-黄金の庭に告ぐ-
<第一部>2話:老人のうたうたい

03.最近の若者に物申す



 湖岸で唄を口ずさんでいた老人は今、呆気に取られて目を剥いていた。
「あ、わっ、えーと、その」
 長髪をお下げにした娘が慌てる一方、人形のように細い体つきをした少女は膝をついて頭を垂れたまま動かない。確かにこれは最も丁寧な謝罪の姿勢だが、何も言わずに突然そうされて驚かない者はいないだろう。ティレは老人を見つけるなり、駆け寄っていって無言で膝をついたのだ。そのまま彫像のようになってしまった少女を前に、岩に腰掛けた老人は得体の知れないものを見る視線を向けるしかない。
 豊饒の女神の加護が注ぐ都市ヴェルスに抱かれた湖は、真昼の光を反射して瑪瑙色に輝いていた。対岸に旅人を運ぶ船が遠くに浮かんでおり、ぽつぽつと浮く島のいくつかには罪人が流されているのだという。都市の外れに当たるこの辺りは港として整備されておらず、砂地には薄い波が打ち寄せ、岩陰の緑がそこに彩りを添えていた。湖は海と違って真水であるため、岸辺でも塩に弱い草木が育つのだ。
「――そういうわけで」
 ティレに代わってここまでの経緯を説明したマリルは、それ以上の言葉に窮して老人の様子を伺った。千切れた綱を弄びながら話を聞いていた老人は、驚き半分呆れ半分で服の裾を砂で汚した少女を見つめている。その眉がふっと緩み、彼はやれやれと首を振ってティレの肩に手をかけた。
「立ちなさい娘さんや。奴隷に跪くことはない」
 淡い色の髪が揺れ、合間から褐色の瞳が覗く。相変わらずそこに表情はなく、白髪の老人を鏡のように映しこんでいる。老人は、鼻から息を抜いて視線を水平線へと向けた。
「始めに見苦しいところを見せたのは私だ。物乞いに見えても仕方なかった」
「あの、何があったんですか」
 聞き辛そうにマリルが尋ねると、老人は横顔で薄く笑った。
「ご主人が大切にしていた馬が逃げてしまってな。厩の管理は私の仕事だったのだ。妙な匂いがすると思って見に行ったときにはもう遅かった」
「匂い?」
「甘い香の匂いだ。何処からか流れてきて馬を刺激したのだろうな。――刺激してはいけない時期にあったのに」
 老人は手の中の千切れた綱に目を落とす。異変に気付いたとき、既に馬はこの綱を噛み千切って逃げ出していたのだという。馬は維持に金がかかるが貴重な労働力であり財産である。奴隷の生命の剥奪をも許される主人は、管理を任された老人に当たらずにはいられなかったのだろう。
 淡々と語る老人の隣にいたティレは、ぴくりと体を硬直させた。不意に彼が声をあげて笑い出したのだ。
「全く。笑えもしないな、折角溜めた財産がたった一瞬で水の泡だ」
 悲しげに目を伏せるマリルに対し、ティレは不思議そうに老人を見上げた。
「財、産?」
 瞬く瞳に理解が宿らぬのを見て、この少女には本当に知識がないのだとマリルは確信した。無知故の過ちを再び起こす前に、彼女は迷い子のようなティレに語りかけた。
「奴隷にも財産を持つ権利があるんです。一定の金額に達すれば、奴隷の身分からの解放だって許されるんですよ」
 天と地を手中に収める帝国ファルダには、徹底した身分制度が布かれている。貴族と平民、そして奴隷だ。しかしそれらの地位は手持ちの資産で決まる為に流動的であった。落ちぶれて奴隷に身を窶す貴族もあれば、己の才一つで貴族の地位を手に入れる奴隷もいる。無論、奴隷とは虐げられる存在であり、元より後ろ盾のある貴族に比べれば並の生活を手に入れるのも難しい。だが己の運と才でのし上がってきた者を尊ぶ帝国は、この制度を以って全ての生ある者に機会を与えるのである。人は生まれも才も平等ではない。それでも欲しいならその手で栄光を掴んでみせよと。
 湖の水面を渡る風が穏やかに吹きつけ、老人の白髪を揺らす。彼の表情には生まれながらにして苦労を背負った者特有の険しさがあった。長い労役のせいで硬くなった皮膚に粗末な服をまとい、彼はその足で生きてきたのだ。
「……もう、平民にはなれない?」
 少女の問いかけに、老人は肩を揺らして笑った。
