-黄金の庭に告ぐ-
<第一部>4話:花に願いを吹き込めて

06.甥と叔父



「で、また抜け出してきたんですかい」
「うむ。そういうわけで私はここに来なかったことにしろ」
「はいはい。分かってます、お姿が見えませんよ」
 ヴェルスと灯台守の住む島を結ぶ渡し守の爺は呆れたように首を振って櫂を大きく漕いだ。小船には意識を失った少女ティレと、ディクルースが同乗している。それにしても、とギルグランスはディクルースを眺めやった。
「貴様も灯台島の民だったとはな」
「灯台の大事な薪割り役ですよ。パンデモ爺さんのとこで顔を合わせてなかったんですかい」
「そういえばこんな奴がいたような気もする」
「……ディクルース、気にすんな」
 膝を抱えて黙り込んでいるディクルースに、渡し守の爺は哀れみの視線をやった。この当主は女性の名前に関しては驚異的な記憶力を誇るのだが、興味がない事柄については全く以ってその才能を発揮しないのである。
「うむ。しかし槍使いの連れ合いに手を出したその気概は認めよう、貴様は勇者だ」
「っ、手なんか出していません!」
 真っ赤になって反論したディクルースだが、その視線はすぐに気遣わしげにティレの青褪めた頬にやられる。ギルグランスも、芳醇な夏の風に髪をなびかせながら、僅かに目を眇めた。
「暑さにやられたのだろう。あの広場には日陰がないからな」
 ディクルースは返事をせず、思いを巡らすように少女を見つめるばかりである。ティレはミモルザの診療所に連れていくことになり、ギルグランスが少女を抱きかかえて船から下りると、彼は僅かに会釈し、後ろ髪を引かれた様子ながらも、黙って去っていった。
「妙な若者だな」
「気を悪くなさらんでください。ありゃあ、貴族がどうも苦手なんです。昔、酷い目に遭わされたことがあるみたいでね」
「……そうか」
 ギルグランスは微かに眉を上げ、納得したように息を吐き出した。剛勇で名を馳せたギルグランスとはいえ、己が万人に愛されると思うほど自惚れてはいない。
「それにしても、そのままティレを変なところに連れ込まないでくださいよ」
「さて、どうかな。成程あの槍使いが入れ込むのも頷ける美姫だ」
 ニヤリと笑いながら、フィランがいれば串刺しにされること請け合いの台詞を吐く。
「あなたがこれまでの人生で背中を刺されなかったのは、世界の七不思議のひとつでしょうな。……いや」
 渡し守の爺はもやい綱を繋ぎながら溜息をついた。
「あなた様がこんな辺境にいることが、七不思議でしょうかな」
 風を服の裾をはためかせ、ギルグランスは鈍く笑った。


 ***


「――中々うまくいかぬものだ」
「まあ。何かあったのですか?」
 優雅に薄布を羽織った老女クレーゼは、憂鬱な顔をしたままのギルグランスを見て優しげに笑った。彼はティレをミモルザの診療所に預けると、本来の訪ね先であるクレーゼの邸宅を訪れたのである。
「あなたほどの方が思い悩むなんて」
「……うむ」
 当主は膿を吐き出すように低く返事をした。勝手な振る舞いばかりをしているようで、実際は深い懊悩を抱える当主の姿を、クレーゼは真っ直ぐに捉えている。だから彼が一人で屋敷を抜け出してこようとも、追い出す気になれないのだ。
「思いというものは中々伝わらぬ」
「ふふ。だからこそ人生は面白いのよ」
 童女のような悪戯っぽい目線を向けられて、ギルグランスは首を振った。
「やれやれ。敵わんな」
「今日はお一人でどのような御用かしら。急がないとセーヴェが雷を降らせるわ」
 果実水を優雅に口にして、クレーゼは小首を傾げてみせる。全くだと思ったギルグランスは手早く用件を告げることにした。
「皇帝が崩御した」
 しん、と辺りは静まり返った。クレーゼは思慮深い目でそれを受け止め、静かに頷いた。
「そう。病死ではなさそうね」
「自ら命を絶った。当然の末路だろう」
「レティオは?」
「相変わらず己を責めておる」
「……辛いでしょうね」
