-黄金の庭に告ぐ-
<第一部>3話:ポペラユプポピュポマルス博士

03.かつてのヴェルスとキレるオヤジ



 広大な陸と海を擁す偉大なる帝国ファルダの遥か西方。青々と広がる海にも見紛う湖の彼方。風の歌声が柔らかく吹き付ける午後、波間に揺らめく木の葉のように一隻の船が浮かんでいる。
 古い船だ。褪せた色の外観は長年を経て無数の修繕の手が加わっており、作られた当時の輝きは既にない。しかし代わりに深い色合いを生む木材は水に馴染んでも剥がれ落ちることなく、船体に重々しい風貌を与えている。熟練の水夫が見れば、その重厚な威容を賛美したことだろう。幾年も雨風に耐えて湖上を走ってきた舟艇に、心からの敬意を込めて。
 そしてそこに乗る船員たちもまた、かの船の乗り手であることを誇りにしていた。無頼にその身を落としたとしても、また陸の者に汚い言葉で愚弄されたとしても、彼らは自らの心までは失っていないと自負している。二十名足らずの閉じた集団。しかしそれは、彼らにとって掛け替えのない家族に等しい存在なのだ。
 そんな船内の狭い通路を、神経質な足取りで進み行く者がいた。黒ずんだ床をサンダルが叩くと同時に、艶のある長髪が豊かに揺れる。すれ違う者たちはそれぞれ道を開けた。何故ならその人こそ、誉れ高きこの船の頭領だからである。
 最奥の船室の前で足を止め、頭領は唇を引き縛って荒々しく扉を開いた。そうして、奥の方に転がされた男たちを鋭い双眸で捉える。細い眉を吊り上げた頭領の眼光は、剃刀に似た鋭さを持ってして縛られた男たちに降り注いだ。故に彼らは泣き喚く程ではないが、それなりの恐怖をを覚えて然るべきなのである――が。
「どもー」
 迎えてくれたのは満面の笑み。
「……」

 岩に結わえて湖の底に沈めてやろうか。
 頭領の脳裏にそのとき思い浮かんだのは、たぶん、純粋な殺意であった。

 エルは後ろ手に縛られたまま頭領の肢体を見て「わお」と小さく驚嘆した。そう、目の前にいる女こそ、都市の暗部の元締めであった先代の一人娘ルディなのである。実際に目にするとその存在感たるや並ではない。
 まるで優美な毛皮を持つ獣のような女だった。体の線を露にする衣服をしなやかな四肢にまとい、緩く波打つ豊かな栗毛は細い腰に官能的にまとわりつく。紅を引いた唇は強い意志を表すかのように閉じられ、瞳は水に沈めた黒曜石のような瑞々しい輝きを放っていた。まさに女としての野性的な美を体現した出で立ちである。
「おねーさんおねーさん、綺麗だねー。運がいいなあ、やっぱり誘拐されるなら美人に限るね」
 頭領は無言でつかつかとエルに近づき、流れるように剣を引き抜いて彼の首元に切っ先を押し当てた。
「黙れ。舌を切り裂かれたいか」
「あはっ。勘弁してよー。ここで死んだら嫁さんに泣かれちゃう」
「……」
 後ろ手に縛られ柱に繋がれた状態でけたけたと笑う奇怪な男に、ルディは頬を歪めて身を引いた。純粋に気味が悪かったのだ。普通、単身捕まって船底に転がされたのならもう少し神妙な態度になって然るべきなのだが。そう、彼の隣で虚ろな目をしている、杏色の髪の若者のように。
 エルはルディの長身を見上げ、目を丸くして首を傾げた。
「殺さないのー?」
「――殺す価値もない」
「わーいっ! もっと罵ってー!」
 ルディは反射的に剣の鞘でエルの頬をひっぱたいた。そもそも殺して無駄に船を血で汚すよりは、奴隷商人に売り払った方が金になるのだ。嬉しそうに破顔する彼がそのことを理解していたかは定かではないが、そんな男が突然がばりと顔をあげたものだから、百戦錬磨の頭領も流石にぎょっと目を剥いた。
「ねーねー、ぼく、人を探してるんだ!」
 そういうことは普通、こういう状況で言うもんじゃないだろうが。
 思わず叫びかけた頭領は我が身の威厳を保つためにどうにかこらえ、眉の角度を鋭く持ち上げるだけで済ませた。だがエルの破壊力は彼女の予想から留まることを知らなかったのである。

