-黄金の庭に告ぐ-
<第一部>2話:老人のうたうたい

01.あくる日の朝



 眼に映るのは靄がかかって頼りない、遥かなる記憶であった。
 一体いつからそこにいたのだろう。心臓と呼気の音しか聞こえない。虫の息の男を見下ろし、汗と血でぬるつく掌で剣の柄を握り込む。
 哀れな姿をした男は、己が運命を悟ったように項垂れている。
 伸べられた手が、力なく地に落ちる。

 ――息子がいるんだ。

 刃を振り上げた。
 赤い。全てが赤い。何もかも忘れてしまいそうな、忘れられない赤さだ。
 殺せ、と顔のない兵士が命令する。喉笛めがけて凶刃を突き出すそのとき、何を考えていたのだろう。何を感じていたのだろう。眩暈と吐き気に苛まれながら、憤然と湧き出すあの感情は何と呼べば良かったろう。
 ああ。赤い。全てが赤い。とても赤い。
 赤くて赤くてたまらない――。

「っ!」
 落下時に似た浮遊感と共に、突如として意識が引き戻される。弾かれたように体を起こしたフィランは、辺りの静けさに暫し呆然とした。小鳥の囀りが窓から聞こえてくる。夜明けの女神が銀の御座から立ち上がろうとする時刻、そこは薄闇に落ちる四角い寝室であった。隣ではティレが眠っている。使って良いと渡された空き家は殺風景で、慣れない為か体に馴染まず居心地が悪い。
「……夢、か」
 状況を思い出したフィランは、そっと腕をもたげ、指を目元にやる。無感動に触れたそこは、冷たい空気に晒されてひんやりと濡れていた。
 暫くその感覚を弄び、俯いて皮肉げに笑う。やわらかい髪が気遣うようにその横顔を薄く隠した。
「全く、しょうもない」
 押し出すように呟いて、フィランは乱暴に目尻を拭った。暫し考えた後、寝台から抜け出し、荷物を探る。一番底に秘めてあった麻布に包まれたものを手にとって、肺腑から溜息を吐き出した。なんという因果だろうか。掌に乗るほどのそれを握り締め、再び荷物の最奥に隠す。灰のようにわだかまる思いを、フィランはその動作で振り払った。
 今日も一日が始まるのだ。まずは冷たい水を汲もう。ティレが起きる前に顔を洗ってしまわなければいけない。


 -黄金の庭に告ぐ-
 2話:老人のうたうたい


 ***


 そして背に槍を携えたフィランは、灯台島で唯一の広場にぽつねんと立ち尽くすこととなった。
「あれ?」
 灯台島に住むことになったフィランはクレーゼの計らいで家を貰い受け、今日から出仕する予定だったのである。朝になったら広場の一本杉に集合と、ジャドから確かに言われた筈だ。見事にそそり立つ杉の下で、フィランは不安に苛まれながら朝霧の立ち込める灯台島を見回した。
 すると、霧の向こうに薄っすらと人影が現れた。フィランはほっとしながらも、つい口を尖らせた。
「ちょっと、遅いんじゃないですか。もうとっくに日が昇ってますよ」
「ふふ。本当ね。あなたは朝が早いこと」
 フィランは凍りついた。
「ま、マダム・クレーゼ!?」
「明星の女神もご機嫌ね。今日は良い日になりそうだわ」
 背筋の伸びた老女クレーゼは、フィランの前で止まると、霧の向こうに薄っすらと見える青空に顔を向け、嬉しそうに目を細める。
「まあ、フィラン。そんなに驚いた顔をしないで。あなたはもう、この島の住人なんだから」
 警戒心を自然と解きほぐす、優しい笑みであった。けれど同時にその言葉は、フィランの胸に疼きを与える。フィランは恋人と共に遥か本国から逃れてきた身だ。追っ手がいなくなったとはいえ、全ての危難から逃れられたわけではない。兆候があれば、去ることもあるだろう。
 しかし、フィランはそんな内心を押し込め、表面的に笑ってみせた。汚泥を啜ってでもティレを守り生きる、それがフィランの決意だ。ならば目の前の現実を強かに生きるのみ。去るべき時が来たのなら、背を向ければいい。それが、目の前の女人を裏切ることになったとしても。
「はい。家をいただいたことには感謝しています、マダム・クレーゼ。慣れない身で厄介になります」
 己の眼を開き、己の力で生きる。そう心に誓った若者の顔を朝日が照らし、クレーゼは僅かに目を細めた。
 それにしても、とフィランは周りを見回す。広場にはいくつか家屋が並んでいるが、どれも人が立ち去って久しい襤褸屋ばかりである。
「この島にはほとんど人が住んでいないようですね」
「ええ。灯台守とミモルザの診療所。あとはギルグランスに仕えている子が住んでいるだけよ。ミモルザはこの島の森で貴重な薬草が採れるから住んでいるの」
「ベルナーデ家の配下が住んでいる理由は?」
 クレーゼは、きょとんと目を瞬いた。
「人質……かしら」
「え?」
 さらりと恐ろしい単語を唇に乗せた老女は、にっこりと笑って「朝餉の支度があるから」と去っていった。
 フィランは白昼夢を見たように呆然と立ち尽くすしかなかった。

