-黄金の庭に告ぐ-
<第一部>1話:僕たちは駆け落ちをした

03.恋人たちの心は揺れど



 一人で追う羽目になってしまったなど、全く以ってついていない。
 ジャドは舌打ちしたい気分で盗賊を追っていた。ここで見逃すわけにはいかないのだ。逃げている盗賊は見る限り下っ端に過ぎないが、捕らえれば根城を吐かせることが出来るだろう。
 酒場でばったり出くわしてから都市内で散々逃亡劇を繰り広げた後、盗賊が灯台島に逃げ込んだときは袋の鼠と思ったものだが、こちらも一人になってしまったのは予想外だった。灯台島は干潮になると陸続きになるため都市から徒歩で渡ることが出来るのだが、丁度彼らが灯台島に渡った瞬間に潮が満ちてしまったのだ。潮の満ち引きは恐ろしい程に早く、あっという間に僅かな経路は絶たれてしまった。今頃仲間たちが渡し守の爺が操る船を使ってこちらに向かっているだろうが、無論、それを悠長に待っている暇などない。
 結果、足の速さにおいては衆目を集めるジャドだけがこうして盗賊を追っているのである。
「だあっ!! どいつもこいつもトロいんだよッ」
 ジャドの内心には焦りが滲み始めていた。灯台島は狭いとはいえ、面積の半分を魔物の生息する薄暗い森に覆われている。そこに逃げ込まれてしまえば、捜索は容易ではない。
 一心不乱に足を動かすが、盗賊も盗賊で死ぬ物狂いである。彼とて捕まれば良くて奴隷として売り飛ばされるか、悪ければ闘技場で魔物の餌なのだ。
 そのとき、脇道から飛び出してきた影が盗賊目掛けて鋭く槍を振るった。盗賊は慌てて身を倒して刃先をかわす。好機とばかりにジャドも剣を引き抜いて大地を強く蹴った。
「何処の誰か知らねぇけど感謝するぜっ! ――れ?」
 動きを挫こうと足に突きたてようとした剣が虚しく空を切る。おかしいと思ったときには遅かった。見知らぬ旅人の鋭い叫びと共に、熱い衝撃が顎の下から突き上げる。
「下です! 避けてっ」
 言うのが遅ぇよ、と毒付く間もなく、顎を蹴り上げられたジャドは後ろに突き飛ばされた。

 混戦を嫌って一度身を引いたフィランは、予想以上に身の軽い盗賊と相対して槍を握り直した。盗賊の方は限界に近づいているようで、荒く息をつきながら短剣を構えている。
「痛い目を見たくないなら観念した方がいいですよ」
 顎を引いたフィランは、唸るように告げた。驕るつもりはないが、自分がこのような盗賊に引けを取るとは思っていない。しかも見る限り、盗賊にはもう走る体力はあるまい。接近戦ならば、必ず勝つ自信があった。
 だがフィランは一点だけ失念していたのである。彼らがいる場所が集落の真っ只中であることを。
 唯一の診療所からたった今、小柄な少女がひょっこりと姿を表したのである。それを見て、フィランの背筋に悪寒が走った。
「ティレ」
 外の物音を聞きつけて、何事かと思ったのだろうか。呆けた様子で軒先に突っ立っている無防備な少女を、盗賊が見逃す筈もなかった。機敏に動いた彼は、あっという間にティレの背後に回ってその喉笛に短剣を突きつけた。
「動くんじゃねえっ!! 動いたらこいつの命はねえぜ」
 獰猛な叫び声に、空気がびりびりと震える。異変に気付いて診療所から出ようとしたマリルはミモルザによって押し留められ、ジャドは最悪の状況に身を強張らせた。誰もが動けぬ恐ろしい膠着状態がここに成った。
 ……筈だった。