「ポペラユプポピュポマルス博士って人。知らないー?」
「……」

 ひくっとその頬が微かに強張ったのを見て、エルは顎を引いて唇を尖らせた。
「あ、知ってる顔だー」
 悪戯を成功させた子供のような表情である。隣の若者も驚いたようだ。僅かな亀裂に取り入るかのように、痩せた男は続けた。
「でも多分もうここにはいないよね。ぼくと同じところに縛られたんでしょ?」
 彼がここに連れてこられたとき、既に縄は柱に巻かれた状態で置かれていたのである。まるでつい先ほどまで別の者がここに縛られていたかのように。しかも、床の端の方には引っかかれたような白い文字で短文が走り書きされていた。転がっていた小石か何かを使ったのだろうか。難しい言葉が癖のある字体で使われているため詳しくは読めないが、植物の名や数値が散見される辺り、どうも研究の覚書のようだ。そのような走り書きを残せるような人物といえば、思い浮かぶのは件の博士を置いて他にない。
「きっと灯台島で下ろしたんだよね。行き先とか知ってたら教えてほしいな」
「……アンタ、何者なの」
 きっと『色んな意味で』と頭につけたかったのだろう。血管が切れんばかりにこめかみをぴくぴくさせながら頭領が一歩エルに近づくと、彼は嬉しそうに腰をくねらせた。
「わーい、サービス? サービス?」
 その顔面に頭領の蹴りが降り注ぐ。いたーい、と涙ぐむエルの首元を問答無用で引きずり上げ、頭領は牙を剥くように口の端を引いた。
「アンタ、いい加減に――」
「はい、どーぞ」
「え?」
 近づいた互いの間に突然手が差し出されて、頭領は思わず動きを止める。その手は紛うことなき細身の男のものだ。しかし、おかしい。この男は後ろ手に縛られていた筈なのだ。なのに手は目前に掲げられている。それが示す事実とは――。
 思考が終点まで達する前に、頭領は甲高い悲鳴をあげていた。差し出された掌の上に、気味の悪いぶよぶよとした黒い物体が乗せられていたからだ。エルを突き飛ばして後ずさり、体勢を崩して尻餅をつく。その衝撃でエルが持っていた物体も地面にべちょんと落ちた。
「お、おかしらっ!?」
「どうしやしたっ!?」
 頭領の悲鳴を耳にしたのだろう。扉が荒々しく開かれ、二名の手下が踊りこんでくる。彼らは愕然とする頭領と同じく突き飛ばされて座る形になったエル、そしてその間に落ちた黒い物体をおろおろと見やった。黒い物体はぬめる触覚を愚鈍に動かし、ずるずると染みを残しながら移動している。それを見て、手下の一人が眉を持ち上げた。
「なんでえ、モモラじゃないすか」

 モモラ。
 ヴェルスが抱く広大な湖の岸辺に広く分布する軟体動物。円筒形をした寒天質の体に手や足はない。色は黒、または灰色。口の周りに無数の触手を持ち、柔軟な外皮はところどころに肌色の斑点がある。分裂によって個体を増やすため飼育する場合は注意が必要。体長は掌に乗る程度だが、まれに頭ほどの大きさにまで成長することもある。学名パパラペラスモモラ。主に乾燥させたものを薬用する他、刺身や揚げ物としても現地の食通に人気を博している。釣りの餌にも最適。

「可愛いのになー」
「な、な、な」
 蒼白になった頭領が震えながら後ずさるのを見て、手下の一人が苦笑した。
「ああ、おかしら。モモラが苦手でしたよね。小さいころ岸辺で遊んでてうっかり踏んずけちまったんでしたっけ」
「う、うるさいっ!! さっさと片付け――きゃぁあっ!?」
 モモラが全身をぶるぶるさせながら飛び上がると、頭領も合わせて飛び上がる。慌てて手下が捕まえようとするが、水気を求めるモモラは身軽に跳ねるため中々捕まらない。大爆笑するエルの姿を見て、もう一人の手下が不審げに尋ねる。
「あの、おかしら。何時の間に縄を解いてやったんで?」
「ぶっぶー。自分で解きましたー」
 鮮やかな笑みを浮かべながら用を成さなくなった縄を振るエル。
「……」
「……」
「ぎゃー! 分裂したー!?」
「ひっ、よ、寄るなーーーっ!!」
 場の空気は、まさに混迷を極めたのであった。


