-黄金の庭に告ぐ-
<第一部>3話:ポペラユプポピュポマルス博士

04.人は無数の選択の中に生き、されど自由は何処にもない



 空気が次第に湿り気を帯び、細かい雨粒が船を叩く音がぼんやりと聞こえてくる。
 壁を指で叩きながら、女がひとり、船底で項垂れている。まるで、狩人に捕らわれ、首に鎖を繋がれた獣のように。
 かつて、ルディは誇り高い女盗賊であった。肥え太った貴族や悪徳商人の懐を狙い、決して貧しい民に手を出すことをしない彼女は、無頼たちの崇敬の的であった。そして何よりも、彼女は自由に生きていた。雌豹のように凛然と立ち、仲間と共に錆びた都市を風のように駆けていた。それは裕福ではなかったが、満ち足りた日々であった。
 しかし三ヶ月前に父を失ってから、彼女の生活は大きく変わってしまった。
 父が黒き冥王の館に招かれてからというもの、元締めの娘であった女に敬意を払っていた無頼たちは、そうでなくなった彼女に別の視線を注ぐようになった。跡継ぎが得るに相応しい宝物。残された彼女の価値は、ただそれだけだった。
 彼女にとっての安らかな居場所は、次第に壊れていった。
 そんなとき、跡継ぎの一人と目されていた幼馴染から、とんでもない申し出があったのだ。
『ルディ』
 その呼び声が、耳の奥底にこびりついている。幼い頃から家族のように暮らしていた男は、卓に指を置いて静かに告げた。婚姻の申し出だった。
 聞いた瞬間、彼を殴り飛ばして都市を飛び出した。悔しさに泣きながら走っていく彼女の供をしたのは、彼女を育てた一握りの男たちだけだった。父が遺した船に乗り込んで、出口のない湖に漕ぎ出した。そうするしかなかったのだ。
 ふざけていると思った。掌を返すように態度を変える者たち。彼らと『同じ』であった幼馴染。何もかも。
 俯いて片手で目を覆う。
「……アタシは、自由だ」
「ううん。人は誰も自由じゃないよ」
 隣を見ると、細身の男が壁を背に膝を抱えていた。
「……」
「……」
「……」
「……」
「どこから沸いた?」
「戻ってきちゃった、てへっ」
 ルディはエルを蹴り飛ばした。そして蔵の戸を開いて外に出ようとした。この男を連れてきた馬鹿を一発殴るために。
「ああ、おじさんは怒らないであげてね。あの人はちゃんとぼくとフィランを岸辺まで運んでくれたよ」
 ルディはギロリと振り返った。
「なら何故お前がいる」
「きみが心配だから戻ってきたんだよ」
 あっけらかんと言われて、鼻白む。これ以上言うとカリィに殺されちゃうかなあと呟いて、エルは細い身体で立ち上がった。ルディは剣の柄に手をかけたが、力が抜けてしまい、肩を落とした。
「……どこまで疫病神なんだい」
 エルはにんまりと笑って、手を後ろで組んだ。
「さあ? 冥界のどの河川に案内できるかは運次第」
 道化のようにけたけたと笑う。ルディは頭痛を覚えながら息を抜いた。
「まあ、いい。どうせ夜に陸に上がるんだ、そのときに蹴り出してやるよ」
 部屋を照らす灯りの火が揺れた。蝋が尽きかけているのだ。それに気付いて目を細めたそのとき、食器を乗せた盆を片手にした男が階段を下りてきた。
「おーい、おかしらぁ。メシ持ってきました、ちゃんと食べないともたないっす――うぉあ!?」
「お邪魔してまーす」
 危うく盆をひっくり返しそうになった手下は、目を剥いて自らの頭領と闖入者を交互に見やった。
「……コイツの分のメシも持ってきな」
 諦めきったルディは最低限の歓待の指示をする。今宵は陸で補給するため、一食分の食料を惜しむ必要もない。
 しかしエルは笑ったまま首を横に振った。
「ううん、ぼくはいいよ。あまりお腹減ってない」
「安心しな、別に毒を入れるわけじゃない」
 そう告げると、エルは一度瞬きをした。そうして、苦笑して首を振る。雨音が隔離された小部屋に鈍く響く。
「食べられないんだよ、本当に」
 それは何故だか妙に耳にこびりつく音色で、湿気た空気に染み入った。


