-黄金の庭に告ぐ- <第一部>4話:花に願いを吹き込めて 05.フィランの乗馬レッスン 逞しい体躯を脈動させ、たてがみを風になびかせてヴェルスの郊外を二機が行く。放たれた矢が切っ先を煌かせるかのように、風を切って澄んだ大気を突き進む。 農園の外れ、勾配がそのまま残された丘の辺りでフィランはようやく馬を止め、辺りを見回した。エルに確かめたところ、湖に向かって吹き付ける風はこの辺りを通ることが多いそうなのだ。 「あれは高いところに生えやすい花だから――」 ぶつぶつと呟きつつ、段々になった丘の上に向けて馬を闊歩させる。 「……フィラン」 「いいからついていらっしゃい」 呼びかけに間髪いれず返すと、馬上のレティオは鼻白んだ。段差を軽々と乗りあがったフィランは、振り向いて目を眇める。 「馬じゃ怖くて丘に登れない、なんて言いませんよね?」 「……」 レティオのこめかみが僅かに動く。フィランは昨日オーヴィンから聞いた話を思い出しながら手綱を捌いて進み始めた。 レティオは本国で生まれた人間だ。当時、勇猛な武人として名を馳せた彼の父親は首都に屋敷を構えており、彼はそこで数多の奴隷に囲まれて幼少時代を過ごしたのだという。 前線に立つ父親と顔を合わせる機会は少なかったそうだ。会っても折り合いが悪く、オーヴィン曰く彼は実の父親よりも叔父のギルグランスに懐いていたらしい。 地方貴族の身で地位を上り詰めたベルナーデ兄弟に暗雲が立ち込めたのは、今から五年前のことだった。表向き遠征で散華したことになっているレティオの父であったが、実際は違う。彼は謀反という逃れようもない罪を犯して帝国軍の手で討たれたのだという。裏切りに激怒した皇帝は本国にあったベルナーデ家の屋敷を取り上げ、遥か北方の基地にいた弟のギルグランスすら追放刑に処した。ただでさえ厳しい状況にあった戦線で士気を下げぬため徹底的に謀反の情報が秘匿された裏で、ベルナーデ一族は人知れず姿を消したのだ。レティオの母は夫の死を知った翌日、川に身を投げて亡くなった。 『レティオは親父に負い目があるんだよ。軍を辞めさせられたのも、全部自分の親のせいだと思ってな』 酒を舐めながらオーヴィンは淡々と呟いた。 『親父ももう少しで元老院に入れるところだった。それが今や辺境の都市議員だ。まあ、やりきれない話だな』 レティオは眉を潜めながら馬の様子を伺っている。岩と崖の多い丘を馬で登るのは容易なことではないのだ。馬と共に転落でもすれば、痛いどころの話では済まない。しかし、頑として自分からフィランに教えを請おうとはしなかった。 フィランは苦笑を飲み込んで眉を吊り上げてみせる。 「レティオ。踵があがっていますよ」 少年はこちらを睨もうとして、慌てて手綱を引いた。馬があらぬ方向に首を向けようとした為だ。 「いけません。馬を無理に操ろうとしては」 フィランは厳しく口を開いた。 「指示を与えた上で、それに逆らったなら叱りなさい。けれど今のあなたは馬を信用もせずに躾けようとしています。それでは弱者を踏みにじるのと何も変わらない」 頬に血を上らせたレティオは、口を開いた。しかし返す言葉はなく、俯いてしまう。当主の怒りを買った後、嫌々フィランの誘いに乗ったのだ。もう牙を剥く気力もなかったのかもしれない。 「馬を信じて下さい。あなたを乗せ、駆けてくれる仲間として。馬はきっとあなたを裏切りませんから」 「……」 レティオは唇を噛みしめている。まだ雑念がわだかまっているようだ。フィランは鼻から息を抜き、ひらりと馬から下りた。 「じゃあ、こうしましょう。ちょっと降りて下さい」 そう言ってレティオを馬から下ろすと、フィランは手早く馬から馬具を剥ぎ取った。手綱も鞍もなくなった馬の栗毛を一撫ですると、若者はにこりと笑ったのだった。 「さあ、乗って下さい」 *** 冗談ではない。 レティオは裸馬を前に本気でそう思ったのだが、フィランに急かされて渋々跨った。手綱もないため、腕は横に垂らすしかない。