-黄金の庭に告ぐ-
<第一部>2話:老人のうたうたい

02.楽な生き方



 何も考えないで生きるのは楽であった。
 何かを知りたくて考えたとして、その先にある答えはいつだってこの胸を重たくする。
 悲しみや苦しみ。
 そして痛み。
 考えることは、辛い。
 選択することは、もっと辛い。
 感情を持っていることは、とても辛い。
 報われることのないまま、そんなものを抱え続けるくらいなら、いっそ空虚であった方がいい。
 何も感じない。何も思わない。心に蓋をして、ただ空気に溶けるようにして、そこにいる。
 さわさわと短髪が頬をくすぐる。虚空を眺めながら歩いていたティレは、そして。

 石に躓いて、盛大に転倒した。

「わっ、大丈夫ですか!?」
 ぼてっ、という効果音がぴったりな様子で地に伏したティレを、マリルが慌てて助け起こす。
 切り立った崖の連なる灯台島は、今にも飲まれてしまいそうなほど自然が豊かだ。炎の番のためだけに成った島の集落が、必要最低限にしか森を切り開かなかったためである。お陰で舗装されていない島の道は石や木の根がやたらと多い。
 さして気にした風もなく起き上がったティレは、ふらふらと視線を彷徨わせた。
 そんなティレの服についた砂をはたいてやりながら、マリルは不安げに眉根を寄せた。今日もまだ朝だというのに転んだのは三度目になる。島を案内してやっても完全に上の空だ。
「何か心配事、あるんですか?」
「……」
 ティレは睫を伏せて額に指を当てると、ぽつりと呟いた。
「いたい」
 きょとんと目を瞬いたマリルは、くすくすと笑い出す。
「大丈夫です。血は出てないですよ」
「……」
「ほら、行きましょう」
 マリルは立ち上がったティレの手を気遣わしげに引いた。これは彼女を預けにきたフィランの不安げな顔の意味も分かるというものだ。
「何を考えていたんですか?」
 転ばぬように注意して島の坂道を下りながら、マリルは新入りの娘に問いかけた。
「マリルたち、これからお友達ですよ。何でも相談して下さい」
「……ともだち」
 珍しく反応するティレに、大きく頷く。
「そうです、友達。今までにいなかったですか?」
「……いた」
 蚊が鳴くような返答だ。
「ひとりだけ、いた」
 そう呟く少女の儚げな面立ちを、マリルは痛ましげに見た。故郷を捨てたということは、今までに培ってきた絆を全て絶ってしまったということだ。この少女が心を預けられるのはただ一人、連れのフィランに他ならない。
 けれど、この島は暖かい。島の風土に早く慣れて、自分たちにも心を開いて欲しかった。切れてしまった縁の糸は、またここで結びなおせば良いのだ。そうすれば、いつかはたゆたう気持ちも自らの意思で操れるようになるだろう。マリルがそうであるように。
 マリルは幼い頃に奴隷商人に売られ、鞭で打たれているところを島長の妻クレーゼに助けられて灯台島の住民となった。だが島に歳の近い娘がいなかったため、ティレが来たのは本当に嬉しかったのだ。手を引かれてちょこちょことついてくるティレを見ていると、まるで本物の妹が出来たようだった。
「だったら別れてきてしまったのは辛かったですよね。でも大丈夫です、ここの人たちは皆優しいから」
「……」
「ね? これからは、マリルと皆が一緒ですよ」
「……ん」
 手を引かれ、ティレは頷くわけでも首を振るわけでもなく、ただそれに従った。坂を下れば渡し守の爺がいる。二人はこれから都市の市に買出しに行くのだ。
「でも」
「え?」
 僅かに唇を震わせたティレは、俯いて無言を守る。マリルは小首を傾げたが、茫洋の内にある少女は自らの世界に篭ったままだった。小さく息をついて手を引くしかない。
 音にならない声で紡がれたティレの言葉は、誰に聞かれることもなかった。

