-Bitter Orange,in the Blaze-
下・強いひかりの中に 終.真実と、現実と――

149.はじまる世界



 よく晴れた日だった。
 空には目に痛いほどの青。
 冬も近い、薄くのびやかに広がる色。
 炎の夜が終焉を告げた次の日のうちに、町から町へとヘイズルたちの勝利の噂が一気に広まっていった。
 この300年、誰にも成すことの出来なかったこと。
 ――聖ウッドカーツ家の血が、その町で流れたのだ。
 噂と共に、貴族を打ち倒そうという勢いは一気に世界中の民へと伝わり、貴族への不満をつのらせる彼らを動かす導火線に火をつけるだろう。
 そうして民は自らの自由を求めて団結し、貴族へと反旗を翻すに違いない。
 その日にヘイズル・オルドスと名乗るこの戦の首謀者が残した革命宣言は、世界の数多の人々の耳に届き、その後も彼らを勇気付けるものとなる。
 ――世界が、動き出そうとしているのだ。


 ***


 テスタは連日の魔法戦に加え、最後の津波を起こすなどという人間離れした大魔法がとどめとなって倒れたまま5日ほど目を覚まさなかった。
 だが彼が眠っている間は船の仕事は船員たちが休む間もなく行った。きっとこれからもこの若き船長を、彼らはそうやって支えていくのだろう。
 ハルリオは一足先に町を出ると行って早々に去っていった。
 彼は仮にも貴族なのである。この勢いで景気付いて、無差別に貴族を殺そうとする者がでると予知していたのだろう。
 スイとセルピに軽く別れを告げてから、麗貌の剣士はその姿を消した。これからどうするのかと不安げに尋ねたセルピには、あなたこそ気をつけて、と小さく笑いかけて……。
 ディリィは一度故郷に帰ると言った。当たり前だろう、彼女には帰るべき場所があるのだから。
 彼女はピュラの口からフェイズのことを告げられた。師として、弟子の言葉をしっかり焼き付けるようにしてそれらを聞いた。
 そして、それらが終わるとじっとピュラを見つめて、そっと笑って髪を撫でてやった。
 ――また機会があったらドトラにいらっしゃい。お父さんもお母さんも、いつでも歓迎するわ。
 まだあまり元気のない弟子は、その子供のような扱いに一瞬むっとしたが、その手を振り払うことはなかった。
 リエナとヘイズルは、町に留まるらしい。
 大半の者がそうだった。この地を反貴族の者たちが集う拠点とするのだという。
 リエナはもしも新たな時代が来るなら、またこの町を復興させたいとディリィに漏らした。
 もう彼女の愛する者が眠る墓も、全てが海に流されてしまった今。
 リエナはその思い出だけを胸に、今日を生きていくと誓ったのだった。
 もちろんディリィもそれを手伝うことを約束し、昔からの親友に笑いかけた。
 そんな優しい友人の言葉にリエナも小さく笑ったが、そう浮かれてもいられなかった。
 死守したこの町をこれから再び貴族たちに奪われないために、また仕事がはじまるのだ。
 この騒ぎで貴族界は大揺れになり、それに加えてあちこちで同じような戦が勃発するのだろうから、今回のような大軍が押し寄せてくることこそないだろうが……。
 それでも、再びいつか訪れるだろう戦いに向けて、また準備を急がなくてはならないのだ。
 ヘイズルはその日のうちに、また大量の指令を飛ばした。
 彼にとっては、全てがこれからなのだ。