このようなことをして、馬が勝手に発進したらどうするつもりなのだろう。すると、丁寧に姿勢を直していたフィランが口を開いた。 「忘れましたか。馬は乗り手の心境をよく察知します。落ち着いて、姿勢を真っ直ぐに」 馬の首筋を撫でて何歩か前進させ、ちらっとレティオを見上げる。 「馬があなたの姿勢を直そうとしているのが分かりませんか?」 「……分からない」 「目を閉じても構いませんから、筋肉の動きに集中して下さい。もう少し前に乗ってほしいのか、後ろに乗ってほしいのか、重心が傾いているのか、馬はあなたに伝えようとします」 何がさせたいのか分からなかったが、レティオは言われるままに馬と触れている部分を意識した。目を瞑れば周囲の景色は闇に溶け、風の音と曖昧な暖かさだけが支配する世界となった。 フィランは駿馬に平地をゆったりと歩かせているようだ。太腿に直接伝わってくるしっとりとした感触の生々しさは、相手が生き物なのだということを強く伝えてくる。その感覚は初め、不快であった。だが次第に慣れてくると、そこにある意志のようなものに気付く。 馬は、乗り手が柔軟に体勢や力の込め具合を変えることを望んでいるのだ。馬にとって最も乗せ心地の良い場所に身を置くと、足取りも軽やかになる。少しでもそこからずれると、背の筋肉を使って元の位置に戻そうとする。それさえ分かってしまえば、後は馬の動きに合わせてやればいいのだ。気が付けば、落馬への恐れも何もなくなっていた。 「いいでしょう、大分良くなりました」 目を開くと、元のところまで戻ってきていた。首を揺らしている馬を、レティオは不思議な気持ちで見つめていた。 「レティオ。今あなたは、何を考えていました?」 若者は不意にそんなことを訊いてきた。 「馬のことしか考えなかったでしょう」 言葉の意図が掴めずにいると、フィランは言葉を継いだ。 「馬に乗るときは過去や未来に惑わされないで下さい。記憶や予感に頭が埋め尽くされていれば、今起きている事象を捉えることは出来ません。現実の身体に心が宿らなくなってしまう。それでは馬に信用されない。馬にとっては、今が全てなんです」 「……」 レティオは指から伝わる艶やかな栗毛の感触に、意識を傾けた。主人の命令を待つ馬は、心地良さそうに風をその身に受けている。 馬には主人の不安や恐れが伝わるのだという。彼らは主人の力量を正しく測る。その主人が、主人として足るか、劣るか。それが、彼らにとっての生死をも決めるのだから。 レティオは不意に、自らの肩にのしかかる重たいものを感じた。 「今が、全てか」 若者は笑って頷いた。 「――さあ。鞍と手綱をつけますから降りて下さいね。あなたは基本はちゃんと出来ているんですから、あとは馬に自分の意思をしっかりと伝えるだけです」 馬具を着けて馬に乗ったとき、レティオは手綱を手にしても馬を無理に御す気は起きなかった。小高い丘に向けてレティオが前進を命じると、馬は大人しく上りだす。しかし、それをもう怖いとは思わなかった。 ――馬も、きっと怖がっていたのだろうから。 「わあ」 小高い丘の上に達すると、フィランは子供のような歓声をあげた。そこら一面に鮮やかな花が咲き乱れていたのだ。楽園のようなそこでフィランは馬を下りると、注意深く花を見分け始めた。 「あった」 怪訝そうに見守るレティオに目もくれず、フィランは何本か白い花を手折って満足げに笑う。かと思うと、眉根を寄せて首を傾げた。 「うーん。白だけじゃ流石に味気ないかな。ちょっと挿し色を……」 勝手に自分世界に入り始めた若者についていく気は起きなかったので、レティオは目を逸らして馬を下りた。崖の淵に行ってみると、思いがけず高いところまで来ていたことに気付く。青々とした農園と赤い屋根の続くヴェルスの町並みが、よく出来た細工物のように小さかった。風に髪が靡くのを感じながらそれを見下ろしていると、不意に声がかかった。 「レティオ。