-黄金の庭に告ぐ-
<第一部>3話:ポペラユプポピュポマルス博士

05.夜雨



 裏切りの国ガルダ。帝国の住民はその名を、自らの傷に手を触れるように、憎悪、または一重の哀れみと共に呼ぶ。
 それは帝国の北方、冷たい風の吹く森の奥に存在した小国であった。民は文明を嫌って毛皮を身にまとい、風を読み、鳥と語り、魔物を使役した。暗き森において彼らは定住を好まず、一生の間食物を求め、一族を率いて道なき道を彷徨う。無数の部落がそのように動いては争いが絶えず、厳しい暮らしのために男は鋼のように屈強であり、女は獣のように逞しかった。
 そんな流浪の民を擁す国では、暴力という最も単純な力が全てを支配した。弱き者から略奪することを躊躇わなかった彼らは、帝国がその傍まで国土を広げたときも、魔物を使役して帝国軍に襲い掛かった。方向感覚を狂わせる森を我が庭のように駆け、あらぬ方向から飼いならした魔物を仕掛けてくるガルダ人の猛攻に、最強と謳われた帝国軍も苦戦する。ちなみに当時本国の帝国軍に在籍していたギルグランスは、そんな時にやってはいけない恋に走り、上層部の怒りを買ってこの激戦区に左遷された。完全に自業自得である。本人は全く動じなかったどころか、ここで功を挙げて行く行くは司令官の地位にまで上り詰めるのだが。
 帝国内の保安に力を注いだ当時の皇帝は、この問題を解決すべく蛮国ガルダとの全面的な戦争を決意する。森を切り開いて進軍する帝国軍と、猛り狂う彼らの壮絶な戦役が始まり、これはガルダの全面降伏が成されるまで三年の間繰り広げられた。
 大地の支配者たる帝国は、ガルダの長老たちの降伏を受け入れ、彼らに帝国の法の下、この地に留まって生きることを許した。他の都市と同じようにガルダは属州に組み込まれ、帝国はその国境を強固なものとしたのである。
 だが広大な森という強き母に守られ、強きが弱きを排すことを常としていたガルダ人である。軍備を取り上げられ、代わりに税金を払う生活に不満は募るばかりだった。戦に明け暮れる生活は、彼らの誇りでもあったのだ。一族の矜持を奪われた彼らは、牙を折られた魔物のように憎悪を燃やした。そして長老たちが死に、若き世代が台頭する時代になると、彼らは突然帝国に反旗を翻したのである。
 電光石火の勢いで襲い掛かるガルダ人に、不意を突かれた帝国軍は総崩れとなった。この騒乱の折、落ちてきた梁からギルグランスを庇った奴隷のセーヴェの背には、今でも痛々しい火傷の跡が残っている。
 事件の報は瞬く間に帝国中を駆け巡った。帝国はこの暴挙に怒り狂い、事は皇帝が自ら出陣するにまで至った。帝国ファルダは戦に負けて恭順を誓ってくる国や都市を許し、属州に組み込みながら領土を広げてきた。しかし恭順を誓ってから再び刃を向ける裏切りは断固として許さなかったのだ。
 一時の勝利に浮かれていたガルダ人は、帝国の総力を向けられては成す術もなかった。帝国の怒りは炎となってガルダの地を嘗め尽くした。森はことごとく焼き尽くされ、全国民が捕虜として捕らえられた。兵士は凄惨な手段で殺され、民は残らず奴隷として売られた。無人の焦土と化したガルダには皇帝の統治の下、近隣の国から民が集められて住まうようになった。こうして裏切りの国ガルダは、森と暮らす民の姿と共に完全に消滅したのである。

 フィランは暗澹たる思いを抱えて集合場所まで歩いて行った。エルがガルダ人の奴隷剣闘士であったということが指す事実。それは彼の知るガルダの兵士たちの末路にぴったりと重なっていたのだ。
 捕らえられたガルダ人の男たちに帝国民が死を求めたのは言うまでもないことだった。それも、裏切り者に相応しい死だ。かくして、帝国内の闘技場では世にも惨たらしい処刑が執り行われた。彼らは奴隷剣闘士として、同胞同士で戦うことを強制されたのだ。帝国を裏切ればどのようなことになるのか、民衆への見せしめも兼ねたこの惨劇の中、仲間と戦う苦悩を抱えたままガルダ人は死んでいった。
 カリィは努めて明るく言ったものだった。
『あたし、そんなときにあいつと会ったんだ。好きになったのも、逃げようって言ったのもあたし。あいつ、――泣いてたから』

