-黄金の庭に告ぐ-
<第一部>3話:ポペラユプポピュポマルス博士

06.不死なる魔物



 降りしきる雨は止んだが、いまだ霧の立ち込める闇が視界を塞いでいた。争いの響きは、冥府の遣いが打ち鳴らす太鼓となって低く耳朶を叩く。ベルナーデ家の配下たちがようやく隠れ港に到達したのは、それらが高まりを過ぎてからであった。
 その様は、控えめに言って地獄であった。人と魔物の死骸が折り重なり、松明から引火した火が藪を燃している。そのため光源には困らなかったが、同時に炎は濛々とあがる煙と死の惨状を明瞭に照らし出している。片腕を失ったラドルの亡骸があるのを見て、フィランは思わず顔を背けた。
「苦手か、こういうのは」
「得意な人がいるなら、その人はどうかしてます」
「全くだ」
 そう言いつつも、オーヴィンはやや意外そうだった。フィランは前線で戦った元軍人なのだ。こんな惨状には慣れている手合いだと思っていたのだろう。しかしフィランは正直もう喋りたくなかった。この光景は、彼の一番触れたくない部分を刺激する。

 オーヴィンは馬から降りると、仲間の手当てをしている生き残りを探し出して声をかけた。
「お前さん、ラドルの手下だな」
「……ベルナーデの犬か」
 今にも舌打ちをしたそうな顔を向けられて、オーヴィンはやれやれと息を抜いた。
「言える範囲でいい。状況を教えてもらえるか」
「状況? 分かんねぇよ、そんなもの! 突然こんな化け物が襲ってきやがって」
 暫く男はこの不条理や逃げ出した者への恨み言をぶつぶつと漏らしていたが、話がルディに向けられると、禍々しい凶報をその唇に乗せた。
「巨大な魔物に、ルディが喰われた?」
 眉を潜めたオーヴィンは、同時にトージの指示でルディの船は沖に逃げたことを知った。
「で、あのバカとトージは何処に行ったんだよ?」
「化け物を追いかけて……」
 顎を奥の方にしゃくられて、オーヴィンは深く溜息をついた。
「それを早く言ってほしかったなあ」
 馬の手綱を引いて足早に進んでいくと、暴風が通り抜けたように木々が薙ぎ倒された地帯を見つけた。魔物は森の奥まで進んでいったようだ。フィランとジャドは心の底から嫌そうな顔をした。オーヴィンは再度溜息をつくと、諦めたように告げた。
「……急ごう」
「だークソ、これ終わったら断固休暇をとるぜオレはよ!?」
「僕だってとりますっていうか休暇とる前に倒れますよここって保障金とか出るんですか!?」
「その辺りは親父と個人的に相談してくれ。俺はアレと交渉したくない」
「最初からそんな弱気でどうするんです! ああもう、風呂に入りたい……ッ」
 歯軋りをしながら、フィランは馬に跨った。ルディの危機とはいえ、彼らも戦闘で満身創痍なのである。エルの無事が心配ではないのか、という問いに対しては『アレは殺しても死ぬわけがない』という見解が三人の脳内で見事に一致していた。

 ベルナーデ家の男たちが最悪な一夜を呪いながら去った後、手当てが済んだ仲間に肩を貸して引き上げようとしていた無頼は、ひっと喉を引きつらせた。振り向いた先、屠ったと思った魔物の内の一匹が、全身を震わせながらも起き上がろうとしていたのである。
 死しても這いずる異形を前に、生理的な嫌悪が四肢の自由を奪い取る。早く刃を以って斃さなければならないのに、その動きが一つ遅れる。それは、致命的な過ちになる筈であった。
 ――が。
「素晴らしい!」
 もし神が作った世界に誤りがあるとしたら、この発言はきっとその一つに値するだろう。有体に言えば、想像を絶する場違いな台詞。
 しゅたん、と猿のような動きで『それ』は舞い降りた。それだけであれば、単なる助っ人、命の恩人である。だが『それ』が斜め上の方向へ事態を進展させるのを、無頼はただただ引きつった悲鳴をあげながら見守るしかなかった。
 『それ』は飛びかかろうとした犬のような魔物の首を、こともあろうに素手で掴み取った。ぐちゅ、と肉片が飛び散って、腐臭が一層濃くなる。顔面を切り裂こうとと突き出された爪をひょいと避けて、前足を反対側の手で軽々と拘束する。元々この腐った魔物は動きが早くないため、確保にそこまでの腕は必要としないのだ。が、この怪奇を前に平然と動ける方がよほど怪奇じみているだろう。
「捕まえましたよ、ふふ! 死して動くなどなんと興味深い、一体どんな構造をしているのかとくと見せていただきましょう――む?」
 嬉々として地面に魔物を押し付けた「それ」は、魔物が突然ぐったりと動かなくなったのを見て首を傾げた。しばらく様子を伺って、魔物が真の意味で絶命したことを確認すると、花が萎むように肩を落とす。
「これはなんということ。すぐに別の検体を手に入れなくては――そこのお方。これの同類を他に見ませんでしたかな?」
 願わくば二度と見たくないよ、アンタも魔物も――そんな率直な感想を避けて、無頼は渋々巨大な腐った魔物が森の奥へ逃げたことを教えてやった。
「なんと!」
 まるで少年のように目を輝かせた「それ」は、飛び上がらんばかりの様子で漆黒の森へと駆け出していった。夜の森の恐ろしさを説く歴戦の戦士も真っ青な、力強い足取りで。
「……夢、でも見てたかな……」
 その姿が見えなくなった後、無頼は不安げにそう呟くのであった。