 このとき、盗賊もまたフィランと同様に、とても大切なことを失念していたのであった。彼は、フィランを相手にティレを人質にとることがどれほど恐ろしいか知らなかったのである。心の底から哀れなことに。
「触れたな」
 ぼそりと低い声が若者の唇から零れ出た。それは黒い瘴気に似た呟きだ。フィランの人好きのする穏やかな表情が剥がれ落ち、――盗賊が認識できたのはそこまでだった。
 フィランがどのように動いたのか、見定められた者はいなかった。盗賊が人質の首に刃を入れるよりも早く、彼はその足元に迫った。しゃがみこむ体勢から伸び上がる勢いを使った右足が疾風のごとく繰り出され、盗賊の顔面に食い込む。めしょっ、と形容しがたい音を立てて盗賊の鼻が潰れ、そのまま男は後ろに倒れ込んだ。フィランのサンダルは旅用であるため、裏側にびっしりと金属の鋲が打ち込んであるのである。哀れな盗賊に、しかしフィランは容赦しなかった。仰臥した盗賊の首に足を乗せて胸上に槍の切っ先を突きつける。
 激痛と混乱で我を忘れかけた盗賊は、逆光によって深い影を落としたフィランの金色の瞳を見た。炯々と輝くそこには、凍えた生粋の怒りがある。これがこの世で見る最後の光景かもしれない、と盗賊は遠いところで考えた。
 黒き御手の冥王バクドールも見紛う微笑みは、残忍な優しさを以って盗賊に降りかかる。
「喉を潰される音と心臓串刺しにされる音、どっちが聞きたいです?」
 盗賊は泡を吹いて意識を失った。


「いや、殺すなよ!? 聞き出すことがあんだよッ」
 ぽかんとその様子を見守っていたジャドが慌てて釘を刺すと、フィランは一瞥して穂先を離してやった。盗賊は完全に伸びてしまっている。
 ジャドの手によって盗賊が縄で縛られる間に、フィランは踵を返してティレの正面に回り、その体に傷がついていないか確かめた。
「……フィラン」
 それまで人形のように呆けていたティレは、初めてフィランの姿を見つけたように褐色の瞳を瞬く。それを見て、フィランは脱力したように頭を垂れた。
「良かった……ティレ。駄目じゃないか、一人で外に出たりしたら」
「ごめんなさい」
 睫を伏せて謝るティレには恐ろしい目に合ったことへの怯えも、そして無事であったことへの喜びもない。ふわふわとけぶる短髪を風にまかせ、ただフィランの裁量を待っている。そこに駆け寄ってきたのはマリルだった。
「ティレっ。大丈夫ですか!?」
 おろおろとティレの無事を確かめて、フィランに頭を下げる。
「ごめんなさい、マリルが気付いていれば……」
「いいよ。無事だったんだし」
 フィランは瞳に涙を溜める少女を笑って許してやった。ティレは存在感が薄く、気がつけばふらふらと歩いていってしまうような娘だ。その行動に出会ったばかりのマリルが気付ける筈がない。それに、何があろうと彼女の守護は己の責任とフィランはしっかり心得ている。
「オイ、あんた。とりあえず礼を言うぜ」
 ジャドに呼びかけられて、フィランは先ほどの怒りがまるで嘘のような穏やかな表情を向けた。
「お構いなく。この島には世話になりましたから」
「それにしてもすげぇ動きだな。オレはジャド。最近こいつらが港を荒らし回ってるって苦情が入ってたんだ。助かったぜ」
 剣を収めたジャドは、細い目を線のようにした。武人らしい体つきをしていて一見どちらが盗賊か分からない風体だが、こうして笑うと愛嬌がある。粗野で飾り気のない彼の表情に、フィランは素直に好感を持った。
「僕のことはフィランと。お役に立てて良かった」
「へぇ、女連れで旅してんのか?」
「駆け落ちなんですよー」
 マリルが嬉しそうに言うと、ジャドも口笛を吹いて「やるじゃねぇか」と笑った。
『暖かい島だ』
 胸にじんわりと染みるものを感じて、フィランはそっと目を伏せる。島長の妻の提案が脳裏を過ぎった。当て所なく彷徨うよりは、ここに留まってはどうかと。
 暖かな粥の味が、彼らの笑顔が、穏やかな景色が、僅かに胸を刺激する。ここに暮らすのはきっと楽しいだろう。
『でも』
 フィランは心の中で、かぶりを振った。
『でも、行かなきゃ』
 優しい人たちと共にいれば、心は鈍る。その事実をフィランはとてもよく知っている。そして油断は全ての幸福を打ち砕くきっかけを作るのだ。悲しいことに。
 フィランは唇を噛み締める。追っ手は何処まで来ているか分からない。長く安らいでいるわけにはいかないのだ。何もかもを投げ捨てたフィランに残された唯一の光、それがティレであった。あらゆるものから守り抜くと誓った大切な人である。立ち止まってはいけないのだ。いかなるときも。
『行かなきゃ』
 隣で恋人が、心ここにあらずといった様子で立ち尽くしている。その横顔を伺って、フィランは一人、拳を握った。明日になったらこの島を出よう。そう固く決心しながら。