 何故……。
 何故、泣いているのですか。

 鬱陶しい雨が肩を叩く。音がぼやけ、カリィの言葉と記憶が被る。耳にこびりついて離れない声。そういえば、あのときも雨が降っていた。輪郭を朧にさせたティレが目の前に立っていた、遠い日のことだ。
『あいつはね、元から帝国軍となんか戦いたくなかったんだってさ。ガルダ人の癖にね。でも反対すれば殺されるからって、無理に戦って、あんな目に遭って』
 渡し守の爺に都市まで送ってもらい、静まり返った港を湖沿いに歩く。夜闇においては、道沿いの建物も皆固く門戸を閉ざしている。冷たく濡れた髪から、ぽたぽたと水滴が滴った。熱い風呂が酷く恋しかったが、この時間帯では公衆浴場も閉まっているだろう。そう思うと、やり場のない苛立ちが胸につのった。
 南方に従軍していたフィランは、かの悲劇の生々しい惨状を目の当たりにしたわけではない。それに噂を聞いた当時は、裏切った者たちならば当然の末路なのだろうと思ったものだ。しかしカリィの言葉が、エルの細い四肢が、思い浮かぶ闘技場の熱気と血の臭いが。フィランとっての禍々しい思い出を、眩暈と共に呼び起こす。この世に確かなものなどないと気付いてしまった、その出来事を。
『でもさ、フィラン。それってもう昔のことなんだ。エルはここに来て変わったんだよ。昔みたいな顔はしなくなった。馬鹿なことばっかするけどさ、でもあたしは』
 フィランはこの話を聞いてしまったことを後悔した。己の傷が痛むのも不快だったし、何よりも――。
『あいつに生きたいように生きてほしいから』
 カリィのあの真っ直ぐな眼差しが。薄闇に沈む彼にとっては、哀しいほどに疎ましい。


