-黄金の庭に告ぐ-
<第一部>4話:花に願いを吹き込めて

07.過去、未来、そして今



 ぴたっと当主の足が止まったのは、後片付けを終えてクレーゼに侘びを入れてから帰路につき、ようやくベルナーデ家の屋敷が見えてきた辺りだった。馬を牽きながら追従していたフィランとレティオは、不思議そうに当主の視線の先に目を向けた。坂道を登った先にあるベルナーデ家の立派な門。そこに、初老の男が立っている。
「……私は腹が痛くなったのでもう少し寄り道をして帰ろうと思う」
「何言ってるんですか。あれ、セーヴェでしょう」
 すげなく言って歩き出した若者を、当主は慌てて止めた。
「いや、待て! 待つのだ。今、あそこに立っているのは――あれだ、黒き御手の冥王バクドールだ」
「冥王がわざわざ門まで出迎えてくれるはずがありますか。せめて煉獄の猛獣ネディスでしょう、なんでもバクドールの居城に入る者を拒まずとも出る者に襲い掛かる魔獣とか」
「き、貴様の薀蓄はどうでも良いのだがな、とにかく」
「……叔父上。セーヴェに言付せず屋敷を出たのですか?」
 レティオの鋭すぎる指摘に、老練のベルナーデ家当主の顔が、ぷいっとそっぽを向いた。
「……」
「……」
「……」
 気まずい沈黙、流れること数秒。
「あーもう、なんでそういうことするんです、一言くらい言ってあげたって良かったでしょう!?」
「す、すぐ帰れると思ったのだ! 奴に言うと一々ついてくるだろう、たまには一人で歩きたいときもあるではないか」
「そんな繊細な神経なんて持ち合わせてないでしょうが!」
「失礼な! 私はな――」
 ぎゃあぎゃあ騒ぐ男たちを前に、レティオはちらと門に目線を向けた。こちらのやりとりが聞こえている筈なのに、セーヴェはぴくりとも動かない。逆に怖い、とレティオは正直に思った。
 場の空気を読んだ当主も、咳払いをして覚悟を決めたように顎を引いた。暗殺者に対峙するときよりも真剣な眼差しで足を踏み出す。

「今、戻った」
「……」
 門の前で仁王立ちしていたセーヴェの目は、刳り貫かれたかのように炯々と光り輝いていた。軽く会釈してみせる奴隷の横を、当主は何事もなかったかのように通ろうとした。
「旦那様」
 びくん。
「な、なんだ。セーヴェ」
「そのお怪我は?」
 名望高きベルナーデ家当主の横顔から色が消えた。うまく上衣に隠して包帯が見えぬようにしてきたのに。
「ははは、少々喧嘩をしてな」
「旦那様」
 びくん。
「ま、まだ何かあるのか」
「そのお怪我は、と聞いております」
 当主は額に手をやって、気まずげに答えた。
「いや、あれだ。『暗殺者が現れ絶対絶命!?』『しかし一撃の元に切り伏せる格好いい私』『キャーオジサマステキ!!』という筋書きの筈が、こやつが無粋な真似をしおって手傷を」
「……僕が来なかったら危なかったくせに」
「おい貴様そういうことをセーヴェの前で――」
「旦那様」
 地底の底から響き渡るかのような呼び声に、さしもの当主も背筋を伸ばした。
「奥で、ゆっくりと、お話を伺う必要がありそうですね?」
 『ゆっくりと』の部分を強調するセーヴェの呪詛に、ギルグランスはがくりと項垂れたのであった。この家では時折、奴隷が主人よりも強いのだ。