ご当主は何故、この状況にあって奮起なさらないのだと思いますか」 振り向いてみたものの、若者はこちらを見てはいなかった。相変わらず花を集めては首を傾げている。呑気な様子に苛々しながら、レティオは考え込んだ。このような若者に負けてたまるものか。 「叔父上を留まらせているのは、手勢の少なさだ」 腹に力を込めて押し出すと、花畑の中からフィランはにっと笑ってみせた。続きは? と言わんばかりの顔だったので、半ばむきになってレティオは続けた。 「叔父上の軍時代の腹心は散り散りになってしまった。残っているのは……お前たちのようなはみ出し者ばかりだ」 「ええ。流石は名うての司令官、冷静にことを運んでいると思いますよ。今立ち上がったところで、軍勢を集めるのはあまりに困難ですからね」 「……あんなことがなければ、叔父上は」 レティオは言いかけて俯いた。結局行き着く先はいつもそこなのだ。父が犯した失態のために、叔父は全てを失うことになった。もしもあの事件がなければ、今頃皇帝に名乗りをあげることも出来たろうに。 そんな叔父にどのような顔を向ければ良いのか、レティオは今だに分からない。叔父はきっと、あの男の息子である自分を疎んでいるだろうから。だからレティオは、罪滅ぼしをせねばならなかった。叔父の手となり足となり、叔父のためにあらゆる力を手に入れなければいけなかった。 「大体の話は聞きましたよ。あなたの父君は大層なことを仕出かしたそうですね」 「叔父上は何もしていない。無関係だ」 言い返すと、フィランは淡い桃色の花を摘み取りながら息を抜く。そうしてこちらを向いた瞳に醒めた光が踊るのを見て、レティオは僅かにたじろいだ。 「そうでしょうね。でも、あなたの言うことは甘えに過ぎませんよ」 ふと、明るい黄金の瞳に闇が被る。ただの軟弱な男といった印象を覆す、薄暗い気配が彼を覆う。レティオは不意に、この若者がいくつもの戦場を潜り抜けてきた武人であることを意識した。 「この世界はふざけたしがらみで溢れています。国籍、人種、家柄、身分。これらを剥げば誰しも塵とそう変わらない。でも人は塵でいたくないから、こういった肩書きを見る。個であろうとするなんて、どうしたって無理なんです」 花を摘みながら若者は言う。耳を塞ぎたくなるような絶望を唇に乗せる。 「そんな国で、あなたの父君はどんな理由であれ罪を犯した。あなたの叔父は罪人の弟となり、あなたは罪人の息子となった。逃れようがないんですよ、その現実は。あなたがどれほど苦しもうと」 足が砕けそうになり、レティオは唇を噛んでこらえた。胸の内では分かっていたつもりだった。己と叔父に背負わされた父の罪。変わらぬ現実を前に懊悩したところで、意味などないのだと。 「……フィラン」 「なんです?」 願いを吹き込めるように、若者は一輪ずつ花を束ねていく。それは、立ち止まったままでいるレティオにとってあまりにまばゆい姿だ。透徹な意志と、それを遂行するだけの力。恋人の為に全てを捨てた彼の潔さが、突然羨ましくなった。 「私はどうすれば良い?」 フィランは、こちらを見上げた。目の前の楽園じみた光景が眩暈を呼び起こす。しかしレティオの馬の師は、弟子の情けない問いを詰ることも嘲笑うこともしなかった。 「あなたは何の為に生きているんです。憎悪と贖罪に生涯を捧げるつもりですか。それをご当主が望むと思いますか。――そんな過去を生きる人生を、あなたは望んでいるのですか」 重なる問いは、静かにレティオの胸を穿つ。そして答える前に、一筋の光を指し示すかのように、若者は続けた。 「あなたはこの国の貴族として生きていくんでしょう? 目指す姿は決まっているのではないですか」 手に花束を携え、フィランは遠いものを見るように口元を綻ばせた。 「強くおなりなさい。いつでもその目を開いていなさい。時に実直に、時に狡猾に。この国ではただ生きることは簡単でも、強く生きることは簡単ではないのですから」 静かな口調だった。