 ***


 肥沃な大地に恵まれ、かつては富国として誇りある独立を保っていた豊饒の都ヴェルス。帝国の属州に組み込まれた今も、黒々とした土からは豊潤な作物が実りを結ぶ。支配下のヴェルスは周辺都市の口まで賄う食料庫となることで、属州内での地位をどうにか保っているのである。
 だからだろうか。豊かな食料に溢れた市場を見て、フィランはそっと口元を緩ませた。よく熟れた果物は艶があって、本国のものよりも一回りは大きい。目当ての商品を求めて色彩豊かな服を着た商人たちが甲高くやりとりをしており、合間では奴隷たちが労働に精を出している。地方にしては中々に活気付いた都市だ。密度が濃く、人の音に満ちている。
 公共施設も充実しており、広場に面した公衆浴場の前を通るときは流石に後ろ髪を引かれる思いであった。フィランは特に風呂が好きなのだ。ゆっくりとくつろげるでかい風呂。なんと素晴らしい場所だったろう。本国にいた頃は毎日のように通ったものである。他の何に代えられるものがあろうか。全身から力を抜いて温かい湯船に顎まで浸かり、固く絞った熱い布で顔を拭ったときのあのえもいわれぬ幸福感。嗚呼――。
「いや、いやいやいや」
 フィランは頭を振って雑念を払う。意識を明後日の方向に飛ばしている場合ではない。
 フードを目深に被ったティレはすっかり体調を取り戻したようで、フィランの手に引かれて小動物のようにちょこちょことついてくる。彼女と風呂、どちらが大事かと問われれば言うまでもない。さっさと旅に必要なものを仕入れてしまわなければならなかった。
「……フィラン?」
「なんでもないよ。疲れてはいないかい?」
「うん」
 悦に入ったり振り払ったりと忙しいフィランを眺め、ティレはこっくりと頷く。そうして僅かに唇を動かしたが、痛みを覚えたように俯いて何も言わなかった。
 彼らの後姿を注意深く監視する者たちは、水道口の影で、石造の隣で、あるいは木にもたれかかりながら、静かにその範囲を狭めていた。


