-黄金の庭に告ぐ- <第一部>4話:花に願いを吹き込めて 04.悩めど暮らせど、陽は昇る 東の果てより立ち現れた夜明けの女神が薔薇色の指から光を注ぐと、闇に閉ざされた湖は美しい煌きを取り戻す。ヴェルスの夜明けは、薄青から栄えを蘇らせて燦然と輝くばかり。透き通るような静寂に、一日の始まりを告げる鳥たちが歌い出す。 「――っ!」 唐突に体を起こしたフィランは、息を荒げながら呆然と自身の体を見下ろしていた。暫く経ってようやく首を回し、窓の簾の合間が明るくなっていることに気付く。 「……また悪夢だ」 額を撫でると、脂汗がじっとりと浮いていた。頭がぼんやりと重く、腹の辺りに嫌な感覚がわだかまっている。 「うう」 どうしてこう何度も。 そう思うと、心の底から嫌になった。これでも悪夢の頻度は落ちていたのだ。なのに、ヴェルスに住み着いてからというもの、また見始めるようになってしまった。理由は十二分に分かっている。分かっているからこそ、やるせなかった。 ――割り切れていると思っていたのに。心というものは中々言うことを聞いてはくれないようだ。 「何をやってるんだろう、僕は」 灰色の鬱屈が喉元にせりあがってくる。力が出てこなかった。断ち切ろうとする力も、諦めてしまう力も。此岸と彼岸の境で、長い間フィランは途方に暮れている。 ぱん、と彼は反射的に頬を自らの手で叩いた。心の弱さを叱咤するように。何があろうと恋人を守って生き抜くこと。それが彼にとっての道標だ。だから強くなれる筈だった。臓腑が捻り潰されるほどに辛くとも、それらを押し込めて笑うことは出来るはず。 「よし」 目頭をさすってフィランは眠りの感覚を断ち切り、顔を斜め下に向けた。ティレが枕に顔を埋めて眠っている。窒息してるんじゃないかと心配になったフィランは、小さな肩に手をかけて揺すってやった。 「ティレ。朝だよ」 「……」 「ティレー」 何度か呼びかけてやると、だしぬけに彼女はむくりと体を起こした。しかしけぶる髪はぼさぼさで、どこに顔が隠れているかも定かでない様子である。 「……」 頼りない腕で体を支えていたティレは、暫くの沈黙の後、無言でその体勢を保つことを放棄した。ぼふんっ、と再び寝台に没した恋人を前に、フィランは薄く微笑んだ。諦観の笑みであった。 「ティレー」 また肩を揺すってやるしかない。恋人を寝台から引き剥がすのは一苦労なのである。窓辺から朝日がやわらかく差し込む、穏やかな朝だった。 *** 朝食の用意を手早く整えたフィランは、火で炙ったパンをかじりながら恋人の顔を眺めていた。とろんとした目を虚ろに彷徨わせるティレは、今だ覚醒から遠いところにいるようだ。渡してやったパンを手にしたまま、動く気配もない。 「ティレ」 「……」 「おーい、ティレ」 呼びかけてやると、やっとのことでのろのろと手を動かし出す。だが、ともすれば千切ったパンを鼻に詰めてしまいそうになる具合だ。フィランは微笑みながら腕を取って口元に運んでやった。 ――困ってるんですよ。ティアル様は本当に寝起きが悪くて。 今は亡き彼女の親友がぼやいていたのを思い出す。それはまだ遠いところから互いを観察し合うしか知らなかった頃の話だ。 「ねえ、ティレ」 呼びかけてから、フィランは考え込んだ。昨日聞いた皇帝死去の話を、ティレに伝えようか伝えるまいか。 ティレは一度きりの呼びかけになど反応する筈もなく、ぽやんとしている。放っておけばいつまでもそうしているだろう。しかしだからといって、その心までが鈍いわけではないのだ。 そう思うと、フィランは少しだけ悲しくなる。始めて会ったときは、人形のような少女だと思っていた。住む次元の違う雲上人。届かないからこそ、遠くから眺めていた。