しかし心が叩かれたように感じられて、レティオは暫く無言で風に揺れる花束を見つめていた。 レティオの歩んできた過去は、温もりとは程遠いところにあった。母はいつだって父の帰りを待って窓辺に佇んでいた。父からは不躾な言葉しか貰えなかった。慰めて頭を撫でてくれたのは、時折顔を見せる叔父だけだった。 爛熟した首都の只中にあったのは、凍えるような侘しさ。膝を抱えて過ごした張り詰めた日々に、叔父の存在は一筋の光のようであった。 だから屋敷を追われてヴェルスに戻ったとき、レティオは暫く叔父の顔を見ることが出来なかった。叔父は北方防衛の要と言われた男で、正に帝国に必要な人間だったのだ。強く気高く、そして優しい叔父。だというのに、掴める筈だった栄光は霧散してしまった。 叔父が昔の姿に戻ってくれるなら、レティオは我が身を喜んで差し出すことができた。武術も勉学も、全てに打ち込むことができた。他人の存在などいらなかった。ただ、叔父の強い背中を見上げることができたら。 しかしどれほど祈ろうと、叔父はあの頃へと戻りはしない。 その眼差しが向く先は、華々しい過去ではない。 どうして、どうして。そう問い続けた先に、穏やかな若者の声が耳朶を叩く。 「それから、レティオ。ご当主が戦場に戻らぬと決断した理由。先ほどの答えは少し間違っています」 風に吹かれて、レティオは顔をあげた。 「あなたですよ。この時期に下手に動いて失敗すれば、あなたの将来は暗い。ご当主はあなたを帝国に送り込みたいが為に慎重を期しているんでしょう」 「違う。叔父上はきっと私を疎んでいる筈だ」 「まさか」 「先ほどのお前の言葉が正しいなら、私は裏切り者の子だ。叔父上が裏切りを許す筈がない」 フィランは目を瞬き、そうして顔を横に向けた。 「あんな馬を与えられたというのに?」 離れたところで、艶やかな毛並みをした栗毛の馬が主人たちの様子を見つめている。 「いいですね。僕はこんな贈り物をもらったことなんて一度もないですよ。それだけご当主はあなたに期待しているんでしょう――わああ!?」 ぼんやりと馬の方を眺めていたレティオは、突如悲鳴をあげたフィランを見て目を剥いた。 丘の上の花畑のド真ん中、若者は地に這い蹲る形になっていた。その上で、見知らぬ老人が腰をさすりながら立ち上がろうとしている。 空から降ってきた老人にフィランが押し潰されたとしか思えない状況のありえなさに、レティオはやや気が遠くなった。 「いたた……折角あと少しで手が届いたのに……」 「うう、何がどうなってんですか……って、ポマス博士!?」 「おお! あの時の野蛮人ではないですか」 「だ、誰が野蛮人ですか!」 フィランは猛然と言い返すと、老人を手で押しのけた。対するポマス博士と呼ばれた老人は、気にした風もなく黒々とした髪を整える。投げ出された花束をかき集めながら、フィランは陰険な目つきで老人を見上げた。 「こんなところで何やってるんです」 「薬草の採集です。ほれ、見なされ」 ポマス博士はそう言って大樹を指差した。どうやらこの樹から落ちてきたらしい。 「この大樹はトラドの木といいましてな、一日中陽のあたる肥えた土壌にしか生えぬ貴重な樹木です。しかもヴェルスのそれのなんと立派なこと! 晴れの日にとった果実からは精神を高ぶらせる秘薬トラド・ジェンテラーデが作られまして、これは露草ファラ・ランジェーレの妙薬と違って人間に対しては毒となるので飲ませられませぬが、かのガルダ人は獣や魔物に飲ませて戦いにけしかけ――」 「行きましょう、レティオ」 フィランは、首を振って老人に背を向けた。 「良いのか?」 「日が暮れるまでここであの人の話を聞きたいですか」 「……」 レティオは無言でフィランの後を追った。 「おお。そういえば」 花束の茎に濡れた布を当てて固定し、フィランが馬に跨ろうとしたとき、ポマス博士はその背に向けて言った。 「あなたさまの許嫁、ティレという娘でしたか」 フィランの肩がぴくり、と動いた。 