-黄金の庭に告ぐ-
<第一部>3話:ポペラユプポピュポマルス博士

02.フィラン、自由人と戦う



 海にも見紛うヴェルスの湖に浮かぶ島は、その半分を深い緑に覆われている。風の女神の歌声も高らかな青空に昇る不吉な煙は、そんな森の奥から立ち上っていた。
「って、なんで悠長に釣りなんかしてるんですか!」
「うむぅ?」
 岩に腰掛けて呑気に釣り糸を垂れていた島長ダールは、フィランに煙の存在を指摘されて、ほぅと目を丸くした。
「温泉でも沸いたのかのう」
 この爺さんもう駄目だ、とフィランは顔を覆いたくなった。
 かというエルは呑気に島長の釣果を覗き込んでいる。
「ねえ島長さん、この子ちょーだい」
「うん?」
「これこれ、この子」
 歩き出しかけていたフィランは、早々に道草を食うエルを見て深く嘆息する。エルは島長の許可を得て、木桶に入っている何かを手持ちの水筒に投げ込んだ。
「……何やってるんです?」
「えへへ、戦利品」
 水筒を掲げてみせたエルは、呆れ顔のフィランを尻目にひょいひょいと丘を上っていく。水筒は水を飲むためのものであって戦利品を投げ込むところじゃありませんよ、と口内で呟くが虚しいだけだ。
 とにかく、今は煙の正体を見極めなくてはならない。火事であれば民家に被害がでる可能性がある。
 丘を上がると、島長の妻クレーゼとティレ、そして橙色の髪の女が一本杉の下に集まっていた。流石にボケた島長と違って危機意識があるようだ。
「まあ、フィランにエル。来てくれたのね」
「ティレ、大丈夫かい!?」
「うん」
 ティレはクレーゼの脇にくっついたまま、こくりと頷いた。
「ちょっとエル、あれなんとかしてよ!?」
 そう声をあげた女人はカリィといって、信じがたいことにエルの妻である。明るい橙色の髪を真っ直ぐに垂らした、てきぱきとした女だ。こんな出来た女性がこんな不真面目な男の妻であることに、フィランは世間の神秘を感じずにはいられない。
「カリィ、首が絞まってるよー。折れるよー」
「ふんっ、折りなんかしないわ。アンタには死ぬまで稼いでもらわないといけないからねッ」
「酷いよカリィー」
「ケタケタ笑うのやめなさい気持ち悪いッ! 夢に出てくるじゃない!?」
「君の夢に出られるなら本望だ」
 エルの睦言は最後まで言わせてもらえず代わりに拳が鳩尾に入った。美しい正拳突きであった。
「すごい」
 あえなく没したエルを見たティレが目をぱちくりさせると、カリィは手を打ちながら片目を瞑った。
「ティレにもあとで教えてあげるわ。これで旦那もイチコロよ」
「やめてください」
 同じ身振りをしようとするティレを本気で止めにかかるフィランである。カリィの言うイチコロは本当の意味で生命が脅かされかねない。
 そのとき、ぱたぱたと森の方からマリルが髪を振り乱して走ってきた。様子を見に行っていたのだろうか。その顔色は蒼白だった。
「た、たたたたたたたた」
「……たたた?」
「た、大変、たいへ」
「たいへんたいへん?」
 無表情で繰り返すティレの前で、マリルはへたりと座り込んだ。カリィとクレーゼがその腕を助け起こす。
「ちょっと大丈夫!? ミモルザはどうしたのよ?」
「あら?」
 クレーゼが都市の方向に振り向くと、一同も振り向いた。そして、硬直した。
 まるで大地の奥底から芽吹いた悪夢が黒い風として具現したかのようだった。舞い上がった黒い何かが、矢のような速さでこちらに向かって吹き付けてくる――。
 カリィが甲高い悲鳴をあげた。フィランはティレを背に槍を引き抜いたが、とても一人で庇いきれる量ではなかった。
 黒い風の正体は、蝗のような虫の大群であった。それも、一つ一つが人の頭ほどの大きさがある。羽音は大雨が大地を打ち叩くかのようで、襲われればひとたまりもないだろう。
 しかし幸いなことに、虫たちはフィランたちには目も暮れず、頭上を通り過ぎただけだった。代わりに鎌鼬のような速さで煙の方に殺到していく。
