-黄金の庭に告ぐ-
<第一部>4話:花に願いを吹き込めて

03.当主の一日



 かつては栄耀栄華を誇り黄金の庭とも謳われた都市国家ヴェルス。結髪美々しき豊饒の女神ヴェーラメーラの加護が注ぐこの都市は、帝国の属州に成り下がった後も、肥沃な土を武器に灯火を繋いで今日に至る。都市は行き交う商人たちの気を浴びて賑やかであり、城壁外の農園では農夫たちの仕事歌が風に乗ってさんざめく。
 そんな都市の丘のひとつに居を構えるは、嘶く一角獣を家紋に掲げる由緒正しきベルナーデ家。その家の者は代々ヴェルスの都市議員となって民を守ることを使命としてきた。
 そんなベルナーデ家の人間にあって兄共々都市を飛び出した経験を持つギルグランスは、退役後に都市議会に招かれた身であった。通常このような高齢から議員になることはそうないが、なんせ帝国軍では最高の名誉ともいえる本国元老院の議席も噂された人物なのである。議会は始め、退役してきた彼の顔を立て、せめて老後の慰みにと議会に召集したのだった。
 ……無論、まさかそこで彼が突然怒り狂い演説台を叩き割るなど誰も予想だにしなかったに違いない。

 長衣の裾を優雅にさばきながら、ギルグランスは夏の終わりを迎えようとするヴェルスの都市を闊歩していた。都市の貴族たちは移動に輿を使う者が多いが、彼は滅多にそれを利用しない。民との会話を何よりも重んじる当主は、道端で労働に勤しむ馴染みの者たちに次々と声をかけられるからだ。
「ギルグランス様! あの魔物はなんとかならないんですかい」
 当主の姿を見つけて駆け寄ってきたのは、彼が何かと世話をしてやっている商人の一人だった。
「先日、うちの馬車まで襲われたんですよ。噂の腐った魔物です。皆困ってます」
「――うむ」
 訴えを聞いた当主は、難しげな顔で顎に手をやった。ここのところ、ヴェルス近郊では魔物の屍が民を襲う事件が多発しているのだ。都市議会でもこの問題は由々しきこととして取り上げられ、対応策を請う総督宛の文書が州都に送られたばかりであった。今日はギルグランスもその件で神殿に向かう途中だったのである。
 太った商人は顔をしかめ、悔しそうに首を振った。
「しかも用心棒の連中はみんな怖がっちまってね。あなた様んとこの人たちのがよっぽど親身に聞いてくれますよ」
 『あなたん様のとこの人』とは無論、ベルナーデ家の配下たちのことである。ギルグランスは表情を苦笑の形に緩ませた。
「そうか、奴らもたまには役に立ってくれているようだな」
「やることは無茶苦茶ですけどね」
 ぐっ、とその頬がひきつる。全く以って弁解の余地がなかったからだ。

「旦那様。そろそろ――」
 奴隷のセーヴェにやんわりと進言されて、ギルグランスは鷹揚に頷いた。商人に別れを告げ、都市で最も高い位置にある荘厳な建物へと向かう。帝国の守護神として祭られる天神トロイゼの神殿だ。巨大な円柱や彫像の並ぶその威容は、都市の守護神である豊饒神ヴェーラメーラの神殿と並ぶ規模を誇る。そんな神殿では信仰の中心地として、都市の主要な祭事の他、吉凶の占いや様々な儀式が執り行われていた。都市の神祇官長を務めるギルグランスはこの神殿を中心に人々の信仰を司る役を担っているのだ。
 ひんやりとした神殿内に入ったギルグランスは、たむろする人の多さを見て表情を険しくした。高い天井の下、集う者たちの声は何処か仄暗い。腐った魔物騒ぎで多くの民が祓いの儀式をしてもらおうと集まっているのだ。
 ただし大規模な祭事でない限り、神祇官長が儀式に携わることはない。彼は今日、儀式の増加によって香木や生贄の獣が不足した為に呼ばれたのだ。神祇官長といっても、やることはこういった地味な手配の調整ばかりなのが現実だった。都市議員から選出される神祇官長に求められるのは信仰心でなく、組織の運営力なのだ。ちなみにギルグランスの信仰は「気が向いたら祈っとく」程度、厳しい軍人時代は暖を取るために霊験あらたかな神物を燃やした経験数知れず。信仰心豊かな者がこれを聞いたら泣くに違いない。

「これは神の呪いですぞ! この都市は神々から見放されたのです」
 不意に大音声が人々の囁き声をかき消した。ギルグランスは足を止め、神殿の広間で叫んだ男を横目で見た。
 静寂において衆目を集めて立っているのは、髭を蓄えた色黒の男であった。恰幅の良い体に目立つ法衣をまとい、真剣な眼差しで民衆を見回している。
「呪いです。神々は我々の導き手ではなくなったのです。その忌わしき病は今はまだ卑しい獣に留まっていますが、じきに大地や我々の体までが腐り落ちるでしょう」
「エウアネーモスです」
 太い眉を持ち上げたセーヴェが薄く囁く。ギルグランスは頷くと、ゆったりとした足取りでそちらへと向かっていった。