 それにしても、肝心のベルナーデ家の配下は一人も現れない。次第に不安になり、フィランはぐりぐりとこめかみを揉んだ。
 もしかすると広場というのは灯台島ではなく都市の広場を指しているのだろうか。いや、とフィランは鋭く否定する。勾配がきつい灯台島の広場からは、岸辺の船着場を見渡すことが出来る。だが船はそこに結わえられたままだし、渡し守の爺さんも出てきていない。
 では、灯台島には広場が二つあるのか。いいや。こんな狭い島に広場が二つも三つもあってたまるものか。そういえば田舎には地方特有の方言があると聞く。広場という言葉にも彼らにとっては何か特別な意味が――。
「おっはよー」
「……あの、僕の悩んだ時間を返して貰えますか」
「うん?」
 眉間に人差し指をめりこませたフィランは、恨みがましい視線を出会い頭の男にやった。無邪気に目を瞬かせているのは、ギルグランスの配下の一人のエルだ。先日ティレに化けて貰ったこの男は、上背は人並みにあるくせに枯れ木のように痩せている。フィランよりはいくらか年上で、顔をくしゃりと崩すような陽気な笑い方が特徴的だった。戦いの最中ですらへらへら笑っていたし。
「朝に集合って言われたんですけど」
「うん。だから朝に来たじゃん」
「何言ってるんです。もうとっくに太陽は昇りきってますよ」
「うん。だから朝に来たんだって」
「いや、太陽が見えたら朝でしょう?」
「ううん。起きた時間が朝」
「おかしいでしょう!?」
 冗談ではない。フィランは一人戦慄する思いだ。彼にとって朝といえば夜明けから間もない時刻を指す上、軍での遅刻は鞭打ち刑、育った家でも拳一発は覚悟せねばならなかった。青くなる若者を前に、エルは呑気なものだった。赤茶の髪を指にくるくると巻きつける。
「あはは。本国はそうなんだ? でもここはヴェルスだし。肩肘張る必要はないよ。のんびりいこう?」
 脱力感に膝をつきそうになるフィランである。そんなに時間があるのだったら、風呂にでも入ってくれば良かった。
「まー、早く行ってもギルグランスのおやっさんも起きてないだろうしねえ」
「あの人もですか!?」
 目の前にギルグランスがいたらおいコラ元軍人、と掴み掛かっていただろう。異郷での暮らしは驚きの連続だ。
「っ!?」
 突然背後に気配を感じて、フィランは槍に手をかけながら振り向く。そして、そこに巨山のごとく立ちはだかる人影を見て肌を粟立たせた。
「あ。オーヴィン。おはよー」
「んん」
 是とも非ともつかぬ返答をしたのは、配下の一人のオーヴィンだった。三十路を越えたこの男はエルとは対照的にがっしりとした体格をしており、眠たげに目蓋を下げている様子はまるで冬眠から目覚めた熊のようだ。砂漠の民の血が混じっているのか肌が浅黒く、太い眉の下では小さな橙の瞳がいかつい眼光を放っている。失礼を承知で言えば人相が悪かったので、フィランは素性を大変に怪しんでいた。この前の戦いでは魔法まで操っていたし、油断がならない。しかもたった今、彼は気配の一つも出さずにフィランの背後に立ってみせたのだ。
「んん?」
 オーヴィンは巨竜がそうするように、頭を下げてフィランの顔をまじまじと凝視した。フィランは怪訝に思いながらも、今後共に働く仲間として会釈した。
「どうも。今日からよろしくお願いします」
「んー」
 オーヴィンは、ぼりぼりと頭をかいて、言った。
「どちらさま?」
「忘れたんですか!?」
 思わず掴みかかってしまうフィランである。
「いや、ちょっと待て。今思い出す……」
「そんなに気合の要ることじゃないでしょう!? 僕はフィラン、あなたたちの主に金で買い叩れた男ですよ!」
 フィランは自分で言った台詞に、自分で傷ついた。
「おお。そんな奴がいた気がする」
 オーヴィンはようやく思い出したと言わんばかりに水平にした掌を拳でポンと叩く。その後ろを、元から細い目を線のようにしたジャドがふらふらと歩いてきて、そのまま一本木に激突した。倒れた彼の肩を、エルが木の枝でつんつくする。
「不安だ……」
 フィランは初っ端から頭を抱えたくなった。


