振動に身を任せながら、ぼんやりと彼の顔を思い浮かべた。


 ***


「おやっさん。ちょっといい?」
 エルがひょっこりと現れたのは、午後の陽光が降り注ぐベルナーデ家邸宅の中庭であった。
「どうした?」
「んー、込み入った話」
 エルはそう笑った。彼一人で声をかけてくるなど珍しい。ギルグランスは片眉をあげて細身の男を見返した。
 レティオの成人式が執り行われてからというもの、ベルナーデ家は大会議への準備に向けて慌しくなっている。ギルグランスは暫く考えた後、そうかと言って応接間に移動した。こちらに向けられたエルの瞳に、いつになく真剣な光が宿っているのを見たのだ。
 応接間の一面には帝国全土の地図が貼られている。学問を愛したギルグランスの父親が、商人から高値で買い付けたものだ。幼い頃、ギルグランスは兄と共に、この地図を見ながら帝国の未来を語り合ったものだった。そんなことを考えながら椅子に腰を下ろす当主を前に、エルは地図を背景に建てられた初代当主の彫像の脇に立ち、自分から話題を切り出した。
「今度のティシュメの話。おやっさん、この家にはオーヴィンを置いていくつもりでしょ?」
「うむ」
 エルを見返し、ギルグランスは頷いて肯定を示す。彼の言う通り、留守中の守りはオーヴィンに任せようと思っていた。先日の暗殺未遂騒動から、ベルナーデ家では警備を強化している。当主とその甥が州都へ旅立つときでも、屋敷の守りを怠ることは出来ないのだ。
 オーヴィンは厳しい体格とは裏腹に、隠密行動に優れた男だ。怪しげな動きがあれば、的確に察知できる嗅覚も持っている。適任と思っていたばかりに、ギルグランスはエルの申し出を聞いて眉を持ち上げた。
「ぼくにやらせて欲しいんだ」
 しん、と辺りの空気は静まり返った。
「……理由を聞こう」
 尋ねると、エルは僅かにためらってから、小さく口を開いた。
「少し、気になることがあるんだよね」