「オイ、オヤジが女と揉め事起こして刺されたってのはマジか!?」
「……どこでどう捻じ曲がってそういう話になった」
 知らせを聞いて駆け込んできたジャドに対し、疲れ顔の当主は目頭を手で覆った。隣では仏頂面のセーヴェが薬草を塗りこんでいる。
 そんな当主の腕の傷を見て眉を潜めたのはオーヴィンだ。傷口の様子から、相手はかなり鋭利な刃物を使ったと見える。暗殺者は腕利きであるほど武具には気を遣うものだ。フィランの加勢があったから今回こそ乗り切れたものの、それがなかったらと思うと背筋が寒くなる。
「マダム・クレーゼはなんか言ってたか? 一部屋無茶苦茶にしたんだろ」
「いえ、それが……『まあ、生きていればこういうこともあるでしょう』、と」
 ジャドとフィランは老女の器の大きさに、それぞれかぶりを振った。あの老女が慌てる様を、彼らは今までに一度も見たことがない。
「敵さんの心当たりは――ありすぎるよなあ」
 オーヴィンが悩ましげに言うと、ギルグランスは重々しく頷いた。
「うむ。だが、襲われた場所が気になる。島に入る道は限られるからな」
「あの時間は干潮だったから僕らも馬で渡ってこれたんですよ。敵も同じようにしたのかも」
「しかし、何故一人になった私の居場所を突き止めたのだ? セーヴェですら気付かなかっ――っ!?」
 ぎゅっと薬草を強く塗り込められて、当主は声なき悲鳴をあげる。
「申し訳ありません。手が滑りました」
「……」
 当主は、余計なことは言うまい、と強く思った。
「くさいねえ」
「あん? 別に臭わねぇが」
「違くてー。色々怪しいってこと」
 列柱の影でしゃがみ込んでいたエルは、髪を指に巻きつけながら目を眇めた。
「おやっさんが一人になった瞬間を狙って、やり手で用意もばっちりの暗殺者が二人。ちょっと怖いよ、話が出来すぎてる」
 うむ、とギルグランスは無事な右腕で頬杖をついた。暗殺者の遺体はベルナーデ家に収容されたが、大した手がかりは得られなかった。吹き矢によほど強い毒が込められていたのか、肌と髪の色が変色しており、人種すら判別が不可能だったのだ。
「どうする? もうすぐ州都で大会議だろうけど、暫く都市を出ない方がいいかもしれない」
「いや、ここで弱味を見せれば付け込まれるだけだ。公務は予定通りに行う」
 当主はそう言って、ふと顔を横に向けた。所在なげに中庭の隅に立っていたレティオは、突然視線を向けられて背筋を伸ばした。
「レティオ。今後はお前の力を借りることも増えるだろう。お前の命が狙われることもある。戦えるか?」
 濃い橙の瞳で、レティオは叔父を見返した。そして配下たちの顔を見回した。それぞれが口の端を吊り上げて返し、最も奥にいたフィランがそっと頷いた。
『あのとき、よく僕についてきましたね』
 帰り道にフィランはレティオをそう褒めたものだった。丘からクレーゼの邸宅まで、まさか本気で馬を走らせた自分に追従してこれるとは思っていなかった、そうフィランは告げた。レティオとしても半分記憶がないほどの荒業で、自分でも信じられなかった。しかし、何もかもが終わって栗毛の馬と目があったとき、どう礼を言っていいのか分からず立ち尽くすレティオの頬に、馬は鼻を押し付けてきた。ぎこちなく首筋を撫でてやると、嬉しそうに尾を振った。そのとき胸に沸いた熱が、今でもじんわりと四肢に染みている。
 心が通じるということは、尊い。そしてそれは、過去でも未来でもなく、今にしか出来ないことだ。
 叔父とゆっくり話がしたかった。怖くて話せなかったことも、今なら話せる気がした。話さなければならないと思った。今を見通す力、それはきっと、過去を越えるにも、未来を掴むにも必要なものだから。ベルナーデ家の家訓にもあるではないか。あなたに出来うる全てのことをしなさい、と。
 レティオは顎をあげ、はっきりと答えた。
「はい。戦います、ベルナーデ家の名に恥じぬよう。この身を捧げる覚悟は出来ています」
 それを耳あたりの良い歌のように聞いたギルグランスは、目を細めて笑った。
「今度の州都大会議はお前の初舞台でもある。祝いの席を設けねばな」
 僅かの間、少年は呆けた様子で当主を見つめた。しかし、それも束の間。
「はい!」
 レティオは明るく答えた。それはフィランが見る、初めてのレティオの笑顔だった。