「……それが何か?」 底冷えするような口調に若干怖くなったレティオは、無関係を装って馬具を確認する作業に勤しんだ。ポマス博士はにこにこと無邪気に首を傾げる。 「いや、最近彼女をずっと眺めている若者がおりますのでな。あれは娘さんに惚れでもしているのではないかと――」 「レティオ、ついていらっしゃい」 「は」 「行きますよ!」 レティオが聞き返すより早く、フィランは馬に跨り腹を蹴っていた。嘶き声と共に馬は疾風のごとく丘を下っていく。一瞬、目を点にしたレティオは慌てて後を追おうとして、青褪めた。若者は上ってきた方とは反対方面の急勾配を矢のように駆け下りていく。ぞっとするような荒業に、レティオは無理だと思った。自分はそこまで巧みに馬を御すことは出来ない。 そのとき、栗毛の馬が首を揺らして前足で地を小突いた。どうするんだ、とレティオに問いかけてくるかのように。レティオは馬の目を見つめ、手綱を握りこんだ。得体の知れない獣だと思っていた馬と、初めて思いを交わした気がした。 ――馬を信じて下さい。あなたを乗せ、駆けてくれる仲間として。 ――馬はきっとあなたを裏切りませんから。 レティオは、馬に跨ると、首筋を撫でてやってから背を伸ばした。 「頼む」 そう告げて腹を蹴ると、鋭く嘶いた馬は楽園を後にして丘を降りていった。 *** 足音を殺して密やかに裏の戸口を出た当主は、隙なく周辺を伺った。元軍人ならではの身のこなしで静と動を使い分け、いとも簡単に裏庭を駆けてゆく。 兄共々その名声を軍中に轟かせたベルナーデ家現当主ヴェギルグランス・アウル・ベルナーデ。 彼はたった今、逃亡の真っ最中であった。 『――セーヴェはまだ気付いていないか』 屋敷の静けさを横目で見て、ギルグランスは己の勝利を確信した。有能だが真面目なセーヴェは、危険だの何だの言って主人の気軽な外出を中々許してはくれない。そんな奴隷の目を掻い潜って屋敷を脱出するのは簡単なことではないのだ。なんせ、相手は幼少時から付き添った相棒なのだから。 そんなとき、不意に視界の脇に人影が映った。 「……ぁ」 菜園となっている裏庭で、ギルグランスはぎくりとして足を止める。首を巡らすと、生い茂る蔦の影に立つ年端も行かぬ少女と目が合ってしまう。奴隷のリアラであった。ベルナーデ家に仕える奴隷夫婦の間に生まれた彼女は、幼いながらに菜園の世話や洗濯などを手伝って働いている。 「だん――」 リアラがそう呼びかけようとした瞬間、ギルグランスは慌てて口元に人差し指を立てた。リアラもびくっとして両手で口を覆う。 この状況の打破に暫し考えこんだ当主は、一つ頷くと懐に手を差し込みながらリアラを手で招いた。そして不思議そうに近付いてきたリアラに、布に包んだビスケットを差し出してやる。蜂蜜をたっぷりと練り込んだそれは、午前中に女奴隷が焼いたものであった。先ほど台所を通った折、うまそうだったので拝借したのだ。 期待通り、ぱっとリアラの目が輝いた。奴隷の子供は、中々こういった菓子にありつくことが出来ないのである。しゃがみこんだギルグランスは笑って少女の頭を撫でてやった。 「良いか。セーヴェがここに来て私のことを尋ねても、こう言うのだ。旦那様はここには来ていません、とな」 毬球のような少女はこくこくと頷く。 ――買収は、ここに完成したのであった。 ギルグランスはニヤリ、としかいいようのない笑みを浮かべて少女に菓子を握らせ、立ち上がった。 「では行ってくる」 「どちらへ?」 小声で問いかけてくるリアラに対し、ギルグランスは既に立ち木の枝を掴んで塀に足をかけていた。大柄な体をひょいと持ち上げて、軽々と塀を上り詰める。 「貴婦人の元だ」 振り向き様にそう残し、ギルグランスの姿は塀の向こうに消えていった。 リアラがそれを見送っていると、性急な足取りで戸口を出てくる人影があった。仏頂面に青筋を立てたセーヴェであった。 「リアラ。