-黄金の庭に告ぐ-
<第一部>2話:老人のうたうたい

05.生者の定め



 夕暮れの湖岸に寄せる波の白い淵は、湖の姫神がまとう衣のように広がって揺らめく。一日の最後の陽光を受けて輝く水面は、燃えるような赤さだ。同じ色に染まった光が真っ直ぐに注ぐ厩の中、ティレは座り込んで、生まれたばかりの子馬の首筋を撫でていた。仔馬は既に自身で立ち上がり、元気に尻尾を振っている。ティレを母だと思っているのだろうか、時折彼女の頬に鼻面を押し付けては稚く鳴いた。
 老人は疲れきった様子で備え付けの椅子に腰掛けている。濃い影が落ちる様は、まるで彼自身が彫像になってしまったかのようだ。
 市場の中心地で仔馬を取り上げてから、彼は大忙しであった。結局のところ母馬は命を落としてしまったため、老人も自らの命を持って償わされることを覚悟していたのだが、最悪の事態は回避された。暴れ馬を止めた功労者の一人である老人を、世間体を気にした主人は罰するにも罰せなかったのである。そして何よりも、瀕死の母体から仔馬を無事に連れ帰ったことが評価されたのだ。
 奴隷の息子夫婦は父の帰宅に心から喜び、馬の暴走を止めたベルナーデ家の者たちに心から感謝した。彼らの主人もまたベルナーデ家に謝意を示し、その日の内にギルグランスの元には年代物の酒樽が届けられたのだという。気前の良い当主は配下を労ってその樽を彼らの行き着けの酒場に送ったため、配下たちは今頃思わぬ褒美に浮かれていることだろう。
 その後主人は迷惑をかけた市場を奴隷を伴って歩き回ったが、主人を糾弾する商人は少なかった。仔馬が生まる瞬間に立ち会った熱が覚めやらぬのもあったが、彼らにとって今日の出来事は良い見世物でもあったようだ。何せ、天地を割るほど狂暴な荒馬に一人の若者が飛び乗り、見事に暴走を止めてみせたのだから。それがベルナーデ家の新入りと聞いた彼らは、今度はまたすごいのが来たものだと興奮気味に話し合った。
 何もかもが終わった静けさは、老人の時を止めてしまったかのようでもある。彼は不意に、ふうっと息をついた。
「あんたには感謝せねばならんな」
 ティレは馬を撫でる手を止めて老人を見上げた。音もなく褐色の瞳が瞬く様は、並ぶ仔馬のそれと瓜二つだ。この少女は人として生まれるよりも、小さな獣として生まれた方が似合っていたのかもしれない。
 けれど彼女は人間だった。感謝を受けて尚深遠の淵に彷徨う少女は、老人を鏡のような瞳に映し込み、ぽつりと呟いた。
「本当は、なにもするつもりもなかった」
 老人は何も言わなかった。少女は乾いた土に雨粒が落ちるように、途切れ途切れに語り始める。
「……考えることは、辛い。伝えることもも、聞くこともも。人は、怖い。だから何も感じなくなりたかったのに、どうして――わたし」
 あのとき、老人を助けるため、馬上の若者に縄を渡せと指示したのは紛れもないこの少女だ。少女はそんな己の行動に戸惑い、恐れていた。何も考えずにいることこそが彼女の至高なのだ。そのまま消えてしまえれば良いとすら思ってる。その筈が、何故自ずから動いてしまったのだろうと、少女はひとり途方に暮れる。
 粗末な木椅子に腰掛けた老人は、短い髪で頬を隠す少女を見下ろし、深く溜息をついた。
「あんた、死ぬことについて考えたことがあるかい」
