-黄金の庭に告ぐ- <第一部>3話:ポペラユプポピュポマルス博士 07.血みどろの道化師、それでも彼は生きていた 「……で?」 短い問いには声量こそないものの、それだけで人を後退させるような怒気が込められている。愛用の椅子に頬杖をついてもたれたベルナーデ家当主ギルグランスは、並んだ配下たちに邪神に相応しい表情を向けた。横では奴隷のセーヴェが、どのように議事録をつけたものかと蝋版を片手に四苦八苦している。 「んん、だからしょうがないだろう? あそこで逃がしたらまた大変なことに」 「馬鹿者! だからといって客人に剣を突きつけ縄で縛って連れ帰る奴があるかッ」 ぴしゃりと言われてはオーヴィンも黙るしかない。ジャドは視線を中庭に逃避させており、エルも間が悪そうに足の甲をもう片方の足首に擦り付けている。フィランは虚ろな目でこの苦痛な時間が過ぎるのをひたすらに待っていた。 彼らは当主の言いつけ通りにポペラユプポピュポマルス博士の捕獲――ではない、身柄の確保に成功したのである。だが、そのやり方が良くなかった。引きずられるようにして連れてこられた博士を見て、当主は顔を手で覆ったものであった。リュケイアからはるばるやってきた高名な学者が、これでは犯罪者並の扱いである。 「……そうだ、貴様ら」 一通り説教が終わってようやく帰宅を許された彼らを、ギルグランスは突然呼び止めた。 疲れた顔の配下たちを一通り見回して、ニヤリと口元を歪める。 「ポペラユプポピュポマルス博士――リュケイアではポマス博士と呼ばれていたらしいがな、面白いことを言っておったぞ」 「面白いこと?」 怪訝そうに眉を持ち上げるオーヴィンに、当主は含み笑いしか返してはくれなかった。疲労と眠気で追求する気にもなれなかった彼らは、そうして島への帰路についたのである。 「風呂。そして寝床」 自らの欲求を限りなく簡潔に述べたフィランは、ふらつく足取りで帰路に着いた。降り注ぐ日差しと晴れやかな小鳥の囀りが忌々しい。 「疲れたねえ、ふらふらするー」 エルも怪しい足運びであったが、本気かわざとか分からないところがある。フィランは、そんな彼の横顔を見て、すぐに目を逸らした。彼の歪みがそこに見えるようで、直視していられなかったのだ。 そもそもエルは戦闘に向いているのではない。フィランは彼の戦う姿を見て確信した。あのからくりじみた所作は、戦闘を強制された者のそれだ。戦うことを強制され、血を流すことを是とされ、狂った世界を生きるために身につけざるを得なかった力だ。普通、自らの意思なく戦う者は途中で倒れる。しかし、彼は心をすり減らし、壊しながら――それでも倒れなかったのだ。 「ねえ、フィラン」 突然呼びかけられて、フィランは眠気が一瞬だけ吹き飛んだ気がした。エルはこちらを見て笑う。その顔を崩すような笑顔が、心が崩れた残滓を思わせるようで。 しかし、彼は。 「めでたしめでたし、だね」 哀れみも恐怖も、何もかも忘れてしまうような平穏な台詞を唇に乗せて、笑ってみせる。 「みんなが家に帰れるんだもの。ぼくたちは怒られちゃったけど、でも、よかった」 風に乗ったその時の笑い声だけは本当に幸せそうで、前を向いた瞳には確かに光が宿っていて。フィランはそこに人間としての表情を垣間見る。 壊れた心を抱えながらも、エルはあの森でフィランたちを待っていた。もしエルがルディと共にいなければ、彼女の命はなかっただろう。トージは機転の効く男だが、盗賊である彼に本格的な魔物と戦闘するだけの力量はない。あの戦いの後、明るくなった戦場に仕掛けられた即席の罠の跡を見て、フィランはエルが的確に魔物を足止めしてフィランたちを待っていたことを思い知らされたのだ。本人は何も言わないけれども。 フィランはだから、目の前の男をただの壊れた人形だと思うことが出来なかった。あらゆるものに救いがあるとは思っていない。しかし、救いが何処にもないわけではない。国を亡くし、誇りを失くし、それでも彼はヴェルスの地にあって確かに生きているのだ。 「そうですね。帰れる家があるのは、良いことです」 返答は眠気のせいもあって、とても気が利いたものではなかったが、エルは何度も頷いて笑った。 もしかしたら、いつかフィランも、そんな笑顔に慣れてしまうのかもしれない。しかしフィランはその予感に、鈍い痛みを覚えたのであった。 「じゃあ、僕はここで」 「お前さんも律儀だねえ」 「このままじゃティレに嫌な思いをさせますから」 フィランは汚れた体を洗うため公衆浴場に寄ると言って、途中で道を外れていった。一刻も早い惰眠を欲する彼らにとって、その行動は大変に度し難い。だが、睡魔に犯された頭ではろくな揶揄も思いつかず、オーヴィンたちはのろのろと歩を進めていった。 「そういえば、ねえ。オーヴィン」 「んん?」 エルが不意に尋ねたのは、徹夜明けの気だるさを紛らわすためだろうか。 「なんで昨日はフィランとぼくを一緒にしたの?」 オーヴィンはフィランが島の煙を見てくると言った時、供としてエルを指名したのだ。オーヴィンが当主からフィランの教育役を仰せ付かっていることを知るエルに、それは僅かな違和感を感じさせたのだろう。 オーヴィンは間を置いてから、かくりと首を傾げてみせた。 「んん、妻帯組と独身組?」 