「よお、この世の終わりが来たって感じの顔だな」
 集合場所である雲雀亭の戸口で出迎えた店主ベーカーに苦笑され、フィランは憮然とした。
「それより、外はまずいですよ。ここに来るまでに三回も襲われました」
「そりゃ少ない方さ。ベルナーデ家は敵も多い、こういう見通しの悪い雨の夜は気をつけな」
「冗談じゃないですよ。ここは何処の荒ぶる巨人族の住処ですか」
 ベーカーは屈強な肩を揺らして笑う。今宵は特に緊張の高まる夜だ。ベルナーデ家の横槍を恐れた一部の無頼たちが、動きを鈍らせようと暗躍しているのである。こめかみを揉みながらフィランは手配した馬の下で待つオーヴィンとジャドに合流した。彼らの雨に濡れた頬を、店から漏れる灯りが橙色に照らしている。
「んじゃあフィランも来たし、ぼちぼち行くかねえ」
 オーヴィンがそう言って馬に跨ると、ジャドがケッと喉を鳴らした。彼も彼とて、今日は一日中奔走していたのである。
「行き先は地獄の一丁目ってやつか。ざけんじゃねぇぞ、オレは帰って寝てぇ。オイ、フィラン。何シケた面してやがる」
「……なんでもないですよ。さっさと片付けましょう、僕も早くティレに会いたいです」
 フィランは灯りから顔を背けて騎乗する。先ほどのカリィとの会話が、頭の隅に油のようにこびりついていたのだ。
 ガルダ人。裏切り者の代名詞である国の男。あの四肢の細さと壊れたような笑顔と。そこに内包した歪み。フィランは今、彼を直視できる気がしない。オーヴィンやジャドは、彼をどう思って仲間として受け入れているのだろう。
 雨に濡れた都市を後にした三人は、それぞれ松明を手に湖沿いの街道を進んでいった。雨は霧のように変わり、右方に広がる森林地帯が鬱蒼とした闇を湛えている。
「フィラン。大丈夫か?」
 だしぬけにオーヴィンに声をかけられて、フィランは薄く笑ってみせた。
「見くびらないで下さい。この程度の仕事量なんて大したことありません」
「そうだなあ。エルの方がまずそうだな。あいつは頭はいいが持久力に難があるんだ」
「あの人は……まあ、そうですね」
 エルの話題をふられて、思わず返答を濁してしまう。オーヴィンは厳つい橙色の目で、ついとフィランを見やる。
「んん。お前さん、エルがガルダ人って気付いただろう」
 思い切り肩が揺れて馬脚が乱れた。慌てて手綱を引き締めながら睨むと、オーヴィンは微かに人の悪そうな笑みを浮かべた。
「結構分かりやすいね、お前さんは」
「う、うるさいです」
 まさかここまでぴたりと言い当てられるとは思わず、赤面しながら眉を潜めるフィランである。
「あのですね、オーヴィン。そういう繊細な話題をあっさり出さないでくださいよ」
「その程度で繊細なんて言ってたらもたないよ、フィラン。俺たちは全員、はたけば埃が家一軒分出る身だ」
「胸を張って言うことじゃないでしょう、それは」
「残念ながら、うちの邪神様は胸を張って俺たちを手元に置いてるよ」
 飄々と嘯くオーヴィンである。背後に続くジャドも変わった様子はなく、この会話の流れを自然に受け入れているようだ。
 そんな姿を見ていると、淀んだ疑念を抱き続けていた自分が馬鹿らしくなってきて、フィランはやや乱暴に質した。
「それで、あなたは僕にエルのことを『ガルダ人だとしても仲間なのだから過去を気にせず普通にしていろ』とでも言いたいのですか?」
「俺は人種で差別をするなとは言わないよ。個人の感情ってやつは、そんな正論で片付けられるものでもないし。だからお前さんは、肩肘張らずにお前さんの目と耳であいつを判断するといい」
 俺たちもそうしているよ、と。オーヴィンは、後ろのジャドに声をかけた。
「ジャド。お前さんはエルをどう思う?」
「あぁ? あの能天気バカか? 美人の嫁貰いやがって、顔が腐っちまえばいい」
「まあ、そういうことだよ」
「……」
 フィランは手綱と松明を手放せるのなら顔を覆っていたところであった。オーヴィンは唇の端を僅かに上げると、闇の向こうに目線をやった。
「あれだ。お前さんは何も遠慮することはない。これからも、気になることがあれば聞けばいいよ」
「……遠慮なんかしていませんよ」
 憮然とフィランは返答した。それは、オーヴィンの言葉の根底に押し付けがましさのない気遣いを感じたからだ。彼はきっと、思い悩むフィランの心の機微を感じ取ったに違いない。ありがたさと同じ程度に、手の平で踊らされているような居心地の悪さを覚えて、フィランは話題を逸らした。