 ***


 夜の静寂を切り裂いて、馬蹄が土を踏み鳴らす。視界を眩ます霧はやみ、雲間からは月が覗きかけていた。彼らは暗き森を彷徨いつつ、時折聞こえる争いの音を頼りに進んだ。すると次第に不可思議な香りが辺りに充満していく。むせ返るような、甘ったるい匂いだ。
「さっきから、なんです。この匂いは」
 気分が悪くなるほどの臭気に腕で鼻を庇いながら、フィランは辺りを見回した。ジャドとオーヴィンも似たような反応を示していることから、自分だけの幻覚ではないらしい。誰かが香を焚いているのだろうか、それにしては不快な臭気だ。
 痕跡を辿りながら闇を突き進んでいくと、果たしてぽっかりと開けた広場に突き当たり、腐った魔物と対峙するエルとトージの姿を捉えることができた。トージが消耗しているのは明白だ。エルもまた、何時になく真剣な横顔で魔物を睨み据えている。そしてフィランたちもまた、見上げるほどの背丈を持つ魔物の巨躯を眼に映して息を呑んだ。ぐずぐずになった体は丸みを帯びて、既に原型を留めていない。蠢くたびに朽ちかけた体の所々から骨を突き出す様は、禍々しいの一言に尽きた。
「エルっ!」
「わあ、みんなだ。びっくりー」
 エルはこちらに気付くと、驚いて目を丸くした。身の丈の倍はあろうかという魔物は、溶けかけた皮膚を申し訳程度にまとって唸り声をあげていた。まるで冥府の底から聞こえてくるような鳴き方だった。
「オイ、大丈夫かッ!」
 ジャドが馬を下りようとした刹那、魔物の体から突然触手のようなものが伸び、肉片を散らしながらエルとトージに襲い掛かる。二人は体を転がして避けたが、大地に突き刺さった触手は大きく土を抉った。
「くそ――ルディ! ルディ、返事しろっ!」
 トージが全身を声にして叫ぶ。馬を降りて駆け寄ったフィランたちは、魔物の口の辺りを見てぞっとした。ほっそりとした女の手が、そこから力なく垂れ下がっているのだ。

