-黄金の庭に告ぐ-
<第一部>4話:花に願いを吹き込めて

01.レティオ



 フィランは悩んでいた。
 心の底から悩んでいた。
 目を閉じて眉間にしわを寄せ、喉の奥を唸らせながら、彼は全精力をその懊悩に注いでいたのであった。

 ティレには、何色の花が似合うだろうかと。

「うーん」
 花屋の前である。
 水牛に曳かれてやってきた巨大な荷車には、今朝入ってきたばかりの花々が賑やかな彩りで咲き誇っていた。馨しく匂い立つ花束は古来より祭事や祝い事の装飾、または贈り物として遍く人に重宝されている。美の女神の象徴ともされるそれらは、宝石などと違って平民の手にも届くささやかな贅沢品なのだ。早起きをして仕事前に一風呂浴びてきたフィランは、開店したばかりの花屋を目にして、ティレに何か買っていってやろうと考えたのであった。どうせオーヴィンたちが来るまでには時間がある。目星をつける程度の寄り道なら許されるだろう。
 しかし、何色の花が良いだろうか。
 顎に手をやったフィランは、細くか弱いティレの姿を思い浮かべた。やはりその儚げな顔立ちには紫や青の花が似合うだろうか。楚々とした色合いの花々は、ティレの透明感のある面立ちをさぞや凛と引き立ててくれることだろう。
 いや、しかし。ふわふわとした髪質のティレには、黄や橙の花も似合うのではないだろうか。それに生命の輝きの象徴である花は、やはり明るい色の方が良い。繊細な花々が咲き乱れる蔓で冠でも作って被せてやれば、その姿はまるで春を歌う姫神――ああ、やばい。鼻血が出る。
 いや、しかし、しかし。ここは思い切って、真紅の花を買っていこうか。燃え上がる色をしたそれをティレに挿し色として合わせれば、さぞ可憐な輝きを放つことだろう。はっと印象付けられる紅と控えめなティレとの対比の鮮やかさは、強く心に迫ってくるに違いない。
「ううん」
 ぐっ、と拳を握るフィランである。どれも甲乙つけがたく、中々決心がつかない。
 花屋の女将は俯いたままにやつく若者を見て、「大丈夫かしらこの人」と口の中で呟いた。

「贈り物ですかー?」
 不意に後ろから声をかけられて、フィランは半ば無意識に頷いた。
「ええ。花束を贈ろうと」
「恋人に?」
 そう言われると、面映さにやや赤面してしまう。苦笑し、取り繕うように柔らかい髪を撫で付けるフィランである。
「そんなところです。ところで今日のお薦めは――」
 声の主に顔を向けると、エルが満面の笑みを浮かべていた。
 フィランは、凍りついた。
「……」
「今日のお薦め? そーだねー、これとかどう? ティレに似合うんじゃないかな」
 桃色の花を指差すエルを無視して、フィランは背後を確かめる。そこには肩を並べたジャドとオーヴィンが、それぞれ腕を組んでニヤニヤと笑っていた。
「え、あ、えっと」
 ぼぼぼぼぼ、と頬に血を上らせるフィランである。肩を震わせて噴き出すジャドの隣で、オーヴィンがにこやかに頷く。
「いやあ、若いっていいことだな」
「ちょっ……なんであなたたちがここに!?」
「バーカ。テメェが集合場所に来なかったんじゃねぇか」
 ジャドに指摘されてフィランは青褪めた。妄想に浸っている間にたっぷりと時間を消費してしまったらしい。
「ひ、人が悪いですよ! ももももう早く行きましょう」
「別にいいが? 好きなだけ選んでいっても」
「首を絞められたいんですか!?」
 オーヴィンに掴みかかるフィランの隣で、ジャドとエルはこらえきれない笑みを口元に浮かべた。
 湖を抱く黄金の庭ヴェルスは今日も快晴である。