 ***


「だからねー、そこで結んじゃ駄目なんだってば。ここで一度捻って、もっかい撒きつけて――そうそう」
「こうっすか?」
「うん。あと縛る時は相手の手の動きにも気をつけて。縄の一部をこっそり握りこんじゃえば、解くのが簡単になるから。出来れば二人でやるといいね」
「へえ、物知りっすねー」
「生きる知恵だよー。こんなご時世、世渡りがうまくないとやってられないじゃん」
「ううっ。わかりやす。最近風当たりが強くて、あっしらも――」
 しゃがみこんで謎の親交を深める男たちの後姿を他所に、椅子に座った頭領は机に張り付くようにして頭を抱えていた。虚ろな目で木目を眺めつつ、ぼそりと呟く。
「廃業した方がいいの、アタシ……?」
 その絶望たるや、既に人生の岐路にまで至っていた。


 彼ら盗賊一味にとって疫病神にも等しき人質エルは、モモラ騒動の後も三度縛り直され、三度それを自力で解いてみせた。最後の一回などは縄を解く様を手下が横で観察し、その手際の良さに感嘆の溜息を漏らしてしまったほどである。だが、どれほど縄を解いてしまったとしてもここは海にも見紛う湖の真っ只中。逃げることは不可能と見た頭領は彼を縛り付けることを放棄した――ら、勝手に縛り方講座が始まってしまったのである。たった今神が目の前に現れたなら、頭領は全身全霊を込めて訴えていただろう。あいつは一体なんなんだ、と。
 そして、同様の鬱屈を抱える若者がもう一人。
「あのですね」
 ぷるぷると肩を震わせて、それまで黙っていたフィランはついに不満を爆発させた。
「なんで僕が実験台にされるんです!?」
「ふえ?」
 無邪気に首を傾げるエルはたった今フィランの縄を縛りなおしたところであった。知恵の女神すら眉を潜めるであろう複雑な縛り目に一切の隙間はなく、フィランは身じろぎも出来なくなっている。たった今神が目の前に現れたなら、やはりフィランは全身全霊を込めて訴えていただろう。こいつは一体なんなんだ、と。
「おかしいでしょう!? あなたはどっちの味方なんですッ」
「ぼくはギルグランスのおやっさんの味方だよー」
「なんだって?」
 鋭い眼差しで立ち上がったのはルディだった。
「アンタたち、ベルナーデ家の者か」
「うん。君のことも探してたよ、ルディ」
 そのときのルディの表情は、驚愕と落胆を伴うものだった。拳を机に叩きつけ、彼女は吐き捨てた。
「ちっ。よりにもよって……金にすらできないじゃないかい」
「あなたは……」
 フィランはオーヴィンとの会話を思い出した。目の前にいる美貌の女は、都市暗部の争いの火種となりながら、その姿を眩ませたのだ。
「こんなところで何をしているんです。皆があなたを探していましたよ。何故都市を出たんですか?」
 す、とルディの眼差しが冷えた。その頬に、みるみる怒りが燃えあがる。
「アタシはあんな馬鹿げた跡取り争いに付き合う気はない」
 はらはらした様子で見守る手下たちの横で、フィランは眉を潜めた。
「あの、部外者が口を出すべきことではないのかもしれませんが。あなたが戻らないから決着が着かないのではないんですか。あなたが一言後継者を指名してやれば――」
「冗談じゃない!」