 手早く魔法を使って魔物を葬り去ろうとしていたオーヴィンは、慌てて詠唱を止めた。今魔法を使えば中のルディまで巻き添えにしかねない。
『見たことないぞ、こんなの』
 オーヴィンは得体の知れない魔物を見上げ、肌を粟立たせた。古代より人とその生息区域を争ってきた魔物には様々な姿をしたものがあるが、死んでまで動くものなど聞いたこともない。
「どわっ!?」
 再び繰り出される肉の触手にジャドは眉をしかめながらも、身をかわして振り向き様に叩き切る。だが魔物は痛みを感じた様子もなく、それどころか更に触手を伸ばしてジャドの喉元を切り裂こうとした。舌打ちをして体を横に流すと、触手はエルが投じた短剣で断ち切られた。魔物は自由に無数の手を伸ばすことが出来るようで、休む間もなく次の触手を振り払わねばならない。
「ちょっ、キリがありませんよ、早く助け出して魔法で片付けるしか――」
 槍を構えたフィランも伸びてくる触手を巧みに捌いているが、これもかわすのが精一杯で、近付くこともままならない。魔物はオオオ……と鈍く吼えつつ、みるみる新たな触手を生み出していく。
 そんなとき、突然戦線を離脱したのはエルだった。
「少し待ってて」
「オイ!?」
 フィランとジャドが矢面に立ったのを良いことに、エルは猫のように後退した。手を出しあぐねていたオーヴィンに合流すると、エルは膝をついて腰の巾着を手早く開いた。
「香を焚くつもりか? あの化け物に効くかな」
「ちょっと特別なのを焚くよ」
 出来れば効かない方が嬉しいんだけど――そんな呟きと共に複数の素材を小壷に注ぐ。エルの眼差しには、まるで己の傷を見たかのような微かな不安と焦りがあった。オーヴィンは何かを言いかけたが、それを押し込めて詠唱に入った。火と風の魔法で香を効果的に焚く戦法は、彼らにとっては馴染みのものである。
「できた。お願い」
「――精霊の御名において」
 エルが身を引くと同時に、小壷の下に引かれた葉に絶妙の火力で炎が灯る。立ち上る煙は魔力によって操られた風によって魔物の方向へと殺到した。それは強力な魔法ではないが、能率良く効果的な結果を生むのだ。ジャドに言わせれば、「なんて地味な」の一言であるが。
 また、前線で戦う者たちに二次被害が一つ。
「なんです、この臭い!?」
「オイ、バカヤロー!? 香焚くなら先に言えよクソが!?」
「だいじょうぶー。人間には無害だから」
「そういう問題じゃねぇだろうが!?」
 目に染みる酸っぱい臭気に襲われたフィランは、今日だけで自分の鼻が使い物にならなくなることを本気で危惧した。
 そんな弊害を生みつつも強烈な臭気は確かに魔物に効いたようで、触手がだらりと垂れ下がる。その間隙を縫ってトージが魔物の口腔に取り付いた。
「ルディッ!」
 垂れ下がった腕を掴むと、足をかけて渾身の力で引っ張る。しかし体内に引っかかっているのか、頭まで覗いたところで止まってしまう。視界が暗いため、トージは思わぬ苦戦を強いられた。次第に魔物は活力を取り戻し、びたびたと触手が痙攣して持ち上がっていく。
「ジャドッ」
「分かってらァ!」
 フィランとジャドはそれぞれの獲物を手に動き出した部位を切り落としにかかった。だがみるみる魔物は力を取り戻しつつある。時間稼ぎにも限界があった。
「オイコラ、オーヴィン! ぼさっとしてねぇでなんとかしろよ!?」
「そんなこと言ってもねえ」
 オーヴィンの言は一見無責任だが、彼なりに全力で思考を回転させていることは、その額に浮いた汗が雄弁に物語っている。見たこともない魔物――死して尚猛威を振るうおぞましい化け物に、一体どんな手が効くというのか。
 その時、風を切る音があった。
「それを使いなされ」
 見知らぬ声と共にオーヴィンとエルの足元に小さな布袋が着地して跳ねる。
「ほえ? だれー?」
 突然の闖入者を検めようと二人は顔を向けたが、暗がりに立つ小柄な影は、輪郭だけしか捉えることができない。影は、興奮した様子で魔物を指差した。
「あの魔物の口内に放り込むのです、さあッ!」
 さあ、と言われましても。
 オーヴィンが常識的意見を脳裏に浮かべている間に、エルは指先で拳大の布袋を拾い上げると、注意深く臭いを検め、そして何かを閃いたように目を見開いた。
「うん、やってみる」
 オーヴィンが質す暇もなかった。結わえ紐を解いたエルは、放たれた矢のように魔物の元へ走っていった。迎え撃とうと持ち上がった触手はジャドに切り裂かれた。エルはトージの隣に立つと、布袋の中身を魔物の口内にぶちまけた。
 空気が一瞬にして張りつめ、奇妙な静寂が僅かの間、ベルナーデ家の男たちを包み込んだ。漆黒の闇に包まれた冥府がその門を開いたかのような不安が、彼らの胸を支配しかけた――その瞬間だった。
 名状しがたい巨大な咆哮が炸裂した。
「な、な!?」
 それまで蛇のように動いていた触手が突然針鼠のように逆立ち、フィランとジャドは慌てて身を転がした。咆哮に混じり、不快な水音が耳朶を叩く。腐った肉をまとわせて吼えたために、溶けた肉が口から流れ出したのだ。同時にずるりとルディの身体が束縛から放たれ、トージと共に大地に転がった。腐った魔物は全身で苦しみを体現するように、狂ってのたうち回る。
「トージ、下がれっ!」
「分かっている!」
 トージは汚れてぐったりとしたルディを抱くと、離れた潅木の茂みに飛び込んだ。だが、その様を見届けられたのは後方にいたオーヴィンだけであった。
「ちょっとあなた何をやったんですエル!?」
 ルディを吐き出したものの更に凶暴化した魔物を前に、フィランは舌打ちをしながらエルに問い質した。
「胡椒だよ」
「胡椒?」
 エルの答えに眉根を寄せる。胡椒とは南方で産出される香辛料の一つで、帝国内では高級品として貴族の間に流通している。フィランは南方で従軍していた時代に、その壮絶な辛さや香りに誘発される生理的現象のことを聞き及んでいた。しかし拳大の皮袋一杯に詰まった胡椒など、庶民には手の届きようのない代物だ。一体誰がそのようなものを持っていたというのか。
 疑問は尽きなかったが、目の前の魔物はそんな余裕を与えてはくれなかった。
「オイ、ここで殺っちまえ! このままじゃコイツ何処行きやがるか分かんねぇぞ!」
「ああもう、鼻は曲がるし死体は動くし、今日は本当にどうなってるんですか!?」
「足止めだけでいいよー。たぶん、長くは持たないと思うから」
 三人三様の台詞を吐いて、男たちは狂える魔物に襲い掛かった。魔物は無茶苦茶に地を転がり、触手を振り回し、汚物を撒き散らしながら苦悶の咆哮をあげる。むせ返るような腐臭にフィランは頬を歪めた。人に渾名す魔物とて、このような最期を遂げるのは見ていて哀れだった。だが、放置しておくわけにはいかないのだ。
 長槍を振るうフィランの技は人並み外れて突出したものではない。しかし作法を忠実に、確実に守ったその動きは、焦りや戸惑いとはまるで無縁だ。扱いの難しい長物を無駄なく旋回させ、堅実に相手を追い詰める。
 変わってジャドの剣捌きはやや冷静さを欠いて粗雑にも見える。しかし目を見張るべきは、鮮烈な命の輝きと共に発揮されるその素早さと勢いだ。全身を戦に投じる姿は猛る山犬を思わせ、肘程の長さの剣を我が手のように操る様はまさに剣舞と呼ぶに相応しい。
 そしてエルは彼らほど前線向きではないが、両手に握った双剣を閃かせ、空気のような軽さで右に左に斬りつける。それは血塗られた道化師が戦う不気味さをも思わせたが、彼の瞳は尚正気を失ってはいない。
「オーヴィンの魔法がくるよー」
「よし、退くぞッ」
 この面子での戦いに慣れぬフィランがやや遅れて身を下げると、青白い光が矢となって魔物に殺到した。それは一つ一つが収縮された小さな風の礫だ。この男は本当に渋い魔法の使い方をする、とフィランは僅かに眉を下げた。普通戦場にやってくる魔術師といえば派手な魔法を使いたがるものだが。
 しかし渋いだの地味だの散々な評価をされる彼の魔法は、最小の力で最大の効果を紡ぎあげる。礫の一つが骨の間接を打ち砕き、魔物は大きく体勢を崩す。そしてぐずぐずになった巨体は自らの形を保てなくなり、禍々しい音を立てて崩れていった。