 ***


「今日は本当にごめんね。来るのが遅くなった」
 ティレは馬を引きながら隣を歩く恋人の顔を見上げた。今日はクレーゼの家で大変なことがあったのだと、ティレは診療所でマリルから聞かされた。それとほぼ同時に血相を変えたフィランが診療所に馬で突撃してきたため、マリルは薬草の器を取り落とし、ミモルザは「埃がたつ」の一言で若者を叩き出した。めげずに満身創痍でティレの元に辿り付いたフィランは、起きていたティレの肩をがっちりと掴んで、マリルが青褪めるほどの危険な台詞を吐いた。
『何があったのか正直に言ってごらん。酷いことをされたなら、僕が八つ裂きにしてやるからね』
 ちなみにフィラン本人は、一段落してから当主に『そういえばお前の恋人が街中で倒れた』と聞かされたのである。何故それを先に言わなかったのだと殴りかかる勢いで詰め寄るフィランをいなすのにさしもの当主も苦労したという話は、ティレの知るところではない。
 そんなこともあり、体調を取り戻したティレは夕暮れにフィランと帰路についたのである。
「ティレ、ちょっと浜辺を歩いてみようか」
 フィランの提案に、ティレはこくりと頷いた。
「待ってて」
 フィランは一旦ティレを残して自宅へ馬を繋ぎにいくと、すぐに戻ってきた。その手が後ろにやられているのが奇妙だったが、反対の手に引かれて、ティレは夕暮れの丘を降りていった。
「……何があったんだい?」
 二人きりになって、フィランは再度その問いを口にした。しかし、その声音は僅かに違う。顔をあげれば、出会った頃から変わらない、痛みをこらえるような表情がそこにある。
「皇帝が亡くなった話を聞いたんだね」
 静かに、彼は真実を捉えて唇に乗せる。彼は決して顔を背けることをしない。痛みも悲しみも、全てを自ら受け止めるのだ。
 島の外れ、浜辺にそそり立つ丘の影で、ティレは空を見上げた。
「あのひとは、わたしと同じ。死ぬことを、ひとに願われた」
 細波が絶えず打ち寄せるそこは緑が豊かで、風の巡りも緩やかだ。その喉が紡ぐ言葉が、どれほどの絶望に彩られていようとも。
「恨んでいるかい?」
 ティレは、ふるふると頭を横に振った。
「わたしも、そう思われるだけのことをしたから」
「ティレ」
「わたしは、たぶん、生きていてはいけない。あのひとと同じように、死ななければいけなかった」
 その絶望に、一体どんな救いがあるというのだろう。抜け殻の心は、風に吹き去らされて、いつ消えてしまうのだろう。
 ――しかしフィランは、ティレを真っ直ぐに見つめ、祈りを言葉に吹き込める。決して離すまいと、手をしっかりと握ったまま。
「たとえ世界が君の死を望んだとしても、僕は君に生きていて欲しい。だからね、できれば――昔のことは、忘れて欲しいんだ」
 波が打ち寄せている。夕日を背にした彼の顔は、闇に翳り、泣き出しそうな笑みを湛えていた。
「逃げ出すときに言ったよね。全てを一から始めようって。僕はね、忘れることは悪いことばかりじゃないと思ってるんだ。時には、それが必要なこともある。時間が経たないと、受け入れられないことがあるから」
 フィランは湖の向こうに広がる都市に目を向ける。広がる人々の営み。それはフィランにとっても、ティレにとっても、恐怖と憎悪の対象でしかなかった。一度世界に拒絶された彼らは、逃げるように走り続けて、今ここに立っている。
「ティレには笑っていて欲しい。それが僕の願いだよ。何があっても大丈夫。僕は何を失っても、ティレだけは守るから」
 ティレにしか聞こえない、小さくも痛切な願いに、ティレは胸に手をやる。心が痛い。けれど温かい。
 闇夜に灯る光に、この汚れた手で触れることは許されるのだろうか。ひとり救われることは、許されるのだろうか。
 なのにそんな心までもを汲み取って、フィランは優しく笑ってくれる。
「――いいよ。今は答えなくても。ゆっくり考えようね」
 ふと、手が離れた。浜辺に立ち止まった彼は、気分を切り替えるように深呼吸をした。
「ああ、今日も疲れたな」
 突然明るい口調で言うと、頬を指でかく。フィランは夕暮れに照らされて少しもじもじしていたが、意を決したように顔をあげて背中の手を前に持ってきた。
「ほら」
 その手に握られていたものを見て、ティレは目を丸くした。純白の華やぎを中心に、やわらかい色が彩る花束だった。声もなく見つめていると、フィランは頬を染めて俯いた。
「い、いや。ティレに似合うかなって。綺麗だったから買ってきたんだ。そんなに大したものじゃないから……でも、その、喜んでくれるといいんだけど」
 レティオがこの場にいたらさぞ渋面を浮かべたことだろう。実際は馬を駈ってわざわざ丘まで摘みに行ったのだ。まあ、フィランもなんだかんだで恋人の前では格好をつけたいのである。
 花束を受け取ったティレは、口を半開きにして花に見入っていた。この娘は、とにかく考えていることが表情にでないのだ。自然とフィランの口調も早くなる。
「さ、最近は帰りが遅いことも多いからさ。ごめんね、寂しい思いばかりさせてるよね。本当はずっと傍にいたいんだけど、その、少し相談して、休みもとれるようにするから――」
「きれい」
 ふと、フィランは息を呑んだ。花束を手にしたティレの口元が綻び、うっとりと夕日に蕩けるように目元が緩む。
「とても、きれい」
 胸に花束を抱き寄せて、ティレは繰り返した。哀しげに俯いていた過去の記憶を、優しく塗りつぶすかのように。
 フィランは微笑むと、恋人の肩に手をかけ、その額に軽く口付けた。
 くるくると夕日が沈み、二人の影を長く引き伸ばす。過去も未来もない、今だけが流れる時間だった。