「わーお、分かりやすい」 「悪趣味な分け方だぜ」 「……お前さんたち。もう少し疑ってくれたっていいじゃないか」 オーヴィンはいじけそうになった。 朝日の注ぐヴェルスには、軒先に水を撒く女の姿や窓から立ち上る竈の煙など、人々の生活の匂いで満たされている。そんな様を眺め、オーヴィンはぽつりと漏らした。 「あいつ、まだ俺たちのこと警戒してるからな」 ジャドは、それを聞いて怪訝そうに眉を潜めた。 「そうか? 割と慣れたもんだと思ってたが」 「あいつの履いてる靴、まだ旅用だ」 オーヴィンは眠たげな表情を変えぬまま、静かに告げた。ジャドは僅かに顎を下げ、エルは猫のように目を細めた。そんな二人をちらりと見返して、オーヴィンは小さく首を振った。 「貰った家すら生活感が皆無だってマリルもぼやいてた。あいつ、いつでも島を出られるようにしてる」 「……出るつもりなのか?」 やや不安が混じったジャドの問いに、オーヴィンは笑って手を振ることで否定を示した。 「多分、そう簡単には出ていかないよ。誓いも立てたからな。だがな、あいつはきっと怖いんだと思うよ。ここに馴染んで気が緩んじまうのが」 オーヴィンは、フィランがこの地にやってきたときに見せた燃え上がるような怒りの感情を思い出した。ギルグランスの前で貴族への嫌悪を口にしたとき。崖の際に立たされた魔物が最後の力を振り絞るにも似たあの表情は、記憶に強く印象付けられている。寄る辺をなくして彷徨う獣のような危うさを持つ彼は、未だ自分たちに心を許していないのだろう。 けれど、とオーヴィンは気楽に笑った。 「大丈夫だよ、じきに時の女神様が解決してくれる。だからエル、お前さんをつけたんだ。お前さんにぶん回されれば少しは肩の力も抜けると思ってな」 「あ、ひどいー。ぼくが人のこと考えてないみたいだよ」 「考えたことがあんのかよテメェ」 「ジャドよりはあると思うよ。きみよりは分かってるつもりだもん、女心とか」 「うるせぇ!」 三十路を間近に控えて一向に恋人が出来ない哀れな男は、エルの胸倉を掴もうとした。それをひょいと避けて、エルはけたけたと笑う。 そんな仲間たちを眺めやって、オーヴィンは心の中だけで呟いた。お前さんたちも同じだったからな、と。 「それにしても、よく気付くもんだな、てめぇも」 「出来るなら気付きたくないよ。胃ばっか痛くなっちまう」 オーヴィンはのんびりと嘯いた。しかしまあ、胃痛の種の一つは昨晩の一件で取り払うことができたのだ。 その頃、都市の暗部では、明るい話題で盛り上がっていた。行方を眩ましていた先代の元締めの娘ルディが、トージを選ぶという意思の元にヴェルスに戻ってきたのだ。美しき女頭領は翼ある自由を捨て、自らの責務を受け入れる覚悟を決めたのだ。 しかしきっと、トージは彼女を心から大切に扱うことだろう。彼はルディを先代の娘である前に、一人の女として愛しているのだから。上層部が安定したことで、無頼どももこれ以上の狼藉は控えざるをえないだろう。 願わくば今後も胃に優しい日々が訪れんことを。 大雑把な外貌とは裏腹に人々の心の機微に気が付く男は、心からの願いを天上の神々に捧げるのであった。 *** 一方その頃、ヴェルスに抱かれた湖に浮かぶ小さな島の一角にて。 「歓迎だわ」 島の事実上の支配者である老女クレーゼは、手を合わせてころころと笑った。 「退屈なところですが、空き家でしたらいくつでも余っていますわ。お好きなところを使って下さいな」 「退屈だなんてとんでもない!」 彼女の正面に座ったポマス博士は、まとめて肩から流した髪を揺らして興奮気味に立ち上がった。 「この島の生態系は素晴らしいですぞ。大陸から離れたために独自の進化を遂げたのかもしれませぬ、見たことのない植物の多いこと! とにかく是非ともここで研究させて頂きたいのです」 くすくすとクレーゼは穏やかに微笑んだ。 「お気に召されたようで光栄だわ」 「それに、尋ね人がいるのです。私の師の孫に当たる方ですが、突然ヴェルスを目指すと言って行方を眩ませてしまったので」 「まあ。見つかると良いのですが」 ポマス博士は悩ましげに太い眉の根を寄せ、骨ばった手で痩身をさすった。 「しかし中々癖のある都市ですな。いやはや、本来ならすぐにでも今日のように願い出たかったのですがな。盗賊に捕まったのですが突然わけも分からず解放されたと思えば、今度は盗賊よりも恐ろしい連中に捕まってしまいまして」 「まあ」 頬に手をやってクレーゼは小首を傾げる。そんな人たちがこの都市にいたのかしら、と。 「しかし負けてはいられませんな、ははは。さて、ではそろそろ――」 『盗賊より恐ろしい連中』を笑い飛ばしたところでポマス博士は立ち上がった。主人と再会してすっかり元気を取り戻した奴隷を連れて、クレーゼの館を後にする。 「ああ、そうだったわ。もうすぐオーヴィンたちが戻ってくるかしら」 ポマス博士を見送った後、クレーゼは一人でそうぼやいた。 「元気が残っていそうだったら、ポマス博士の新居の掃除を手伝ってもらいましょう」 事情を知らぬ老女は名案を思いついたとばかりに、上機嫌な面持ちでポマス博士を呼び止めに出たのであった。 それから数時間後、運命の再会を果たした彼らの悲鳴が広い湖上に響き渡ったのは言うまでもないことである。 Back |