 ティレが頷くのを見ると、老人は語気をやや鋭くした。
「違う。他人が死ぬのが可愛そうだとか、そういった憐れみは抜きだ。自分が死ぬその瞬間の痛みや苦しみを本気で考えたことはあるか」
「……」
 少女の服の裾を掴む指に、力が篭る。ティレは標を失ったように俯き、わからない、と消え入りそうな声で呟いた。
「あんたは幸せに生きてきたんだな。そんなことを考えなくても良いくらいに」
 罪を並べ立てるにも似た語勢だ。細くか弱い少女の体には太すぎる言葉の杭。だがティレは耳を塞ぐことはなかった。
「いいかい、お嬢さん。私もあんたも、いつかは死ぬだろう。それは神が定めたことだ。免れようもない。そんな限られた時間を、あんたはぼんやりと過ごしている。それがどんな贅沢なことかも知らないで」
 そうかもしれない。ティレは霞がかった過去の記憶に浮かぶ虚像を思い、目を閉じる。人形のように座して、くるくると回る世界を眺めていた。諦めることが美徳と信じ、懊悩を封じて生きてきた。いつこの命が尽きても同じだ、と。
「だがあんたが自ら動いたこと。それは全部、あんたの本当の気持ちだろうよ。あんたはまずいことだと思っているようだが」
 それが人としてあるべき姿だよ。
 いくら思考を止めてしまっても、思いは変わらずにそこにあるのだから。
 生気をなくした唇が震えた。冷たい掌に宿る血が、ティレには不思議でならない。だが心は呟く。意思を持たずに生きてきた、流されながら生きてきた。ただ恐ろしくて仕方なかったのだ。何かをして否定されることも、奪われることも。自分が下した選択で自分が苦しむことも。
「考えることは、辛い」
 少女の言葉に、老人は笑って謳うように言った。
「当たり前だとも。辛いもんだ。しかし私たちは誰しもがその辛さを抱えている」
「苦しくても考えなくてはいけない?」
「苦しいが、苦しまねば報われんよ」
「……わたし、弱いから」
「それは言い訳だよ。自分を誤魔化したところで、この大地の上で息をしていることに変わりはない。生まれたならその足で生きてゆくのが生者の定めだ」
「さだめ」
 目の前で死んでいった親友の姿が、倒れた母馬と重なる。いつだって傍にいて手を引いてくれた少女。その後姿ばかりを追いかけてティレは育った。何も考えたくなかったし、考えなくとも良かった。座っていれば食べるものが差し出され、時間が来ればいるべき場所へと呼ばれた。何もかもが当たり前の日常だった。
 だがティレは心の奥底に潜んでいた感情に手を伸ばす。忘れたと思っていても、ずっとそこに存在していた心の揺らぎを。
「……悲しかった」
 ぽつりと。
 雫が落ちるように、少女は、夕暮れに言葉を乗せる。
「わたしは何もできなくて、……いつも何も守れなくて、ただ、視ているだけで」
 目を開いたまま。そこに透明の涙が浮かぶ。仔馬が気遣うように鼻面を押し当てる。何も感じなかった心に、歪が生まれる。
「わたしを守ってくれるひとに、なにもできなかった……」
 老人は薄く笑った。影の落ちたそれは、優しい笑みだった。
「後悔があるようだな。ならそれは、あんたの糧なんだろうよ。何かを成そうとするための糧だ」
 褐色の瞳が焦点を結ぶ。現実を捉えて、鼓動を始める。無力であったその横顔に、紅の光が注ぐ。
 老人は、歌を歌うように少女に問いかける。