 クレーゼは物憂げに視線を窓の外にやり、深く息を吐き出した。
「あの子は自分よりも他人を大切にする子だから。――あなたもかしら、ギルグランス?」
 からかいの言葉には、その深遠に静かな労わりが込められている。背筋の伸びた老女を見返し、ギルグランスは薄く笑った。
「私は私の誇りを以って生きているだけだ、マダム・クレーゼ。兄の遺言を果たさぬわけにはいかぬ」
 その昔、兄は弟に向けてこう言ったのだ。自分に何かあったときは息子を頼む、と。そして兄が砂漠で散った今、故郷に押し込められて尚、ギルグランスはその遺言を胸に生きている。
「けれど、あなたの想いは何処へ行くのかしら」
 ふと、髪を美しく結い上げた老女はそう言った。
「本当は都市を出たいのではないの?」
 二人は視線を通わせる。辺境の都市ヴェルスは、哀しくなるほどに静かで穏やかな昼下がりに包まれている。そうして長い年月を戦場で過ごした老練の武人は、口の端を歪ませて笑う。
「私はヴェルスの都市議員だ。苦しむ民を捨てては行けぬ」
「その名声、天にも届くと言われたあなたが」
「レティオと同じことを言う、この貴婦人は」
 軽やかに笑って老女の言を遮ったギルグランスは、音律豊かな声で続けた。
「私が軍を去ることになったのは天命だろう。お陰で初めて故郷の惨状に気付くことが出来た」
「そうね。昔のあなたの目はいつも外に向いていた」
 クレーゼは過去を思い出すように視線を遠くに馳せた。それは、当主がまだ成人したばかりのときのことだ。探究心に満ちた若い瞳にとって、辺境の小都市はあまりに狭すぎた。跡継ぎがいなくなると右往左往する家の者に目もくれず、ギルグランスは兄と共に本国を目指したのだ。
「あのときはろくに別れも告げずに出ていってしまったから。今でも覚えているわ、セーヴェが真っ青になって飛び込んできたのよ、『お願いです、若様を止めて下さい』って」
 口元に折った指を添えてくすくすと笑う。ギルグランスは渋い顔を作った。この女性には、いつまで経っても頭があがらない。
「でもあなたはラムボルトと共に行ってしまった。私も――それどころではなくなってしまった」
「そうだな」
 肯定と共に頷いたギルグランスは、立ち上がって老女を見下ろした。
「じきに各都市へ州都への召集がかかるだろう。貴族たちが一同に期して結束を誓うことになる。――来て頂けるな、マダム・クレーゼ」
「……」
 クレーゼは表情なく偉丈夫を見上げていた。そうして暫くの沈黙の後、口元を苦笑の形に歪ませた。
「賭けに負けたのね、私」
 その様子に動揺は見られない。凛と語る唇には、疾風にも折れぬしなやかさがある。皇帝の命が尽きたそのとき、立つべき舞台に立つのだと。それは、二人の間に交わされた約束だ。
 しかしクレーゼは多くを語らなかった。代わりに椅子から立ち上がり、ギルグランスの額に軽く握った指を当てた。
「人は想いの屍の上にこそ立つものです。ヴェルスが名誉のため、あなたが栄誉のため。そして何よりも、あなたの娘を守るため。私の身でよろしければ、喜んで力になりますわ」
「……ご助力、痛み入る。マダム・クレーゼ」
「いやだわ。そんな神妙な顔をなさらないで」
 クレーゼはつと横を向いて、軽く声をあげた。
「あなた。そんなところでこそこそしていないで、どうぞ出てきてくださいな」
「こ、こそこそしていたわけではないのじゃ」
 遠慮がちに戸口から顔を出したのは、頭の禿げ上がった背の低い島長ダールだ。妻の代わりに老いを引き受けたような彼の後ろから、黒々とした髪と白い肌を持つ長身の奴隷も姿を現す。ギルグランスは苦笑した。
「これは。奥方を取ってしまい済まないな」
「とんでもないことですじゃ、それに女を愛するのは男の務めです」
「あなた、用向きがあるのではないですか?」
 力説する夫に冷水を浴びせるがごとくクレーゼは問いかける。ダールはひゃっと飛び上がって奴隷の後ろに回った。