「まあ」
 島を統べる老女クレーゼは、頬に手を当てて、困ったように呟いた。
「千客万来だわ」
「呑気に言ってる場合じゃないでしょう!?」
 フィランは全力で老女に突っ込んだ。カリィはマリルとティレの頭を掻き抱きガチガチと歯を鳴らして「あ、あたしは大丈夫」とか虚勢を張っている。頭をがっちりと抱え込まれたティレは腕をぱたぱたさせていた。
「あれ、エル?」
 被害がないことを確認したフィランは、顔を遠くへやって、げっと引きつらせた。サンダルに羽根でも生えているのだろうか、虫を追って森へ入っていくエルの姿はもう彼方にある。
「ちょっと、勝手に先走るんじゃありませんよ!」
 あの虫の大群を前によく走り出せたものだ。その度胸に舌打ちしたい気分でフィランは後に続いた。女たちはクレーゼがついているから大丈夫だろう。
 先行するエルが下草を双剣で切り裂いておいてくれたため、フィランはすんなりと追いつくことができた。エルは次々と流れるような手際で足場を作っていく。
「エル、先に行かないでくださいよ。あなた僕がいることを分かっているんですか?」
「あはは。だってカリィが怖がってるんだもん。早くなんとかしなきゃー」
 嘘か本気か分からない様子で、エルはひょいと蔦に手をかけて、藪を軽々と越えていく。
「ああ、もう」
 フィランも木の枝をかきわけ、苔むした岩場を伝って森を進む。人の手の入らない島の森は、緑の天蓋に覆われており、人々を恐怖に震え上がらせる魔物も少数ながら生息していると聞く。油断なく緊張を張り巡らせていると、奇妙な臭いが鼻をついた。
「……なんです、この臭い」
 腐った乳を煮たような、強烈な悪臭である。ジジジ、と音がして顔をあげたが、エルが素早く口元に人差し指を立てたので口を噤んだ。音の方向に恐る恐る近寄っていくと、蔦の向こうに紫色の頭が見えた。島の医女ミモルザだ。
 木々の奥を伺っていたミモルザは二人を一瞥すると面倒臭そうな表情をし、すぐに顔を元に戻した。怪訝に思ったフィランは凄まじい臭気に口元を押さえながら、そっと木々の奥を覗き込んだ。そして、悲鳴をこらえるのに全力を注がねばならなかった。
 煙の正体は、木の根元で焚かれた大量の香によるもののようだった。大小様々な虫という虫たちが、そこにびっしりと群がっている。黒光りするそれらの中には先ほどの虫の大群の姿もあり、キチキチと奇怪な音を立てる様には全身の毛穴が開きそうだった。
 そのとき、小さくも、驚くほど冷静な声があった。
「虫寄せの香だね。下地は山羊の乳だけど、ちょっと手が加えてあるな。ジジの根と、ダラーツの樹液の匂いだ」
 フィランが一瞬で目を逸らしたその光景をまじまじと見ながら、エルが獣のように目を細めていた。すると、ミモルザがちらりと視線を向けてくる。
「お前の仕業かい」
 そうだったら三度殺してやると雄弁に語る眼差しに、エルは首を横に振った。
「ぼくはこんなことしないよー。島の草はもともと匂いが強すぎるんだ」
 エルは腰元の皮袋を開きながら、手は打った? と気楽に問いかけた。ミモルザは不快そうにかぶりを振る。
「さっき虫払いの葉を撒いたが焼け石に水さね」
「この数じゃねえ。煙は弱まってるみたいだけど、――ね、ちょっとこれ貸して」
「何するんです?」
 フィランが訊くと、エルはニッと笑ってみせてから皮袋から次々と道具を取り出した。ミモルザが作ったらしき即席の竈には、鍋に虫払いの葉が燻されている。エルは大きな葉を皿代わりにして中身を移すと、代わりにミモルザの薬箱から取り出した蜜蝋に自前の赤い葉を加え、油脂のようなものを水と共に入れた。火が残っていたため、瞬く間に蝋が溶け、赤みがかった透明の液体となる。初め怪訝そうにしていたミモルザは、意図に気付いたのか、暫くすると納得したように肩を竦めた。
「フィランはそれをぼくたちの周りに撒いて」