 ようやく静寂が戻ると、オーヴィンはやれやれと首を振った。魔法によって精神を消耗した横顔には、濃い疲労が浮かんでいる。
 そのとき、悲嘆の篭った老人の声が聞こえてきた。
「なんと勿体無い! 斃してしまうとは、折角貴重な検体が手に入ると思ったのですがな」
 いつの間やら東の空が薄っすらと明るくなり初めていた。夜明けの女神が薔薇色の指から光を挿しかけ、老人の姿を露にする。
 黒々とした髪を束ね、片方の肩からしっとりと流した、物腰の穏やかそうな老人であった。大きな鉤鼻の上では、褪せた色の目が思慮深い光を宿している。全体的に小柄で細身だが、長衣を着こなして立つ姿には高齢ながらも壮健さが伺える。
 彼はふむ、と息を抜いて懐から巻物を取り出した。
「しかし何ですかな、今の魔物は。明らかに一度死しているのに動くとは。森の奥に住まう民には死霊使いの伝説があると聞きますが――」
 フィランはその巻物を見た瞬間、げっと顔をひきつらせた。でかでかと朱色で『ヴェルス都立図書館所蔵、持出禁止』と書いてあったのである。
「……」
 フィランは、オーヴィンと顔を見合わせた。そしてジャドと見合わせた。
「まさか」
「いや」
「そんな」
 交わされる奇妙なやりとりが、彼らの混乱を如実に語っていると言えよう。
 そのまま暫く考えたオーヴィンは、深く頷いた。
「よし」
 オーヴィンは良い子が見れば泣き出すこと請け合いの表情で首を回した。そして他の者たちも同じようにする。彼らの視線の先にいた老人は、突如向けられた殺気に怪訝そうに眉を潜めた。
「ポラプポラプ博士、だな?」
「――は」
 老人が答える前に、オーヴィンは断じた。
「逃がすな」
「おおっ!!」
 応えたフィランとジャドが武器を手に突進を仕掛ける。ひっと息を呑んだ老人は、鬼のごとき彼らの形相に巻物を取り落とした。
「探しましたよ、ククク……!」
「手間かけさせやがって、この落とし前はきっちりつけてもらうぜ……!」
 徹夜明けの疲労によって正常な思考を忘れた男たちである。どす黒いオーラを背景に物騒に輝く刃を向けられ、老人は怯えた様子で後ずさった。
「な、なんですかな君たちっ!?」
「るせえポペポペ言ってんじゃねーよ!」
 詰め寄るジャドも無茶苦茶だったが、鬼気迫るその表情に言い返せる者もそうそういまい。
「あなたのせいで変な虫に追われるは無頼が焚き付けられるは散々引っかきまわして下さって覚悟は出来ているんでしょうね……!?」
 ぷるぷると槍の先を震わせるフィランは怒りで我を忘れる寸前だ。一歩一歩ゆったりと近付いてくるオーヴィンもまた、冥府の王のような禍々しさをまとっていた。彼の場合、元から人相が悪いために余計タチが悪い。
「な、なんですかな、金なら持っていない――」
「欲しいのは命だコノヤロウ」
 迫り来る彼らを盗賊と勘違いした老人に、目を血走らせた男たちは襲い掛かった。