その心が抱える傷にも気付かずに。 何故察してやれなかったのだろう。過去を責めても仕方のないことを知りながら、フィランは自責の念にかられずにはいられない。全てを捨てて逃げ出すまでに追い込まれてからしか行動を起こすことの出来なかった、己の無力を彼は呪う。 しかし、今となっては何もかもが過去のことだ。だからフィランは考えた末に決断を下した。余計なことを言う必要はない。ティレは静かに暮らしていれば良いのだ。全てが、遠い過去のことなのだから。 『過去、か』 パンをようやく食べ終わったかと思えば危うく指までかじりそうになるティレの腕を取ってやりながら、フィランはぼんやりと考える。 ある意味での諦めをもってして、彼は過去の出来事に蓋をしている。凄惨な事件に答えがないことなど、分かりきっていたからだ。 代わりに、人への不信だけが残った。彼にとってはあらゆる安息が仮初めの夢に過ぎない。危機に陥ったとき、誰かが手を伸べてくれる保障が何処にあるというのか。最後に信用できるのは自らの意志と判断、それだけだった。そして、それを裏切ってはいけなかった。自分が信じられなくなれば最後、この心は壊れるだろう。 フィランは薬草を混ぜた湯を飲みながら、背筋を伸ばした。いつだって気を張り、前を向いていなければ。 『そうだ』 気持ちが前を向けば、生産的なことを思いつくものである。頓挫しかけた計画を思い出して、フィランはそれを果たそうと決心したのだった。 *** 渡し守の爺に船を出してもらってヴェルスに降り立ったベルナーデ家の配下たちは、広場の人だかりを見てそれぞれ顔を見合わせた。昨日の一報が、ついに告示されたのだろう。普段より商人や農夫で賑わう広場が、今日は祭りのような人出だ。 しかし今回は報じられる知らせが知らせである。明るい顔をした者はおらず、広場全体が物々しい空気に包まれている。フィランはその中央に報じ役の男が手を掲げて立ち、険しい顔で演説しているのを見た。帝国に関する様々な通知は日に三回ここで報じられることになっているが、今日は同じ通知が繰り返し述べられているようだ。 「もう皇帝に名乗りをあげてる将軍が何人もいるらしいよ」 「イヤだねえ、この国はどうなっちまうんだか」 人々の囁き声には、押し殺せない不安が見え隠れしている。内戦となれば、国境から程遠いヴェルスにおいても戦火の魔手が他人事でなくなるのだ。 「うちの邪神様も前線復帰するんじゃないの」 何処からか聞こえたその言葉に、四名はそれぞれ肩を落として明後日の方向を向いた。 「どう思います?」 さりげなくフィランが問うと、オーヴィンは複雑そうに唇を指でなぞった。 「多分、ないな。あの親父はそこまで浅はかじゃないよ」 「もう歳だしねえ」 「歳と髪の話題は出してやるなよ。オヤジ、本気で気にしてるぜ」 「あはー」 呑気に語るジャドとエルを横目に、フィランは考え込んだ。昨日、レティオが言ったことを思い出したのだ。 ――あの男のせいで、叔父上は軍にいられなくなった。 そして夜にオーヴィンから聞いた、その言葉の意味。 「妙なことにならないといいんですけどね」 「まあ、親父を信じろってことだ」 オーヴィンは飄々とそう言って、ベルナーデ家へ続く坂道へと足を向けた。 当のベルナーデ家にも、混乱の余波は届いていた。 「お待ち下さい、叔父上」 会合に使われる応接間でのことである。レティオが呼び止めると、誰もがその姿を仰ぐギルグランスは困惑の表情で振り向いた。 「まだ言いたいことがあるのか、レティオ」 すっくと立ち上がった少年は、叔父の顔を瞳に映しこんで問うた。 「納得が出来ません。