 旅の支度を済ませたフィランが最後に恋人の手を取って向かった先は都市の外れ、少々薄暗く込み入った通りだ。平たく言うと、あまり治安のよろしくない地区である。フィランは人通りの少ないそこでうまく空気を嗅ぎ分け、そこそこ安全と思われる酒場に入った。何故そういった雰囲気が分かるのかは――まあ、察してやって欲しい。彼にも過去に色々と若気の至りがあったのである。うむ。
 酒場とはいえ、もちろん酒を飲みに入ったのではない。このような危ない場所をわざわざ訪れたのは、この都市の市民権を『買う』ためであった。
 無論、市民の証は権利であって売り物ではない。しかし街道を行くには、どの道を通るにしても関所で身分証明書を見せなければならないのだ。うまく追っ手の目を眩ませるには、各都市の薄暗い世界で取引されている市民証を買って身分を詐称する必要があった。
 葉杖を持つ酒神デュオの石像を横目に、用心深い足取りでごろつきや盗賊のたむろする猥雑な店内に踏み込む。むっとする室内ではレンガに埋め込まれた大きな壷が突き出ており、端では小さな炭火の炉が据えつけられ、やかんの火が滾っている。余所者たるフィランがそこに一歩足を踏み出すと、賭博に興じていた彼らの空気がふっとざわめいた。
 連れの手を引いて淀みなく店主の下に向かう若者はしかし、張り詰めた空間にも臆した様子がない。からかって足を引っ掛けようと密かに繰り出される棒を器用に避けて、フィランは仄暗い店の奥に辿り着いた。客たちは各々の会話に戻ってはいるが、闖入者の様子にはしっかりと意識を傾けている。多少の居心地の悪さは我慢せねばならないようだ。
「よう。注文は」
「水割り。あと銀のネズミを」
 酒場の店主としては不釣合いなほど屈強な体格をした中年の男は、金貨を差し出した若者を値踏みするように観察した。銀のネズミとは彼らの使う隠語で市民証を意味する。フィランはそれに相場の倍の金額を差し出していた。自分たちが余所者であることを踏まえての行動である。このようなところでは始めに器の大きさを見せ付けておいた方が交渉しやすいのだ。薄く笑って指でカウンターを叩く若者に、店主はニヤリと笑った。
「面白い」
 指を鳴らすと、艶かしい女中が葡萄酒の水割りを持ってくる。凡庸で健康的な顔立ちをしている一方、場の空気にうまく溶け込み、この世界の掟に精通しているフィランをどうやら気に入ってくれたらしい。カウンターに腕をついた店主はからかうような視線を向けてきた。
「お嬢さんみたいな顔して大胆だな、アンタ」
「釣はいりません。面白い話なら聞きたいですが」
 さりげなく情報をねだるフィランの杏色の髪の下には、闇を裂いてぎらつく眼光がある。目的を忠実に、そして冷徹に果たそうとする表情だ。
「そうだなあ」
 さりげなく丸い陶製の証を二枚手渡した店主は頬杖をついて、金貨を片手で弄んだ。
「昨日来た別の余所者が言ってたよ。人を探してるんだとさ、アンタみたいな奴をな」
「――」
 ふっと顔をあげたフィランを、店主は笑って手で制した。
「待てよ。アンタ面白い奴だからな、どうこうしようなんて思ってねえ。だが行くなら早くしな。はした金でも欲しいって奴ならいくらでもいる」
「……ありがとう」
 この都市では妙な人に親切にされるものである。フィランは礼を言いながら、全身が緊張に汗ばむのを自覚した。追っ手がすぐそこまで来ているのだ。もしかすると、既にこちらは罠にかかった獣同然かもしれない。
「待ちな」
 ティレを伴って踵を返すと、ごろつきの一人が行く手に立ちはだかった。来たときに足を引っ掛けようとした男だ。黙っているフィランに、剣を誇示するようにぶらさげた男はニタニタと笑った。
「はした金でも欲しいねえ」
「おい、襲うなとは言わねえ。だが外でやりな」
 洗った杯を拭きながら店主が低い声で言う。フィランも慌てはしなかった。こういった場に来る以上、ある程度絡まれる覚悟なら出来ている。場にいる者の多くは店主の顔を立てて静観に徹するようだったが、数名が得物を片手に立ち上がって男に加勢した。
「いいじゃねえかよ、ここで袋にしちまえば。おい知ってるか。昨日来た連中が言うにそいつは女連れらしいぜ」
 外衣で全身をすっぽりと隠されたティレを見やって男が言うと、ごろつきたちの目に好色が浮かぶ。フィランの頬が怒りに撓み、瞳が烈火のように燃え上がった。
「どきなさい」
 だしぬけにちりんちりん、と間抜けな音がしたのはそのときだった。誰かが簾を開いて入り口をくぐったのである。
「んが? あれ? え!?」
 疑問符を連発した闖入者は、ジャドであった。
「フィラン!? テメェなんでこんなとこに」
 指を指すジャドに、場の注目が集まる。一瞬の隙をついて動いたのはフィランであった。
「ぐあっ」
 手をつけずにあった水割りの中身を、ごろつきどもの顔めがけてぶちまける。目を見開いていた彼らが液体をもろにくらってよろめく中を、フィランはティレの手を引いて全力で駆け抜けた。
「あっ、酷い。折角作ったのにー!」
「すみませんっ」
 後ろの方で非難の声をあげる女中に謝りつつ、猛然とジャド目掛けて走る。
「うおっ!?」
 ジャドは猪のごとく突進してくる若者を慌てて避けようとしたが、彼とて素人ではない。扉の外の気配に逸早く気付き、剣を抜いて声を張り上げた。
「来るなッ!! 様子がおかしいぜ!?」
「――っ」
 素早く恋人の腰に腕を回して横に飛んだフィランのすぐ脇を、風鳴音と共に矢が駆け抜ける。明確な殺意を持ったそれはフィランを追おうとした男の足に突き刺さり、机が倒れる音と悲鳴が薄暗い店内に反響した。
 にわかに空気が沸き立ち、男たちは得物を引き抜いて女は物陰に隠れた。カウンターの後ろに身を隠しながら顔を手で覆ったのは店主だった。
「ああくそ、なんてことだ。おいジャド! この始末金はベルナーデ家に請求でいいな!?」
「違うだろ絶対!?」
 机を楯代わりにしたジャドは、なだれ込んできた四名の男たちの動きを見て舌打ちをした。
『やべえ、玄人だ』
 見た目は一般人と変わらないが、外衣の下にしなやかな体躯と数多の暗器を忍ばせる男たちは、闇に生きる者からも恐れられる殺し屋に間違いない。飛び交う剣戟と怒号の中、彼らはためらうことなく邪魔者を斬り捨ててフィランに襲い掛かる。
「フィラン、何やったテメェ!?」
「駆け落ちですよ」
 さらりと答えたフィランは、室内で長槍は不利と見て代わりに食器を投げつけた。逃げる者や仲間を傷つけられて怒る者、また面白がって歓声をあげる者とで、ごろつきどもの溜まり場は狂った饗宴と化す。