 ――でも、その子はわたしのせいで死んでしまった。

「お、マリル。都市の案内かい?」
 島側の岸辺で寝転がっていた渡し守の爺が、二人の少女を見て起き上がる。
「はいっ、よろしくお願いします」
 明るい笑顔を振りまくマリルの隣で、ティレは足元ばかりを見つめていた。


 ***


 豊饒を司る女神の加護が注ぐ都市ヴェルスの市場は、陽がすっかり昇った後でも力強い熱気が渦巻いている。この時間帯は客が商人たちから地元の民に代わる時刻なのである。
「まあ、売れ残りばっかなんですけどね。でも安いんですよ」
 マリルははぐれないようにしっかりとティレの手を握り、人ごみを避けて歩く。一度に大量の品を買っていく商人が去った後の市場では、庶民の為に売れ残りを小分けにして安価で売っている。その為にヴェルスの市の喧騒は静まることを知らないのだ。
 農作物から牛や豚、奴隷などが市場に並び、脇で彫刻家たちが道具を片手に美しい神の彫像を彫りながら客を待つ。輿に乗ってそれらの元に向かうのは、金持ちの貴族の婦人だ。露店からは揚げたての肉の香ばしい匂いが漂い、かと思うと紫で縁取りをした長衣を着た祭司が信者を増やそうと経典の言葉を朗々と謳う。帝国内ではどの神を信じるも自由であり、ある程度の制約はあるが布教や祭事を行うことも許されているのだ。
 そして太陽のように明るいマリルは、市場でも顔が広かった。
「よおマリル! 今日はお遣いかい?」
「はいっ。ナイアードさんこそ、お腹の具合は大丈夫なんですか?」
「おうとも! マリルの薬で一発よ」
「あれ、その子。見慣れないね」
「あっ。灯台島の新入りのティレです。案内も兼ねて、一緒に来たんです」
「へえ? マリルがお姉さんかい。あのべそかきマリルがねえ」
「ちょ、ちょっと、いつの話をしてるんですか!」
 天幕を張った乾物屋の女主人にからかわれ、マリルは顔を朱に染める。女主人はティレをまじまじと観察すると、愛嬌のある笑みを浮かべ、前掛けの中から黒い干し果物を取り出した。
「ほら、お嬢ちゃん。お近付きの印だ、これから贔屓にしてくれよ」
 そう言って、ティレの細い手を掴んで干し果物を握らせてくれる。
「……」
 ティレはぼんやりと目を泳がせている。
「ティレ。こういうときは、ありがとうって言わなきゃです」
「……」
「ティレ、聞いてますかー!」
 怪訝そうな顔をする女主人に、慌ててマリルがティレの肩を揺さぶる。
 すると、ティレは何度か瞬きをして、辺りを見回し、こてんと首を傾げた。
「ここ、どこ」
 マリルはその場に崩れ落ちそうになった。
「ここは市場のど真ん中ですー! マリルたちはお遣いの途中で、ってティレ? あの?」
 我関せずといった具合でティレはもしゅもしゅと干し果物を口に詰め込む。中からバリボリという音。それを見て、女主人がぎょっと目を剥いた。
「それ種大きいよ!? 噛み砕いたら危ないって!」
「わああ、ティレ、吐き出してくださいー!」
 すったもんだすること数刻。女主人は逞しい腕を腰にあててカラカラと笑った。
「なんだ、赤ん坊みたいな子だねえ、世話が焼けるってもんだ」
「すみません」
 顔から火が出そうになりながら、マリルは頭を下げた。ティレは相変わらずぼんやりとしている。すると、女主人は勇壮な顔でニッと笑った。
「とにかくアンタ。ヴェルスに来たからには、ちゃんと躾るからね。まずは挨拶からだ。ほら、しゃきっとしな!」
 女主人は団扇のような手でティレの背を叩いた。
 木の葉のようにティレは吹っ飛んだ。
「きゃー!? ティレーーっ!」
 前途多難すぎる事態に、沈痛を通り越して悲愴な顔でティレを預けにきた若者の気持ちを、改めて思い知るマリルであった。