「この歳だ。元から自分が解放されることなど考えてはいなかったよ」
 砂を削るように白い波が打ち寄せる。砕ける水の瑞々しい煌きを見て、彼の表情は寂しげに緩んだ。
「だが、同じ主人の下に息子がいる。あの子の身は自由にしてやりたかった」
 その口元に浮いたのは諦念の笑いだった。奴隷の息子は奴隷だ。家を追い出されて遺産を残せないとすれば、息子は一人で自由になれるだけの資産を築かなければならない。
「……どうして」
 ティレは小さな声で呟く。何故この老人はこんなにも強い眼差しをしているのだろう。馬一頭で全てを失ってしまう、脆くも儚い身の上だというのに。
 彼女は知っていた。己の意思をもつことの痛みを。世界とは恐ろしい。簡単に大切なものをこの手から奪っていく。ならば、あらゆる感情を殺して、物事が通り過ぎるのを待つしかないではないか。虐げられては憐れみを受け、その合間で言われるがままに生きていくしかないではないか。
「どうして、がんばれるの」
「ティレ」
 マリルが肩に手を乗せる。ティレは、頬を歪めた。
「どうして、自由になろうとするの」
 老人は無表情でじっとティレの顔を見つめ、そして鼻から息を抜いた。
「お嬢さん。ならあんたは何の為にこの限られた時を生きているんだね?」
 はたはたと短く切った髪が風に遊ばれる。子供のように瞬くティレの瞳に、老人のしわがれた顔が映る。その表情は、風を身に受け続けた巌のようだ。
「この地に生を受けてから冥王の黒き御手に抱かれるまでに何かを残せなければ、その人生に意味はない。私は息子を平民にしようと思った。自由になった息子の笑顔が見たいと思った。だから、私はここまで働いてきたのだ。私は奴隷であることを恥とは思わんが、奴隷の身に甘んじて何もせずにいることはこの上ない恥だと思っている」
 胸に僅かな震えが生まれ、それが言葉になろうとした。しかし口にしようとすれば、意を成さずに端からぼやけていってしまう。懊悩の渦がすぐそこにあるのに、自分は逃げてばかりいる。それで良いと安心する自分がいて、同時にそれでは駄目だと糾弾する自分がいる。ティレは己の胸の内を持て余し、老人を見上げた。
「私は息子の自由の礎になることしか出来なくとも、それを成した事実を持てば安心して冥府の川を渡ることが出来ると思っていた。最も、もうそれも叶わないがな」
「……」
 寂しげに笑う老人の顔を見た瞬間、唐突に胸の想いが言葉になった。
「馬」
「ん?」
 だしぬけに囁かれた言葉に、老人は怪訝そうに少女を見下ろした。
「馬、探してくれば、叶う」
 その瞳が丸くなり、老人は苦笑して肩を揺らす。
「無駄だよ。その辺をふらふら歩く馬などすぐに誰かが捕らえて売ってしまうだろう。もう都市の外に売られたかもしれない」
「マリル」
 老人の言葉を完全に無視する形で、ティレはマリルの手をとった。不思議そうな顔をするマリルに構わずそのままちょこちょこと歩き出した少女の後姿を見て、老人は慌てて声をかけた。
「まさか探す気か?」
 ぴたり、と少女は足を止めて振り向く。
「いけないこと?」
「……」
 老人は答えに窮して力なく手を下ろした。溜息をついたのは、そんな二人を交互に見やったマリルだ。
「ティレ。いけないことではないですけど、とてもおかしなことをしています」
「……だめ?」
 子供のように邪気のない瞳。しかしそこに今までに見えなかった意志が込められていることに気付いて、マリルは肩から力を抜いて笑った。こうなったらとことん付き合ってやろう、そんな気持ちだった。
「いいですよ。行きましょう。じゃあお爺さん。マリルたち、お馬さんを探してくるので特徴を教えてもらえませんか」
 そのとき、鋭い悲鳴と槌が大地を穿つような音がして、マリルと老人は肩を飛び上がらせた。ティレは数秒遅れて、きょとんと振り向いた。
「……この世の終わり?」
「ち、違います! あっちは露店街ですよ、一体なんでしょう――ってティレ、待ってくださいー!」
「おい娘さんたち!?」
 小鹿のように駆け出したティレを、マリルと老人はなし崩しに追いかけるのであった。