 獣が牙を露にするように、ルディは吼えた。
「アタシが認める? 何を寝言をほざいてるんだい。アタシの立場を喰い者にしようとする連中をどうして認めてやれっていうんだ」
 フィランは目を一度瞬いた。先代の一人娘であるルディは後継を狙う無頼どもにとっては強力な駒だ。だが、その事実は本人からすれば道具扱いされているのも同然である。誇りを傷つけられた女の怒りは、まるで紅玉が燃え盛るかのようだった。
「おかしら……やっぱり戻りやしょうよ。おかしらを利用しようとしてるのはほんの一部ですよ」
「黙れ! 誰が意見しろと言った!」
 峻烈な殺気を込めてルディが凄むと、手下たちはそれ以上の口を噤む。暫しそれを見つめていたフィランであったが、不意に溜息をついた。
「なんだ、何か文句があるのかい」
 刃を突きつけるような眼光を、しかし杏色の髪をした若者は静かに見返した。その金色の瞳に冷ややかな嘲りを浮かべて。
「いえ。都市じゃ跡取り争いで揉めているというのに、先代の娘が呑気に人攫いとは、神経を疑う振る舞いだと思っただけです」
「何だって?」
 ルディの声が低くなった。しかし肌が引きつるような緊張にあって、フィランは全く動じなかった。
「いい身分ですね。良い船を乗り回して容赦なく矢を向けて。船長がどんな豪胆な人間かと思ったら、金儲けに遊び呆けているだけの放蕩者とは。期待外れもいいところです」
「アンタ」
 肩を震わせて、ルディは怒りの形相をフィランに向ける。
「都市のことなんて、アタシには関係ない。揉めるなら勝手に揉めればいいのさ。アタシは自由だ」
「逃げているだけじゃないですか」
 カッと目を見開いたルディは、フィランに迫ると胸倉を掴んだ。フィランは顔を歪めもせず、彼女の眼を見返した。その金色の瞳には静かな怒りが渦巻いており、ルディは微かにたじろいだ。流線を描く喉が、ようやく引きつった声を紡ぐ。
「アンタに何が分かる」
「人に仇を為して生きる連中の何を理解しろというんです」
「フィラン」
「本当に自らの立場が嫌ならさっさと別の都市でも国外でも行けばいいんです。なのにこんなところで争いの火種であり続けるなんて、ただの害悪でしかない」
「……っ!」
「全てを捨てる覚悟がないなら、さっさと都市に戻った方がいいと思います。少なくともあなたの手下は状況をよく理解しているみたいですよ? このままでは都市の治安が荒れる一方ですから」
「ねえ、フィランてば」
 小さな呼び声にフィランが顔を向けると、エルの真っ直ぐな眼差しに突き当たった。痩せているためだろうか。吸い込まれそうな丸い目に一瞬呑まれ、フィランは口を閉ざした。
「やめてあげて」
 耳朶を叩く、静かな声。そうして、ふにゃりと、顔を崩すようにエルは笑う。同時に、蝋が溶けるように空気が弛緩する。
 黙りこんだフィランの横で、エルは場違いなほど明るい表情をルディに向けた。
「ねえ、きみ。ぼくたちをどうするつもり?」
 ルディは殺気だった顔でフィランを睨んでいたが、ややすると手を放して踵を返した。
「博士は逃がした。アンタたちも逃がしてやる。仲間に伝えな、アタシは都市には戻らないと」
 後姿のまま髪を掻き揚げ、足音を立ててルディは部屋を出ていった。