「ちょ、見えねぇだろーが」
「おいおい、押すなっ」
「わあっ?」
 無粋極まりないダミ声が聞こえてきたのはそのときだった。ぎょっとしてフィランが振り向くと、林の影から団子になって倒れこんだオーヴィンとジャド、エルと目があった。
「……」
 ざっぱーん、と波が無情に打ち寄せては砕け、引いていく。
 世の無常を語るかのような音を背景に、男たちは、何処までも無力であった。
「い、いやいやいやその、オーヴィンが後つけてみようぜって言うからだな!?」
「違う、言いだしっぺはジャドだよ、俺はやめようって何度も」
「オイ嘘つくんじゃねぇっ!」
「二人が楽しそうだからついてきちゃった、あはっ」
 素晴らしき友情を呈す三人を眺めるフィランの目が次第に温度を失っていくのを見て、流石に男たちも状況のまずさを感じ取ったらしい。逃げ道を探し始める彼らを尻目に、フィランは一度ティレの顔を覗き込んで優しく告げた。
「ティレ、悪いんだけど耳を塞いであっちを見てて貰えるかな」
「……?」
 ティレは不思議そうに目を瞬いたが、フィランが言うならとその通りにした。そしてフィランは震える男たちに振り向き、冥王光臨といった具合に満面の笑みを浮かべたのだった。
「さて」
「ひっ」
 その指がバキバキと鳴るのを見た男たちは、自らが地獄の門を開いてしまったことを悟らねばならなかった。というか、そんなことを考える前に逃げ出していた。だがフィランに焦る気配はない。じっくりといたぶるように追い詰めていけば良いのだ。
「まあ、一人につき腕一本くらいで勘弁してあげましょう」
 邪悪に唇を舌で濡らし、彼は狩りの時間を始めたのであった。

「……?」
 恋人の気配すらすっかりなくなってしまって、ティレは耳から手を外してみた。風の音がひゅうひゅうと聞こえてくる。ああ、風の音は気がつけば簡単に耳慣れてしまうものなのだ。そんなことを考え、手の中の花束に目を落とす。
 美しい花束だった。この生命の輝きは人の手で育てられたものではない。野から直接摘んできたものだろう。
 ティレはこういった命の気配に敏感だ。五感を通して、世界はその輝きをティレに伝えてくる。しかし何故だろう。この花が咲いている場所に行ったとしても、琴線は震えなかったと思う。瑞々しい息吹はいつだって、当たり前のようにティレに吹き付けてくるものだから。
 なのに、嬉しかった。たった一人の人がくれたものから感じ取る温かみが、たまらなく心地よかった。
 甘く、切なく、そして優しい。
 しかし――。

『ティアル様』

 親友の呼び声が、心の深遠から聞こえてくる。ティレは花弁に顔を近づけ、俯いた。忘れてしまえと、甘ったるく彼は囁く。けれど、幸福であることが、とても恐ろしかった。この穢れた魂は、消えてしまった方が良い。そう理解しているからこそ。
 細波が花束を抱える少女を慰めるように打ち寄せる。時は巡り風は吹きぬけ、淡い色をした短髪が不安げにゆらめく。
 そんな少女を遠くから見つめる男がいた。彼は、ティレに深い情の眼差しを向け、拳を握り締めた。しかし同時に彼は己の無力を悟っており、何も言わずに少女を見つめるばかりだった。

 少女を、見つめるばかりだった。




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