-黄金の庭に告ぐ-
<第一部>1話:僕たちは駆け落ちをした

05.助けて下さい



 ベルナーデ家。それは豊饒の都ヴェルスが帝国の属州に組み込まれた当初からこの地に続く、由緒正しい支配階級の家柄である。
 しかしそれも広大な帝国から見れば無数に存在する地方貴族家の一つに過ぎない。フィランがその名を聞いたことがあったのは、軍人としてのギルグランスの武勲が軍中で轟いていたためである。彼の兄も高名な武人だったが、北方防衛の要とも言われたギルグランスの司令官としての手腕は、いつ本国の元老院に迎えられてもおかしくないと言われたほどであった。――同時に女癖の悪さも相当に有名であったが。
『退役していたんだ』
 フィラン自身、軍を去って数年が経つ。その間に彼もまた現役を退いて故郷に戻ってきていたのだろう。退役には早すぎる年齢である気もするが、――フィランは雑念を振り払い、そもそもどうしてこんなことを考えているのだろうと疑念を抱く。
「つってもあいつら絶対にティレを見てたぜ? そう簡単に引っかかるのかよ」
「娘は顔を隠していた。奴らとて確信は持てまい。混乱させるだけで良いのだ、そうすれば必ずここが監視の対象になる」
「そういうもんかねえ。お、起きたみたいだぜ」
 上方から聞こえてくる会話に呼び覚まされると同時に、後頭部に不快な鈍痛が走った。横向きに寝かされているようだが、頬に当たるやわらかさが逆に不気味だ。記憶を手繰り寄せていく内に只ならぬ状況に気付き、はっと顔をあげたフィランの前には、全身に冷水を浴びせるような光景が広がっていた。
「気分はどうだ。夕暮れまで起きないかと思ったぞ」
 瀟洒な屋敷にしつらえた列柱回廊の一角、仰々しい椅子にどっかりと腰掛け、肘掛に頬杖をつくギルグランスがそこにいた。周囲には線の細い奴隷が一人と配下が三人。配下の内の一人はジャドだ。彼は複雑そうな顔で口元を引き結び、こちらを見下ろしている。他にも屋敷内では幾人もの奴隷が行き交っているようだった。正方形に作られた回廊の中央には楚々とした緑で飾られた庭があり、中々悪くない趣味だと思ったが、今は感心して見入っている場合ではない。
 臥床に伏すフィランは全身から武器という武器が奪われていることを自覚せねばならなかった。槍と短剣は勿論、手甲に隠した小刀まで抜き取られている。ティレは離れた場所に座らされており、間には配下の一人が立っていた。この人数とでは、体術のみでやりあうには無謀に過ぎる。
 燃え上がるような怒りを湛えつつもゆっくりと上体を起こすフィランに、ギルグランスは満足げに口角を吊り上げた。
「よろしい。賢明な判断だ」
 短角的な行動を控えたフィランを褒め称えたギルグランスは、だが、と声を曇らせる。
「あの判断は頂けぬ。このようにまんまと捕まりおって」
「あなたが捕まえたんでしょうが」
 やれやれといった具合に首を振る貴族に思わずつっこんでしまうフィランである。後頭部に金具をぶち当てられた身としては、その視線が陰険なものになろうと無理はない。
「うむ。貴様のような奴には性根を直し心を入れ替えて私の為に馬車馬のごとく働いて貰わねばならぬからな」
「あの。言ってることが無茶苦茶です」
「確かに」
 腕を組んで頷いたのはジャドだった。使い込まれた剣を腰にぶらさげた彼は、列柱の一つに寄りかかったまま、居心地が悪そうに頭をかきむしった。
「まあ、なんだ。このオヤジ、テメェのことが気に入ったらしくてよ。老人の我侭に付き合うと思ってここはひとつ」
「誰が老人だ誰が」
 ギロリと配下を睨めつけるギルグランスに、フィランは溜息をついて肩を竦めた。本来こんな物好きに付き合っている暇はないのだ。
「あのですね、言ったでしょう。あなたに仕える気なんてありません。別に僕はあなたが栄えようが落ちぶれて馬車の下敷きになって野垂れ死のうが正直どうでもいいんですが」
「いやテメェ、断るにしてもそりゃねぇだろ」
 凄まじい言い草に見かねたジャドが主人の擁護に廻るが、当の本人は涼しい顔をしたものだった。
「私とて貴様が無事に逃げ切れようがあの無頼どもめに血祭りにされて残骸が魔物に食われようと痛くも痒くもないのだがな」
 ジャドはもう何も言うまい、と手で顔を覆った。
 午後の日差しが吹き抜けの中庭から明るく届く。立ち上がってフィランを見下ろすギルグランスの姿は、体格の良さも相俟ってまるで地上を見下ろす天神のようだ。
「だからこそ機会をやったのに貴様はそれを逃しおった。その選択が気に要らん。自身の力で全てを賄おうとするその傲慢が」
 僅かに喉を動かしたフィランは、負けじと父親のような年齢の貴族を睨み返す。
「あなたの邪魔が入らなければちゃんと逃げていましたよ。傲慢なのはあなたの方です、これだから貴族というのは」
「貴様も貴族だろう」
 背筋に稲妻が走った思いで、フィランは頬を強張らせた。ジャドを含め、他の者たちも瞠目して杏色の髪の若者を見つめる。ギルグランスだけが余裕の笑みを湛え、流れるように続けた。
「その物腰と美しい発音は本国の出身とみえる。育て親は教育熱心だったな? 今朝届いた書簡の文章も中々達者であった」
 フィランの唇が戦慄こうと、威容を見せ付ける貴族の追撃は止まなかった。
「私の名を知っていたことといい、あの酒場での戦い方。あれは軍務経験者の動きだ、それも前線で鍛えられたと見える。その歳で実戦経験があり、かつ教養もあるということは、首都の近辺小都市の貴族、次男以降といったところか」
 言葉に詰まったのは、フィランの方だった。