「死までの限られた時間に、あんたは何をするんだ」

「ティレっ! おまたせしまし――あれ?」
 厩の扉から飛び込むように入ってきたマリルは、重たい空気を敏感に察知して姿勢を正した。
「こら。建て付けが悪いんだ、乱暴に入るんじゃない」
「ご、ごめんなさい……ティレ、買い物も済みましたし、ってどうしたんです!?」
 マリルはぎょっと目を剥く。藁と土の匂いで満たされた部屋の片隅に座り込んでいたティレが、はらはらと涙していたのである。しかし彼女は頷いて立ち上がり、そっと仔馬の鼻面を撫でた。
「ありがとう」
「それは私の台詞だと言ったろう。達者で暮せ」
 顔を背けた老人に一度頭を下げ、マリルの元へ歩いてくる。その足取りはもう宙を舞うようではなく、転ぶ心配もなさそうだ。マリルはそんな姿を暫し呆然と見つめていたが、眉尻を下げて微笑み、小さな手をとった。
「――さあ、もう日が暮れちゃいます。渡し守のお爺さんが寝ちゃったら大変ですよ」

 老人に別れを告げて道に出ると、フィランが待っていた。本日の英雄ということで酒場に誘われていたのだが、ティレを心配して抜け出してきたのだ。
 彼はティレの泣き顔を見ると、無言で槍を抜き払って厩に踏み込もうとした。
「待ってください!」
 慌てて止めるマリルである。フィランはくるりと向きを変えるとティレの肩を掴んだ。
「酷いことを言われたのかい」
 ティレは首を横に振った。
「殴られたのかい」
 ティレは首を横に振った。
「まさかティレが可愛いからって変な気を――」
「フィラン、落ち着いてください!」
 見かねたマリルが猛るフィランをいなした。普段は穏やかで騎士然としているのに、妙なところで容赦のない若者である。
 フィランはティレの頬を指で拭ってやりながら、怪訝そうに顔を覗き込んだ。
「……それじゃあ、どうしたんだい」
「わたしのせいで、シュリィは死んでしまった」
 時が止まったかのようだった。はっと、フィランは息を呑んだ。禁忌に触れたように空気が引きつり、マリルが眉を下げる。
「だからわたし、忘れようと思った。ぜんぶ、ぜんぶ、どうでもよくなろうとした」
「ティレ」
 拙い言葉で、ティレは続ける。
「でも、だめなの。生きているだけで、こころが、溢れる――」
 至福の神々が奏でる風に、頬に張り付いた髪が散らされる。いつか必ず来る終わりに向かって、人は生きている。その合間に湧く想いは、今は細い少女を途方に暮れさせる。どうして、人は心は持つのだろう。
 フィランは痛みを堪える表情でそれを見つめている。胸中で何を思うか、彼は唇を噛み締めたままだった。
 そのとき、ティレはふと振り向いた。中から薄っすらと歌声が聞こえてくるのだ。マリルも気付いたようで、くすぐったそうに笑った。
「お爺さんの歌声ですね」
「……」
「ねえ、ティレ。心が溢れるっていうのは、嬉しいとか悲しいとか、そういう気持ちを持つってことですよね。それって素敵なことじゃないですか」
 マリルはティレに近寄って、明るい笑顔でその手を両手で握る。
「ティレ、今日みたいにたくさんの人と会いましょう。色んなことを考えましょう。大丈夫ですよ、気持ちが溢れて辛いときだって、マリルも、フィランも、みんなが傍にいますから!」
「……マリル」
 呆然としていたフィランも、少し迷った風であったが、くすりと笑ってみせた。
「そうだね。ティレは皆に愛されるよ。それに、何があっても僕が守るからね」
 マリルはぽっと顔を赤らめ、「かっこいいです」と言った。マリルの明るさは太陽のようで、フィランの穏やかさは陽だまりのよう。ティレは二人の顔を交互に見る。二人はそれぞれの強さを持って生きている。
 わたしには何ができるのだろう。
 ティレは、褐色の瞳を瞬かせて、――思考を始める。
「じゃあ、帰りましょう」
 はたはたとけぶる髪をなびかせながら、ティレは都市の隙間に伸びた細い道の奥を振り返った。広場に面した飲食店の脇にある古びた馬屋。そこで仔馬に歌を聞かせる老いた男。赤い光が真っ直ぐと注ぎ、やがて夜を率いる時の女神が空を覆い始める。時は決して弛むことはない。けれど、彼が想いを込めて謳う歌は、確かにここにある。
 地上に生きる人々が謳うあらゆる歌で、世界は満ちている。


 ***


「うん。奴隷って言っても色々いるからね」
 寝台に腰掛けたフィランは、ティレから話を聞いてそう笑った。ティレは先に毛布にくるまり、恋人の話に聞き入った。
 この国には様々な形の奴隷がいる。ギルグランスに影のように寄り添うセーヴェのように学才豊かな者もあれば、街角に立って愛と体を売る娼婦まで。彼らは主人に対しては絶対の服従を強いられるが、だからといって使い捨ての道具などではない。主人は奴隷を自由に扱う一方で、その質にこだわる者も多いのだ。彼らに労働に耐えるための十分な養分を与え、教育を施すのは主人の務めだ。もしも不潔な場所に置いて疫病でも出そうものなら、主人の家ごと焼き払われかねない。
 そして奴隷にも主人の期待に応えて並々ならぬ働きを見せる者もあった。フィランは幼い頃に本国にある親戚の家に預けられた経験があるのだが、そこで子供たちの教育を任されていた奴隷教師には恐怖したものだった。詩歌が暗唱できずに耳を引っ張られて怒られるのは日常茶飯事、寝坊でもすれば殴られて何時間も回廊に立たされる羽目になったものだ。奴隷教師は主人である家の主には敬意を払うが、だからこそ子供を手厳しく躾けることを躊躇わなかったし、他の者からそれを咎められることもなかった。むしろその教師はフィランが成人する頃には身分を解放され、家の主の相談役にまでなったのだ。
「生まれる身分は自分じゃ決められないけど、どう生きるかは自分で決められるから」
 いつの間にか眠り込んでしまったティレの髪を梳きながらフィランは苦笑した。あのときの教師がいたからこそ、今のフィランは文字を読むことが出来る。何度か殴られたのは相当痛かったが、それでも学ぶことは多かったように思う。
「少しずつ考えていこうね」
 疲れきっていたのだろう、安らかな寝息を立てる恋人の肩に毛布をかけなおし、フィランは僅かに顔をしかめた。彼も彼とて暴れ馬との格闘で満身創痍なのだ。島の医女ミモルザに手当てをしてもらったものの、あれは手当てじゃなくてトドメなんじゃないかという具合であった。まず怪我の理由を話せば「馬鹿につける薬はない」と蹴りだされ、通りがかった島長の妻クレーゼの口添えがあってやっと診て貰ったかと思えば手当ての荒さに悲鳴をあげ、「うるさい」の一言でまた叩き出され――。
「怪我、絶対に増えてる……」
 包帯だらけの全身を見やって、今度からあまり無茶はしないようにしようとフィランは深く頷いたのであった。




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