 ***


 まさか再びこんな猥雑な路地に踏み込むことになるとは。
 フィランは小雨の中を、緊張に背筋を伸ばしながら歩いていた。ルディの手下が言った末広通りとは、ヴェルスで最も柄の悪い道であったのだ。
 オーヴィンやジャドと合流してから向かうこともできたが、彼らの行方がすぐには分からない上に、日没までそう時間もない。そんな事情もあって、フィランは一人でこの路地に踏み込んだのである。一般人であれば絶対に近付かない地区だが、彼とて素人ではない。過去にグレた時代などはこのような小道が可愛いと思えるほど混沌を極める歓楽街で酒池肉林の挙句日夜喧嘩に明け暮れ――いや、そのくらいにしておこう。己の暗黒歴史など、無闇に思い出すべきではない。
 とにかく、抜き身の短剣を煌かせながらガンを飛ばしてくる男や麻薬商人の媚びた呼びかけを眉ひとつ動かさずに無視するくらいのことなら、彼にとって難しいことではない。
 しかし、とフィランは内心で溜息をついた。普段の様子は知らないが、随分と空気が張り詰めているようだ。元締め不在の無頼の世界は、主人を失った猟犬の群れ同然だ。仁義も誇りもない、下賤な行為が横行するようになる。
「オラ待てぇッ!」
 ――そう、こういう感じのダミ声とか。
「ぶっ殺して皮ァ剥いでやるぜクソがァッ」
 ――そうそう、こういう下品極まりない台詞とか。
「待ちやがれトージ!!」
 ――そうそうそう、こういう寄って集っての袋叩きとか――。
「トージ?」
 はた、と立ち止まったフィランが振り向くと、一つ先の角を人相の悪い集団が土煙を上げて通り過ぎるところであった。
「まさか……!」
 フィランは舌打ちすると、姿勢を低くして走り出した。


 二人並べば手狭になる細道を、若い男が解き放たれた狼のように駆け抜ける。彼はちらりと追っ手の様子を確かめると、太腿に縛り付けた短剣を抜き、三本続けざまに投擲した。二本は追っ手に当たったようで、呻き声と倒れる音が聞こえてくるが、気配は一向に減った様子がない。そもそも数が多すぎるのだ。
「人気者も困ったものだ」
 ぼやくと、男は立て続けに小道を曲がった。このまま連中を撒きつつ大通りに出るしかない。一般人の多い西の大通りまで行けば流石に彼らも手荒なことは出来ないだろう。
 置き去りにされた荷車を軽々と飛び越えたところで、彼はぴくりと頬を強張らせた。大通りに出る直前の箇所に、武具を手にした無頼どもが待ち構えているのだ。
 ――嵌められた。彼は自らの選んだ道が彼らにとって思う壷であったことを思い知る。しかも先頭に立っている男は見覚えがある。ラドルという名で、腕の立つ男だ。仕方なく立ち止まると、無頼たちは飢えた獣のような目つきでトージを取り囲んだ。
「よぉ、無様なもんだな。先代きってのお気に入りのテメェが、こんなクソ溜まりでおっ死ぬことになるなんてよ」
 棍棒で肩を叩きながらラドルが凶暴な光を目に輝かせる。トージは軽薄な笑みを浮かべ、肩を竦めた。
「それはどうも。お前たちも人っ子一人に大勢で大変だな」
「賭けてみたいもんだぜ。テメェがいつまでその顔ですかしてられるかなッ!」
 丸太のような腕で棍棒を構え、男はトージに殴りかかった。トージはそれを避けようと身体を横に逸らした。
 ――刹那、風が唸った。わだかまる闇を輝く稲妻が貫くにも似た光景に、トージは一つ瞬く間、呆然とした。
「こっちです!」
 空から降り立った明るい金の瞳を持つ若者がこちらを捉えて叫ぶ。彼が屋根から飛び降りてラドルを潰したのだ。体重を受けたラドルは、踏まれた蛙のような悲鳴をあげたきり動かなくなった。
「お前……?」
「いいから突破しますよ! 臓物ぶちまけたくないならついてきなさいッ」
 若者は、その健康的な顔立ちに似つかわしくない台詞を吐いて、素手のまま武装した男たちの元へ飛び込んでいった。突然の闖入者に唖然とする無頼に力を漲らせた拳を叩き付け、その向こうの壁に手をつける。
「オーヴィン!」
「あいよ」
 瞬く間の出来事であった。壁の向こうから声がしたかと思えば、老朽化した壁がガラガラと崩れたのだ。オーヴィンの名を聞いて、トージも彼らの正体を理解した。集団の硬直が完全に解ける前に、若者に続いて壊れた壁を飛び越える。廃屋の中から上半身を出して手招きするオーヴィンに従い、室内の地下蔵へ若者と共に身を滑らせる。
 すぐに追っ手たちも廃屋に入ったが、オーヴィンが予め反対側の扉を開け放しにし、更に地下蔵への入り口の上に麻袋を被せたため、彼らは疑いもせずに反対側から出て行った。
「なんかこの部屋、臭わねぇか」
 追っ手の一人が通りがかりに顔をしかめたが、持ち主が家を捨てるときにが肉でも置き忘れたのだろうと、対して疑問にも思わなかった。