「ルディ、ルディ」
 呼びかけが、意識を現実に引き戻す。ぼやけた世界に見慣れた顔を見て、ルディは眉を潜めた。やけに体が重たい。得体の知れない魔物に襲撃された折、仲間を守ろうとして前に立ったところまでは覚えているのに、それ以降の記憶がふっつりと途切れてしまっている。
「ルディ! 目を閉じるな!」
 うるさい。そう言おうとしたが、喉がうまく動いてくれなかった。代わりに何故か、別の言葉が紡がれた。
 それは、手を伸ばした先にいて欲しいと思った人の名前。
「トージ……」
 はっと息を呑む音が近くに聞こえる。どうやらトージに抱きかかえられているようだ。次第に五感が明瞭になると、思い出したように全身が痛んだ。まだ生きているのだと、それで知った。
「あいつらは――アタシの船の連中は無事なの?」
「お前」
 トージは目を見開き、そして巨大な魔物を屠ったことを告げた。沖合いに出たルディの手下たちも無事だろう。そう聞くと、全身から再び力が抜けていくかのようだった。
 水が欲しかった。体がからからだ。一人ではとても立っていられない。悔しい事実が、そのとき諦念を伴って胸に沸いた。笑えるほどに、彼女は己の無力を感じていた。もしかすると、だからこそ人は群れるのかもしれない。柱を欲するのかもしれない。しがらみを生み、不自由を生み。変わり行く事象に苦しみながら、そうしていつしか覚悟を決めて立ち向かうのかもしれない。亡くなった父がそうであったように。
 馬鹿馬鹿しい。人とはなんと馬鹿馬鹿しい。しかし自分が同じ人であることを、ルディは強く感じた。仲間を守ったことに誇りを感じたからかもしれない。あるいは誰かの腕に抱かれて、安堵を覚えたからかもしれない。
 顔をあげると、離れたところにエルが立っていた。
 ――ほら、もう大丈夫。
 彼の薄い唇が、そう呟いたように見えた。
 彼は目を細め、にこりと笑う。その表情は、まるでそこに何かの境界線を生むかのようだった。
 枯れ木のような手が振られるのを見て、彼女は何かを言いかけた。彼は結局、囚われてから何一つとして口にすることはなかったのだ。そして彼の振る舞いの違和感。血塗られた人形のような動きと、壊れたような笑い方と。その事実と彼の言葉が相俟って、ルディの胸に言いようのない不安を残していた。エルはそんな彼女の胸中を知ってか知らずか、晴れやかに別れを告げた。雨の降り注ぐ長い夜の憂鬱が、夜明けの喜びと共にかき消されてしまうように。
「じゃあね。お幸せにー!」
 彼は嬉しそうに――あるいは、そこに救いを見たかのように、仲間の元へと走り去っていく。




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