 そんな狂騒の外で、搾り立ての果実のような陽光を遮る黒い影が落ちた。ざり、とサンダルが砂を踏みならす。足を止めたのは、奴隷を従わせた偉丈夫であった。
「何の騒ぎだ」
 雲雀亭と看板を掲げる酒場から聞こえる物騒な怒声や破壊音に、彼は眉をぐっと寄せておもむろに簾の扉を開いた。
 瞬間、彼の鼻先をかすめて右から左へと人間が吹き飛んでいく。壁際の壷に思い切り突っ込んだ哀れなごろつきは、陶器が割れる凄まじい音と共に動かなくなった。
「……」
 風圧でなびいた灰色の髪が、また元の場所に戻る。眉を持ち上げながら狂乱に包まれた店内を一通り見回した彼は、心の底から溜息をついた。
「嘆かわしいな。このところようやく落ち着いてきたというに」
「全くで御座いますね」
 白髪交じりの奴隷が深く頷いて同意する。そうして奴隷は思慮深い眼差しを主人に向けた。
「如何致しますか」
「ふむ」
 ごきごきと間接を慣らす主人は、放って置くようにと言う筈だった。奴隷はその主人に子供の時分から仕えている。彼が考えることなど、言葉にせずとも手に取るように分かるのだった。
 しかし主人はふと、四人の男を相手に立ち向かう若者に目を留めた。二十歳を過ぎたほどの凡庸な若者だ。余裕の無さがそうさせるのか、肩で呼吸をしているのが遠目からも分かる。しかしやわらかい杏色の髪の下、諦念を知らぬ瞳が爛々と輝く様が妙に目を引いた。荒ぶるその様はまるで矢を受けて尚牙を剥く手負いの獣だ。彼は室内では背の槍を使えず、代わりに短剣を引き抜いていた。
 そういえばと奴隷は思い出した。主人の配下から、昨日盗賊を捕らえる折に旅人の助けがあったと報告があったのだ。灯台島に滞在しているその旅人の話を聞き、主人は謝意を示して家に招く書簡を送ったのだが、今朝になって返ってきたのは丁寧な遠慮の文面だった。急ぎの旅であるから、この都市にも長くは留まれないのだと。そして今、配下が語った容貌に合致する若者が目の前で牙を剥いている。中々の手練と聞いたが――。
 主人の唇が不敵に歪められたのを見て、奴隷の脳裏に嫌な予感が過ぎった。
「旦那様、参りましょう。ここは危険です」
 つっても絶対無理だよなあ、と半ばやけっぱちで奴隷は助言したが、やはり主人は動こうとしない。まあ突入しないだけマシだ。若い頃だったら嬉々として飛び込んで行ったに違いない。これでも歳を重ねてほんの少しばかりは丸くなったんである。
「ほう」
 若者が動いた瞬間、その身のこなしに主人は感嘆したように唸った。彼は多数を相手に一歩も引かず、簡単に二人の男を地に這わせた。しかしその体を凶刃が掠めると、彼は突拍子のない行動に出た。この場で使える唯一の武具を、あっさりと投げつけたのである。それも、明後日の方向に。
「あっ」
 酒場の店主が情けない悲鳴をあげたのと、店の脇に積んであった小麦粉の麻袋に短剣が突き刺さったのは同時だった。猫のように若者がその袋にとりつき、破けた方向を外にして思い切り宙に振るう。すると見事に炸裂した白い粉が濛々と舞い散り、狭い店内の視界は一瞬にして塞がれた。
「バカヤロー!! 店のものに何しやが、げほげほっ!?」