「それで、港に着いたらどうするんですか」
「んん。まあ、俺たちは見届け役だ。一般人が巻き込まれないようにだけ気を払ってくれ」
 オーヴィンはフィランの内心に気付いているのか否か読めない表情で答えた。
「俺たちはエルを含めても四人。チンピラがドンパチを始めたとして止められる手数じゃないからなあ。まあ、トージの奴がうまくやってくれることを祈ろう」
「神に祈ることが許されるのは、己に出来うる全ての手を打った者だけですよ」
「おお、良いこと言うねえ」
「冗談じゃねぇよ。出来る以上のことやったっての。クソ、朝から走り回らせやがって」
 ジャドが背後でぶつぶつ文句を言うのを聞きながら、フィランは息を吐き出す。夕暮れにトージと対峙していたオーヴィンは、彼から深い信頼を得ているようだった。見かけによらず繊細な気遣いのできるこの男は、無頼たちの抗争の終結に持てる力を注いできたのだろう。フィランとて、情勢が分からないなりに、己の意思と判断で取るべき所為を決めてきた。ここまでくれば、胎を決めて手札を表に返すしかないのかもしれない。人は天を知ろしめす神々のように全能ではありえないのだ。
 不意に会話が途切れたのは、単に話題が潰えたからではなかった。その証拠に、それまで姿勢悪く騎乗していたジャドが音もなく身を起こし、オーヴィンは目だけで暗闇の視界を見回している。絶えず聞こえる細波の音は黒き御手を持つ冥王の呼び声にも似て、男たちに得体の知れない不安を呼び寄せた。自然とフィランが先頭の隊形となり、オーヴィンを挟んでジャドが殿を務める。
「やれやれ。祈るだけじゃ駄目そうだ」
 オーヴィンが溜息をついたと同時に、彼らは馬の腹を蹴って走り出していた。そうして風に乗ったのも束の間、右方から殺気を感じたフィランは馬を止めず反射的に松明を鋭く突き出した。闇を切り裂いて飛来した犬のような影が、口内を火に炙られて形容しがたい断末魔をあげながら跳ね返される。
 続けて甘い香りが鼻をついたと思ったのも束の間、目に染みるほど濃くなった暴力的な甘い臭気がベルナーデ家の配下たちを襲った。吐き気を催しながら、手綱を放したフィランは代わりに槍を構えた。
「なんです、これは!」
「知るかよクソ! 来るぞッ」
「おーおー、これはご機嫌だ」
 殺気が充満した街道の端々から、黒い魔物たちが飛び出してくる。馬の足に食らいつこうとした一匹を、すれ違いざまに槍で凪ぐ。そぶっ、と、炙ったチーズのような感触がして、フィランは違和感を強くした。明らかに肉を断つそれではない。
 そのとき、オーヴィンが持つ松明の灯りに魔物の姿が露になり、フィランは息を呑んだ。目を剥いたジャドが代わりに叫ぶ。
「んだよ、昼間の腐った魔物じゃねぇかッ!?」
 赤黒い破片を落としながらうごめくそれはひとつひとつ犬ほどの大きさがあり、光を失った眼窩の奥は虚ろな闇。申し訳程度に黒い皮が残っていたが、それも逆に禍々しさが増すというものだった。そして何よりもその悪臭と、獲物を求めてうごめく爪の鋭さが、事態の恐ろしさを肌身に訴えかけてくる。
 ――死にながらにして彷徨う魔物。いや、とオーヴィンが唇を引き縛った。彼が昼間に処分した魔物とは明らかに動きが違う。前は虚ろに彷徨うだけだったのが、今回のものは明確に人を認識し、襲おうとしているのだ。それに数も桁違いだった。
「オイ、フィラン、突っ切れるか!?」
「やるしかないでしょうが!」
 フィランはわめくように言い返して歯を食い縛った。全身の筋肉を脈動させて進む馬の上において足の力だけで巧みに体を支えつつ、跳ねて牙を突きたてようとする魔物たちを薙ぎ払う。続くジャドも、フィランが捌ききれなかった魔物に剣で止めを刺した。光源確保のため松明を持ち続けていたオーヴィンは、前方の闇にぽつぽつと灯った光を見て顔をしかめた。あれは、ルディの船の元に集まった者たちの光に違いない。
「どうなってるんだ、こりゃあ……」
 首筋に冷たい汗が伝うのを感じながら、ベルナーデ家の配下たちは地獄の様相となった街道を突き進んだ。
 夜明けの女神が永き眠りに囚われてしまったかのような夜は、その闇を一層濃くしていく。