旦那様を見ませんでしたか」 ビスケットを後ろに隠したリアラは、ぷるぷると首を横に振る。 「旦那様はここには来ていません」 「そうですか。見かけたらセーヴェが探していたと伝えるように」 セーヴェはそれだけ言うと、踵を返して屋敷に戻っていった。 「……」 リアラは後姿を注意深く見送って、ほうと息をついた。貰った菓子分は働いた、確かにそう思えたのだった。 *** 「なんだ、今日は一人できたのかい! 相変わらず幽霊みたいな顔だね。これでも食いな!」 乾物屋の女主人ノーラがずいと出した果物を、ティレは澄んだ琥珀色の瞳をまん丸に開いて見つめた。橙色の表皮の合間から、小指ほどの白濁色の物体が無数に覗いている。 「すげえなお嬢ちゃん、マリルなんか初めて見たときは悲鳴あげたもんだぜ」 身体の体積がノーラの半分しかない主人が、なんなく手の中に果実を収めたティレに賛辞を贈る。ずぞぞぞ、と豪快に半透明の物体を果実から吸い上げるノーラに倣い、ティレも貰ったものに口をつけた。えぐい見た目に見合わず、さっぱりとした爽やかな甘さが口内に広がる。 ティレはクレーゼの依頼で都市の露店市場を訪れていた。クレーゼの家には奴隷がいるため、彼に頼めば済むことだが、ティレの社会勉強にとクレーゼは時折このような遣いを持ちかけてくるのだ。フィランなどは良い顔をしなかったが、浮世離れしすぎたティレの在り様もまた一顧すべき問題である。渋々といった具合で彼はティレの外出を許可している。そんなフィランの過保護ぶりは噂好きな商人たちの間でも有名であり、今や露店市場ではティレが歩く様が微笑ましげに見守られるのが日常であった。 干し果物とパンを包んだ布を腕に、ぼうっと人の流れを眺めていると、ノーラが河馬のような溜息をついた。 「全く、今日は辛気臭いったらありゃしない。景気の悪い話は本当に勘弁して欲しいよ」 「仕方ないよ、皇帝が亡くなったんだ」 「こうてい?」 尋ね返したティレは、世間話が好物の好夫婦にとって格好の獲物であった。 「そうさ、知らなかったのかい? 本国の議会に見放されて、自殺しちまったんだってさ。まだ若いってのにね」 「そうそう。去年から別荘に引きこもったままで、皇帝の仕事を放り投げてたってくらいだからねえ」 「……」 店の前に吊るした黒い喪章を指差さされ、ティレは目を開いたまま、そっと胸に触れた。触れた布地は、ぼんやりとした感触しか残さない。 「わたし」 ほんの僅かにティレの眉が潜められたことを、ノーラは知らなかった。その前に平手でティレの背中を叩いたのだ。 「ま、人間誰でも死ぬもんさ。だからしゃきっと商売して生きてかなきゃね! ……あれ?」 儚い少女の肢体はそこになかった。視線を日向に向けると、吹き飛ばされた少女が通行人と衝突して倒れている様が目に映った。全く、軟弱な娘である。ノーラは腕を組んで顔をしかめるのであった。 ノーラに助け起こしてもらい、ふらふらとティレが立ち寄ったのは報じ手の立つ露店市場の中央であった。開けた場所に据付けられた演説台で、恰幅の良い報じ手が腕を掲げて皇帝死去の報を繰り返し述べている。ティレは髪を風にそよがせながら、暫く報知に耳を傾けていた。 「あれ、君……」 「……」 「ねえ、あの」 「……」 「えっと……」 ようやくティレは隣でまごまごする若者に気付いた。葡萄酒に灰を混ぜたようなくすんだ色の髪を後ろで一つに束ねた、気の弱そうな男である。ティレと目が合って、彼ははっと息を呑み、頬を朱に染めた。 「あの、君、ティレだよね。僕はディクルース。君と同じ灯台島に住んでるんだ。えっと、いつもは灯台にいるんだけど」 年齢はフィランよりも幾らか下に見える。おどおどした振る舞いがそう思わせるのかもしれない。ディクルースは会話の糸口を探そうと、こちらをちらちらと伺っている。 そんな間に報じ手の男が交代の時間を迎え、新たな報じ手がうんざりした顔で壇上に足をかける。