「くっ」
 気配がなくなったところで、フィランは鼻と口を手で押さえた。そしてトージが眉間に小さな縦皺を刻み、窮地に現れた助っ人を見上げた。
「オーヴィン、お前、臭い」
「許せ」
「いや許すも何もないでしょう!? 何ですこの臭い? 何です? 何の悪魔を呼ぶ儀式をしてたんです!?」
 逃げ出すように地下蔵から這い出で、オーヴィンから距離を取るフィランである。それほどまでに強烈な臭いをまとわせた本人は、ぼりぼりと頭をかいた。
「あんまり言わないでくれ。これでもけっこう傷ついてるんだ」
「近寄らないでください!?」
 肉が腐ったような凄まじい臭気に、悪臭の神ってのはいるんだろうかと考えてしまうフィランである。トージを助けようとしている所にオーヴィンが駆けつけてくれたのは僥倖だったが、それにしても、臭い。
「んん。農園の方で魔物の死骸が動き回ってたんだ。気味悪いんで処分したら臭いが移っちまった」
「死骸が動き回った?」
 にわかに信じがたい言に、フィランは顔をしかめた。オーヴィンも肩を竦めて首を振る。
「俺だって夢を見てたとでも言ってもらいたいよ。人を襲ってなかったのが幸いだったが。念のためジャドには親父に報告に行って貰ってる」
 それより、とオーヴィンはトージに視線を移した。
「トージ。お前さん、いつから一匹狼に鞍替えしたんだ?」
 フィランはそれに倣い、改めてルディの幼馴染である二十半ばの男の外貌を見た。低い背丈と左右に分けた収まりの悪い銅色の髪が一見冴えない学者のような印象を与える。しかし身じろぎを知らぬ静かな黒い双眸、そして右眉から頬まで割けた傷跡によって、底知れぬ畏怖を伺わせる男であった。ヴェルスの暗部を支配した先代の麾下にして、跡継ぎ候補の第一人者。成程、若くしてその地位を目されるわけである。
 トージは愛想笑いなど無用といわんばかりに、黒い瞳で淡々と告げた。
「他の奴らは縄張りで昼寝中だ。願わくば俺も寝ていたかった」
「そいつはびっくりだ。お前さんの睡眠を妨げるなんて、雷でも落ちてきたのか?」
「お前と一緒にするな。雷程度で起きるほど俺は子供じゃない」
「待ってください、トージ。僕はあなたに急ぎ伝えることがあるんです」
 悪友らしき会話を繰り広げる二人の間に、フィランは割って入った。
「ルディが今晩、隠し港へ船を着けにきます」
「ああ、それはつい先ほど聞いた」
「え?」
 フィランは口の端を曲げて瞠目した。
「誰に聞いたんですか? もしかして例のポプレペーラ博士ですか!?」
「いいや。書いてあったぞ。神殿の壁に、ばかでかい文字で」
「は?」
 物分りの良い彼ですら、理解には丸々三秒を要した。トージはさも迷惑そうに目を眇めた。
「俺宛に、ルディの手下からの伝言だ、会いに行くのは面倒だからここに書いておく、と堂々とな」
 オーヴィンが、ぼりぼりと頭をかく。
「そういや、神殿にでかい落書きがされたとか騒ぎになってたなあ」
「まさか、あの博士……」
 フィランは眩暈を覚えながら、ルディに出会ったことと、手下から頼まれた伝言について説明してやった。
「なるほどな。俺も初めは伝言自体がゴモドゥスかラドルの罠かと思ったが、奴らもそこまで阿呆なことをするわけがないか」
 トージはやれやれと肩を竦めた。彼は伝言をその目で見に行き、ゴモドゥス陣営の浮き足立った様子を確認した帰りに見つかって襲われていたのだ。そういえば先ほど潰したのは雲雀亭で会ったラドルであったと思い起こし、フィランはげんなりと肩を落とした。あの面倒な連中に、自分は気持ち良く喧嘩を売ってしまったのだ。果たしてどんな仕返しを目論んでくるか――こうなったら再起不能になるまで叩きのめすしかないな、と危険な思想を思い巡らせるフィランである。
「それにしても、発想力の次元が違うなあ、その博士」
「そうだな。一旦会って話をしてみたいものだ」