 -黄金の庭に告ぐ-
 4話:花に願いを吹き込めて


 ***


 そしてベルナーデ家も、ご多分に漏れず快晴の模様であった。
「でーすーかーらー!! このままじゃ家の金が底を尽きます皆揃って飢え死にですか魔物の餌ですか入水心中ですか!? いい加減やめて下さいホイホイ寄付に金使うのッ!」
「別に良いではないか、どうせあれだけあっても使い道などないのだ。日の目を見せてやった方が金も幸せではないか」
「金は幸せかもしれませんが、僕らは幸せじゃないんです! 旦那様は先祖代々溜めてきた財産を使い果たすおつもりですかッ」
「ふん、どうせ汚い手でも使って集めた金だろうが」
「いや仮にも先祖にそういうこと言いますか普通!?」
 中庭では屋敷の経理役を担う奴隷が奴隷とも思えぬ勢いで主人に喰ってかかっている。当主が勝手に公共設備への投資を決めてしまったためだ。このように老練の当主が好き放題に金を使っては奴隷が目を血走らせながら詰め寄る光景も、ベルナーデ家では日常茶飯事であった。
 ただしギルグランスが家の金を使う目的は私利私欲の為ではない。むしろ私生活など驚くほど質素で、とても都市で五本指に入る大貴族とは思えない暮らしぶりである。代わりに彼は気前の良さを以ってして商会の補助や農業技術の輸入、公共施設の補修に惜しみなく投資をするのであった。彼曰く、市民の人気を取るにはこれが一番とのこと。だがその額が額で、下手をすれば貴族として贅沢三昧をして暮らすよりもよっぽど高い金がポンポンと出払っていく。ケロリとした顔で「そういうわけだからよろしく」と請求書を渡される文官奴隷は日々悲鳴をあげているのであった。ちなみにそんな当主が私欲で唯一金をかけるものといえば女性への貢物で、これまた奴隷がキレる原因にもなっている。
「俺たちもいつか職を失いそうだなあ」
 オーヴィンの呟きに反論できる者は誰もいなかった。


「――で、だ」
 愛用の椅子にどっかりと腰掛けたギルグランスは、うんざりした様子で中庭から千切り取った葉で我が身を仰いだ。豊饒の都ヴェルスの夏は尾を引くように長く、日中ともなると日陰にいても嫌な熱気が渦巻く程になるのだ。
「そういうわけで、頼んだ」
 事件の簡単な経緯を説明したベルナーデ家の当主は、至極単純な命令を配下たちに下した。指示も何もあったもんじゃない依頼に、しかしツッコむ者は誰もいない。ベルナーデ家ではこの適当さがいつものことだからだ。
「ああ。それじゃあ、夕方頃に一度報告に戻るよ」
 オーヴィンたちが今回請け負ったのは、殺人事件の調査であった。都市の闘技場宿舎で暮らしていた剣闘士が一名、湖岸で殺されていたというのだ。闘技場の経営にはベルナーデ家からも多額の投資金が回っているため、そのつてで今回の事件の調査が依頼されたのであった。しかも殺された剣闘士はオーヴィンとは顔見知りだという。彼曰く、割に穏やかな男で、揉め事を起こすような性格ではなかったらしい。