 指摘された通り、フィランは貴族であった。
 しかし、貴族であることは名門の出であることと同意ではない。彼は首都に名門として名を馳せる一門の分家の分家、という貴族として微妙な線にある一家の生まれだった。ここまでくれば、事実上平民とそう変わらない。しかも三男である。家を継げる可能性も低いこの息子を、両親は幼い内から首都の本家へとやった。彼が貴族として身を立てて生きていくには、名門たる親戚の家で教育を受けて育ち、軍に入って名をあげる以外になかったのだ。
 貴族としての誇りを胸に生きたフィランは、幼くして母と引き離されたことも、目まぐるしい首都での暮らしにも、そして貴族の末端という肩書きによって襲いくる苦難にも、全て耐えてきた。特にその出自から僻地での軍務を強いられたときも、血と錆の臭いにまみれながら敵に刃を振るい続けてきたのだ。ある出来事が起きたときまでは。
 それは彼にとって、国への信用を完全に失わせる出来事だった。自らが拠って立つ地盤を完全に壊された彼は一時期、家名を剥奪されかけるほど荒れに荒れた。
 そんなときに出会ったのがティレであった。吹けば飛ぶような体を抱えたティレもまた、首都の騒乱に揉まれて消え入りそうな立場に置かれていた。
 ぼやけた視界に映る、雨に打たれるままに佇んでいた一人の少女。ずぶ濡れの様子では、泣いているのかも定かではなかった。褐色の瞳を小動物のように瞬かせている様を見て、フィランは思ったのだ。
 ああ、同じだ、と。
 歓喜と悲哀が織り交じる灰色の渦に飲み込まれ、溺れかけたティレの手をフィランは取った。そして血を吐く思いで故郷を逃げ出した。しかし後悔はしていなかった。そう、後悔はしていなかった。あのままでいれば、フィランもティレも我が身を滅ぼしていただろう。ただ自分に出来ることをして、必死に生きてきただけなのに。
『この国で僕らは生きるだけで精一杯だった』
 身分の違いに悩み、理不尽な現実に苦しみ、謳われる虚栄に絶望し、己の力量に懊悩して。だからといって国を変える力も持たず、彷徨い続けた先には闇ばかりが広がっていた。
 冗談ではない。呑まれてたまるものか。
 フィランは音が鳴るほどに歯を食い縛り、悠然と立つ貴族を睨む。ジャドは信じられないという風に首を傾げた。
「……あんまり貴族に見えねぇよな。なんつーか、庶民っぽいっつーか」
「うるさいですよ。それにもう家名は捨てました」
「よろしい。では名を捨てた若者よ、貴様は死なぬと言ったな? ならばこの状況でどうするのだ。貴様は私の一存で生きも死にもする」
 ティレが離れた場所に腰を下ろし、じっとフィランを見つめている。年頃の娘としては不自然なほど短い髪を宙に晒す様は痛々しく、黙って見ているだけで胸から血が滲むような苦痛がある。護らなければ、救わなければいけない大切な人なのに、今のフィランには何も出来ない。フィランは己の非力を眼前に突きつけられ、しかしそれを認めるわけにはいかなかった。
「だからといって貴方に仕えるなど」
「貴様、貴族のやり方に失望した口か」
 ベルナーデ家の当主は、静かに若者の言を遮った。
「つまらぬ誇りを弄ぶ人間、それが貴族と言ったな。では貴様はどうなのだ、誇りなき槍の使い手よ。娘を護る為ならあらゆる手を打って然るべき筈が、私の申し出をはねつけたそれを何と呼ぶべきだろうな?」
 それは、意地。――あるいは、誇りだ。
 フィランは目の前が白く染まる心地で叱責を聞くしかなかった。
「仮にあの場で私が貴様を捕らえなかったとしよう。時を置かずに追っ手は裏口に出てきおった。この都市の地理に疎い貴様に、あの場で逃げきれる筈がなかった。貴様とて分かっていたろうに」
 言葉は鋭くフィランを鞭打つ。分かっていたのだ。そう、この当主の言う通り。いつまでも逃げられぬことも。そして、海の向こうに渡るということが、どれほど不毛な夢であるかも。
 けれど夢見ずにはいられなかった。その事実に気付き、フィランは愕然とした。最も忌避していた幻想に知らず知らずの内に縋り付いていたのは、他ならぬ自分自身だったのだ。これでは仮初めの幻影ばかりを語る貴族たちと何も変わらぬではないか。
 燦然と輝く明るい瞳の色が、苦悩に歪む。やはり己の力では恋人を護ること一つ出来ないのだろうか。確かなものが不確かなものに変わっていくのを、黙って見つめていることしか出来ないのだろうか。
 沈み込むフィランの心に、ざり、と砂を踏む音が聞こえた。そこに続いたのは音律豊かな低い声であった。