「こ、こいつじゃ! こいつが何やら外の様子がおかしいとか言うからじゃな――」
 犯人に祭り上げられた奴隷はギルグランスと並ぶほどの長身であるが、ギルグランスはこの奴隷が口を開くところを一度も聞いたことがなかった。今回も、慣れた様子でされるがままになっている。
 ――頬が緩みかけた瞬間、ギルグランスは微かに目を見開いた。ひとつ息を呑んだ彼は、表向き殺気に気付いていない様子で顔を横に向けた。
「マダム・クレーゼ」
 呼ばれたクレーゼは、一度不思議そうに目を瞬いたが、当主の顔を見てすぐに気配を察知した。ふっと瞼を伏せ、小声で囁く。
「……人気者なのね、相変わらず」
「全く。もてすぎるのも困ったものだな」
 気楽な調子で苦笑してみせたギルスランスは、この場で最も若い奴隷の男に口早に告げた。
「夫妻を安全な場所へ。恐らく連中の狙いは私だけだ、すぐに行けば手出しはされぬだろう」
 奴隷はこくりと頷いて短剣をとると、手早くクレーゼに肩掛けを着せた。
「な、なんじゃ? どういう――」
「あなた、黙って言う通りにしてください」
 クレーゼはてきぱきした動きで裏口へと足を向け、気遣わしげに当主を見上げた。
「あなたも逃げますか?」
「留守だとあまりに可愛そうだろう。ここで迎え撃つ。家を汚してすまないが」
「気になさらないで。存分に剣を振るって頂戴。裏門には錠がかかっているわ、恐らく東と南の窓から入ってくるでしょう」
 的確な助言に頷くと、ギルグランスは肩の止め具を外して邪魔な上衣を脱いだ。愛用の長剣を鞘に収めたまま手に持ち、いくつか家具の位置を動かすと部屋が見渡せるよう壁際に立つ。奴隷がクレーゼたちを連れ出すと、屋敷には静寂が落ちた。ギルグランスは刺すような殺意がひたひたと近付いてくるのを、口元を歪めながら待った。感づかれても落ち着いていられるとは、中々の手錬と見える。
 突然、ギルグランスは左手に持った上衣を横に凪いだ。たっぷりとした厚い布に吹き矢が突き刺さり、反対方向の窓から簾を裂いて何者かが飛び込んでくる。それを引き抜いた長剣で受け止めつつ、正体を確かめようと敵の姿を見たギルグランスは肝を冷やした。ばねのようにしなやかなその全身には、紺や深い緑の濃色に染められた細い布が隙間なく巻かれているのだ。それは人として認識するにはあまりに異様で、おぞましい姿だった。
「ちぃっ、近頃は刺客も悪趣味になったものだな! はっきり言ってダサいぞそれ!?」
 憎まれ口を叩くが、相手は無言で刃を突き出してくる。それを膝を曲げてかわした瞬間、当主は首元に悪寒を覚えて近くにあった奴隷用の椅子を掴むと振り向き様に払った。再びそこに吹き矢が刺さり、流石のギルグランスも青褪める。先端に毒が塗ってあるに違いない矢は、刺さればそれだけで致命傷になりかねない。
 襲撃から数秒の内に、ギルグランスは敵の手を悟った。一人が刃を手に斬りかかり、その隙にもう一人が吹き矢を放つのだ。暗殺としては中々有効な方法であった。得物が一人の時は尚更に。
「なめるなッ」
 ギルグランスは体躯に見合わぬ機敏な動きで机を乗り越えて戦場を変えた。吹き矢の打ち手が見えないことには、あの位置で戦うのは無謀すぎる。
 獣じみた動きでそれを追った刃の使い手は、剛に対する柔のような動きで複雑な激剣を放つ。まともに刃をかち合わせれば、動きが止まった一瞬を狙って吹き矢が飛ぶだろう。ギルグランスは直感の赴くままに体をずらして剣尖をかわした。だが、刃の使い手に気をとられてしまっては、吹き矢の使い手の居場所が分からない。一度場を離れた方が良いと悟ったギルグランスは外に続く木戸に寄って足をかけ、そして敵の周到さを思い知ることとなった。細工がしてあるらしく、扉が開かないのだ。
「うぉ、待てッ!?」
 割と笑えない状況であることに気付き始めて青褪める。当主はそれからも数度、吹き矢の恐怖から免れたが、次第に息があがってきた。この歳でここまで動けるのも大したものだが、相手が悪すぎる。刃の使い手は人形のように静まり返り、乱れた様子がない。