 ***


 豊饒の女神を守護神として奉る都市ヴェルスは、その豊かな実りを以ってして周辺都市の口まで賄う農業都市である。そのため朝の市場は色どり豊かな作物が籠に盛られて軒を連ね、近くの都市は勿論、遠方からも食料を買い付けにくる商人と奴隷たちでごった返していた。威勢の良い呼び声から密やかな会話、あるいはおこぼれに預かろうとする野良犬の吼え声や荷車を引く音が反響する様はまるで祭りだ。
「あの、そっちは道が違いませんか?」
 遠慮がちに問いかけるフィランに、隣を歩くジャドは「うー」と唸るだけだった。器用なことに、眠りながら歩いているようだ。代わりに答えてくれたのはオーヴィンだった。
「すぐ行っても謁見できないからな」
 ほれ、と林檎を投げられて、フィランは慌ててそれを受け取った。オーヴィンは自分も同じものを取ると、売り手の女に銅貨を渡す。巨漢ながら不思議と人ごみに溶け込んだ彼は、フィランを見てニッと笑った。
「奢りだ。食っときな」
「……」
『いい人だ、オーヴィン』
 フィランは一瞬で彼に対する認識を改めた。食い物をくれる人間に悪い奴はいないというのがフィランの経験則である。現金なものだが。
 礼を言ってフィランは林檎にかぶりついた。豊かな果汁が口一杯に広がり、爽やかな甘さと酸味が舌を心地よく刺激する。
「ん、おいしい」
 あとでティレに買って帰ろう、とフィランは心に決めた。流石は豊饒の女神に愛された都である。ちなみにジャドは目を閉じたまま買った果実を貪り喰らっており、エルは何も買わずにへらへらしていた。
「んじゃ、ぼちぼち邪神様んとこに行くかねえ」
 食べ残した芯の部分を野良犬にやっていると、屋台の女将と話していたオーヴィンが、のっそりと戻ってくる。フィランは邪神という響きに苦笑いを浮かべた。これ以上あの当主に似合う呼び名もない。

 ヴェルスに名高きベルナーデ家は、この都市が帝国の手に落ちた時代から続く貴族家である。その祖先には本国の出身者もいるが、一家は現地の者と交わることを躊躇わなかったので、百年が経つ間にすっかり血も薄まった。故に現当主のギルグランスも帝国内ではヴェルス人として扱われるし、本人もそのことを気にした風がない。ベルナーデ家とヴェルスの結びつきは固いのだ。
 現当主のギルグランスは帝国の軍人であったが、五年前に退役して故郷ヴェルスに戻った。それからは都市議会の議員となり、今や議員から毎年選出される神祇官長の職まで務めている。「あの顔で神官かよ」とは選出された当時のジャドの言だが、無数の神を持つ帝国都市で信仰の取り締まりや国の祭事を執り行う神祇官長は政界でも重要な役職なのである。都市議会の最高職である二人官になるにも、この職務を遂行した経験が条件として課せられている。ギルグランスも恐らく来年には二人官に任命されるのではないかというのが都市の住民の間ではもっぱらの噂であった。
 ちなみにそんなベルナーデ家当主は人生で三度の結婚を経験しているが、二度は離婚、もう一人とは死別している。病で亡くなった最後の妻との間に娘がいるが、その娘も本国に留学中であるためベルナーデ家はすっかり彼一人の天下だ。それであの性格では人々から「邪神」と揶揄されるのも頷けよう。
 銀の角を持つ馬を家紋に掲げるベルナーデ家の前には、祖先が残した言葉が石碑として残っている。フィランはそれを見て僅かに目を側め、そして門の前に並ぶ行列を見やった。貴族の家には彼らに庇護される民たちが陳情やご機嫌伺いにやってくるのだ。その人数の多さが家の人気を物語るといってもいい。ベルナーデ家は民衆に中々愛されているようだ。
 無論、愛されていることが必ずしも彼らの幸福に繋がるとは限らないのであるが。

