-黄金の庭に告ぐ-
<第一部>4話:花に願いを吹き込めて

02.馬と若者、そして少年



 何者だ、この男は。
 荒く息を吐き出すレティオは、内心で目を剥く気分であった。


 敬愛する叔父からフィランを紹介されたときは、こんな若者に師が務まるのかと思ったのだ。見るからに柔和そうで、武人としての猛々しさにまるで欠けている。しかもこの若者は貴族としての責務を捨て、女と共に逃げてきた身なのだという。ベルナーデ家の跡継ぎとして生まれながらに歩んできたレティオにとって、それは社会から蹴落とされた敗者以外の何者でもなかった。
 その程度の男。馬に乗るまで、レティオは確かにそう思っていた。
「……」
「大丈夫ですか」
 今は悔しさに歯噛みする思いで若い師から目を逸らすしかない。先ほどの早馳せは散々だった。どれほど必死についていっても、フィランは羽があるかのような軽やかさで先へ先へと行ってしまうのだ。呑気に農夫たちに手まで振ってみせながら。
 そうしてやっと湖畔で馬を下りたとき、レティオは足が痺れて立つこともままならない事実を自覚せねばならなかった。落馬を恐れてしがみ付くようにしていたため、内股の筋肉が限界を迎えていたのだ。それでも意地で馬の背から降りたが、地面に足がつくと同時に体が流れて転んでしまった。フィランが慌てて起こしてくれたが、そのけろりとした顔を見てレティオは戦慄すら覚えた。
 フィランは立ち木の合間に丁度良い木陰を見つけると、手綱を引いて馬を誘導した。てきぱきとした仕事ぶりで二頭の手綱を固定し、荷物を漁り始める。
 レティオは這々の体でそこに辿り着くと、差し出された水を受け取り、一息に飲み干した。反対側の木陰に座ったフィランもうまそうに革の水筒で喉を潤し、手の甲で口元を拭う。
「いやー、久々に走ると気持ちいいな」
 ムカつくほどに爽やかな表情である。レティオは、腸がふつふつと煮え返るのを感じながら口を開いた。
「何故疲れない」
「はい? ああ……そうですね」
 フィランはこちらの疲労をしっかりと見抜いているようで、ニッと悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「乗り方の違いですよ。揺れや衝撃に対して無理に力を込めると馬も人も疲れますし、落馬の原因にもなります。あなたの乗り方も少しずつ直していきましょうね」
 顔を背けると、木々の伸び立つ先に明るく輝く湖が細波を打ち寄せているのが目に入る。夏の虫の騒ぎ声が不意に大きくなったように思えて、レティオは眉根を寄せた。
 そもそもレティオは馬が好きではない。人と違って言葉の通じない馬は、何を考えているか分からないからだ。操るにもその表情が分からなくては御しようがないではないか。
「怖いですか、馬が」
 だから不意にそう言われたとき、心を読まれた気がしてレティオはびくりと肩を震わせた。慌てて顔を取り繕い、含み笑いをしている若者を睨み返す。
「怖じてなどいない」
 きっぱりと告げると、フィランは目を細めて大樹に寄りかかった。まるで何かの思い出を重ねるかのような笑い方だった。
「馬はとても賢い生き物です。彼らは跨られただけで乗り手の力量を感じ取るんですよ――自らの主が主として足るか、劣るか」
 顔を巡らせるフィランに倣って、レティオも繋がれた馬に視線をやった。二頭で並んだ馬たちは、ぶるぶると首を振って体を休めている。その黒い瞳は無機質で、レティオには知性など宿っていないように見える。しかしフィランはとんでもないことを言うのだ。
「馬の表情が分かりますか。ほら、休んだらとても穏やかな顔になってきたでしょう」
「……」
 分からん。