「騒々しいぞ。ここは神の御前だ、口を慎め」
 呆気に取られて男の演説を聞いていた人々は、天神が口を開いたかのような声音にめいめい振り向いた。続いて列柱の合間から階段を下りて現れた神祇官長の、その巌にも似た表情を見て固唾を飲む。だが、人々の中心に立つ男は淡く笑っただけだった。
「これは、神祇官長殿。ご無礼をお許し下さい。あなたがいらっしゃるとは知らず」
 口でこそ詫びているが、眼差しには狡猾な光が輝いている。ひんやりとした神殿の空気をまとったその男は、ヴェルスで勢力を揮うエウアネーモス商会の長だ。元々多くの都市貴族と癒着して甘い汁を吸っていた彼だったが、ギルグランスが戻ってきてからは悪巧みもうまくいかなくなったため、何かと当主に敵対しているのだった。
 ギルグランスは凍えた視線で男を見返し、低く鋭い声音を放った。
「今の発言は場合によっては罪にもなるぞ。帝国の法を知らぬわけでもあるまい」
「天神に渾名してはならぬ。その威光を傷つけてはならぬ」
 エウアネーモスは傲然と口にした。帝国内ではあらゆる信仰の自由が認められているが、帝国の守護神への敬いを忘れてはならぬとも法律で定められているのだ。しかし彼は続けて大げさな手振りで訴えた。
「ならば何故神々は答えて下さらぬのです? 我々か弱き民がこのように捧げ物をし、救いを求めているというのに」
 ギルグランスは冷ややかに笑った。この男の狙いはギルグランスの人気を失墜させることにあるのだ。すっと目を細め、凛然と返す。
「甘言を。祈りが残らず神に聞き届けられるなどと弄す傲慢な者に、神は救いの手を差し伸べぬ」
「では我々はこのまま滅ぶしかないというのですか」
「案ずるな。我々はたかが異形ごときに屈する弱き種ではない」
 エウアネーモスは口を閉じ、探るような視線を向けてくる。消え入りそうな呟きが聞こえてきたのはそのときだった。

「――強き種であるのは、あなただけだ」

 眉を持ち上げたギルグランスは素早く周囲に目線を走らせた。しかし儀式の順を待つ人々の中にあっては、その声の主を確かめることは叶わなかった。ギルグランスと同じくその呟きを聞いた者たちも、不思議そうに首を回している。鼻から息を抜き、ギルグランスは諭すように告げた。
「とにかく、民の不安を煽る真似は謹んで頂きたい。エウアネーモス」
「……そうですね。大変失礼致しました、神祇官長殿。今こそ我々は手を取り合うべきときなのかもしれません」
「そうとも。同じ市民として共に危機に立ち向かって欲しい」
 上辺は穏やかな会話であるが、その根底には互いの喉元に喰らいつくような鋭さが込められている。目線がかち合った一瞬、双方の瞳には冷徹な光が輝いた。
「では、払いの儀をして頂くことに致しましょう。ヴェルスの良き民として、この苦難に立ち向かう為に」
 抜け目のない顔をした商人はそう結んで、礼の姿勢をとった。


 ***


「奴の後ろにいた者どもは?」
「右から順に商会役員のマラフ、機織職人のフェルマ、鍛冶屋のダマス兄弟。後の一名は奴隷で御座います」
「……相変わらず、よく覚えているな」
 神殿の関係者用に設けられた通路を進みながら、ギルグランスはセーヴェの説明を聞いて肩を竦めた。子供の頃は遊び相手として、成人してからは従者としてギルグランスに仕えてきたセーヴェは、一度会った人間の名から職から何でも記憶するという凄まじい特技を持っている。いつか都市の住民の名前を残らず言ってみろと命じてみたいのだが、当主は心中で首を振って取りやめていた。本当に全員言い当てそうで怖いからだ。
 静々と同世代の主人に追従するセーヴェは、しかし、と眉を曇らせた。
「申し訳御座いません、あの声の主は私も見つけることが出来ませんでした」
 ギルグランスはうむと返事をして顎に手をやった。人々のたむろする神殿内で突如響いた言葉は、多くの民の耳に届いていたことだろう。