 まずい。当主が本気で冷たい汗を走らせた瞬間だった。

 馬の嘶き声が轟いた。続いて、荒々しく屋敷に誰かが駆け込んでくる物音。新手か、と一瞬思ったギルグランスだが、すぐにそれを打ち消した。殺し屋の仲間がこんな賑やかに入ってくるわけがあるか。
 刃の使い手もやや驚いたように顔をあげる。その隙に後退した刹那、ばーん、と派手な音と共に重たい木戸が蹴り破られた。濛々と立ち上る煙の中、槍を手に目を危険な色に輝かせて入ってきたのは――。
「マダム・クレーゼ、いますか!? 何処のどいつですかティレに手を出したってのは!!」
 竜の牙より生まれた戦神アルドゥスのごとく猛り狂うフィランであった。
 ギルグランスは手で顔を覆いたくなった。ちなみに後ろで、前髪を乱れさせたレティオが呆然自失の呈で突っ立っている。だが、そんなことを悠長に観察している場合ではない。フィランもまた、荒れた室内を見回して気圧されたように頬を歪めた。
「あ、あれ? なに、これどういうことで――?」
「丁度良い、手伝え槍使い!」
「はあ!?」
 フィランは聞き返したが、腐っても元軍人であった。すぐに場の状況を飲み込んで槍を構え、当主の前に立った。
「なんですかこれは、ティレは無事なんでしょうね!?」
「当たり前だ、婦人を巻き込むものか!」
 それだけの事実確認で満足したフィランは、腰を落として臨戦態勢に入る。レティオも慌てて抜刀し、フィランに追従しようとした。
「お前は下がっていろ。危険な連中だ」
「し、しかし叔父上」
 レティオが文句を言い終わる前に、フィランは長槍を手に床を蹴っていた。クレーゼの屋敷の応接間が広く、槍を振るうにも不自由しないのが幸いした。
「気をつけろ! もう一人いるぞ」
「だーっ、なんなんです、あなた変な女に手でも出したんじゃないでしょうね!?」
「なんということを言うのだ! そもそも世の女に変も普通もないわ、皆美しいからなッ!」
 その返答もどうだろう。
 フィランは槍を巧みに突き出すが、木の葉のように舞う刃の使い手を捉えることは中々適わない。だが、吹き矢の使い手も予想外の加勢に手を出しあぐねていた。今手を出せば、確実に居場所を突き止められる。
「なっ」
 刃の使い手が、振り向き様に突然フィランの槍の柄を握った。振り払おうと槍を持ち上げるフィランの力を逆に利用し、その首元に迫ろうとする。こめかみが冷たく痺れるのを感じながら、フィランは槍を手放して足を鋭く突き上げた。それが相手の腹に食い込み、勢いを殺す。その隙に体を転がしたフィランは、視界の端で剣が舞うのを捉えた。レティオだった。
 やめなさいと言おうとしたが手遅れだった。レティオは剣を振り下ろそうとしたが、素早く体勢を立て直した刃の使い手に足払いをかけられて後退する。それを見て、長剣を持った当主も肝を冷やしたらしかった。
「レティオ! 下がれと言っているだろう」
「私もベルナーデ家の一員です! それとも叔父上、裏切り者の息子では信用なりませんか」
 ギルグランスは一瞬言葉を失った。レティオの幼さが残る瞳は、深い苦悩と怒りに塗りつぶされている。そして同時に、彼の言葉はそれを聞いた敵たちの動きも変えさせてしまった。ベルナーデ家の一員というその言葉によって。
『まずい』
 悪寒と共にそう思ったのはフィランもギルグランスも同じだった。刃の使い手の殺気が、歳若い少年に向く。レティオを失うことは、ベルナーデ家にとって跡取りを失うも同然だ。それが当主にとって大きな痛手になるのは目に見えていた。
 レティオは殺気を向けられても怖じなかった。むしろ頬をたわませ、牙を剥いて刃をかち合わせる。その剣さばきには鬼気迫るものがあった。しかし背後から迫る危機に気付くには彼はまだ若すぎた。

 体が火のように熱かった。持て余した憤怒を目の前の敵に叩きつけることは、とても心地よかった。全身を濃色の細布で覆った刃の使い手は人と呼ぶにはあまりに無機質で、嬲ることへのためらいなど感じさせなかった。