何度繰り返されたか知れぬ皇帝死去の報が再び声となって届くのを、無言のまま受け止める。 「皇帝……死んだんだってね」 ようやく、ディクルースは話題を見つけて話し出した。 「誰も悲しんでないんだな。仕方ないことかもしれないけど。本国は、遠いし」 当人の感情の吐露というより、話を途絶えさせないことに必死な口調であった。だから、ティレが突然言葉を発したとき、ディクルースは驚いてその口元を見つめたのであった。 「悲しい」 鈴が鳴るような、儚い声だ。 「悲しいと、思われない。なら、嬉しいと思われているの?」 「そ、それは違うよ!」 ティレでさえ顔をあげるほど鋭く、ディクルースは否定した。 「どんな人だって、死が喜ばれていい筈がないよ。ただ……」 言葉を捜して、ディクルースは顔をしかめた。 「ただ、その人にとって、皇帝っていう地位が、重たすぎたんだ。僕だって、振るえる斧は決まってる。大きすぎる斧は、すごい力が出るけど、正しく扱えやしないんだ」 だから。そう呟いて、ディクルースは苦しげに言葉を続けた。 「だから、あの皇帝は、可哀相な人だと思う。生まれで生き方を決められて、国を背負わされて。僕はおかしいと思うよ、こんな身分のある世界は……」 それは聞く者が聞けば不敬罪に値する発言であったろう。しかしティレは思い巡らすように何度か瞬きをした。 「可哀相な人……」 失策によって国中の顰蹙を買い、嘲弄と憎悪の矛先を向けられて、刃によって裁かれた若き皇帝。軍勢に取り囲まれ、自らの胸に短剣を突き刺す。溢れ出す、強い赤の印象。それは心の奥底に押し込めた感情を呼び覚ますようで、ティレはゆっくりと額に手をかけた。日時計が午後の日差しを受けて長い影を伸ばしている。その光と闇の対比に、頭の奥がぐらりと揺らめく。 「ちょっと、君!?」 ざわざわ。ざわざわ。世界が遠のく。大量の声が頭の中に響く。同時に、強烈な痛みが頭の奥から噴き出した。それは己の罪の証であった。それを知っているからこそ、ティレは目を逸らしてしまうことができなかった。 生きていることが罪になることがあるとすれば、わたしもまた罪人だ。 わたしもあのとき、自らの胸に刃を突き立てれば良かったのだろうか。 ――否。そんな勇気は、わたしにはない。ただ、世界が廻っていくのをぼんやりと、ぼんやりと。 それは、『可哀相』なのだろうか。 違う。違う。それは、『可哀相』などではなくて。 「ティレ!」 崩れ落ちた少女の肩を支えて顔を覗き込んだディクルースは愕然となった。呪いの楔を打ちつけられたように、彼女の血の気を失った額には大粒の汗が浮いている。 「どうしよう……」 通りがかりの住民たちが奇異の眼差しでこちらを見やっている。その視線に口の中が干上がってしまって、ディクルースはうろたえるばかりであった。 その時、不意に大きな影が被った。 「何があった。そんなところに座っていると荷馬車に轢かれるぞ」 見上げると、大理石の柱を思わせる偉丈夫の姿。盛りを過ぎて尚引き締まった顔立ちに、ディクルースは喉を引きつらせた。長衣を頭から被っているとはいえ、ヴェルスの民であればその顔を知らぬ者はいない。 ベルナーデ家現当主ギルグランスは怪訝そうに、その立場に似つかわしくない仕草でしゃがみこんだ。そしてティレの顔を見て、微かに眉を潜める。 「おい、貴様。悪いことは言わん」 ぽん、とディクルースの肩に手を置くと、真顔でギルグランスは言い切った。 「血を見たくなかったら、この娘はやめておけ」 「は」 杏色の髪をした若者の危険発言を聞いたことのないディクルースがしどろもどろする間に、ギルグランスは少女の矮躯を抱き上げた。 「とはいえ、このような姫神をここに置くわけにもいかぬ。ひとまず灯台島に連れていくぞ」 荷物を持て、と短く告げて歩き出したギルグランスを数秒見つめたディクルースは、慌ててティレの荷物を拾い上げた。そして、当主の堂々とした後姿を注意深く見つめながら、そっと急ぎ足で追うのであった。 Back |