 エルは燻された葉を指差して言う。フィランは突然手際の良くなった男を奇妙に思いながらも、虫除けの葉を三名の周りに満遍なく撒いた。近くの虫が、嫌がるようにジジ、と羽音を立てる。
「じゃあ、いっくよー」
 至極明るい声で、エルは布ごしに鍋を持ち上げた。まさか、と思うと同時に、鍋から湯気を上げる蝋が、煙の上がる真上――虫たちが最も群がる部分に降り注いだ。
 阿鼻叫喚の図となった。
「ぎゃーーーーーーッッ!!」
 とうとうフィランが悲鳴をあげる。蜘蛛の子を散らすという例えそのままに、無数の虫が無茶苦茶に飛び回る。粘性の高い蝋と油の混合物を浴びた虫は脂に固められたかのように動きがのろくなり、腹を見せておぞましい肢を蠢かせた。フィランが撒いた虫除けなど気休めもいいところだ。闇雲に飛び回る虫が頬や腕を掠めるごとに、フィランは危うく意識を失いかけた。
「煙が止んだね」
「まー、あとは自然に解散するのを待つだけだねー」
「ちょっと何冷静に眺めてるんですか!」
「んー?」
 自分の頭と同じ大きさの蝗を髪の上に止まらせたエルが振り向くのを見て、フィランは気が遠くなった。その向こうの煙は、根元を虫ごと蝋で固められて治まっている。ミモルザは流石に不快らしく、まとわりつく虫を払いながら瞳に険を乗せた。
「で、誰がこの馬鹿をやらかしたのさね。少なくとも島の人間じゃなさそうだが」
「物知りさんだと思うよー。こんな強い虫寄せはそうそう作れないもの。でも近くには誰もいないみたいだねえ」
「……あの。例のポペラッパ博士は、確か植物の研究のためにヴェルスに来たんですよね? もしかして彼じゃないんですか」
 フィランは小声で意見を口にした。肝心の博士の名前が間違っているのはご愛嬌だ。
「ああ」
 エルはぽん、と拳で掌を叩いた。そして口がしっかりと閉められた皮袋を取り出す。
「ならこっちを試せばよかったのに。匂いも少ないし、虫さんにモテモテになれる」
「それも虫寄せの薬なんですか?」
 もしかするとエルは薬師の知恵があるのだろうか。先ほどの振る舞いといい感心していると、不意にエルの頭に乗っていた蝗が飛び立った。皮袋から僅かに漏れる匂いに惹かれたのだろうか。その長い肢がエルの手の皮袋に引っかかったが、袋の重みによって高度を上げられず、そのままフィランの肩口に衝突した。
 べしゃ。
 落ちた衝撃で皮袋が破けた。見下ろすと、ぬるりとした緑色の液体が、フィランの足にべっとりと付着していた。
 ミモルザは、付ける薬もないといわんばかりに首を振った。
「……あの、エル」
「うん」
「これ、どうするんです?」
「えーとね」
 ざあっと死神の羽ばたきのような虫の羽音が聞こえた。無数の鎌首が残らずこちらに向いているのは明らかだった。
「とりあえず、逃げて」
 エルが告げる前に、フィランは走り出していた。脱兎のごとく走り出していた。その背後から、悪鬼の手のような虫の黒い大群が追従した。
「ひーーーっ!?」
「わー、モテモテだー」
「ふざけるんじゃありませんよ! これどうするんですッ?」
 フィランと併走しながら、エルは呑気に指に髪を巻きつけた。
「大丈夫、なんとかなるよ。とりあえず森を抜けてみてー」
「ええい、後で三発殴りますから覚悟なさいエルッ!」
 これなら暗殺者に追われている方がまだましだったかもしれない。そんなことを考えながら、フィランは森を疾走した。少しでも足を緩めれば、背後の黒い悪魔たちに追いつかれる。エルの先導を信じて、ただ短剣で蔦を引き裂きながら進むしかない。――この先導というのが不安この上ないのであるが。
 不意にフィランは光を感じて目を見開いた。密林が途切れようとしている。陽が差し込んだそこに出ると、ぱっと視界が明るく開け、海にも見紛う湖が一杯に広がった。
 そこが切り立った絶壁であることに、フィランはひと時の間、胸を冷やした。