 ――強き種であるのは、あなただけだ。

 印象に残るが故に気がかりだった。しかも嫌なことに、自分のこういった胸騒ぎはよく当たるのだ。
「さて。どうしたものかな」
 軍を退役して都市に戻ってきたギルグランスは多くの民の支持を得ているが、一方で敵も多い。先ほどのエウアネーモスを筆頭に、彼の失脚を狙う者たちは虎視眈々とその機会を狙っているのだ。
「全く。無駄に出世すると面倒なばかりだ」
「左様で御座いますね」
 そっけない奴隷の返答にギルグランスは薄く笑い、櫛の通った髪をかきあげた。
「簡単に言うものだな。私が暗殺されればお前もただでは済まぬというに」
「何を今更。旦那様と共に戦場を潜り抜けた身です、この上何を恐れる必要があるのですか」
 その口ぶりは穏やかではあるが、内側には芯の通った意志がある。ギルグランスは口角を吊り上げて見せてから、簾を開いて会議室へと入った。


 ***


 一方、ベルナーデ家の中庭は栄えの陽が注ぐ午後だというのに、その場に対峙する二人によって不穏な空気に包まれていた。
「だからですね、ご当主には僕から説明しますから。せめて二人で行きましょうよ」
 戸柱の脇に立つフィランは額に手を当ててそう呻いた。しかし彼に向き合うレティオは怯まなかった。
「私一人で行く。お前はこなくていい」
「……」
 何度この問答を繰り返したことだろう。皇帝急死の報を聞いたフィランは逸早く当主に伝えるべきと思ったのだが、レティオが一人で伝えに行くと言ってきかないのだ。
「ちゃんと報告できるんですか。あなた、まだ成人前でしょうが」
「来月には成人だ。それに年齢のことをとやかく言われる筋合いはない」
「僕がいるとまずいことでもあるんですか?」
 静かな問いに、成熟しきらない肩が僅かに揺れた。それは、言いたくないことを暴かれかけた者がする動きだ。少年は不快そうに視線を中央の緑へ逃がした。
「この程度の報告、一人で出来る。お前は明日の公示まで黙っていろ。くれぐれも市民を混乱させるな」
 フィランが口を曲げて溜息をついたとき、背にした壁の向こうが騒がしくなった。女奴隷たちの声が聞こえる辺り、当主が帰ってきたのだろう。レティオもはっとして顔をあげ、フィランを牽制するように歩き出した。
 レティオの後姿を見送って、フィランは肺腑から息を抜く。少年の思惑を悟れない彼ではなかったが、これ以上止める気も起きなかった。後で当主の元へ確認に行けば良いだろう。
「苦労してんなぁ」
「へ?」
 思わず間抜けな声で返事をしてしまってから振り向くと、反対側から歩いてきたジャドと目が合う。ニヤリと笑うその顔を見て、フィランは口を尖らせた。
「見てたんですか? 朝の件といい、人が悪いですよ」
「偶然行き会っちまったのは仕方ねぇじゃねぇか。それに朝のはテメェが遅刻するのが悪い」
「……う、うるさいです」
 反論の余地がなく、気まずげに髪を撫でつけるフィランである。
 それにしても、とジャドはレティオが去った方向を見やった。若すぎるベルナーデ家の跡取りは、今頃当主に事の次第を告げているに違いない。
「困った坊主だよなぁ。何でも一人でやりたがんのな」
「ああいう歳にはよくあることですよ」
「テメェもそうだったか?」
「軍に入りたての頃は。いきがって単機で盗賊の陣中に突入して死にかけてからはやめましたが」
「……」
 ジャドはいい加減、この若者の性格を見直しつつあるようだった。
「んで、何の話で揉めてたんだ?」
「皇帝が死にました」
「は」
 一拍おいてから凝然と眉を持ち上げるジャドに対し、フィランは淡々と経緯を語った。一通り話し終えると、ジャドは逆立った髪をかき回しながら首を捻った。
「待てよ、今の皇帝ってまだ死ぬような歳じゃなかったろ」
「自刃だそうです。ついに議会からも愛想を尽かされたようで」
 その悪政ぶりから民の信頼を損なっていた若き皇帝は、先の遠征の失敗より本国の別荘に篭って久しい。そこでいよいよ本国の最高決定機関である元老院は現皇帝の地位を剥奪する案を可決したのだ。別荘を軍勢に囲まれた皇帝は逃亡劇を繰り広げた後、小さな農村の井戸の前で自ら命を絶ったのだという。誉れ高き帝国の王としては、あまりに呆気ない最期だった。
「へぇ。可愛そうになぁ」
「可愛そう? あの皇帝のせいで何人死んだと思ってるんです」
「ん――まぁな」
 居心地が悪そうにジャドが腕を組むと、フィランは口元に手を被せて目を眇めた。
「それよりも怖いのはこれからです。元老院も何を考えているんだか。次の皇帝を誰にするかも決めずに殺してしまうなんて」