 まずは現場に赴くことになり、フィランが踵を返したときだった。
「フィラン」
 足を止めて振り向くと、優雅に腰掛けたギルグランスと目が合う。
「貴様は残れ。別件で頼みがある」
「……」
「露骨に嫌そうな顔をするな」
 顔の全筋肉を使って己が感情を表現するフィランを前に、ギルグランスは呆れたように首を振った。
「別に取って喰おうと言っているわけではない」
「あなたの頼みっていうと、ろくなことがなさそうです」
「なんということを言うのだ」
 当主が深く嘆息する一方、オーヴィンたちは優しくフィランの肩を叩いたのであった。
「まあ、頑張れ」
「死ぬなよ」
「元気でねー」
 散々な置き台詞を残して、配下たちは出ていった。口元を歪めてそれを見送ったフィランは、杏色の髪を撫で付けながら当主に向き直った。
「で、何の用なんです?」
 この当主に単独で頼み事をされるなど、これが始めてのことである。オーヴィンなどはよく一人で命を受けて動いているようだが、それは彼が隠密行動に優れているためだ。ではフィランのような貴族のなり損ないに何を求めているのだろうか。考えれば考えるほど嫌な予感しかしない。
「言っておきますけど、僕は貴族らしい振る舞いなんてもう出来ませんからね」
「うむ。そのような真似など求めておらん、というかそもそも貴様には似合わん」
 フィランはぴくりとこめかみをひきつらせた。自覚しているとはいえ、堂々と言われると腹が立つものである。しかし言い返す前に次の言葉を耳にして、若者はきょとんと目を瞬かせた。
「貴様、先日は暴れ馬を御したそうだな?」
 肘掛に頬杖をついた当主の目は面白いものを見るように笑っている。重ねられる問いもまた楽しげだ。
「得意か、馬は」
「……ええ。それなりには」
 フィランの答えは言葉こそ控えめであったが、音色には芯の通った自信が込められていた。それを聞いた当主は満足げに頷き、人の悪そうな笑みを浮かべた。
「全く。槍も使えて馬も御せるというに、道を踏み外しおって。嘆かわしい」
「あなたに言われたくないですよ」
 言い返したフィランと当主の非友好的な視線が一瞬だけ火花を散らす。この当主は軍人時代に若くして才覚を認められたものの、総司令官の妻と道ならぬ恋に走って僻地に左遷された過去を持っているのだ。
「まあ良い。そこで貴様の腕を買って、頼みがある」
 取り直すようにそう言ったギルグランスが目配せをすると、傍のセーヴェが頷いて踵を返した。そして怪訝そうな顔をする若者に向けて、ベルナーデ家当主はニヤリと笑ったのであった。
「我が甥に馬術を施して欲しいのだ」