 白い煙が胸元まで漂ってくるのを見て、主人は薄く笑う。音律豊かな低い笑い声を聞いて、奴隷は深く深く嘆息した。こうなった主人を止められるのは天におわす神くらいなものだ。
「セーヴェ。裏に回るぞ」
「……ギルグランス様」
 恨みがましい奴隷の目線を軽やかに受け流した主人は、通りから騒ぎを聞きつけて駆け寄ってくる二人の男に気づいた。彼らもまた、店の只ならぬ様子を見て怪訝そうに主人に食いつく。
「親父? なんでここにいるんだ」
「貴様らこそ現場への到着が早いな。ジャドはどうした」
「その店の中だよ。待ち合わせてた」
「そういうことか。来い、狩りの時間だ」
「ああ?」
 返事を待たずに、既に男――ギルグランスは走り出している。老齢に差し掛かる筈の肉体は老いを忘れたようにしなやかで、まるで野に放たれた猟犬のようだ。力なく首を振って続く奴隷を見て、なし崩しに彼らも主人を追うことになる。
「おーい親父、一体何するつもりだ?」
「狩りと言ったろう」
 裏道に入った刹那、ギルグランスはひらりと体を翻して降り注ぐ剣戟を躱した。何者かが裏口を固め、邪魔者の横槍を防ごうとしているのだ。
 だというのにギルグランスは愉しげに、流れるような所作で稲妻のごとく殴打を繰り出した。あーあーと奴隷が額を手で覆う目の前で、拳をもろに喰らった地味な男が倒れ込む。ギルグランスはそれに一瞥もくれず、一直線に道を突き進んだ。後続の者たちが呆れたように剣と縄を抜き、後始末に奔走する。
「良い毛並みをした獣がいる」
 歌うように、老練の貴族は口ずさんだ。裏口に待機していた男が無表情に立ち塞がれば、その目は愉悦に揺れる。まるで雲を率いる天神トロイゼが、下界の者の驕りを見て笑うかのように。

「奴が欲しい」




Back