何故、叔父上はそのように気弱でいらっしゃるのですか」 「……気弱に映っているのだとしたら、甚だ心外だ」 溜息と共にそう返す叔父を前に、レティオは眉根を寄せる。 行動を起こすなら今しかないのだ。皇帝自刃の急報は帝国全土に広まりつつある。各地で兵に推された将軍たちが皇帝に名乗りを上げるのも時間の問題だろう。皇帝の理不尽な指令で軍を退役せざるをえなかった叔父もまた、この機に乗じて復帰することが出来るだろうに。 「叔父上は軍に戻りたくないのですか?」 「レティオ。何度も言ったつもりだが、私にはそれ以前に成すべきことがあるのだ。けだもの共の争いに付き合っている暇はない。それにまずは娘を呼び戻すことが先決だ」 レティオははっと息を呑んだ。ギルグランスの一人娘は表向き本国へ留学していることになっているが、実際は違う。彼女はベルナーデ家の人質として、たった一人本国に留め置かれているのだ。ギルグランスが余計な行動を起こさぬために。 故に、叔父は寂れた地方都市で五年の間燻らねばならなかった。本来ならば、帝国の最上部に君臨すべき人材であるというのに。 全て、――全てがレティオの父親が犯した失態のためだ。 「叔父上」 父より気高く、父より強い叔父へ、レティオは心を込めて語る。 「私がお力になります。娘御を助けた上で上洛されるべきです。叔父上はこのようなところにあって良いお人ではない。あの愚かな男の振る舞い一つで、叔父上がこのような憂き目に会うなど――」 「レティオ!」 雷鳴のような怒りに、レティオは気圧されて黙った。屋敷全体が身を竦ませたかのような静寂が落ちた。 無表情のセーヴェを従えた叔父は、底冷えする眼光を湛えてレティオを見下ろす。その唇が心を切り裂く刃を形作るようで、少年は恐ろしさに指先さえ動けなくなった。 「我が兄を侮辱する気か」 耳の中で幾重にも反響するその言葉を聞くと、無性に泣きたくなる。こみ上げるものを唇を噛み締めてやりすごしながら、少年は俯いた。 ああ、どうして。 どうして、そこまでして兄と呼ぶのだろう、あの男のことを。 栄えある帝国に反旗を翻した、愚かな愚かなその男を。 「……少し頭を冷やせ。わきまえぬ行動が何を呼ぶか、分からぬお前ではなかろう」 言葉はほとんど耳に入ってこなかった。叔父がセーヴェを伴って部屋を出て行っても、暫くレティオは動けなかった。 そんな緊張感溢れる応接間の扉の向こうにて。 「「「「……」」」」 オーヴィン一行が、戸口の影から一連の出来事を見守っていたのであった。いや、わざとではない。当主を探して屋敷を歩いていたら、偶々会話の途中に行き当たってしまったのである。しかも雰囲気が雰囲気で、とても「おはよーございまーす」なんて顔を出せる状況ではなかったのだ。 反対側の扉から当主が出ていくのを見て取ると、彼らは顔を見合わせた。 どうするんです、とまずフィランが目でオーヴィンに問いかけた。 そんなこと言われたって、とオーヴィンは困った顔で返す。 とりあえず反対側から回ってオヤジに会おうぜ、とくいくい親指で後ろを指すのはジャドだ。 でも一人でおいといていいの?、とエルが小さく首を傾げる。 よし、とオーヴィンが頷けば、他の者は期待の眼差しを彼に注いだ。 その指が自分を指すのを見て、フィランは全力で首を横に振った。 確かに先生だしね、とエルが納得顔で親指を立てると、フィランは無言でそれを捻り潰した。 アンタがやりなさいよ、とフィランは必死にジャドを指差すが、当人は肩を竦めるだけだ。俺こういうの苦手だしーと舌まで出してみせる。 いよいよ少年の御守を押し付けられそうになったフィランが声を出しかけたそのとき、レティオはふらりと歩き出した。ぎょっとしてオーヴィンたちは生贄を突き出し、その場から走り去った。 