「あなたの馬は穏やかな子ですし、元々よく躾けられているようですから、主人をからかうことはないでしょう。でも主従関係ははっきりさせておいた方がいい。軍人になりたいなら、特に」
 レティオはふと目を瞬いた。昨晩、叔父に聞いたことを思い出したのだ。
「フィラン。お前は帝国軍にいたと聞いたが」
 名を呼ばれた若者は、肯定の返事と共に頷く。広大な帝国の国境に立って隣国の襲撃を防ぐ帝国軍。それはこの国の子供たちの憧れであり、武人の花形であり、そして帝国の民にとって最も手っ取り早い出世への近道であった。広く諸侯を統治して平和を与え法を布き、まつろう民を寛容し高ぶる者を打ち倒すと謳われる帝国ファルダ。そんな帝国が擁す軍団は、優秀な者を登用することに身分や出身を問わないのだ。平民が貴族になり、名も知られぬ地方貴族が本国の最高決定機関である元老院の議席を与えられることもある。ベルナーデ家がそうであったように。
「僕の場合、あんまり長くは続きませんでしたがね」
「何処の勤務だった」
「南方です」
 答えを聞いて、レティオは拳を握りこんだ。彼の父であった男も南方に従軍していたのだ。
「先の遠征に出たのか」
 フィランはきょとんと目を瞬いて、髪をいじりながら首を振った。
「いいえ。僕は居残り組でしたから」
 浮きかけていた腰を戻し、落胆と共にレティオは草むらに視線を落とす。
 先の遠征。それは、この国に住む者にとって苦々しい響きを持つ出来事であった。六年前、南方軍に皇帝から進撃の命が下り、他国への侵略を余儀なくされたのだ。先帝の急逝により若くして帝位を継いだ現皇帝は、良識ある者が眉を潜める放蕩ぶりで有名であった。領土を増やして民衆の人気を取りたいが為にとられたこの皇帝の勅令に逆らった司令官は謎の病死を遂げ、息子を止めようとした太后までもが罪人として処刑される。暴君の名を欲しいままにした皇帝は、それでも遠征を取りやめようとはしなかった。重苦しい緊張の中に遠征軍が編成され、後に数多の悲劇を生む戦の火蓋が切って落とされたのである。
 結果的に帝国軍は惨敗を期した。それでも途中までは優秀な武官たちの努力で順調に進んでいたのだ。だが皇帝の思惑によって挿げ替えられた総司令官が判断を誤り、大した装備もなく砂漠の進軍を強いたことが決定的な失敗となった。厳しい日差しと砂嵐によって体力と物資を消費してしまった帝国軍は、襲い掛かる砂漠の民たちの猛攻に屈し、瞬く間に形勢を逆転されてしまったのだ。敗走を始める帝国軍と、それでも進軍せよとの本国からの皇帝勅令。合間に挟まれた司令部の人間たちは、まさに地獄を見る思いだったろう。優秀な武官が幾人も散華した後、大きな傷跡を残したまま帝国軍は元の領土に戻るしかなかった。遠征の発端となった皇帝は別荘に篭ってしまい、今だ帝国上層部は不安定な状況が続いている。
 あの遠征がなければ。帝国に生きる民たちは、世も末だと囁きあうたびに、そう口にするのである。
「……あなたの父君も、あそこで亡くなったんですよね」
 不意にフィランが呟いた瞬間、レティオはかっと頬に血を上らせた。
「あいつの話はするな」
 鋭く言い返すと、フィランは驚きに目を丸くした。レティオはやり場のない憤りを胸に燃やしつつ、涼やかな水平線を見つめた。
「嫌い、なんですか」
 意外そうにフィランは尋ねてくる。無理もないだろう。レティオの父親は軍人として多くの武勲を立て、弟のギルグランスを差し置いて本国の元老院入りを果たした傑物だ。帝国の最上層部たる元老院に引き上げられることは、この国に生まれた者にとって最高の名誉であった。地方貴族の出身でありながらそのような誉れを受けたレティオの父親は、兵からも人気のある良き司令官として名を通していたのだ。
 ――けれど。
「あの男のせいで」
 レティオは暗い想いを胸に抱く。