 「アタシのビンタに耐えられるようになったらまた来な!」と無茶苦茶を言う乾物屋の女将に何度も頭を下げて、マリルは次の店へと向かった。
「次は薬草のお店です。島でも沢山採れるんですけど、ないものは買いにくるんですよ。えっと、モナモナの葉と、キユザの尻尾と……」
 マリルは、買うべき商品を口の中で呟きながら、椅子に座った魔術師の老婆のところに向かった。無数の落書きがされた壁を背に、老婆は粗末な台に腰掛けており、隣には珍しい形をした薬草や小箱が積まれている。魔術をかけながら育てた草や小動物は、魔術師や医師たちにはかかせない魔具となるのである。

 マリルが老婆に注文をつけている間、ティレはぼんやりと道行く人の流れを眺めていた。本国ほど華やかではないが、様々な色の服を着た人が行き交う様はまるでそれ自体が一つの生き物のようだ。ざわざわ、ざわざわ。飛び交う言葉が耳をかき鳴らす。遠い世界で、人々は生きている。笑い声や怒声。見えない熱が、辺りを鈍く満たしている。
 ――聞きたくない。
 意識の壁をなるべく厚く保ち、声の群れから意味を汲むことを拒絶する。瞼をうっすらと開き、空気に蕩けることを意識する。目を完全に閉じてしまえば、耳に入る音が大きくなってしまうからだ。
 喧騒がぼやけ、大地の唸りのようになる。反響してみるみる膨れ上がる熱気。群れる人というのは恐ろしいと思う。そこには怪物が宿っている。開けた口から涎を垂らす、禍々しい怪物が。
「――?」
 妙に音が大きいと思い、ティレは顔をあげた。すぐそこの飲食店から老人が蹴りだされるところだった。首から下がる木札が、彼が奴隷階級であることを示している。随分と痛めつけられたようで、服は乱れ、肌には目を覆うような痣が浮いていた。後から出てきた主人は怒りの形相で、立ち上がることも出来ない奴隷に向けて鞭を振るった。
「この出来損ない!! 二度と戻ってくるなッ!」
 道行く人はそれぞれちらりと目を向けたが、誰も助けに入る者はいなかった。主人は奴隷を好きに扱うことができ、生かすも殺すも自由なのだ。
 主人が去ると、哀れな姿をした奴隷の老人は身を庇いながら立ち上がり、道行く人に踏まれない位置まで這々の体で逃れた。
「……」
 一部始終をぼんやりと眺めていたティレは、胸に指を絡めた。見たくないものを見てしまったと思った。鞭を振るう男も、成す術のない老人も。現実はいつだって弱者に厳しい。陽の元を歩けるのは強い者だけ。弱い者は木の葉のように弄ばれ、熱気に襲われて砕けてしまう。
 ――わたしも、砕けてしまうはずだった。
 そう唇だけで呟く。自分ほど弱く虚しい存在などないとティレは考えている。だから他人に護られ、意に従い、逆らわず、迷いもしないように生きてきた。
 砂の像が崩れ去るように、いつか自分も消えていなくなる。意味もなく。成す術もなく。
 道端に倒れる老人。あれはきっと、自分の末路だ。
 そう思うと、悲しかった。