 エルは、今や亡国となったガルダの出だ。魔物を使役する技に長けたガルダ人は、一度は帝国に服従しながら反旗を翻したが為にこの世から姿を消すことになった。エルのように生き延びることが出来た者は、限りなく少ない。
 だが――とエルは声音を暗くする。
「最近出るようになった腐った魔物。あれ、たぶん、ガルダに伝わる術を使ってると思う」
 ギルグランスはそれを聞いて頬を僅かに強張らせた。腐った魔物については都市議会でも散々論議が交わされているのだが、まだ有力な手がかりは見つかっていないのだ。
「それは本当か」
「確かじゃないよ。でもあの魔物が出るときの甘い匂いは、ガルダ人が使う香に似てるんだ。試しに打ち消しの香を焚いたら、効いてたし」
 ギルグランスは顎を引いてエルを見据えた。ガルダ人について口にすることがどれだけ彼の心に負荷をかけるか、ギルグランスは痛いほどに知っていた。しかし、当主は止めずにエルが言うに任せた。表情を見れば分かる。迷いを断ち切った者の瞳は澄んで深い色彩を放つものだ。細身の男の表情には、昔日になかった精彩がある。己と向き合うだけの覚悟を以って、エルはこの事実を伝えにきたのだ。
「ガルダ人の術には、司祭にしか伝えられないものもある。あんな一族だったけど、禁忌にされた術もあった」
「その中に死した魔物を操る技があったと?」
「分からない。ぼくは下っ端の氏族だったから。でも――」
 エルは言葉を濁して俯いた。先日、当主を襲った暗殺者たちは自らを屠るための恐ろしい毒を持っていた。そしてガルダ人は薬の扱いに長けた一族であり、毒の生成など造作もない。何よりも、襲われた当主がガルダ人との戦役での功労者であった。
 ――嫌な色をした糸が見え隠れしている。そういった印象をエルは受けているのだろう。
 ギルグランスは黙り込んだ細身の男を前に半眼になった。
『ガルダ人が私に報復を考えている?』
 その可能性は低い。あの戦役で英雄となった者は他にもいるのだ。ギルグランスに絞って狙う理由が分からない。それに自尊心の塊であった彼らが安易な復讐で満足するとも思えなかった。ギルグランスを屠ったところで帝国が倒れるわけでもなく、彼らの国が戻るわけでもないのだから。
『もっと大きなものを狙っているとしたら、何故ヴェルスに現れた?』
 椅子に体を埋めた当主は、顎をさすりながらエルを見上げた。
「それで、貴様一人で調べてみたいと?」
「だめ?」
 エルは口を尖らせて首を傾げる。仕草だけを見ると、その向こうにある凄惨な事実が嘘のようだ。当主は音律豊かな声で低く笑った。
「……あの貴様が、そんなことを言うまでになるとはな」
「え。やだ、会ったときのことは言わないでよ」
 珍しく気まずげに顔を背けるエルを見て、当主は笑み皺を深くした。三年前、カリィを連れて故郷を逃れてきたエルは、まるで壊れた人形のようだった。街道の途中でベルナーデ家一行に襲撃を仕掛け、金を出せと脅しをかけたエルの瞳に映る怒りの色は、未だに忘れられない。フィランを透徹な意志を秘めたしなやかな獣とするなら、エルは正に死して尚彷徨う魔物のようであった。
 エルはガルダに生まれながら、その気質に染まりきらなかった男だ。帝国への反逆にも、心の中では疑問を覚えていたという。しかし彼は、自由と独立を叫ぶ黒い熱気に抗うことが出来なかった。そんな彼を待っていた惨禍は、言葉で表しきれぬ疵を彼に与えた。
 エルを傍において、ギルグランスがまず初めに気付いたのが彼の食べることへ抱く嫌悪感だった。生きることへの拒絶にも等しき彼の歪みについて、当主は問うたことがある。
『んー。ずっと、吐きそう』
 彼は剣闘士に身を落とし、幾人もの同胞を屠った。惨たらしい悲劇の渦中、そうしなければ彼は殺されていたのだから。食物を受け付けなくなったのは、それからだという。
『安心できるのは、吐くものなんてないって分かってるとき』
 いつ食べているのだと聞くと、「夜。食べて吐く前に寝る」と当たり前のように彼は答えた。
 オーヴィンやジャドも、そして恐らくフィランも、彼の異常に気付いているのだろう。凄絶な事実を知ることへの恐怖から、とても口には出せずとも。だから気遣いされぬよう、エルは自由に振舞う。痛みを感じさせぬほどに。疵を忘れさせるほどに。
 ギルグランスがそんなエルを配下に置き続けるのは、同情でも償いでもない。エルの能力を買ったが故だ。エルもまた、それを知っているからこそ仕え続けているのだろう。だから、二人の間には憎しみも怒りもなかった。ただ、何もなかったわけでもなかった。
 ギルグランスはかぶりを振って、痩せた男の思いを見定めようとする。
「……調べてどうする? 同胞が見つかったとして、貴様は何をするのだ」
 エルは淡く笑った。
「ううん。生き残りに会いたいわけじゃなくてさ。むしろ、会いたくないけど」
 僅かに考え込んでから、言葉を継ぐ。
「ここは、いい都市だから」
 影にまみれて生きてきたような男だ。生き延びることが罪となる、狂った世界が彼にとっての世界だった。今も彼は、彫像の影に隠れるように立っている。ただ、その表情には、静謐な光が浮かんでいる。
「……もっと言わなきゃダメ?」
 子供のような問いに、当主は口元を歪めて笑った。
「よし、言え」
「あ。酷いー。おやっさんはいつも無茶だよ」
「当主命令だ」
「酷いよー」
 エルは唇を尖らせ、当主は優雅に髪をかきあげた。疵を抱えながら歩き続けて、しかし彼はもう下を向いていない。影に佇む彼を見て、そんな気がした。
 輝く風の女神の恩寵注ぐヴェルスの風が、その心を僅かでも慰めたのだろうか。オーヴィンやジャド、島の住民たち、そしてヴェルスの民。それはきっと彼にとっては必要で、そして決して今まで得られなかったものだった。
「そういえば、貴様とは杯を交わしたことがなかったな」
 それを耳にすると同時にエルの表情に影が差す。彼の生活にとっては、酒など論外の代物だからだ。自らその話題に触れた当主は、にやと笑った。
「今ではなくとも良い。だがな貴様、たまにはいい酒でも持ってこい。――守るべきものを守った後の酒は、うまいぞ」
 エルは暫く呆然とした面持ちでギルグランスを見つめていた。そして辛そうに顔を歪め、笑ってみせた。彼が普段見せることのない、本心の表情だった。
「うん。昔は、ちゃんと飲めたからね」
 そのまま俯けば、長い前髪が頬を覆う。骨が浮き出た細い指を、彼は目頭に被せた。
「いつか、……いつか、そうなるといいよね」
「待っているぞ、私は」
 気楽に言った当主は、そんな日も遠くないのではないかと思った。ヴェルスの空気に洗われて、エルはもう一人ではないのだから。彼にとっての『日常』は、確かにここにあるのだ。
「ねえ、おやっさん」
 眼を拭って顔を上げたエルは、背後の地図を見上げた。その瞳は遠く深い森の奥、消えていった母国を追っているのだろうか。
「どうしてガルダはヴェルスのように生きられなかったんだろう?」
 当主は薄く吐息をついて、目を細めた。それは、虚しい答えしか望めぬ問いだ。答えたとしても、腐った果実のように胸にわだかまるだけ。
 それはエルにも分かっていたのだろう。彼は笑って問いを打ち消した。
「うん。これはもう、起きてしまった悲劇だ。でも、これからも起きるかもしれない悲劇だ。だからもう、起こしちゃいけない」
 夏が尾を引くヴェルスの午後に、湿った風が吹き込んでくる。窓の簾が揺れて、からからと音をたてる。
「ちゃんと注意するから。残ってもいいでしょ?」
 ギルグランスは正面からエルを見た。不安がなかったわけではない。敵方がガルダ人かもしれないからこそエルを関わらせたくないという気持ちは、やはりある。
 しかし、止める言葉を当主は持っていなかった。背筋を伸ばし、静謐に佇むエルの思いを、無下にしたくはなかった。
 エルは強い。狂気が飛び交う地獄を生き延びた獣性と力を、彼は持ちえている。それにもしも敵がガルダ人であれば、その習性を知り尽くした彼こそが守備に適任というものだろう。
 ギルグランスは肺腑から息を抜いた。せめてもの願いを彼は口にし、その乞いを許可したのであった。
「貴様の人生だ。やりたいように進み、やりたいように生きろ。しかし貴様を案ずる者がいることを忘れるな」
 エルは綻ぶように笑い、礼を言った。
 その笑い方は、既に彷徨う者のする顔ではない。ひりつく予感にあって、当主は彼の表情を信じることにした。




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