「あの、冷静に語り合ってる場合ではないと思いますよ。つまり都市中にルディの情報が漏れたということでしょう?」
 漏れたどころではない。大公開である。今宵はルディを狙う無頼たちがこぞって船着場に参集するに違いない。フィランは頭を抱えたくなった。
「僕はチンピラどもの節操のない血みどろ攻防なんて見たくないですよ」
「ああ、俺もそれは御免こうむる」
 オーヴィンがとぼけた様子で言うと、トージは薄暗い室内から外に目を向けた。雨脚が強くなっており、夜半まで続きそうな気配だ。
「トージ、行くのか?」
「ああ」
 その横顔を見て、覚悟の据わった者の目だとフィランは思った。そして、年齢に見合わぬ深い懊悩を抱えているとも。
 オーヴィンはひとつ溜息をついて言った。
「なあ、トージ。俺は個人的にはお前さんを応援してる。だが今晩しくじればな」
「お前は俺を見限り、俺はベルナーデの庇護を失う」
 苦々しいオーヴィンの言葉は、若い無頼の冷静な返答にかき消された。
「そうなれば、ベルナーデにとってルディは混乱を招くだけの邪魔者だ。早急に事を決するよう、お前たちはあいつを排除し、都合の良い後釜を据えるだろう」
「あのな。お前さんのそういうはっきり言うとこ、割と好きだけどよ。その言い草じゃあ俺たちがただの卑劣漢じゃないか」
「雀の涙程度の情ならむしろない方が覚悟ができてありがたいよ」
 トージは僅かに振り向いて、薄く笑った。しかし腕を組んだオーヴィンはそれを制するように、すいと目を細めた。
「ベルナーデ家はお前さんがうまくルディを説得してくれることを望んでるよ。先代の親父さんの遺志を一番よく分かってるお前さんに勝ってもらうのが、後先がやりやすい」
「結局打算じゃないですか」
「打算でいいんだよ、心があれば」
 飄々とオーヴィンは言ってのけて、くあーっと欠伸をした。すると、トージは唇の端から薄く息を零し、皮肉たっぷりに笑ってみせた。
「俺も考えたさ。ヴェルスに命を捧げた先代の遺志を誰が継ぐべきか。冥界の肥溜めから地上の肥溜めくらいまでにはマシになったこのヴェルスを、冥界に戻さないためにはどうするべきか。何よりも――どうしたらルディを救えるか」
 フィランはそこに秘められた思いに、はっとした。頬に落ちかかった前髪を掻き揚げ、トージは困ったように息を吐き出した。
「俺はできることなら、のんびり昼寝でもして生きていたい。権力争いなんか正直どうだっていい。だがどう考えても答えは一つしかでなかった。――俺が跡を継ぐしかないんだ」
 見た目からして衆人の前に出るような男ではないトージを、フィランは痛ましげに見やった。人は時に、己の願いのために、己の意に沿わぬ舞台を強要されることがある。
 甘やかな祝福が与えられない現実を前に、トージは微かに顔を歪めていた。
「俺はあいつを傷つけたからな。今更、許して貰えるとも思えないが」
 しかしトージは覚悟を決めたように眼を開き、前を向く。襲い来る闇に、音もなく牙を剥く。
「一度背いた勝利の女神を、力ずくで振り向かせてみるとするか」
「そうだな。まあ、たまには柄にもないことでもやってみてくれ」
 傍から聞くととてつもなく無責任な発言だったが、それがオーヴィンなりの激励であったのだろう。それに、と彼は付け加えた。
「勝利の女神は分からんけどな。好機の女神なら、もう舞い降りてるよ。ものにするならもっと魅力的だと思う」
 怪訝そうに目を向けるトージを他所に、オーヴィンは大儀そうに壁から背を外し、歩き出す。都市有数の貴族家であるベルナーデ家の人間が、これ以上無頼の一組織に表立って肩入れすることは許されないのだ。今晩も、トージは無頼として、オーヴィンとフィランは貴族の配下として、お互いの使命のために相対するだろう。しかしオーヴィンは去り際に、はらはらと手を振るのであった。友人に対する最後の餞別に、と。