「子供はいねぇんだっけか」
「いないどころか、親族もほぼありません。皇帝自身が皆殺しにしてしまいましたからね。これは揉めますよ」
「いいんじゃねぇの? どうも血筋ってのは信用ならねぇよ。これで実力のあるヤツが後を継げるんじゃねぇのか」
 本国から遠く離れた都市の民だけあって、ジャドの言は気楽そうだ。対するフィランは、深々と溜息をついた。
「あのですね、皇帝なんて逸材がそう都合よく出てきてたまりますか。今の帝国には突出した人材がいません。そうなっては皇帝を名乗りだす者が複数現れるかもしれませんよ。下手をすれば内戦です」
「な、ない――っ!?」
 大声で聞き返そうとしたジャドは、フィランの鋲を打ったサンダルで足を踏まれて声なき悲鳴をあげる。
「声が大きいですよ。明日には都市中に広まるでしょうけど」
「ってえなあクソ、だが大丈夫なのかよ」
「さあ。この国ももう終わりかもしれませんね」
「……夢も希望もないこと言うなよオイ」
「むしろ、いっぺん滅んだ方が清々するんじゃないんですか」
 投げやりに言い切ったフィランは、口元にやっていた手をずらして前髪をかきあげた。
「まあ、身近な不安といえばあれですね」
「あん?」
 健康的な顔立ちに見合わぬ薄暗さを湛えて、若者はその懸念を唇から紡いだのであった。今頃レティオが熱弁を揮って当主に進言しているであろう、その恐ろしい選択肢を。
「あのご当主が皇帝に名乗りをあげたりして」
「……」
 ジャドは口を開きかけ、それを閉じ、視線を横に向けて熟考し、僅かにその頬を青褪めさせた。
「まさか、な?」
「そう願いたいものですよね」
「……」
 ぴいぴいと、柱廊では相変わらず小鳥たちが午後の日差しを受けて歌っている。長閑極まりないベルナーデ家の中庭、フィランは遺憾そうに首を振って話題を変えた。
「で、あなたはどうして戻ってきたんです?」
「剣の稽古だよ。レティオのな」
 ジャドは愛用の剣の柄を慣れた仕草で弾いてみせる。曰く、二日に一度、午後を割いてレティオに剣術を教えてやっているそうなのだ。
「ああ、だからあの子の剣は師匠に似て乱暴なんですね」
「殴んぞテメェ」
「基礎は出来ていますが、圧倒的に実践が足りてませんよ、あれ。ちゃんと経験を積ませてあげているんですか」
「ハァ? 必要ねぇよ。一般兵になるんじゃねぇんだ、基本さえ押さえときゃいいだろ」
 確かに地方出身とはいえ貴族の身であるレティオに必要なのは、剣で敵を屠る技よりも兵卒を率いる力である。あのオヤジが規格外なんだよ、と結ぶジャドにフィランは全くの同意見だったが、ジャドはばりばりと頭をかくと、親指で自分の胸を差した。
「つーかアイツ、剣よりここが足りてねぇ。分かるか、心だよ」
「……ジャド、あなた。よく素面でそんなむさ苦しいことを言えますね?」
「ああ、褒めてんのか? とにかくだな、あいつ友達いねぇんだよ。そいつは駄目だろ」
 フィランの皮肉を斜め上に解釈しつつ、ジャドは大真面目に言い切った。フィランはギルグランスの悩ましげな顔を思い出す。当主はその表情を浮かべたまま、フィランにレティオの話し相手になるようにも申し付けたのだ。
「確かにあの手合いでは同世代を遠ざけそうですが。奴隷はどうなんです? 彼を気遣っているようでしたよ」
「そこも駄目なんだよ、レティオの方が距離を置いちまいやがって。事あるごとに稽古と勉強だ、ひとりっきりでな」
「……そうなんですか」
 フィランはちらりと屋敷の中に目をやった。レティオの張り詰めた瞳は、今頃叔父を必死で見上げているのだろう。その役目をひたむきに果たそうとして。
 不意に、ジャドの声が小さくなった。
「まあ、あったことを思えば、そうなっちまうのも無理はねぇんだがな。だからこそ回りが気ぃ回してやらねぇといけねぇんだよ」
 質す視線を向けると、ジャドは珍しく気まずそうに目を伏せた。
「ん。悪ぃ、このことは後でオーヴィンに聞いてくれ。オレはうまく話せる自信がねぇ」
 小さく息を吐き出して、ジャドは石畳の僅かな砂を蹴り飛ばした。やるせなさを、そうやって振り払うように。
「ああ、ったくよォ。血が繋がってんのに、こうまで性格が間逆だなんてな」
 しかも両方面倒くせぇ――そんなジャドのぼやきをフィランは目を伏せて受け止めて、自らの責務の重さを改めて思い知るのであった。
 やはり、あの当主の「頼み事」は、どれも一筋縄ではいかないのである。




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