 ふらりと足が動く。マリルの手を振り払って、老人の元へ。
「ティレっ」
 会計中だったマリルが慌てて商品を受け取り、小柄な少女を追う。けぶる短髪を風にふわふわとそよがせ、ティレは木材置き場の片隅に身を預ける老人の目の前でしゃがみこんだ。
 老人の顔は真っ白な頭髪と髭で覆われており、浅黒い地肌が際立っている。痩せてこそいないものの、労働に人生を費やした彼の皮膚は分厚くなって罅割れていた。
「――?」
 老人はティレの存在に気付いて顔をあげた。思いがけずその眼光は鋭く、ティレの肩は小さく跳ねた。
「……あの」
 ティレは口を開いてから、何を言うべきか考えていないことに気付いた。ふらふらと彷徨った視線はやり場をなくし、足元に落ちる。
「何か用か。金ならないぞ」
 低く研ぎ澄まされた声には他者への警戒が満ちていた。ティレの体はそれを受け止めるにはあまりに細く、感情を胸の内で持て余すばかりだ。しかしその瞳にふとひらめきが生まれ、彼女は懐から銀貨が入った財布を取り出した。
「これ」
「ティレ!」
 マリルが制止する前に、小さな手が貨幣を乗せて差し出される。老人は鈍い光沢を放つそれを見て、僅かに眉を潜めた。
 痛みが走ったのはそのときだった。遅れて衝撃があり、金属が石にぶつかって跳ねる音が耳朶を叩いた。手ごと横薙ぎにはたかれたティレは、痺れる指を胸に抱きながら目を瞬くしかなかった。
「ふざけるな。憐れみを受ける謂れなどない」
 髭の中から紡がれる言葉は声量こそないものの、胸をえぐる怒りが込められている。老人の瞳に浮かぶ憤りから目を逸らすことが出来ず、ティレは唇を震わせるばかりだった。全身が氷のように冷たくなり、口の中が干上がって言葉もでなかった。
 老人は呆然とする少女を忌々しげに見やり、腹を庇いながら立ち上がると彼女を押しのけて往来へと歩いていってしまった。
「……ティレ」
 マリルがそっと膝をついて肩に手をかけてくる。けれどそれも遠い世界の出来事のようで、ティレは戸惑いに喉を震わせた。
「どうして」
 マリルは苦しげに首を振って、ややためらってから再びティレの名を呼んだ。
「ティレ。立って下さい」
「……」
「立つんです」
 きっぱりと告げると、マリルはティレの腕をとって無理矢理に立たせた。ぼんやりと虚空ばかりを見つめる少女の肩を掴み、褐色の瞳を覗き込む。怯んだように僅かに足を後ろに下げようとするティレを許さず、マリルは顎を引いて眉を吊り上げた。
「ティレは神様ではないでしょう。乞われてもいないのに無闇に施しをしてはいけません。憐れみは人を傷つけることがあります。惨めな思いをしている人には、特に」
「……」
 呆然とマリルの丸い瞳を見返すティレは、まるで親を見失った子供のようだ。頼りないその表情を見て、マリルは辛そうに唇を噛み締めた。
「マリルだって気持ちは分かります。あのお爺さんは可哀相だった。でも、だからって話も聞かずに自分でそれを救えると思うのは単なる思い上がりです」
「おもいあがり」
 舌足らずな口調で呟いて、ティレは俯く。老人に打たれた手はまだ痺れていて、痛みはないのに胸が締め付けられるように苦しかった。
「わたし……」
 目を閉じれば、鞭で打たれた老人の様が瞼の裏に映る。それに被る、過去の記憶。身が竦むような暴力に取り囲まれて倒れ伏す人。手を握ってくれた親友は次の瞬間――。
 ああ、とティレは額に指をあてた。
 あのとき、自分はただ崩れ落ちて泣き叫ぶだけだった。そうして後は空っぽだった。老人は傷を庇いながらも歩いていったのに。
 老人は、ティレではない。ずっとずっと強い存在なのだ。
「……わたし」
 暗い懊悩の海に沈む少女を眼前に、マリルは小さく首を振った。
「もういいですよ。行きましょう、お遣いの途中です」
 ティレはふるふるとかぶりを振る。胸元で両指を合わせ、彼女は褐色の目でマリルを見上げた。
「謝りたい」
 きょとんと口を開いたマリルは、眉尻を下げて首を傾げる。
「ティレ」
「……」
 俯く少女の色素の薄い頬を、けぶる髪が覆い隠す。その手が硬く握り締められているのを暫く見つめると、マリルは笑って頭を撫でてやった。
「じゃあ探しましょう。まだ近くにいる筈です」
 ややあってからティレは頷いてマリルを見上げる。少女の瞳は果てない海を思わせるほど深く澄み、人多き都市の町並みを映し込んでいた。




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