 ***


 瞳を猫のように細めているルディの横で、相変わらずエルは騒がしかった。
「こんな港があったんだ。街道に近いのに全然気付かなかったよ、すごいすごい」
「オイ、誰か猿轡を持ってきな」
「酷いよー。ねえ、それよりぼくを人質にして、ベルナーデ家になんかお願いしてみようよ。そうだ、ジャドに三回回ってワンとか」
「アタシがベルナーデだったら喜んでアンタを見捨てるね」
「あはは、言えてるねえ」
 軽業師のように船べりに座り、外にぶらぶらと足を放るエルである。もう少しの辛抱でこの男を追い出せるとルディが自らを慰めていると、エルはふと首を巡らせた。
「どうかしたのかい」
「なんか、変な臭いがしない?」
「変な臭い……?」
 ルディは靡く髪を押さえながら、嗅覚を研ぎ澄ました。水上といえど、海辺と違って潮の香りはない。だが、かといって別の何かが香っている風もなかった。
「甘い臭い……これって」
 そう呟いたきり、エルは黙り込んでしまった。不審であったが、問う前に岸辺に近付いたことを知らせる笛の音が聞こえた。船の頭として、ルディは素早く寄港の指示を出さなければならなかった。
「落ちるんじゃないよ」
 それだけ言って、艫櫓の梯子に足をかける。隠れ港には、僅かであるが物資が残っているのだ。それを回収次第、ルディはヴェルスの反対側まで船出するつもりだった。この忌まわしい都市の呪縛から逃れるために。
 胸に走る痺れに似た痛みを無視して、ルディは艫櫓を上り切った。すると、港へ眇めた眼を向けていた手下が、不穏そうに声を潜めて言った。
「おかしら、なんかおかしいですぜ」
「どうした」
 目を闇に慣らすため、櫓の上には光源が置かれていない。彼の横に膝を着き、じっと闇の奥に目をこらす。
「灯りは見えないね」
「へえ。ですが、空気が妙です。誰かがいる気配がしやす」
 長年この船を操ってきた手下の感覚を、ルディは強く信頼していた。まさか自分の寄航を手下の一人が外部に漏らしたなどと夢にも思わず、ルディは唇を噛み締めた。
「待ち伏せをされたか」
「一旦引き返しやすか?」
「いや。食料は底を尽きかけてるんだ、このまま行く。まずはアタシが様子を探ってこよう」
「でも、おかしら」
「妙な動きがあれば知らせる。そうしたら全力で逃げておくれ」
 物言いたげに顔を向けた手下の会話を打ち切り、ルディは豊かな髪を翻して櫓を降りた。彼らを飢えさせるわけにはいかないし、だからといって危険に晒すわけにもいかない。今回の逃亡が自分の我侭から端緒を開いたことは、彼女が一番よく知っていた。伴う苦難は、可能な限り彼らに負わせてはならない。
『反対岸に着いたら、こいつらも解放してやろう。いつまでも付き合わせるわけにもいかない』
 そう思うと、胃の腑から得体の知れない不快感がこみあげた。己の本心と相反する決断をしたときの、それは痛み。違う、とルディは爪を掌に食い込ませる。これは己の真の心だ。融通のきかない父。裏切ったトージ。彼女を見放す世界。そんなものを否定するために、彼女は自ら背を向けるのだ。

 手下たちが次々と船の灯りを消していく。闇に沈む視界に、そっと船は岸へ近付いていく。
 盗賊たちの隠れ港は、切り立った崖下に開いた洞窟の入り口にある。洞窟内は船が入れるほど広くはないが、物資の隠し場所として使うことができるのだ。何よりも、周囲が蔦や藪で覆われていて街道からは死角になっているのがありがたい。
 ルディは不安がる手下たちを無理矢理船に残し、古い桟橋に注意深く降り立った。エルも勝手についてきているようだったが、闇に覆われていたため彼の表情を読むことは叶わなかった。
 霧雨は既に止んだものの、天蓋は雲に覆われ、燦然と輝くのはヴェルスの島の灯台のみだ。
 歩を進めたルディは驚愕に見舞われた。溜めておいた物資が忽然と消えている。そのとき、突然腕を捕まれた。耳元に気配があり、低い声がかかる。
「上に誰かいるよ」
 エルのものと分かったが、そこには普段の剽軽さの欠片も込められていなかった。首筋を冷たい針で刺激される心地でルディは頷くと、洞窟を出て街道の方へと上っていった。