「恋を歌い、友と笑い、出会いを尊び、別れを嘆き、美を愛で、知を求め、あなたに出来うる全てのことをしなさい。心から人を愛し、心から人として生きなさい」

 荒んだ目をゆるゆるともたげる若者に、老成された威容を持つ貴族は眼光を緩めて語りかけた。
「ベルナーデ家の初代当主が残した言葉だ。屋敷の入り口に石碑がある、帰りに見ていくと良い。――だがその前にひとつ、昔話をしてやろう」
 午後の風に庭の青々とした葉が美しく揺れる。今を生きるベルナーデ家の当主は、静かに続けた。
「この都市はその昔、黄金の庭と謳われた美しき独立国家であった。だがその栄光も永遠ではなく、やがて民が減り、国力は衰え、ついには帝国ファルダに攻め込まれた」
 帝国ファルダ。川辺の小さな集落として生まれ、みるみる周辺国を吸い込みついには大陸を飲み込んで天と地を平定した強大な軍事国家。それがついにヴェルスの元にまで手を伸ばしたのである。眼前に迫る嵐のごとき大軍。大地がさざめくかのように鳴り響く兵士たちの物の具。進軍の笛の音。フィランは思う。虚像の都市はそうやって成す術も無く膝を折ったのだと。しかし続きを聞いて、フィランはふと顔をあげた。
「当時の執政者は都市の現実をよく見定めていた。帝国と戦っても勝ち目などない。例え勝ったとしてもこの国力では長くは持たない。彼の望みは民の命と生活、ただそれだけだった。だから、彼は」

 それは今から百年も前の物語だ。帝国軍の包囲は破りようもなく、黄金の庭にもついに死の暗雲が立ち込めたかに見えた。だが、城壁の中では一人の男が奮戦していたのだ。逃げるか荒ぶるしか知らぬ貴族どもは叩き伏せられ、恐れる民はその男に力付けられて家族と共に家に篭り、包囲された都市は不思議な静けさに落ちた。
 そうして帝国の槌が門を叩こうとしたそのとき、城門は開かれたのである。
 姿を現したのは一人の男であった。剣の一つも帯びず、数千の軍兵が見守る中をひたひたと進む。
 彼の衣を見て執政者と気付いた将軍もまた兜を脱いで馬を降り、一人で進み出た。すると猛々しい軍人を前に怖じる様子もなく、彼は芳醇な風に髪をなびかせ朗々と告げた。