「ちょっとちょっと聞いてくださいますか!? お隣のマーレさんたらまた新しい服を買ったんですよ、緑色の服でね、銀の縁取りまでつけて! 銀ですよ銀、アタシぁもうびっくりしちゃって」
「……」
 豪雨のような訴えを前に、ギルグランスは顔の筋肉を引き締めることに苦心しなければならなかった。でなければうんざりした表情と欠伸が表に出てきてしまう。
 彼の前には太った中年の女性が跪き、凄まじい世間話を繰り広げている。だが無下に振り払うわけにはいかないのだ。こういったささやかな振る舞いが民の人気を左右するのだとギルグランスはよく心得ている。特に中年の女性は危険だ。その情報網たるや帝国軍司令部のごとしという彼女たちを敵に回したら最後、どのような噂を流されるか分かったものではない。ベルナーデ家のような地方貴族にとって、地元の人気を失うことは地盤の瓦解を意味する。都市議会の議員として票数を集めなければいけないギルグランスは、だからこそ今朝も欠伸をこらえて謁見の間に座っているのだ。貴族も中々楽でない世の中なのである。
「ベラさん、次の者が待っておりますので今日はどうか」
 主人の傍らで記録をとっていた奴隷のセーヴェが流石に見かねて助け舟を出すが、女にギロリと睨まれては黙るしかなかった。
「それでねえ、どう思います? だってあんな服、一体何処に着ていくのかしら。アタシはね、もしかすると斜向かいのドナさんのとこじゃないかと思って! あの人、年はちょっといってるけどまだまだ男盛りだものねぇ」
 話が下世話な方向に進み、いよいよげんなりする。天から救いの手が述べられたのは、ギルグランスが微笑みで彩られた鉄の仮面を被るのもいい加減限界に近づいたときだった。控えめな態度で現れた奴隷の少年が、主人の傍に寄ってそっと告げたのである。
「旦那様、オーヴィンが参りました」
 ぴく、と型良い眉が持ち上がる。これぞ好機といわんばかりにギルグランスは立ち上がった。
「すまないねベラ。オーヴィンと打ち合わせなければならぬ、また明日でも良いかな?」
 跪くベラの手を優しく取って笑いかける。蕩けるような微笑を向けられたベラは、鼻を鳴らして立ち上がり、不満まじりに告げる。
「そうねえ、彼らも頑張ってくれてるものね」
「あなた方の暮らしの為です。弟さんにもよろしく」
 ぐずぐずするベラを丁寧に送り出して、ギルグランスはぱっと踵を返した。服の裾を鮮やかに翻らせる彼の瞳には、まるで宿題から解放された子供のような喜色があった。これが都市議員にして神祇官長まで勤めるベルナーデ家の当主だと思うと、奴隷のセーヴェは遠い目をせずにはいられない。
「セーヴェ。後は頼んだ」
「……かしこまりました。お早くどうぞ」
 老齢に差し掛かる奴隷は溜息と共に主人を送り出した。主人が打ち合わせをする間、謁見を望む民衆の列を止めるのは彼の仕事なのである。