 しかし、エルがフィランの首根をひょいと掴んでその崖を飛び降りたときは、胸が冷えるどころか心臓が止まるところだった。
「ちょっ――!?」
 胃が持ち上がるような浮遊感を覚えたのも束の間、上下の感覚が失われた。二本の巨大な水柱が立った直後に、虫たちは湖面に殺到したが、ほとんどが水を嫌がって辺りに散っていった。
 暫くして、離れたところにフィランがぷはっと顔を出す。激しく咳き込んで、まとわりつく髪を掻き揚げると、首を振って呻く。酷い目に遭ったものである。すると遅れてエルが顔を出し、晴れ晴れと笑った。
「やー、怖かったねー」
「あなたのせいでしょうが!?」
 フィランはエルの首を絞めた。その耳の横を、ヒュッと鋭い音が打った。
「え?」
 足もつかない湖の中で、振り向いたフィランは凍りついた。太古より伝わる物語は語る。人生とは荒れ狂う海に帆を張るようなもの。一難去ってまた一難、それこそが人の定め、と。
 二人の前に、小型ながらも峻厳な山脈を思わせる見事な船が夏の陽光を浴びて浮かんでいた。その船首に立つ女が鏃速き月の女神イェーナのごとく弓を持ち、鮮烈な殺気を放ちながら声をあげる。
「動くな。動けば命はない。手を横に広げて、じっとしてな」
 扇情的な無頼の装束を身にまとった、美しい女盗賊であった。
「うーん」
 青褪めるフィランの横で、エルはしきりに首を傾げていた。
「海賊……っていっても、ここは海じゃないし。つまり、湖賊?」
「そんなことを悩んでいる場合ではないでしょう!?」
 ――これなら、本当に暗殺者に追われている方がましだった。
 フィランは泣きたい気持ちにかられながら、こちらに向いた鏃を睨んだ。


 ***


 夏の神はいよいよ力強い色彩を大地に送り込み、湖に面したヴェルスの町並みは惜しみなく照り映える。思わず空を見上げずにはいられない、爽やかな初夏の季節――。
 オーヴィンとジャドは、都市中を走り回る羽目になっていた。
「どういうことだよオイ!?」
 ベラを皮切りに、都市の市民たちから大量の訴えが寄せられたのである。やれ飼っていた鳥を逃がされただの、乗り合い馬車の幌だけが消失しただの、神殿の壁に謎の算術式が描かれていただの、図書館が襲撃され貴重な書物が盗まれただのと、どれも聞くだに迷惑な話だ。しかも、その近辺では妙な学者風の男が目撃されているそうで、二人は青くなった。どうやら博士は都市をうろついては騒ぎを起こしているらしい。
「行方不明になったのは三日前だ。こんなに目立つ博士なら、なんで今日になって突然騒がれるんだろうな?」
 オーヴィンが首を捻っている間にもベラに首根っこを捕まれ事件現場へ連れていかれる。
「全く! うちの商品台が変な色にされているじゃないかい、あの男、何者なんだい」
「あぁ? そりゃオヤジの――ぼふっ」
 オーヴィン即席の煙の魔法によって、正直なジャドの言が塞がれる。まさかベルナーデ家の客人であるなどとは口が裂けても言えたものではない。
 ベラが市場で使っている商品台は何故か極彩色のピンクに染まっており、「これはこれで目立っていいんじゃないか」と言ったオーヴィンはベラに張り倒された。
 ジャドは走り回っては逃げた鳥をとっ捕まえ、図書館の司書からは盗まれた書物の情報を貰い、神殿の壁の拭き掃除を手伝う羽目になった。更に別の場所で妙な落書きが発見されたと一報が入り、会堂の前で博士への恨みを胸にぜいぜいと呼気を荒げていると、後ろから農夫に声をかけられた。
「あぁくそ、次は神殿の彫像でも動き出しやがったか!?」
 横でオーヴィンが「それは是非とも遠慮願いたい」とぼやくと、農夫は泣きそうな顔で首を横に振って窮状を訴えた。
「作物が盗まれたァ?」
「そうなんだ。今日収穫した分が、ごっそり消えちまってさ。しかも変な化け物まで現れて!」
「分かった。まあ、気持ちは分かるが落ち着いてくれ。すぐに向かうよ」
 混乱しているのだろう、涙声で懇願する農夫の肩を持って、オーヴィンは言った。