 豊饒の女神の加護ある黄金の庭ヴェルスはここに門を開き、あなた方の属州となって恭順を誓おう。あなた方の支配を受け入れよう。

 驚く将軍に向けて彼は続ける。海にも見紛う湖をその手に抱く都市を従え、その足で地を踏みしめて。

 我々は独立の誇りを捨て、あなた方の膝元に下ると言ったのだ。そして強かに生き続けよう。いかなる隷従の元でも麦を紡ぎ、実を結び、子を成そう。我らが民は強い。しかしその強さは決して刃の強さではない。それは善政の元には敬意を持って頭を垂れる強さだ。それは悪政の元にはたゆまぬ意思を持って歯向う強さだ。幾度となく芽をふきだす大樹の強さを以って、我々はここに生き続ける。そう、例え弱者の身に甘んじようと、我々はこの地で生きる道を選ぶ。
 故にあなた方に庇護を請いたく、私はこの場に立ったのだ。
 代わりに今、私の命をここに捧げよう。あなた方の猛りがこれで鎮まるよう。あるいは無力な民を護って下さる代価として。この首を切り落とすがいい。私の財産を奪い、勝利の賛歌を謳うがいい。しかし誓ってくれ。我が民がここに生きることを許すと。そして忘れるな。私は我が都市の誇りの為に死ぬのではない。この都市に、女神に、天に、運命を司る者に。我が民への想いを知らしめるために、この都市が生き続く礎となるために私はこの血を捧げるのだ。
 さあ、天の神も見ておられる。ここで剣を抜き、誓いを立てて私の喉笛を切り裂け、今すぐに!

「――将軍は彼を殺さず、都市は略奪の魔手に晒されることなく帝国に組み込まれた。この都市にかつての栄華はない。だが、属州都市となって早百年、ヴェルスは今だここにあり、民は確かに根付き、その足で生きておる」
 そして帝国の将軍を感服させた当時の執政者は、将軍の娘を妻として貰い受けると共にベルナーデの家名を与えられた。ギルグランスの祖先であり、家訓を石碑に残した人物でもある。こうして帝国に歯向かった数多の都市が衰退の一途を辿る中、都市ヴェルスは肥沃な土を武器に強かに生き続けたのだ。
「無駄な誇りよりも、その生き汚さが命を繋ぐことがある。狡猾であることは、時に善を凌ぐのだ」
 軽やかな音色に先ほどの厳しさはなく、むしろ力付ける響きがある。フィランはその表情に積み重ねられてきたものを見定めようとした。成人して間もなく帝国軍に身を投じ、後ろ盾もないまま伸し上がって北の防衛軍の司令官まで勤めた地方貴族の主には、不思議と見る者を圧倒する威厳が備わっている。戦場を駆けた気高い眼差しがフィランを射止め、鼓舞するように告げた。
「良いか。思考を止めるな。常に最良の判断を取れ。貴様の詮無き意地や誇りが何の為になる。何もかもを捨てたというなら、泥水を啜る思いをしてでも生き延びなくて何が覚悟だ」
 飲み込むにはあまりに大きすぎる言葉を前に、フィランは皮肉げな笑みを唇に貼り付ける。
「……貴方との取引を甘んじて受け入れろと? 貴方に僕を助けることが出来るというのですか」
 ギルグランスは心地良い唄を聞くかのように頷いてみせた。
「容易いことだ」
 だが相手は六名の殺しを生業とする男たちである。それも、今にもフィランの四肢を切り刻もうと息巻いている。しかしフィランはティレに一瞥を投げると決心した。そう。彼には誇りなどない。栄華の裏にある虚無を、人が生きる傍らに取り残されたその汚さを、フィランはよく知っている。だからこそ手段は選ぶまい。己が生きるためならば。恋人を護る為ならば。この心がどれほど傷つき、汚れたとしても。
「どういう運命の巡り合わせですかね」
 鮮血を迸らせるかのように、小さな掠れ声が若者の喉を動かせた。
「……助けて下さい」
 若者は偉丈夫に懇願する。その瞳に煉獄の炎を宿らせたまま。
「追われています。誰を殺したわけでもない、何を盗ったわけでもないのに。ただ静かに暮らしていたいだけなのに」
 心に渦巻く激情はやり場を求めて若者の血を滾らせた。フィランは貴族の喉笛に喰らい付くがごとく、その誓いを口にした。
「――助けて下さったなら、この恩は忘れません。貴方に仕えましょう、我が愛する者の名にかけて!」
「よろしい」
 満足げな笑みで口元を飾ったギルグランスが指を鳴らすと、配下の一人がティレとの間から移動してくれた。フィランは瞳を瞬く恋人の元へ駆け寄り、身体の無事を確かめた。成り行きを理解しているのかいないのか、ぼんやりと首を傾げているティレを見ると、それだけで荒ぶる胸が静まっていく。やっと息をついたフィランを横目に、ジャドが片頬を歪めた。
「んで、どうすんだよ?」
 どっかりと椅子に身を沈めたギルグランスは、うむと頷いて髪をかきあげた。
「策は考えてある。セーヴェ、屋敷の者を全員集めろ。ただし外に気付かれんようにな」
「かしこまりました」
 奴隷のセーヴェは影のように一礼をして素早く立ち去る。次に指令がとんだのはフィランであった。
「貴様、名は何と?」
 一瞬どきりとしたフィランだったが、負けじと言い返す。
「フィランと呼んで下さい。神に捧げた名は捨てました」
「結構。ではフィラン」
 甲斐甲斐しげに恋人の肩を手で包む若者に向けて、ギルグランスは悪戯を思いついた子供のような顔で片目を瞑った。
「貴様には大役を任せる。良いか」
 怪訝そうな顔をしたフィランは、次の指示に思い切り顔を眉を歪めた。