「俺の自慢の仲間が、ルディのところにいる。だからきっと、うまくいくさ」


 ***


『うまくいくわけがないなんて、分かってる』
 二口ほど手をつけた食事を放り出して、ルディは船底に腰を下ろしたまま考えに耽っている。
 彼女とて理解しているのだ。あの杏色の髪の若者の糾弾は忌々しくとも正鵠を得ていた。自分は逃げだすだけが脳の、ただの放蕩者なのだ。己が先代の元締めの娘である事実は、どうしたって覆しようがない。だから自由ではいられない。誰かのものにならなければならない。自ら選択して生きることは――叶わない。
「どうしたの?」
 手下を追い払った蔵にはやせ細った男が一人、蝋燭の火に影を揺らめかせている。食事の手が止まったのを見て、彼は心配そうに首を傾げた。
「駄目だよ、ちゃんと食べなきゃ」
「アンタにやる」
 ルディはぞんざいに盆をエルに押しやった。やや温くなったスープとパンを映すエルの瞳にふわりと闇が掠めたような気がした。黙ったままのエルに、ルディは暫く待ってから次の声をかけた。
「アンタは、何がしたいんだい」
 ルディは問いかけたことを後悔した。部外者に何の興味を持っているのかと、羞恥心に頬が熱くなる。しかし、エルは気付いていないのか、気楽な様子で答えた。
「言ったでしょう? きみが心配で戻ってきたって」
「余計なお世話だ」
「だって、きみのお父さんもきみを心配してた」
 時間が、僅かに止まったように思えた。この男は嫌いだ、とルディは直感で理解した。けらけらと笑いながら人の心の隙間にするりと入り込んでくる。過敏に反応してしまう己自身に舌打ちをして、ルディは尋ね返した。
「会ったことがあるのかい」
「ぼくもベルナーデの人間だから。オーヴィンほどじゃないけど、何度かあるよ。あんまり喋らないし、ちょっと怖い人だったかなあ」
 目を伏せれば脳裏に描き出される、無口で無骨な横顔。彼女にとって災厄の元凶であり、理解の範疇から最も遠くにいた男。組織の檻に捕らわれ、数多の責務を鎖として身にまとい、最期まで労苦を首輪にして生きた醜い飼い犬。
 何故自由を望まなかったのだとルディは幼い頃から疑問を抱き続けた。地味な調停や回りくどい策を巡らせる役に、何故自ら進んで臨むのか。自らの意思で、好きに奪い、好きな者と生きれば良いではないか。世界のために自分が生きる必要など、微塵もある筈がない。
 だから、次に聞こえた声は、ルディに衝撃すら与えるものだった。
「それでも、幸せそうな人だったよ」
 殴られたように、ルディはエルを見つめた。
「嘘だ」
「ううん、本当だよ」
 優しい声で、切り裂かれるように否定される。エルは置かれた夕餉に目を落として、遠くを見るように微笑んだ。
「守りたい人がいて、家があって、そのためならどうなっても構わないってくらいにこの都市を愛していて。そんな気持ちを持って生きていけるなんて、どんな人より幸せだと思う」
 ぽつり、ぽつりと。雨粒のような言葉が、心を穿つ。違う、とルディは歯列の間から激情を押し出す。
「そんなのは奴隷以下だ。囚人だ。あんな哀れな生き方なんてありゃしないさ。命を削って、どうしてこんな世界に尽くしてやらなきゃいけない? 全くどうかしてる! 人に操り人形になれと言われて、どうして首を差し出さなきゃいけないんだ! トージの奴も同じだ。アタシをなんだと――」
 心を曝け出すつもりはなかった。しかし一度ほつれた心から、言葉は次々と零れていく。閉塞感と、どうしようもない不安と、己の無力への嫌悪に、とうに胸の内は疲れ果てていたのだ。
「アタシはあんな生き方は御免だ。アタシはアタシのやりたいようにやる。こんな都市の行く末なんか知ったことじゃない! 他人の為に生きるなんて御免だ。一度きりの人生だろう、誰も彼も身勝手にやればいいじゃないかい? アタシは戦う。ただしそれは、アタシの誇りを守るためだけだ!」