「セリフがなけりゃ凶漢がいたいけな農夫をいびっているようにしか見えねぇな」
「……言うな。自覚はしてるんだ」
 若干遠くを見るオーヴィンであった。それにしても、余計な逗留者を迎えてしまったものである。


 ***


「げっ、なんだよこりゃ?」
「また酷いもんだ」
 ジャドとオーヴィンは眉根を寄せて、それぞれ惨状への感想を口にした。
 肥沃な大地を多い尽くす広大な農園の片隅、――そこは収穫した作物を集めておく小屋であった。その壁の一部が無残に壊されているのである。
 ヴェルスの農園は秋に最も多くの実りを結ぶが、収穫の季節を問わない作物も多くある。秋だけの収穫では商人たちが居付かないとのギルグランスの計らいで、様々な品目の栽培に手を出しているためだ。農夫の言では、収穫したての果実や香草の他、備蓄してあった麦かす入りの小麦粉も奪われたらしい。番犬の亡骸を腕に泣いている農夫の娘を痛ましげに見やって、ジャドは舌打ちをした。
「あの博士め。流石に許せねぇぜ」
「……そうとも言えない気がする」
「あぁ?」
 オーヴィンは被害の確認と修繕の手配に忙しい農園の主人に近寄った。長い馴染みのオーヴィンを見ると、農園の主人は弱った顔で頭を下げた。
「大丈夫か? 酷くやられちまったな」
「ああ、オーヴィン。こんなことは久しぶりだよ、五年前に戻ったみたいだ。当主様になんて説明すればいいか」
 悔しげに顔を歪める主人に、オーヴィンも目を眇めた。
「この辺りで学者風の男を見たか?」
「いや、私は見ていないし、農園にも来ていないと思うな。そんな妙な男がうろついていたら、必ず私の耳に入るはずだからね」
「他に犯人らしき人影は?」
「それもないんだ。奴らめ、一体何処を通ったのだか」
 オーヴィンは頷いて、壊された小屋に厳しい顔を向けた。
「んん。これは例の博士は無関係だと思うよ」
「アア?」
 眉を跳ね上げるジャドに、オーヴィンは見てみな、と小屋に目配せをした。
「壁が壊されたすぐ下に荷車の跡が残ってる。作物を荷車で運んだんだろうが、この幅からするにとても一人じゃ曳けない大きさだ」
「牛でも使ったんじゃねぇのか?」
「もしそうなら牛の足跡も残る筈だよ。でも、あるのは人間の足跡だけだ。犯人は複数人――少なくとも都市に来て間もない学者にできることじゃあない」
「じゃあ本当に博士の仕業じゃねぇのか?」
「ああ。……もうちょっと深刻かもしれない」
「どういうことだ?」
「ヴェルスの無頼だよ」
 ジャドが呼気を止めるのを見て、オーヴィンは目を眇めた。それは長くヴェルスをその足で歩いたオーヴィンだからこそ分かることだった。先代の元締めが死して以来、都市の荒くれ者たちの様子が変わってきているのだ。平時であれば外を歩けないような外道たちを、先ほども道端で見かけたものだった。
「あぁ。そういや奴が死んでから、確かに面倒が増えたな」
 ジャドが納得したように頷く。フィランがヴェルスを訪れたときに盗賊が暴れまわっていたのも、その影響だったのだ。オーヴィンは難しげに唇を指でなぞった。
「これは、本当に手を打たないとまずそうだ」
 そのとき、オーヴィンは顔を風上に向けた。すぐにジャドも異変に気付いてぴくりと眉を潜める。それは花粉を振りまいたような濃密な甘い香りだった。次の瞬間、潅木の向こうから悲鳴があがった。
「化け物だ!」
 集まっていた農夫たちが何事かと浮き足立つ横をすり抜けて、オーヴィンとジャドは声の方向に走った。
「オイ、どうし――」
 俊足を誇るジャドが、青々と生い茂る作物を掻き分けて、まず現場に到達した。彼は腰を抜かした農夫と相対するそれを目にした。そして、凍りついた。
 数秒遅れたオーヴィンもまた、それを見た瞬間、普段は動じない顔に驚愕を浮かべた。




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