「この屋敷を襲うのだ」
「……は?」


 ***


 長い一日だよなあ、とジャドは剣の金具を指で弾きながら考えていた。どれもこれもあの奇怪な旅人と奇矯な主人によって織り成されたことなのだが、それにしても奇妙なことになったものである。
 ギルグランスの住むベルナーデ本家の屋敷は、都市の中央からやや湖寄りの丘に聳え立っている。この都市が帝国ファルダの軍門に下った折、当時の執政者がベルナーデ家の祖として本国の女を迎え入れて建てた古い邸宅だ。今でもその規模は都市で五本指に入る広さを誇り、名門としての堂々たる威容をここに示している。近年は何処ぞの当主のお陰で『邪神の棲家』とか『冥府の入り口』とか言われているらしいが。
 ジャドは庭の一角に立ち、目を閉じていた。傍から見れば暇を持て余して転寝をしているようにしか見えぬ様子だが、その聴覚は研ぎ澄まされて周囲の様子を探っている。
『塀の向こうに二人、三人? くそ、オーヴィンの奴なら正確に分かるのに』
 軍人崩れのジャドでは、なんとなく人の気配を感じるだけでその動きまでは察知出来ない。盗賊という変わった過去を持つ仲間のオーヴィンは、屋敷の別のところに潜んでいてここにはいないのだ。
 だがジャドは鼻から息を抜いただけだった。屋敷を監視する者どもの大体の居場所が分かれば良いのである。あとは彼らがうまくやるだろう。
 そう。
 彼らが、うまくやるだろう。
「くせものーーっ!」
 がちゃーんとかぱりーんとか、争っているらしき音と悲鳴が広い屋敷に響き渡った。始まったか、とジャドは見た目だけ慌てたそぶりで顔をあげた。フィランが裏口から屋敷に押し入り、それを奴隷たちが迎撃しているのだ。無論、全てフィラン及びベルナーデ家の数十名に及ぶ奴隷たちが総がかりで仕掛けた茶番である。にわかに屋敷中が騒がしくなり、不自然に激しい交戦音が炸裂する。
「ぬおお、そっちに言ったぞ逃がすなァッ」
「はっはー! ここは通さん――うむぅっ!?」
「きゃー助けて旦那様ーーっ!?」