 頼みを聞いたフィランは、僅かに息を呑んだ。
「どうした。嫌か?」
「……いいえ」
 柔らかい髪を弄りながら、取り繕うようにちらっと目を背ける。
「そういえば、遣いに出ていたんですよね。戻ってきたんですか?」
「ああ。丁度昨日のことだ」
 当主の甥とはつまり、彼の兄の息子のことである。今は亡き先代のベルナーデ家当主にしてギルグランスの兄ヴェラムボルト・アウル・ベルナーデ。その名で呼ばれた男もまた、帝国軍では南方で名を馳せた勇敢なる武人であった。南に兄あり北に弟ありとして、ベルナーデ兄弟の名は軍中に轟いていたのである。そしてその女性関係も――いや、これは深くは語るまい。
 そんな先代の当主は五年前の南方遠征で命を散らしている。結果的に失敗に終わったこの遠征では、彼を含め多くの武官の命が失われたのだ。ギルグランスが退役したのがほぼ同時であったことから、当初のヴェルスでは兄の死が弟に衝撃を与え、その身を退こうと決心する契機になったのだという話がもっぱらの噂であった。それから数ヶ月も経たない内に、住民たちはこの男がそんな可愛いタマではなかったことを心の底から思い知る羽目になるのだが。

 さて、話を元に戻そう。砂漠の果てで散華したギルグランスの兄には、一人の忘れ形見がいた。名をレティオといい、もうすぐ成人として認められる十六歳を迎えようとしている。兄の遺言に則ってレティオの後見人となったギルグランスは、そんな甥を我が子のように可愛がっていた。暫く隣の都市に遣いに行っていたそうで、フィランが会うのは初めてだ。
「武術は中々やるのだがな、どうも昔から馬が不得手なのだ」
「それで僕に?」
「うむ。それに歳もいい具合に近い。話し相手になって欲しいのだ。あれで中々多感な年頃だからな」
「……難しいことを言いますね」
 眉を下げていると、ベルナーデ家の整えられた中庭にセーヴェを伴って一人の少年が現れた。少年は遠慮ない足取りで陽の袂に進み、ギルグランスの前で胸に手をあて礼儀正しく腰を折る。
「お呼びですか、叔父上」
 肉付きも顔立ちも、そして声にまで幼さが残る少年だった。フィランは彼の姿を静かに瞳に映した。眼に焼きつくような、その印象的な色合いを。
 何よりも先に目を惹くのは、鮮やかに咲く彼岸花にも似た緋色の髪だ。強く輝く瞳は炎を映しこんだかのような橙。すらりと通った鼻の下で、薄い唇が叔父の言葉を待って縛られている。引き締まった四肢には武芸を嗜む者特有のしなやかさがあり、飾り気のない服が逆に彼の凛とした居住まいを引き立てるかのようだった。
 いやはや、なんというか。
『……女性にモテそうだ』
 何故この家の人間はこう美形揃いなのだろうか。神は絶対に裁量を間違っていると強く思うフィランである。
「レティオ。昨日言っておいたろう。こやつがお前の馬の師だ」
 ギルグランスが促すと、レティオはフィランをじろりと睨んだ。フィランは一瞬迷ったが、こう言われては今更否とも言えず、諦め半分で口を開いた。
「お初にお目にかかります。僕のことはフィランと。ご当主の意向に沿えるよう、誠心誠意取り組ませて頂きます」
「……」
 レティオは検分するようにフィランの頭から爪先までを視線で一撫ですると、ギルグランスに向き直った。
『返事なし、ですか』
 結構な曲者かもなあと考えるフィランである。
「叔父上」
 レティオはそれだけで絵になるような気高い横顔で当主に告げた。
「この者は本当に師として足りるのですか」
 このクソガキ殴ろうかなと衝動が脳裏を過ぎったが、フィランはかろうじて思い留まった。ここは屈辱を忍んで大人になるべきである、うむ。
「足りないと思うなら申し出ろ。ただし、腕前を見てからな」
 叔父に諭されたレティオは訝しげな眼差しを向けてくる。フィランは鼻から息を抜いて、自分より背の低い少年を前に口角を吊り上げた。こういう手合いには下手に諂えば逆効果だからだ。
「まあ、そういうことです」
 若者の挑発的な態度に、レティオは無表情で応じた。叔父の手前なのか本当に面の皮が厚いのかはこれから見極めなければいけない。中々大変な仕事だ、とフィランは内心でごちた。
「それに折角良い馬が手に入ったのだ。天気も良いし、軽く走らせてくると良い」
「……分かりました」
 レティオの返事を受けると、奴隷のセーヴェが準備の為に先を切って馬舎へ向かう。レティオが後に続くのを見送って、フィランは意味ありげな視線を当主にやった。当主自身も、甥の姿が見えなくなると愛用の椅子に体を埋め込むようにして首を振る。中々難儀している様子である。
「ああいった奴だ。もう少し口数を増やせと言っているのだがな」
 確かに帝国貴族として社交界に出るには無愛想に過ぎるかもしれない。フィランは苦笑して腰に手をやった。
「まあ、あの年頃は誰だって突っ張るものです。いいですよ、みっちりと仕込んで見せましょう」
「頼まれてくれるか。助かる」
 邪神と揶揄される当主は珍しく気を揉んだ様子だ。ここで恩を売っておくのも悪くない。フィランは胸を押さえ、その頼みを受け入れることにした。