「がふっ!?」 応接間に一人投げ出されたフィランが慌てて顔をあげると、レティオとばっちり目が合う。 「……」 後ろで遠ざかる足音を聞いて、フィランはあの人たち今度殴ろうと固く決意した。 そんな若者の胸中も知らず、レティオは不機嫌そうにフィランを見下ろす。 「何用だ」 「……なんでしょうね」 「いつからそこにいた」 「あなたが若気の至りを呈していた辺りからですよ」 フィランはやれやれと起き上がり、気まずげに顔を背けるレティオを見て深く息を吐き出した。彼とて、鬱屈を溜めた少年を放っておくほど薄情な男ではない。しかしこの状況で何と声をかけたらいいものやら。 ここで先ほどの会話の是非を問うても、少年にとって慰めにならないことは分かっていた。少し考えたフィランは、仕方ないと首を振ると、明るく口を開いた。 「レティオ。ついて来なさい」 そう言うが早く踵を返して歩き出すフィランを、レティオは不思議そうに見やった。そして次に聞こえた言葉を聞いて、彼は怪訝そうに口を曲げたのであった。 「花を摘みにいきましょう」 *** 「大変なこって」 ジャドがからかうように言うと、老練のベルナーデ当主は今にも頭を抱えそうな面持ちで溜息をついた。 いつもの中庭である。配下たちに囲まれて、ギルグランスは愛用の椅子にもたれていた。兄が亡くなる前から甥の成長を見守り続けた彼は今、その甥の扱いに頭を悩ませているのだ。 「私があの歳の頃は何をしていたのだろうな」 「都市中の娘たちと通じて人生を心行くまで謳歌なさっておられました」 奴隷のセーヴェに間髪いれずに指摘され、ギルグランスはがくりと項垂れた。 「親父らしいねえ」 「うるさい。誰でも似たようなものだろうが」 「うーん。確かにレティオはちょっと特殊かもねー」 列柱に背をもたれて中庭の葉をいじっていたエルの呟きに、一同はそれぞれの表情で頷いた。豪胆な性格であった父と正反対の気質を持つ少年は、今だ過去に引きずられて生きている。 平民であれば、それでも良かったかもしれない。だがレティオは行く行くベルナーデ家の後を継ぐ身なのだ。民を率いる貴族として、誰よりも強かであらねばならない。無論、彼が自分に負い目を感じていることを知らないギルグランスではない。しかし、だからこそ潰れて欲しくないのだった。 「あれは今、どうしておる?」 「フィランがついてやってるよ」 「……そうか」 ギルグランスは少しだけ安堵したのか、体を背もたれに預けた。あの若者は優しいが、悪いことを悪いときっぱり言える男でもあるのだ。 「ところでオヤジ、本当に前線には戻らねぇのか?」 「たわけ。今更ヴェルスを放っては行けぬだろう」 ジャドの問いにギルグランスは鼻で笑って返した。その名望高らかなベルナーデ家の当主は、都市再建の為にあらゆる手を伸ばしている。彼が戻って五年、やっと成果が出始めたばかりなのだ。この状態でギルグランスがヴェルスを出れば、豊饒の女神に愛された都市は再び元の荒れた町に戻ってしまうだろう。 「それを聞いて安心したぜ。また戦場かと思うとぞっとしねぇ」 「全くだ。親父と一緒の戦場はこりごりだよ、胃が引きちぎれる」 肩を落としたオーヴィンがそう言うと、周囲には笑いがさざめいた。セーヴェを除いて軍人時代のギルグランスに付き添った経験があるのはオーヴィンだけなのだ。 「だが、忙しくはなるぞ。辺境とはいえヴェルスも帝国の一員。不安は混乱を呼び、混乱は争いを呼ぶ。無用な揉め事は避けねばならん。じきに州都で大会議が開かれるだろうが、余計な弱みを抱えていては戦えぬからな」 頬杖にもたれた当主の言葉には、明徹な意志が現れている。その瞳は既に先見の明を宿して底光りしていた。 Back |