「あの男のせいで、叔父上は軍にいられなくなった」


「……」
 フィランは暫く痛ましげにこちらを見つめていたが、不意にがくりと項垂れた。
「あのですね、何があったか知りませんけど」
 肺の底から溜息をつくように言葉を押し出す。
「あなたもう成人前でしょう。そういうヤバそうな話を簡単に口にするものじゃありませんよ」
 レティオはふんと鼻を鳴らした。
「いや、でもですね……」
 フィランは何か言おうとしたが首筋をかいて諦め、妙にさっぱりした顔で苦笑した。
「まあ、小言はこのくらいにしておきましょう。僕も人のこと注意できる身じゃありませんし」
「何故女と逃げた?」
 直球の質問をすると、げっと顔を引きつらせるフィランである。
「……色々あるんですよ、大人の世界って」
 便利な言い回しで逃げようとする年上の若者を、レティオは睨みつけた。
「軍人でありながら逃げ出すなど」
「うーん」
「何を考えている」
「えーと」
 弱ったな、といわんばかりにフィランは暫く首を捻っていたが、やがて静かに話し始めた。
「軍を辞めたのは故郷を出る何年も前の話なんですよ」
 レティオはふと眼光を緩めた。若者は胸の奥に何を思っているのか、その口調は老人のように穏やかだ。だが、続きを聞いてレティオは危うく口に含んだ水を噴き掛けた。
「軍でいざこざがありまして、ちょっと嫌になってしまって。ある拍子にキレて退役届を上官の顔に拳と一緒に叩きつけました。その時点ですっかり社会的敗者です、そうしたら人生馬鹿らしくなってしまいましてね」
「……」
「荒れましたねえ、あのときはホントに。本国に戻っても毎日酒びたりで喧嘩して記憶飛ばすなんてしょっちゅうでした。賭博のちょっとした裏技もそのとき覚えたんでしたっけ。今度教えてあげましょう」
「……」
「もうちょっと行ってたらヤバい薬に手を出してたかもしれません。デュオの妙薬、知ってます? 心を狂わし、全てを忘れさせてしまうあれ。誘われてたんですけど、流石に殴られて止められて」
 にこやかに語るフィランという存在を、レティオは心の底から理解できないと思った。
「よく……そこからここまで」
 まともになったなと言いかけて、師に向かって流石にその言い草はないかとレティオは口を噤む。しかしフィランは飲み込まれた言葉まで悟ったようで、綻ぶように笑った。
「ティレに出会いましたから。ティレと逃げた理由は秘密です。これは大人の世界の話なので、あなたにはちょっと早い」
 悪戯っぽく笑うフィランを見て、レティオはムッとした。元より子供扱いされることが大嫌いなのだ。
 早く時が経てば良いと思った。数日後の誕生日を迎えれば、レティオは晴れて成人の仲間に迎えられる。そうすれば社交界へ正式に出ていけるし、叔父の役に立つことも出来るのだ。
 ――帝国軍に入隊することは、恐らく出来ないだろうけれど。
 そう考えるたびに、レティオは父の顔を思い浮かべずにはいられない。己と叔父に災厄だけを残して世を去った、この世で最も憎い男だ。思い出すだけで虫唾が走り、レティオはやり場のない怒りを虚空にたゆたわせた。
 何故、目の前の若者は軍を辞めたのだろう。才覚と努力を持てば、何処までも上り詰めてゆける夢のような場所だというのに。
 レティオはその理由を正そうとしたが、既にフィランの興味が別のところに移っていることに気付いて目を瞬いた。腰元に咲く白い花に釘付けになったフィランは、顎に手をやって唸りはじめたのである。
「……この、花」
 真剣な眼差しで花弁に触れたかと思うと、彼は風の方向を探るように顔を巡らせた。
「山の方から種が流れてきたのかな? うーん、でもこの辺りの風は変わりやすいし……」
「……」
 奇妙な男だ。
 そう思うと気が抜けてしまって、レティオは息を抜いて湖を渡る風の音に聞き入った。かつての栄華を失った都市ヴェルスの風は静かで退屈だ。叔父が成人を迎えると共にこの都市を出て行った理由がよく分かる。このように風化したところで堅苦しい議員となって生きていくなど、考えるだけで気分が萎える。
 そんなとき、不意に風に異音が混じった気がしてレティオは反射的に振り向いた。