 ***


「フィラン、珍しく冷たかったね?」
「無頼にかける情けなんてありませんから」
 船べりから水平線を眺めながら、フィランは憮然と言い放った。二人は小船に乗せられて都市へと戻る途中であった。彼らの反対側では、一名の手下が櫂を漕いでいる。
 フィランは遠ざかる船影に嘆息するばかりだった。あの女頭領はただ自分の立場を利用されるのが嫌で、しかしこの都市から出ていく気にもなれず、決断せずに広大な湖に漂っているのだ。その行為は愚の骨頂もいいところである。問題を長引かせるだけで、誰も得をしないではないか。
「なあ、お兄さんたちよ。あまりおかしらを悪く言わないでやってくだせえ」
 不意に櫂をこいでいた壮年の手下に呼びかけられた。頑健な腕で櫂を漕ぎながら、彼は陽に灼けた顔を寂しげに緩めた。
「おかしらも好きで元締めの娘に生まれたわけじゃないんでさあ」
「……誰だって生まれなんて自分では決められませんよ」
 ――そして、その身に追うことになる運命も、自分では決められない。フィランは金色の瞳を伏せる。だからこそ、己の生まれを受け入れ、運命を受け入れ、地獄のような世界において、僅かな楽園を求めて彷徨わねばならないのだ。
 そんなフィランの意思を他所に、隣のエルは伸びをしながら笑ってみせた。
「きみたちも大変だねえ。逃げっぱなしでろくに陸に上がってないんでしょう?」
「おかしらの苦悩を思えゃ、そんなこともねえですよ」
 歳で考えればルディと親子と言っても良さそうな男は、水面に視線を落とした。
「あっしはおかしらがお乳を飲んでた頃からお傍にいますけどね。その頃のヴェルスは、そりゃあ酷いもんでやした。あっしらの世界にも信じられる人が誰もいませんで、毎日裏切りと騙しあいばかりでさあ」
「……そうだったんですか?」
 フィランは意外な気持ちで聞き返した。フィランが見たヴェルスは無頼の動きこそ活発だが、手下が語るほど殺伐としてはいない。
「ヴェルスがこんなに平和になったのは、ギルグランスのおやっさんが帰ってきたからだよ」
 そう答えたのはエルだった。船の縁に腰掛けて、彼は遠くにある都市の姿に眼を細めた。
 かつて黄金の庭と賛美された豊穣の都ヴェルス。しかし帝国ファルダの属州に成り下がってより百年、周辺都市の口を賄う穀倉地帯として栄華の残り火を守るその間、危難と無縁であったわけではないのだ。
「何があったんです?」
「都市議会の腐敗と、経済の弱体化」
 フィランはぎょっとしてエルを見た。この男の口からそんな真面目な単語が出てくるとは思わなかったのである。エルは悪戯を成功させた子供のように笑って、説明を続けた。
「この百年、帝国に軍備をとられて、細々と税金を払ってヴェルスは平和に過ごしてきた。ねえ、フィランは、そんなヴェルスに何が起きたと思う?」
「強壮な都市国家からただの田舎に凋落したという話は聞いていましたが……」
「ただの田舎であれば良かったんでさあ。ですがここはヴェーラメーラ様の住む土がありますからね」
 手下は複雑そうに口の端を歪めた。
 元々帝国ファルダの属州の統治については、各地の議会に一任されている。巨大な帝国にあって、中央集権の制度では諸国まで手が行き渡らないからだ。はじめから都市議会を持っていたヴェルスの行政は、属州化された後も、ほとんど手を加えられることなく据え置かれた。
 しかしヴェルスは本国からも国境からも程遠く、あるのは肥沃な大地のみ。広げるべき国土もなく、戦うべき敵もなく、ただ人の食らいの心を賄うだけの日常。百年の年月が経つにつれ、それは倦怠と利己意識を人に植え付け、次第に心を歪ませていったのだ。都市の機能は狂い、富は一部に集中するようになり、都市に浮浪者が溢れるようになる。
「へえ。殺しも盗みも日常茶飯事っていう、そりゃあ酷い時代があったもんです。おかしらの親父――先代は、あっしらを守るために日夜走り回ってくれなすってなあ。でも、お陰でおかしらはほとんど構ってもらえなかったんでさあ」
 湖を渡る風が小船に乗る者々の髪を揺らす。手下の男は遠くを見る眼差しになった。
「実際におかしらを育てたのはあっしらでね。お陰ですっかり男勝りの跳ねっ返りになっちまったァ」
「……あの気性はあなたたちの仕業ですか」
「いやあ、昔は可愛かったもんでね、林檎の木に登って降りられなくなって大騒ぎした日のことなんか昨日のことのように覚えてますぜ」
 まさに父親の発言である。頬を緩めている手下を初め、あの船にいた者たちは皆ルディの父親代わりとなった男たちなのだろう。
「そんな生活もギルグランス様が戻っていらしてからまた一波乱ありましてね」
 手下の声はやや明るくなった。フィランはこの都市の住民どころか無頼どもまでがベルナーデ家に一目置いていることを不思議に思っていたが、その答えが紡がれだした。
 五年前、ギルグランスが突然退役し、数十年ぶりに都市に戻ってきたのである。帝国軍でも名うての司令官であった彼を都市議会は無視するわけにもいかず、特別枠で議席を与えて召集した。