 ***


 ギルグランスが甥の馬術を気にするのには理由がある。
 後ろ盾のない地方都市の貴族が帝国人として身を立てるには、帝国貴族の嗜みを完璧に身につけることが最低条件であるのだ。立ち振る舞いは勿論、弁論術の他、武芸にも秀でていなければこの国では軟弱者と笑われてしまう。中でも馬術は基本中の基本であった。何せ帝国内では騎乗した姿こそ男の華として持て囃されるのだ。家柄の低さを努力で覆さなければいけなかったフィランも、幼い時分から乗馬は丹念に仕込まれたものだった。
「――これはすごい」
 セーヴェに馬具を用意してもらったフィランは、馬舎に入ると同時に、思わず感嘆の声をあげた。数頭の馬が繋がれているそこの最も奥に、見目凛々しい立派な栗毛の馬を見止めたのだ。一直線にそちらへ向かうと、世話をしていた奴隷の少年が気付いて会釈する。セーヴェの息子で、レティオの従者でもあるピートであった。彼はまるで自分が褒められたかのような面持ちで、嬉しそうに白い歯を見せた。
「いい馬でしょう。オンプリオ産ですよ」
「本当だ。こんな馬そうそうお目にかかれないよ」
 胸を好奇心に躍らせて、フィランは馬の前に立ち、その姿をまじまじと観察した。ギルグランスは甥の成人祝いにとこの馬を買い与えたそうだが、軍人でもあった当主は見目よりも実を取ったらしい。色こそ凡庸だが体格は逞しく、優しい性格をしているのが仕草から見て取れる。
 フィランは馬が落ち着いているのを確認すると柵をまたぎ、軽く手を差し伸べた。馬は見知らぬ若者の登場に始めこそ怪訝そうに耳をぴくぴくさせていたが、敵意のないことを察知したのか鼻を鳴らして首を振る。艶やかな首筋を撫で、鼻面をくすぐってやると、嬉しそうに尾を振って擦り寄ってきた。
「あはは。人懐こいな」
 髪を軽く食まれ、フィランは無邪気な笑い声をあげた。馬もこちらを気に入ってくれたらしく、撫でてほしい場所を顔に擦り付けてくる。奴隷のピートが、そんな様に目を輝かせて賛辞を送ってきた。
「扱いがうまいですね。昔から触ってたんですか」
「うん。こんな良い馬には乗せて貰えなかったけどね」
 そう言って、フィランは今だ馬舎の入り口で突っ立っているレティオに顔を向けた。
「レティオ。ご当主に感謝しなさい。本物の名馬ですよ、これは」
「……」
 レティオは僅かに眉を潜めつつ、すたすたと寄ってきて栗毛の馬を訝しげに見やる。
「……あまり大きくないようだが」
「オンプリオ産だからです。確かに大柄ではありませんが、山育ちですから脚力は最高ですよ。それに大きいからといって良い馬だとは限りません」
 説明を面白くなさそうに聞いたレティオは、高いところにある馬の目をじっと見つめた。近づくだけで触れようともしない少年を見下ろした馬も、不穏な空気を察知して前足で地面を小突く。フィランは一抹の不安を覚えたが、ピートに手伝って貰いつつレティオが無事に背に跨るのを見て安心した。流石に基本的な作法は心得ているようだ。暫く馬舎の中を歩かせてみて馬が落ち着くのを待つと、自分も別の馬に跨って早馳せに出ることにした。
 いざ馬の腹を蹴ろうとしたとき、奴隷のピートが気遣わしげにフィランに告げた。
「気をつけて下さい。レティオ様は無口なお方ですが、放っておくと無茶ばっかするんです」
「うん、分かってるよ」
 開かれた馬舎の扉から、夏の強い日差しが差し込んでくる。フィランは軽く手を振ってみせてから、馬を駈って光の中へと進んでいった。


 ***


 豊饒の女神を守護神に戴く都市ヴェルスの郊外は広大な畑に覆われている。昔は単純に麦を作るしか脳のなかった農園だったが、現在ではギルグランスの助けもあって葡萄を初めとした果実の栽培も盛んだ。秋以外でも収穫できる農作物を育てることで、年間を通して商人を都市に呼び込み、経済を活発化させるという当主の狙いによるものである。また、麦も昔に比べると遥かに質の良いものを作るようになっていた。技巧を凝らして生み出される高級な小麦は、舌の肥えた帝国貴族に高く売れるからだ。お陰で豊饒の都には食材を求めて季節を問わず遠方から商人が足を運ぶようになり、一時期破綻しかけていた都市の財政は少しずつではあるが上向き始めていた。
 そんな農園は夏の日差しを受けていよいよ明るく、青々とした稲穂の海は輝く風の女神ウェルセネラが朗らかな舞を踊るかのようにさざめいている。フィランは農園の脇を通って湖伝いに馬を走らせた。風に乗るかのような速さの中では、心までが澄んだ空気に洗われるようで心地良い。フィランは昔から、こうやって馬を駈るのが好きだった。駆ける馬上から見る遠くの景色はみるみる形を変え、飽きることがない。波打つ緑の海から休憩中の農夫たちがこちらを眩しそうに見上げていたので、手をあげて見せると彼らも笑ってそれに答えた。煌く湖を抱くヴェルスは何処までも長閑だ。
 だが、とフィランは後ろに意識をやった。少し飛ばしすぎたのだろうか、レティオは後続するのがやっとといった様子だ。落馬を気にするあまり、体が硬くなり前に傾いてしまっている。これでは馬も走りづらそうであった。本人は無言で前だけを向いているが、放り出されるのも時間の問題かもしれない。フィランは速度を緩めてやりながら、林が近付いてきたのを見て湖岸を指差した。
「あそこで一休みしましょう」
 息を切らしたレティオは、小さく頷いて手綱を引いた。




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