「……絶対楽しんでるだろ、アレ」
 ジャドはぴくぴくと頬を引きつらせながら騒音のする方角を見やった。先ほど主人の指示を受けて浮かれ気味だった奴隷たちの様子を思い出す。彼らはちょっぴり祭り好きに過ぎるところがあるのだ。今回はいらない皿や壷を投げ放題、日ごろの憂さ晴らしにこれ以上の楽園はない。それにしても元気が良すぎる気もするが。
『やつらオヤジのせいで頭もいかれ気味だしな』
 凄まじく失礼なことを考えながら素早く玄関前に回る。同時に鋭い口笛を耳にして、ジャドは影でほくそ笑んだ。屋敷を監視する殺し屋がフィランの姿を見止めて仲間を呼んだのだ。彼らは屋敷に取り残されたティレをフィランが取り戻しに来たのだと勘違いしたのである。ここまでは全て主人の描いた筋書き通りに進んでいる。
 ジャドは辺りの様子を確かめると、慣れた手つきで肘ほどの長さの剣を引き抜いた。軽い剣は破壊力こそないものの、長年の友としてしっくりと手に馴染む。それを構えて反対側の庭を睨み据えた。予定では、彼らはそこから出てくる筈だ。
 暫くすると果たして屋敷の角を際どい動きで回って駆け込んでくる二つの影が見えた。全身をすっぽりと外衣で覆った連れの手を引いて走るフィランである。そしてその後ろから各々鍬やら鋤やら包丁やらを持った奴隷たちが嬉しそうに追従する。何よりも恐ろしいのが、野獣を狩る軍神のごとく彼らの先頭に立つのが長剣をぶんまわすベルナーデ家当主ギルグランスその人であることだ。
 演技と知っていても彼らの目の輝きに恐怖を隠せず、全力で走るフィランが叫ぶ。
「なんなんですかこの家の人たちはーーっ!?」
 気持ちはよく分かる、とジャドは思った。
 砂煙をあげて突進してくる一陣を率いるフィランは、ジャドと視線を合わせて目で頷いた。ジャドは彼らの勢いに臆したふりをして庭の隅まで引き下がる。だが、その唇は緊張に引き締まっていた。失敗すれば命に関わる茶番なのだ、これは。なにしろ相手は殺し屋なのだから。
 整えられた芝生を蹴って剣を振りかざしフィランに切りかかると、フィランも槍をもってそれを受け止める。その間にギルグランスと奴隷衆がフィランを逃がさぬようにと扇形に囲んだ。
『今だ』
 フィランにとっては絶対絶命となったこの状況。眼前には手練の剣士、周りには武器を持った奴隷たち。しかし外側にいる者どもにとっては、一人で進撃を止めるジャドの側が手隙に見えるだろう。
 ざわっと空気が沸き立ち、ギルグランスが地を揺るがすような声で叫ぶ。
「目を閉じろッ!!」
 奴隷衆を含め、フィランもジャドも腕で目を庇った。瞬間、大気が凍りついたように集束し、光の粒が庭の影から舞いだした。
「精霊の御名において」
 何処からともなく詠唱が紡がれ、ふっとその光が消えた瞬間、全てを白く焼くかのごとく猛烈な閃光が放たれる。
「ぐあっ」
 木の上で様子を伺っていた殺し屋が、光をまともにくらって地に落ちた。固く眼を瞑っていたベルナーデ家の者たちがそれを取り囲み、喉元に刃を突きつけて拘束する。
「オーヴィン、相変わらず地味な魔法だなっ!?」
「言うな、悲しくなる」
 光の魔法を駆使した男が木陰から立ち上がり、ジャドのからかいに感想を漏らすと、その大柄な身を転がした。彼がいた場所に虚しく矢が突き刺さり、逆にそれは敵の居場所を知らせることとなった。身を隠すことは無駄と悟った殺し屋たちは、庭に身を躍らせフィランに襲い掛かる。
 無論、ジャドも口だけ達者なわけではない。ようやく異常に気付き始めた殺し屋に向け、鋭い剣戟を繰り出した。フィランも槍を振るってそれに加勢し、簡単にその鳩尾に蹴りを打ち込んで無力化する。
 だがその間に、一人になったフィランの連れにも魔の手が襲い掛かった。彼らの狙いはフィランの捕殺と、そして娘の奪還なのだから。それを見たギルグランスの口元が歓喜を形作る。
「馬鹿め」
 娘に臨んだ殺し屋の体が強張り、崩れ落ちた。外衣の下から毒牙を剥く蛇のように繰り出された棍棒が、もろに胸の辺りに打ち込まれたのである。鮮やかに外衣を脱ぎ捨てたその人物は、ティレではなかった。
「わあ、ごめんねえ」
 姿を現した線の細い男が倒れた殺し屋を見下ろしてすまなさそうに眉尻を下げる。本物のティレは奴隷の女子供と共に蔵に隠されているのだ。殺し屋たちは、自分たちが完全はめられたことを悟らなければならなかった。
 最後に残った殺し屋の長が、男たちによって塀まで追い詰められる。その顔は布で覆い隠されているものの、中では盛大に冷や汗をかいていたことだろう。
 にやにや笑いながらギルグランスが彼の前に立ちはだかる。邪神のような顔つきをした当主は瞳を不気味に光らせ、無慈悲に配下の者たちに告げた。
「構わん。やれ」
「――」
 殺し屋の長の視界は、真っ暗になった。





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