 不意に背後から気配が迫った。腰を捕まれ、横薙ぎに倒される。刃が煌き、血がぱっと舞った。鮮血を迸らせる太い腕を見て、レティオの思考は停止した。
「ご当主っ!」
「そこか!」
 敵の刃を腕に受けつつも、甥と共に体を倒して吹き矢をかわした当主の眼差しは矢の飛んでくる方向を見定めていた。槍を拾いなおしたフィランに背後を任せ、ギルグランスは手甲から引き抜いた短剣を廊下と部屋とを仕切る垂れ布のふくらみ目掛けて投じた。くぐもった音と共に、丸太のように吹き矢の使い手が倒れこむ。フィランもまた、刃の使い手を壁に追いやった。
「フィラン、殺すな! 聞き出すことがある」
「分かってますよ!」
 吹き矢の使い手を取り押さえた当主は、倒れこんだ体に取り付いてはっとした。刺客が既に事切れていたのだ。よく見れば、腕に吹き矢が刺さっている。運命を悟り、自ら刺したに違いない。
 胸を冷やして当主は振り向いたが、既に手遅れだった。フィランによって壁に追い詰められた刃の使い手もまた、腰元から出した吹き矢を自らの喉笛目掛けて突き出したのだ。止める間もなく彼もその場に倒れこんだ。
「……な」
 息をきらせたフィランが呆然とする前で、荒れた部屋に沈黙が落ちる。暫しの空白の後、二つの死体を見やって、ギルグランスは力なく首を振った。
「余程の手錬だ。死を恐れぬとは――」
 その腕からぽたぽたと血が滴り落ちるのを見て、フィランは慌てて当主の下へ駆け寄る。
「構わん。かすり傷だ」
「構うに決まってるでしょう、あなたもう歳なんですから――ぐはっ」
 腹に拳を喰らったフィランがその場に崩れ落ちる。当主はにこやかに、有無を言わせぬ凄みを以ってして言い切った。
「現役だ、げ・ん・え・き」
 実はものすごく気にしているのである。

「レティオ」
 座り込んで呆然としていたレティオは、叔父に呼ばれてびくりと顔をあげた。自分が犯したことを知った少年は、怯えた小鹿のように縮こまった。これで叔父からの信用を完全に失った。そんな絶望に頭を埋め尽くされ、唇を震わせて俯いた。
 レティオの傍に寄ったギルグランスは、彼の肩に手を乗せて手傷がないことを確かめ、そうして全身から息を抜いた。
「良かった。お前に何かあれば兄上に申し訳が立たぬ」
 弾けるように顔をあげると、そこには当主の安堵の表情がある。レティオは唇を噛み締め、叔父の顔を見つめた。
「……叔父上は、あの男を、それでも兄と呼ぶのですか」
 ギルグランスは、ふと眉を持ち上げた。そして口の端を歪めるようにして笑う。それは、何処か遠いところを見るような笑みだった。
「そうだな。お前にとっては、理解できぬ父であったろうが」
 レティオの瞳が僅かに震えた。遠い果てにあった大きな背中が、叔父の瞳の中に映っているようで。
「兄上は私の標であり、友であり、仲間であり、そして兄であった。何があってもその思いは変わらぬ」
 離れたところでそれを聞いたフィランは、そっと目を伏せた。ギルグランスは少し間をあけて、息を吸う。
「レティオ。お前にも語ってやろう、お前の父がどのような人物であったか。ゆっくりと考え、お前の心で決めるといい、父を許すも、――己を許すも」
 少年の肩が僅かに揺れた。当主はその頭を軽く撫でると、立ち上がった。
「フィラン。片付けを手伝え。マダム・クレーゼに詫びねばならぬ」
「はいはい、分かってますよ」
 鼻から息を抜いて、フィランは口角を吊り上げる。
「でもその前に傷の手当てですね。止血くらいさせて下さい」
「叔父上、私にやらせて下さい」
 レティオは自らの上衣の裾を裂いて立ち上がった。ギルグランスはやや驚いたようだったが、ニッと笑うと、腕を出したのであった。




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