「やれやれ。危うく腰に根が生えるところであった」
 肩をごきごきと鳴らせながら陽の袂に出てきたギルグランスは、よほど退屈をしていたようだ。設えられた愛用の椅子に腰を下ろし、しかめっ面で足を組む。
「大変だねえ。ご当主ってのも」
 中庭で主人を待っていたオーヴィンがそう苦笑すると、ギルグランスは深く頷いた。
「うむ、その努力と功績と遠大なる思慮に敬服し、思う存分褒め称えるがいい」
 ようやく目が覚めたらしいジャドが口を歪めるとエルは肩を竦め、オーヴィンもぼりぼりと頭をかいた。そんな配下たちの反応も何処吹く風といったギルグランスは、後方に立つ若者に顔を向ける。
「さて新入り。ヴェルスはどうだ?」
 突然話をふられて、フィランは目を瞬いた。
「まだ来て三日ですよ。良いも悪いもないです」
「そうだろうな」
 得意げに髭をさすったギルグランスは、整えられた中庭を楽しむように目を細めた。なめらかな肌をした列柱が立ち並ぶ中央の空間には、季節の花と緑が美しく咲き匂う。特に初夏は緑が濃くなる季節だ。陽光を受けた若葉は瑞々しい光輝を放つかのようであった。
「良い機会だ。オーヴィン、都市を案内してやれ」
「ぼくたちはー?」
 エルが細い手を掲げて主張すると、当主は気軽に手を振った。
「お前たちもだ。急ぎの用事もないし、適当に気をつけて行ってこい」
 まるで子供の遊びを見守る親父の物言いである。複雑そうな顔をするフィランを見て、ギルグランスはニヤリと笑った。
「なに、遠慮をするな。そこのデカいのは元盗賊、目つきが悪いのは逃げ足の速い脱走兵、ひょろいのは元奴隷剣闘士だ。お前の数倍は訳ありの連中さ」
「その言い方には語弊がある気がする」
「おいオヤジ! 人聞きの悪いこと言うんじゃねぇッ」
「ぼくのはホントだからいーや」
 三人三様の反応が返る。ギルグランスは、不敵に口の端を吊り上げてみせた。
「そういうわけだ。私は身分も過去も問わぬ。元奴隷だろうが元皇帝だろうが使える奴なら過労死するまで使うに過ぎん」
「それはちょっと」
 流石に過労死は嫌だ、と思うフィランである。
「気ぃつけろ、本当に死ぬ思いさせられんからな」
 円柱に背をもたれたジャドに言われてフィランが顔をひきつらせると、オーヴィンもうんうんと頷いて言葉を繋ぐ。
「あとティレだったか? お前さんの嫁。近寄らせんなよ、ぶんどられちまうぞ」
 ぎょっと目を見開いたフィランは、敵意の眼差しをギルグランスに向けた。
「貴様ら、なんということを言うのだ」
「ティレに触れたらその体散り散りに引き裂いて臓腑を引きずり出し死体は魔物に食わせます」
「……誰だ、こんな恐ろしい奴を引き入れたのは」
「アンタだろうがよ」
「う、うむ。そうだったな」
 色男として名を馳せるギルグランスも流石に気圧されて視線を逸らし、取り繕うように髪をかきあげる。
「それに私は関係を強いたことはないぞ。才色兼備である私の魅力に惹かれて娘たちが寄ってくるのだ」
「ぶっ殺してもいいか、オヤジよ」
 歯軋りと共に陰険な視線をよこすジャドを見て、旗色の悪いことを悟ったギルグランスは会話を打ち止めにし、居心地が悪そうに立ち上がった。
「では頼んだ。私は忙しいのでな」
 すちゃっと手をあげると足早に去っていく。そんな当主の後姿にジャドはやれやれと首を振った。
「あんにゃろう、調子がいいぜ全く」
「まー、モテるのは本当だしねー」
 陽気にエルが笑うと、やる気のない表情をしたオーヴィンも溜息をつく。
「とりあえず行くぞ。まずは腹ごしらえからだな」
「さっき食べたばかりじゃないですか」
「案内がてらだ。鶏肉がうまい店屋がある」
 うまい鶏肉、と聞いてフィランの心はぐらりと揺れた。彼は案外こういった誘惑に弱いのである。
 ベルナーデ家を出れば、昼の活気が若者の肌を刺激した。道々には色とりどりの人々が行き交っている。異国の布を売る露天商や客寄せの声に引かれて立ち止まる人々、演説をする政治家や歌を奏でて衆目を集める吟遊詩人。行ってがっかりした都市番付で一位と聞いていたが、中々賑わっているものである。
 そんな雑踏に入ってしまえば、丘を上らぬ限り島どころか湖すら臨むことは出来ない。ティレは無事だろうか、とフィランは僅かな懸念を胸にたゆたわせた。しっかり者のマリルが世話を買ってでてくれたので、突然行方知れずなんてことはないだろうが。
「大丈夫かな」
 フィランの懸念は二つあった。一つは無論、恋人の安否。
「……大丈夫かなあ」
 そして、そう、もう一つの懸念は。
 ――マリルの方がティレの性格についていけるかという不安であった。




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