 ***


 裁判から議会、商談などが行われる会堂の中央にある広場は一般市民に開放されており、体を鍛える若者たちの訓練場になっている。列柱回廊で囲まれたそこは広々としている上に陽がよく届くため、武術の修行にはもってこいなのだ。しかも人目が多いため、優れた技を見せた者には貴族から声がかかることもある。ついでに通りがかりの乙女の心をキャッチできることもあるものだから、若者たちはこぞって「イイところ」を見せにここへ来るのである。いや、無論真面目な気持ちで訓練に来る者が大多数だが。
 その一角で、訓練用の刃を潰した槍を鋭く振り下ろす若者がいた。鮮やかに跳ねる杏色の髪の下、太陽の色をした瞳が燦然と輝く。槍使いのフィランは長い得物を巧みに操り、相手を間合いに踏み込ませない。
 しかし、対するジャドも負けてはいなかった。肘ほどの長さの剣は、相手が大振りな動きに出た瞬間を見逃さない。陽光に銀の肌が煌いたかと思うと、その軽さを生かして素早い薙ぎを生み出す。
 鋭い剣戟の音が鳴り響く横で、エルが頭の後ろに両手をやって勝負の成り行きを見守っていた。一通り都市を歩き回った後、ジャドの提案で新入りの腕試しをすることになったのである。ちなみに先にエルがフィランと対戦したのだが、へらへらした男は呆気なく負けてしまった。ジャド曰く、エルは実戦にならないとまるで本領を発揮できないのだという。

 そんな彼らを離れたところから眺めているのは大柄な体格を持つオーヴィンであった。彼は見た目の割に接近戦が苦手で、はじめから勝負を辞退していたのだ。列柱回廊から続く階段に腰掛けた彼は、太腿に頬杖をついて新人の戦いっぷりを観察していた。エルと戦わせたときは瞬殺であったが、ジャドはよく立ち回って長期戦に持ち込んでいる。武具の軽いジャドは長期戦に強い。流石のフィランも苦戦しているようだった。若い横顔に、汗の玉が光っている。
「いや、だがなあ」
 唇を指でなぞりながらオーヴィンは半眼になった。あの新入りの戦い方は、少し気になるところがある。
「型がおかしいのではないか?」
「ああ、俺も丁度そう思っ――」
 オーヴィンはそこまで言いかけて、ふと隣を見上げた。麗しく長衣を着こなしたギルグランスが、水平にした手を目の上に翳して突っ立っていた。
「……」
「なんだ。魔物でも見た顔をしおって」
 平然と肩をそびやかしたベルナーデ家の当主は、どっこいしょと庶民的な掛け声と共にオーヴィンの隣に腰掛けた。背後で奴隷のセーヴェが無表情のまま瞑目している。しかし長い付き合いがあるオーヴィンは、その顔が普段の三倍増しで引きつっていることを容易に察知した。この困った当主は仕事を適当に放り出して来たに違いない。
「仕事しろよ都市議員さんよ」
 配下の呆れまじりの苦言を、ギルグランスは笑って流した。
「してきたとも。あとは私の有能な配下たちがやってくれる」
 今頃ベルナーデ家では奴隷たちが大量の書類仕事に悲鳴をあげているのだろう。民から陳情を受けて動くのは貴族だが、彼らの決定を遂行するのは配下の仕事なのである。
「どうだ、あの新入りは」
 好奇心に溢れた横目を向けてくる当主は、金で買い叩いた駒を実戦に投入したくて仕方ないのだろう。ハタ迷惑すぎる、と手で額を覆いながらオーヴィンは呻いた。
「押し付けられる身にもなってくれよ。これ以上手駒増やして何するつもりだよ」
「帝国征服」
 オーヴィンは凝然と当主を見つめた。
「冗談だ」
 軽やかに笑い飛ばしてくれるが、全くもって冗談に聞こえない。虚空に微笑むしかないオーヴィンである。
「で、どうなのだ?」
「まあまあ使えそうだけどな。なんていうか、あれはキレると手がつけられなくなる手合いだ。本当に大丈夫なのかよ」
「うむ。そこは貴様がうまく飼い慣らしてくれると信じている」
「……」
 オーヴィンは無言で頭を抱えた。ただでさえ主との付き合いに苦心しているのだ。それにオーヴィンの胸にはもう一つの不安が火種となって燻っている。
「しかもな、殺し屋の集団を追跡につけられたって、絶対にただの駆け落ちじゃない。面倒を起こしたらどうするよ」
「それはその時だろう。そもそも、貴様の経歴に比べたらあの程度可愛いものだ」
 気楽に呵々と笑うギルグランスの横で、いよいよオーヴィンは欝になった。
「うむ、中々健闘しているではないか」
「負けた方が今日の酒代奢りだからな。でも変なんだよな、こう、動きが何処か」
 太い指で動きをなぞるオーヴィンの隣で、ギルグランスは顔を突き出してじっと若者の戦いに見入った。ふっとその瞳が細くなり、眉がひらめきに動く。
「あれは恐らく――」
 ぼそぼそと呟くギルグランスの声は、喧騒に呑まれてオーヴィンにしか届かなかった。オーヴィンはそれを聞くと、頷いて喉を唸らせた。
「ああ、確かに言われてみれば」
「よし」
 膝を叩いて立ち上がったギルグランスは、怪訝そうな顔をする配下をにこやかに見下ろした。
「ひとつ私が試してやろう」
 オーヴィンは遠い目をし、後ろでセーヴェが力なく首を振った。