「フィラン」
「ええ」
 野に咲く花に見入っていたフィランは、上の空で応じてからやっと顔をあげた。
「え? あ、はい?」
 首を回すとレティオの凍えた視線とぶつかって、思わず愛想笑いを浮かべるフィランである。だがすぐに彼も異変に気付き、傍らに置いた槍に手を伸ばした。風が吹き抜けると共に葉擦れの音がさやさやと耳朶を叩く。そこに、明らかに不自然な音がある。何かが性急な足取りで草を掻き分ける気配だ。
 勾配の激しい林は深い緑に覆われており、風によって我が身を揺らしている。フィランは油断なく周囲を伺い、不意に漂ってきた臭いに顔をしかめた。馬が嘶く鋭い声がしたのはほぼ同時だった。
「っ!?」
 顔を見合わせたフィランとレティオは、それぞれ地を蹴って駆け出した。
 色の濃い土から飛び出した岩を蹴って斜面を登る。すると、足を引きずりながら走る商人風の男と鉢合わせになった。
「たっ、助けてくれ!」
 彼はこちらを見止めた瞬間そう叫んで駆け寄ってくる。その向こうからは、ずるずると崩れかけた体躯を引きずりながら進み寄る腐った魔物が現れた。
「またこれですか!?」
 フィランは商人の腕を引いて後ろにやりながら思わず毒づいた。ここのところ、都市郊外ではこのような得体の知れない魔物が頻出して住民を悩ませているのだ。特に最近は凶暴性を増し、襲われた農夫が何人か犠牲になっている。目の前にいる魔物の口蓋は血で濡れていた。先ほどの嘶きは馬の断末魔であったのだろう。
 まずフィランは商人の安全を優先して草陰に連れていった。幸いなことに腐った魔物は大抵動きが鈍いのだ。
「落ち着いて下さい。もう大丈夫です」
 暴力的な臭気と恐怖に唇を青褪めさせた商人は、フィランを見上げて頷いた。足を怪我しているが、まだ正気を保ってはいるようだ。力付けるように頷き返したフィランは、さて処理を始めるかと振り向いた先の光景を見て色を失った。剣を手にしたレティオが魔物に切りかかるところだったのだ。
「ちょ、一人で突っ込む人がありますかッ!」
 これでレティオが魔物に食われでもすれば当主に首を捻り切られること請け合いだ。すぐに支援に向かおうとしたフィランだったが、レティオはそんな背後の悲鳴などお構いなしだった。獣のような姿をした魔物の首元目掛けて剣を繰り出し、横薙ぎに払う。だが腐りきった魔物はまるで痛みを感じた様子もなく、牙をむき出しにしてレティオに襲い掛かる。それを見て真っ青になったフィランであったが、緋色の髪をした少年は不快そうに口の端を引いただけだった。次の瞬間、払った掌でくるりと剣を回転させると、大きく開かれた魔物の口内目掛けて鋭くその腕を突き出したのである。
 ずぶっと嫌な音をたてて魔物は自ら剣に突き刺さった。ひええと喉を搾りながら凄惨な光景にのけぞるフィランを無視して、レティオは容赦なく両手で持った剣を近場の大樹に叩きつける。流石はかの当主の甥だけあって力は人一倍あるらしい。串刺しになった魔物はその肉片の半分以上を四散させ、ただの肉塊へと戻っていった。それを無感動に足の裏で抑えて剣を引き抜くレティオを見て、フィランはあのサンダルだけにはなりたくないと心から思った。
「って、なんて倒し方するんです!? まず一人で勝手に動くのは良くないことでしてね」
「だから何だ」
「いや、だからってあなた」
 レティオはフィランの説教に見向きもせず、剣にこびりついた腐肉に目を落として眉を寄せた。魔物の油は剣の腐食を早めるのだ。
「戻るぞ」
「……」
 フィランはやれやれと肩を落とし、草むらに座り込んだ商人の男を起こしてやった。
「あ、ありがとう。助かった」
「こんなところでどうしたんです」
「いや、急ぎの旅だったものでね。近道をしようと街道を外れたんだ。まさかこんな魔物がいるとも思わなくて」
 商人は大樹に手をかけながら立ち上がり、懐に抱いた筒の束を確かめると、ほうと息をつく。
「良かった。危うく大切な報を失くしてしまうところだったよ」
 蝋で封をされた木製の黒い筒を見て、フィランはピンときた。この男は商人ではなく、帝国で雇われた勅令の運び屋だ。しかし普段であれば馬車を用いてどっさりと本国指令を運んでくるのが常だというのに、今回はかなり慌てて来たようだ。仲間の姿も見えず、筒も数本しか持っていない。
「ヴェルスに向かうのでしたら馬を貸しましょうか」
 フィランの提案に男は礼を言って頷き、声を潜めた。
「そうだ、命の恩人にこっそり教えよう。なんせ私は緊急の速報を届けにきたのだからね」
 明日には告示されるだろうけど、と彼は前置きをして、若者と少年に低い声で告げた。

「先日、皇帝が亡くなったんだよ」




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