 息が切れて、ルディは暫く押し黙った。目の前の男がどんな顔をしているか、確認したくもなかった。そんな有様に、自嘲の笑いが漏れてきた。
「アンタは嗤ってるだろう。アタシはヴェルスを手に入れる力もない、逃げることしかできない情けない女だ。ふざけてる。本当にふざけてる……」
 温度の低い室内に、沈黙が落ちる。ルディの胸に、虚無感が冷水となって広がっていった。
「船を着けて物資を補給したら、アタシはこの都市を出ていく」
 押し出した声に、熱はなかった。
「アタシは逃げるんだ。こんな腐った世界から」
 そして一人で何処までも歩いていけばいい。道具として扱われるくらいなら、野垂れ死ぬ方がよっぽどましだ。
 ようやく傍聴者の様子に意識を傾けると、彼はまだ盆の上に目を落としたままだった。食べたいのだろうか。しかし手を伸ばすことをせず、彼は憧れて止まぬ宝物を遠くから見るように、その身を影に置いている。
「そうだね。逃げてしまいたくなるね」
 心を失ったような、透明な声だった。普段の彼女であれば、分かった口を叩くなと激昂していたことだろう。しかし彼女は、静かに面を上げた彼の表情のない顔に言葉を失った。
「でも、世界は待ってくれない。世界は大きな怪物だ。ぼくらを捕らえて、服従させようとする。ぼくらから選択肢を奪っていく。逃げても、逃げても、追いつかれる」
 別人――否。そのときルディが目の前の男に抱いたのは、人形の印象だった。笑顔が剥がれ落ち、心すら奪われた枯れ木の人形。乾いた音で、絶望を打ち鳴らす。
「いくら逃げたって、きみは追われるよ。ヴェルスの覇権を望む有象無象に。きみの心なんていざ知らず、彼らはその手を伸ばしてくる。きみはきっと絡めとられる。きみは耐えられる? きみの心を、きみを愛してくれる人々を、それでも守ることができる?」
 昏い予言は触手を以ってルディの心を侵食した。怒りと無力感と不安と。震える唇を噛み締めて、ルディは言葉を搾り出す。
「アタシは、戦う」
「それは悲しい戦いだよ」
 まるで見てきたかのように、エルは眉を下げる。ならばどうすれば良い、と聞く前に、エルは眼を閉じた。肉のないその顔は、まるで死人のようだった。
「ねえ、ルディ。どうしてきみはすぐに都市から逃げずに、こんな湖の上に留まっていたの? 人を攫っても、ベルナーデ家に関係あると分かればすぐに解放したのはどうして?」
 不意の問いは、悪戯な神が矢を射るように、ルディをはっとさせた。開いたエルの瞳に、僅かな光が宿る。それは、蕩ける優しさに変わる。そうして、彼はにっこりと笑った。
「きみが本当に欲しいものは、なんだろうね」
 謎かけはしかし嘲弄の気配が一切感じられず、不思議と清廉な響きで耳朶を打った。まるで、心の奥底にあるものの輝きを祈るような。
「アンタ……」
 ルディは目の前にいる男から覚えた違和感に、眉を潜める。服の裾から覗く、命を宿すには細すぎる身体。一度散り散りになった心を、無理矢理に繋ぎ合わせたかのような軋み声がする。それは言い様のない不安を誘い、しかし彼は笑ってみせる。
「ほら、ちゃんと食べなきゃ」
 細い指で盆を押し、養分の摂取を促す。喉まで競りあがった不審を、ルディはうまく言葉にすることができない。だが、彼のその笑顔だけは心が宿っている気がしたから、彼女は乾いたパンを手にとった。エルは手の届く場所で、少し疲れたように首を傾げている。それは普段であれば彼女が侵入を拒む距離であった。
「どうかしてる……」
 そう口で告げたものの、ルディは枯れた男を、それ以上拒絶することができなかった。