 登院初日、ギルグランスは開口一番にブチ切れた。
『なんなの? なんなんですかこれは、ええっ!? 物事限度っちゅうもんがあるでしょうが!? なんだこの地獄みたいな有様は後先考えずに適当やりやがって自分の故郷失くしたいのかそうなのか!? 貴様らの沸いた脳みそで考えても分かるだろう、こりゃ人間が住むところとしてもうヤバイって! 何のために議会があるんだふざけろここで全員血祭りに揚げて総取替えした方がいいのかしらそうなのかしら!?』
 無論この通りに喋ったわけではないのだが、似たようなことをのたまいながらギルグランスは大理石で出来た演説台を素手で叩き割るという伝説的偉業を為し、たるみきった議員たちを相手に都市の大改革に着手した。
 当時のヴェルスを知る二丁目の煉瓦職人の爺さんはこう語る。
『あの当主様の形相といったら、邪神そのものじゃった。我々も正直なところ、あのお方がこの都市の引導を渡すのかと思ったくらいよ』
 このときに彼は無頼の世界にオーヴィンを遣わし、終わりなき抗争にも終止符を打たせたのである。先代の元締めに、ヴェルスの全ての無頼を束ねさせることによって。
「……あの歳でよくもそこまでやったものですね」
「あはは。おやっさんは元気だからねえ」
「ええ。あっしらの世界もようやく落ち着きましたもんで。ほっとされたんでしょうな。先代は、ぽっくりと亡くなっちまった。そんな父親をルディ様は疎まれているんでさあ。都市に尽くすだけで一生を終えたあの方のようにだけはなりたくないと――」
 手下は顔を腕で拭った。振り払ったそれは涙か汗か。櫂が青々とした水を掻き分ける音が、物悲しく耳に残る。
「兄さんたち。あんたたちにお願いがあるんでさあ」
 休まず櫂を漕ぎながら、手下は続けた。
「今晩、あの船はあっしらの身内でもほとんど知られていない港に綱を繋ぎやす。食料の調達が必要なもんで。――それを、トージという男に伝えてやっちゃあくれませんか」
「トージ?」
「ええ。跡継ぎ候補の一番手だ。おかしらの幼馴染で、先代の遺志を一番よく分かってる男でさあ。おかしらを説得できるのは、きっと奴だけでしょう」
 フィランは暫く考えていたが、静かに頷いた。都市の無益な争いをこれ以上繰り広げないために、フィランはベルナーデの人間として最善を選ぶ必要があるのだ。無論、この手下は信頼に足ると判断したのもある。何よりも、その語り口からはルディを心から気遣う思いが伝わってくるのだから。
「分かりました。伝えましょう。そのトージという男はどちらに?」
「末広通りにある駱駝亭って酒場で合言葉を言えば会える筈でさあ。実は前に解放した博士にも同じ頼みをしたもんで、先に伝わってるかもしれねえですが」
「ポッパラムダ博士にも?」
 それはしめたとフィランは声を明るくした。例の博士の尻尾も併せて掴めるかもしれない。
 合言葉と港の位置を教わっていると、船べりに腰掛けたままじっと空を見上げていたエルが不意にうーんと声をあげた。
「エル、何やってるんです、危ないですよ」
「うん、もうすぐ雨が降ると思って」
「え?」
 フィランはエルに倣って顔を上に向けた。いつの間にか夕暮れを迎えた空に雲は薄く棚引くばかりで、雨の気配はない。そう言うと、エルは指に髪を巻きつけながら笑った。
「あはは、そう思うでしょう。でもよく嗅いでごらん? 風から雨の匂いがするよ」
 ヴェルスの天気はすぐに変わっちゃうんだ――そう言うエルの力量を、フィランは見直しつつあった。道化のようにへらへらしているだけの男だと思っていたが、草木や風水に詳しいし、時に驚くほど的を得た発言をする。
 何かが脳裏で閃いたのはその時だった。フィランは改めて、エルの姿を上から下まで観察した。油気の少ない赤茶の巻き毛。腰に携えた双剣。薬の知識。風を読む力。そして、当主が告げた、その来歴。――元、奴隷剣闘士。
 小さな要素の群れが一つの像を結んで、飛来する刃に似た仮定を為した。
『まさか……』
 恐ろしい直感に唇を引き結んでいると、小船はようやく人気の少ない岸辺に着く。フィランは礼を言って、サンダルを脱いで浅瀬へ足を踏み入れる。胸に沸いた凄絶な想像をエルに聞いても良いものかと迷いながら陸地でサンダルを結びなおし、フィランは振り向いた。
「あの、エル……」
 振り向いた先には、誰もいなかった。
「え?」
 目の前に広がる雄大な湖畔に、松の木がさわさわと揺れている。ルディの手下は人目を嫌ってそそくさと沖へ出ていってしまっており、辺りには明るい笑い声も巫山戯た動きをする影も見当たらない。空に浮かぶ雲が多くなり、風が急に冷たくなったように感じられた。
「――ええ?」
 フィランは一人、途方に暮れるばかりだった。




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