 心臓を鷲掴みにするような光景だった。次々と松明が灯り、煌々と夜の街道を照らし出す。集まった無頼の群れは数十名。その先頭で、髪を刈り上げた屈強な男が、今にも舌なめずりをしそうな笑みを湛えている。
「……ラドル」
 込み上げた嫌悪感に、ルディは無意識に身構えていた。ゴモドゥスを筆頭とする一団の実力者である。過去にはヴェルスの商家と手を組んで、都市暗部に幅を利かせていた彼らであったが、ベルナーデ家の台頭によりその勢力は衰えていた。ラドルの狡猾で残忍な性格を、父やトージは特に忌んでいたものだ。父が亡くなってからは再び台頭しようと目論んでいるのだと、ルディは小耳に挟んだことがあった。正直、誰が跡継ぎになろうとどうでも良かったのだが。
 彼らの周りには死体がいくつも転がっている。ルディは顔をしかめた。ここで抗争があったのだ。ルディを待ち構えるために。
「よう、ルディ。会いたかったぜ」
 闇に浮かぶ瞳は、獰猛な肉食獣を思わせる。今やルディは都市中の無頼たちの獲物であった。その毛皮だけを求められ、追い詰められ、食い殺される狐も同じ。
 冗談ではない、とルディは敵意を露にラドルを睨めつけた。
「何の用だい。アタシはアンタと話すほど暇じゃないんだ」
 ラドルは心外だという風に肩を竦めた。
「ちょっと待てよ、ルディ。てめぇはオレを人攫いか何かと勘違いしてやしねぇか?」
「それは本物の人攫いに失礼だね。汚いハイエナがいいところだ」
「相変わらず酷ぇ女だぜ。てめぇにも悪くない話を持ってきたっていうのによ」
 警戒するルディを宥めるように、ラドルは声を優しくした。
「オレと一緒に来い」
 提案は、それだけであれば侮蔑を以って拒否されていたことだろう。しかし、ラドルは僅かに首を傾げてみせた。
「来るだけでいいんだよ。むろん、オレの女になれとも言わねぇ。てめぇは今まで通り暮せばいい。てめぇに手を出す奴はオレが許さねぇよ。前に使ってたねぐらもトージの奴から取り戻してやる」
 息を呑む音が、他人事のように思えた。
 ――全てが、元に戻るのだ。
 それはなんと優美な誘惑であったろう。奪われることもない。辱められることもない。自分は、今まで通りいればいいのだ。
「今までの暮らしに戻りたいんだろ? オレが叶えてやるよ。またてめぇの好きなようにしていいっつってんだ」
 ラドルはニッと口角を上げた。
「てめぇは変わらなくていいんだよ」
 頭の中で何度もラドルの声が反響して、心臓が高鳴る。
 そう。変わらなくて良い。幸せに生きていれば良い。気高く、強く。
「ほら、こっちに来ようぜ? 船の上はひもじかったろう? てめぇの手下どもも、ちゃんと食わせてやるからよ。今まで通り、楽しくやろうや」
 手の届くところに、自由が燦然と輝いている。その甘い香りに、ルディは唇を噛み締める。しかし心の深淵で、何かが呟く。それは違う、と。
「……どうした?」
 怪訝そうに問われて、初めてルディは己の唇の端が歪むように吊りあがっていることに気付いた。
 ――ああ。
「どうしたって?」
 それは自嘲と、憎悪と、絶望の混じった返答だった。
 ――私は、理解してしまった。
 ラドルはそれに気付かず、やれやれと首を振ってみせる。
「なあルディ、てめぇがそんなに物分りが悪いとは思ってなかったぜ。何を迷ってやがるんだよ。てめぇの不都合が何処にある? 言ってみろよ、オレがどうとでもしてやるぜ」
 投げかけられる言葉が遠い。
 紅を引いた唇から、溜息を零す。そう、とっくに自分は、気付いてしまっていたのだ。
 誰よりも強く生きていると思っていた。羨望を集め、獣のように気高くあると思っていた。
 それが、どうだ。
 こうやって食い物にされようとしている自分は、ただの弱者だ。
 ――食い物にされるしかない自分は、ただの弱者だ。
 あの痩せた男の言った通り、自分は逃げたかった。力を持たない自分が、飾り物として処理される世界から。
 責務を負わず、ただ自由に呼吸をしているだけで、誰かが自分を賛美してくれると思っている。
 しかしその生き方は悲しい。そんな風に己が非力な道化であるなど――悲しいではないか。
 呟いた言葉は乾いて、しかし切望に塗れていた。
「なんて無様だろうね」
「ルディ?」
 ようやくラドルは不穏な気配に気付く。ルディは唇を歪めて笑ってみせる。
 自分が本当に欲しかったのは。あの父が、トージが、目の前の男が。そこまでして追いかけるものは。
「アタシが欲しいのは」
 父の代わりに自分を育ててくれた手下たち。冷静な幼馴染。彼らがいてくれる世界。貧しくも温かく、居心地の良い――。
「アタシの世界を、アタシが守る。その力だ。アンタが差し出す首輪じゃない」
 心が迸るままに唇に乗せて、ルディははっとした。当たり前の幸福を守る幸福。それは。