 ***


 小雨の夜、空に振りまかれた雲のようにどんよりとした胸の内を抱えてフィランはエルの家の扉を叩いた。カリィに一通りの事情を説明しなければならないからだ。エルの妻であるカリィに、彼がルディのところにいることを聞かせたらどんな顔をされることだろう。
 ――だというのに。
「あらら。そうだったの。ごめんねえ、ウチの旦那が迷惑かけて」
 胃がきりきりと痛むのを堪えながら事情を説明したフィランに対し、カリィは軽く笑っただけだったのだ。この嫁はどうかしてんじゃないかとフィランは凄まじく失礼なことを、この時だけは本気で考えた。
「あなたの方こそ大丈夫? 酷い顔してるわよ」
 それどころか、逆に気遣われてしまう。雨にしっとりと濡れた自分の成りを思い出して、フィランは顔をしかめた。夜半に向けての準備の合間になんとか島に立ち寄ることができたのだ。彼の胸中に油のようにこびりついているのは疲労とエルへの心配、風呂に入りたい気持ちとそして例の博士への心からの憎悪であった。あの博士があんな『伝言』をしたために、今宵は緊張を強いられるいことになったのだ。
 そんなものを抱えていれば、自分の顔も薄暗く見えるに違いない。全身が鉛のように重たく、目の奥がじんわりと痛む。だから、問いかけも押し出すようなものになった。
「……心配じゃないんですか」
 もしもフィランが同じ立場に置かれたなら――ティレが手の届く場所から消えたなら、じっとしてなどいられないだろう。愛する存在を守るために、あらゆる手段を厭わずに実行するに違いない。
 しかしカリィは飾り気のない口元に苦笑を浮かべ、蝋燭の灯りに表情を橙に染めてフィランを正面から見据えた。雨の多い島の家は湿気が篭らないように作られているため、雨足の声が直接聞こえてくる。何故そんな表情をするのか分からないフィランは、言葉を待つしかない。
「あいつは大丈夫。ああ見えて、どんな大変なときでも生き延びてきた人なのよ」
 腰に片手をやって、もう片方で彼女は髪をかきあげた。癖のない橙の髪がさらさらと落ちて、光と闇の空間に鈍い陰影を作る。
「心配はしてるわよ。でもそれ以上に信用してるから。第一、あいつのやることって全部危なっかしいから一々慌ててられないのよね」
「いつもこうなんですか」
 瞳に僅かな諦念を滲ませて、カリィは頷いた。
「あいつ馬鹿だから。自分の身のことなんて考えやしない」
 僅かに声が震えたような気がしたのは、外に降り続く雨のせいかもしれない。すると突然明るい声で、カリィは短く笑った。
「あなたはあんなにならないでよね。大事なお嫁さんを泣かせちゃ駄目よ」
「……」
 フィランはそのとき、一つの問いを口にするか否かで迷った。だが訊くなら今しかないと、思い切って息を吸った。
「ひとつ訊いていいですか」
「ええ。何でも」
「エルは奴隷剣闘士だったとご当主から聞きました」
 刃と血の饗宴を繰り広げる剣闘士には二つの種類がある。ひとつは己の意志で剣闘士を志した者たち、そしてもう一つは、帝国内で犯罪を犯した者の末路に当たる奴隷剣闘士たちである。帝国で重罪を犯した者は闘技場で魔物に生きたまま食わせるのが慣わしであったが、その一方で剣闘士にされて戦いながら死んでいくことを強制される者も多かった。刺激を求める民衆にとっては、ただの陵辱よりも血肉踊る決闘の方が格段に面白い見世物になるからだ。それに広大な帝国内の各都市に設けられた闘技場がそれぞれ経営していくには、犯罪者たちを奴隷として剣闘士に使わねばとても採算が合わなかった。自ら志望してくる剣闘士は質が高い分、給料も多く払わねばならないのだ。それに比べて奴隷剣闘士は格段に安く取引される。どのような世でも、罪を犯す人間は後を立たないのだから。
「それと、彼の特技……」
 カリィの表情が真剣なものになるのを見て、語尾が濁っていく。しかしその真っ直ぐな視線を見返して、フィランははっきりと尋ねた。

「彼は、ガルダ人ですね?」

 暫くの間沈黙を保ったカリィは、思いの他感情の揺れを見せなかった。代わりに、疲れた、長い溜息をついた。
 そこにあるのは、全てを知って尚真実を受け入れる者の瞳だ。枯れ木のように細い奴隷剣闘士と共に故郷を逃げ出した彼女にもまた、鋼のような決意があったに違いない。だからその姿はしなやかで、フィランにとっては眩くも見えた。
 そしてカリィは泣き笑いのような表情で囁いた。
「そうよ」
 単語を意味あるものとして飲み込んだフィランは、その答えを予想していながらも、息を呑んだ。




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