 ***


「ってぇ……てめぇ妙に動きが喧嘩慣れしてねぇか?」
「ちょっとやんちゃな時代がありましたからね」
 際どいところでジャドを下したフィランは、流石に息を切らせた様子で額の汗を拭った。初夏の瑞々しい陽光が若者の勝利を称えるように降り注ぐ。肺腑から呼気を吐き出したジャドは渋面で脇腹をさすった。革の鎧を身につけているとはいえ、金属で思い切り殴られては痛くない筈がない。
「っくしょ。負けるなんて思ってなかったぜ」
「若さの違いじゃないー?」
 エルの茶々に、クワッとジャドは目を見開いた。そろそろ三十路が近づいてきた彼にとっては痛い話題だ。
「ふ、ふざけんなーっ! おいフィラン、もっかいやんぞ! てめぇのすかした顔ボコボコにしてやんぜっ」
「落ち着いてください。それに大丈夫ですよ。若さじゃなくて実力の差ですから」
「テメェーっ!?」
 にこやかに言い放ったフィランにジャドが掴みかかる。エルは、ジャドと格闘を始めたフィランに小首を傾げて尋ねた。
「これなら戦いの方は問題なさそうだねえ。他に何か得意なことあるー?」
「えっ? そうですね、強いて言えば――」
 明後日の方向から声がかかったのはそのときだった。
「やあ、私も混ぜてくれるかな」
 和んだ空気に突如入り込んできた人物を見てフィランは目を剥き、ジャドとエルは青褪めた。
 たった今階段を下りてきたのは訓練用の鎧を身にまとい、同じく刃を潰した訓練用の長剣を持ったベルナーデ家の当主であったのだ。その威容は他を圧倒するところがあり、彼らの周囲で訓練していた者も驚いて動きを止めている。
 ヴェギルグランス・アウル・ベルナーデ。本国元老院入りの噂も聞こえた元軍人である。彼の歩みに隙はなく、武人としての堂々たる風格をその足取りに伴わせていた。
「……えっと」
 ちょっと待てなんで貴族の当主がこんな格好で、とフィランは混乱して髪に手を差し込んだ。ジャドとエルは天敵を前にしたかのように一歩後ずさる。彼らはギルグランスが剣を持つことが何を意味するか、既に身を以って経験しているのである。
「手合わせを申し込もう、槍使い。貴様の実力を見せてもらいたい」
 何も知らないフィランは、眉根を寄せて灰色の髪をした貴族を見やった。
「大丈夫ですか、激しい運動なんかして。心臓止まっても知りませんよ」
 ぴくり、とギルグランスのこめかみがひきつる。後ろでセーヴェがこっそり深く頷いたのは見なかったことにしておこうとジャドは思った。
「……その言葉、後悔することになるぞ」
 若者の物言いが気に食わない様子で、ギルグランスは長剣を構えて低く唸った。老練の騎士というだけあって、その様は剣術の教本にある手本の絵図を見ているようだ。だがフィランも負ける気はしなかった。歴戦練磨の元軍司令官とはいえ、退役して久しい上に歳も歳だ。それにフィラン自身、軍に籍を置いていた頃はよく上官や同僚と酒樽を賭けて腕比べをしたものだった。上の身分の者と戦う気後れなど、精神の図太い彼には微塵も存在しないのである。
「分かりました。ではお手柔らかに」
「たわけ。手を抜いて欲しいのか?」
「戦場では勝った者が全てですからね」
 不敵に輝くフィランの瞳を見て、ギルグランスの表情にも面白げな笑みが踊った。若者は体を横向きにし、腰を落として槍を構える。他の三人は巻き込まれる前に退散を決めて、逃げるようにオーヴィンの元まで走っていった。
「よろしい。かかってこい」
「はい」
 当主の許しを得たフィランは、疾風のごとくそこに斬りかかった。