 ――それは、父が歩いた道そのものではないか。

 同時に、拍手が聞こえた。夜の闇に白々しく響いたそれに、予想外の拒絶に目を剥いていたラドルが、びくりと首を回す。
「よく言った、ルディ」
「……トージ」
 幼馴染が立っていた。背丈こそ高くないが、たった一人で堂々と。松明の灯に照らされた頬に、笑みを刻みながら。
 ラドルは僅かにたじろいだが、トージが来ることは予想していたようで、唇を歪めてみせた。
「よぉ。ようやくお出ましか。仲間からも見捨てられたのかよ、無様だな」
「生憎、俺は手下を引き連れないと威厳を保ってられない臆病者とは違うんでね」
 流れるような答えに、空気が剣呑なものとなる。数多の敵視の矢を突き立てられ、しかしトージは悠然と足を踏み出した。同時にルディは、一歩足を下げる。
 婚姻を申し込まれてというもの、この男を許した日は一日たりともなかった。所詮彼にとっても、自分はただの政略の道具でしかないのだ。それがどれほど悔しかったか、悲しかったか。トージには分かるまい。
「ルディ」
 はっきりと眼を開いて、トージはルディと対峙する。あの時殴ったのは跡にならなかったのかと、ルディは余計な感慨を抱いた自分に困惑した。あれだけの拒絶を見せた後に、彼は何を言うつもりだろう。
 すると彼は、一呼吸おいて、はっきりとした様子で声をかけた。
「俺と結婚しろ」
 言葉の意味を理解し、氷結した脳がその機能を取り戻すまで丸々三秒。ルディは、一片も取り繕うことなく顔を歪めた。
「はっ……」
 馬鹿か。そうか、この男は馬鹿か。あんなに冷静ぶっていたくせに、根底は馬鹿であったのか。
 よりにもよって、前回と全く同じ間で全く同じ台詞を吐くことはないではないか。脱力しそうになったルディは、苦心してトージを睨みかえした。
「ふ、ふざけるな。アタシはアンタの道具じゃないと言って――」
 そのときトージの身体が、解き放たれた猟犬のようにルディ目掛けて駆けだした。瞬きするのも束の間。不快なほど濃密な甘い香りが鼻をつき、次の瞬間悲鳴が闇を切り裂いた。
「ルディッ!」
 身体ごと突き飛ばされて、慌てて受身を取る。獣の唸りにしては奇妙な、ヒューヒューという息遣いが頭上を駆け抜けた。襲撃されていると判断を下したルディは素早く身を起こして、愕然とした。
「な、なんだ!?」
 腐りかけた魔物が、醜悪な様態を晒しながらも動き続けている。そしてルディとトージを庇う位置に、草陰から飛び出したエルが姿勢を低くして両手に短剣を構えていた。ラドルたちも同じ化け物に襲われているようで、恐慌をきたしている。
「数が多いよ。急いで船に戻って」
 横顔で振り向いたエルが、口早に指示を出す。次の瞬間、魔物が腐肉を散らしながらエルの真横に迫った。同時に、エルの身体がふわりと動く。
 あ、と声すら出る暇もなかった。まるで、一流の人形師に操られた人形のようだった。見えない糸に手繰られるように、エルの双剣が、瞬く間に魔物を肉塊へと変貌させる。エルに武術の心得などないものと思っていたルディは、彼の頬に赤い斑点が付着したのを見てぞっとした。それに気付いたエルは、すまなさそうにふにゃりと笑った。
「ルディ、その人、きみのことを道具だなんて思ってないと思うよ」
 突然何を言い出すのだと思ったが、エルは二匹目を流れるような所作で切り刻んでいた。血に染まる短剣に、彼の優しさは絶望的に似合わない。なのに彼は笑う。零れるように笑う。
「そんな風に助けてくれるなんて。その人、きみのことをすごく好きだ」
「――」
 それだけで、もう十分に衝撃を受けたというのに。
 腕を掴んで助け起こしてくれたトージが、ちらりと目をやって。
「よく分かるな、お前」
 思考が沸点を飛び越えて揮発したようだった。舌がもつれてろくに返答できず、トージの腕に支えられて、ルディは桟橋へ続く藪の中に飛び込もうとした。だが、突然噴き上がった気配にざわりと肌が粟だって顔を向けた。
「あれ、おかしら……?」
 自分を心配して様子を見に来たのだろう。離れた藪からひょっこりと顔を出した手下が、ぎょっと目を剥く。しかしその数倍の恐怖と衝撃を覚えたルディは、本能の命じるままに大地を蹴っていた。手下の背後に、象のような巨体が死神のように起き上がる――。
「どきなッ!」
「ルディ!」
 全身を炎のようにして走るルディに、トージの声は聞こえていなかった。
 愛したもの。愛してくれたもの。憎んでしまったもの。頭の中はぐちゃぐちゃで、何一つ己の感情を救い上げることができない。
 ただ、自分を愛してくれたものを守る。それが今の彼女の全てであった。




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