 天にも届くような鋭い剣戟の音が広場に響き渡り、エルは瞳を丸くした。
「わお。容赦ないねえ」
「オヤジに正面から斬りかかるなんてあれだよな、無知の成せる技っつぅか」
「……怪我をしないと良いのですが」
 二人の配下と一人の奴隷がそれぞれ勝手な感想を漏らす横で、オーヴィンは唇を指でなぞりながらじっとフィランの動きを観察していた。彼は刃をギルグランスに弾かれようが体の軸をぶらすことなく、軽やかな足取りで瞬時に体勢を立て直す。よほど訓練を積んできたに違いない。
 だがフィランもきっと内心で冷や汗をかく思いをしているだろう。オーヴィンは浅黒い頬を僅かに歪める。
『可愛そうに』
 せめてあまり痛い思いはしませんように、とオーヴィンは栄えを注ぐ陽の神にとりあえず祈ってやった。

 おかしいと思ったのは一撃目を放ったときだ。フィランは、今や自分の息が上がっていることを信じられない思いで自覚していた。
 ギルグランスの動きは、流石に歳もあって素早くはない。だが、とフィランは思う。基本の型を忠実に守った長剣の振り方の一つ一つに無駄はなく、静まり返った表情は何を考えているのか相手に悟らせることがない。いや、それだけだったらまだ勝てる筈なのだ。
 ――固い。
 刃を受け止められたときの衝撃。ありゃなんだ、とフィランは戦慄する思いで一杯だった。岩にでも斬りつけたかのように腕が痺れ、感覚が鈍くなる。それほどまでに当主の剣は微動だにしないのだ。聳える霊山のごとく立つギルグランスは、ニヤニヤ笑いながら剣を構えなおした。
「この前ももぎ取った胡桃片手で割って食ってたぜあのオヤジ」
「人間じゃないよねえ」
 ジャドとエルの会話を聞いていればフィランとて無謀にも一騎打ちを受けたりはしなかったろう。勝利の女神は思慮浅き者に対しては残酷だ。
「どうした槍使い。臆したか?」
「ちょ、待っ」
「ならばこちらから行くぞ」
 フィランが振り下ろされた剣の一閃に呼応できたのは流石というところだったが、現実は彼の予想の斜め上を行っていた。
「えっ」
 若者は身を低くして槍を両手で掲げ、その一撃を防ごうとしたつもりだった。だが刃が打ち付けられた瞬間、ばぎょん、と派手な音を立てて訓練用の槍が真っ二つに折れたのだ。
「嘘でしょう!?」
 叫びながら身を転がすことで危うく自分まで真っ二つにされることを防ぐフィランである。いや、潰した刃だから真っ二つということはないだろうが、むしろ瓜のように粉砕されそうだ。自分が肉片となって飛び散る様など見たくはない。
 勝負の結果は明白だった。折れた槍ではどうすることもできず、悔しさに歯を食い縛りながら起き上がりかけたフィランを、だがそのとき悪寒が襲った。
「っ!?」
 首筋を凍らせるような殺気に、反射的に地を蹴って飛びずさる。一瞬前まで彼がいたところに鈍色の長剣が振り下ろされ、フィランは目を剥いて当主を見上げた。
「ちょ、ちょっと待って下さい! もう勝負はついたでしょう」
「クク。戦場でも同じことを言うか?」
 邪笑、としか表現しようのない笑みを浮かべた当主はすたすたと向かってきては山の轟きのような一撃を食らわせてくる。フィランは青褪めて折れた槍を握り締めた。
「どうした。得物が無くなったわけでもあるまい?」
「……」
 半分に折れた槍は、長物であることの利を完全に失っている。覚悟を決めねばならぬことを悟ったフィランは、刃のついていない方を投げ出すと、もう片方を両手で持って当主に向き合った。なんでこんなことに。そんな泣きたい気持ちにかられながら。




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