 ――そして、あの旅人たちは。


 見下ろす先には海。
 久々の長い道のりは少々身にこたえる。
 スイ、クリュウ、セルピ、――そしてピュラは、深い山道を歩いていた。
 しかも人の目をさけるために、ほぼ獣道と化した廃れた道である。歩きにくいことこの上ない。
「ふにゃ〜、疲れたよ〜〜」
「うだうだいってる暇があったら歩きなさい、急がないと日が暮れるわよ」
 セルピの情けない顔を一瞥して髪に手を突っ込むピュラ。
 その横をスイが歩く。
 彼の肩に乗ったままいるのはクリュウだ。
 クリュウの羽根はほぼ治ったに近いのだが、まだ自由に飛ぶことはできないようだった。
「――あんた、まだ飛べないの?」
「うん、長時間はね――って、わぷっ」
 驚いて肩を飛び上がらせたときには既に遅い。
 ピュラが瞬き一つした瞬間には、スイの肩には何もなくなっていた。
「わーっ、たすけてー!」
 悲鳴に振り返れば、どうやらせまい道だったからかやぶに引っかかってしまったクリュウがじたばたしているところだった。
 服が枝に引っかかったらしい。必死で羽根を動かしてもがくが、一向に取れそうにもない。
「なにやってんのよ……って、スイ?」
 ピュラが呆れたような顔で振り返ると、スイはクリュウが肩から消えたのに気付いていないのか、ずんずん進んで行って。
 ――ごん。
 見事に、大木に頭をぶちあてていた。
 ……歩きながら眠っていたらしかった。
「……」
 で、やっと目覚めて肩にいるべき妖精に気付き、ゆっくりと振り向いた瞬間。
 ――がいん。
 ピュラの放った木の棒が、あでやかに顔面へとヒットした。
「あんたたち男ふたりそろってなにやってんのよーっ!」
 ついでに彼女のお怒りつきだった。
「にゃ〜、ピュラ、大声だすと危ないよ〜。まだ近くに貴族とかいるかもしれないし」
「ふんっ、そのときはあんたをおとりにして逃げてやるから安心なさい」
「いや〜〜っ」
「いい加減に助けて……」
 がっくりと木の枝にぶらさがったまま肩を落とすクリュウ。
 スイは相変わらずぼさぼさの髪をそのままに、そんな彼を救出してやった。
 ただ、あのまま大木にぶつからずに前進していたら本当に哀れな妖精を置いていったかもしれなかったが。

 ――スイは、あの町から出ることになった。

 元々ヘイズルはそうさせるつもりだったらしい。
 彼に言わせれば、スイはこの世でたった一人、あのウッドカーツ家の者を斬った男だ――貴族にこれから狙われないわけがない。
 そんな者には町にとどまって敵の道標となるのではなく、適当に世界を徘徊して貴族たちの不安を煽ってくれということだ。
 ただ、貴族に襲われて死んだらたたじゃおかねえ、と釘はさされたが。
 貴族たちは知らない。彼らを恐怖させた孤高の銀髪鬼の弟が、――彼のような人物だということを。
 彼らにとってスイの姿はウッドカーツ家を討った『鬼の弟』なのだ。
 これからも歴史の記憶には――その姿が記されていくのだろう。
 だがそれはスイにとっては好都合だ。
 世間に出回る孤高の銀髪鬼の弟は――青髪に蒼の目というあまりに凡庸な姿。
 その上、あまり目立たないスイが普通に町を歩いていても、その静かな佇まいに彼の正体に気づく者などいないだろう。
 ――そして。
 クリュウも、セルピも、……ピュラも。
 誰も、何も言わずに彼と共に旅立った。
 それが当たり前なのだから。これまで、ずっと続けていたことなのだから。
 スイはセルピと戯れるピュラに、ついと目を細める。
 あの炎の記憶から一週間。町をでてからはまだ半日。
 まだその傷跡は残るものの、彼女の顔には再びいつもの快活さが戻り始めている。
 もちろん、完全に前の彼女に戻ることなどないだろう。
 そう、人は変わっていくのだ。
 震えながら、その先に足を踏み出して。
 ――長い、長い、時間をかけて……。
 そうやって生きていけばいいのだろうから。
 まだ不安定な娘の傍に、もう少しだけいさせてもらおうと――そんなことを、考えた。
「スイ、なにさっきからぼーっとつったってんのよ」
 ふと目を下ろせば、すぐ傍に娘の顔。
 耳元に揺れるのは幸福と再生の色。
 瞳に宿すのは――あの夜と同じ色。
 すると彼女の腕が伸びて、面倒くさそうに髪についた葉をはらっていった。
「――ったく、髪もぼさぼさで。横歩いてる身にもなってみなさいよね」
「……ああ」
 スイはそんな娘の仕草に小さく頷いて、軽く腰の剣の柄を指で弾いた。
 ――その剣は、今まで持っていたあの大振りの剣ではない。
 いつか兄から託されて、それが自分の罪だというように背負っていた剣は、――旅立ちの前に海へと葬った。
 ずっと分かっていた。兄が自分に託した本当の願いなど。
 兄はあの炎を断ち切るために、剣を投げたのだろう。
 地獄のように橙に燃え上がる町を切り抜けるために、――剣を託したのではなく、ただ、投げてよこしたのだ。

 ひとも……命も、簡単に死ぬ。
 スイ、人を殺すのは良いことだと思うか?
 なら……人を殺せる剣はあっていいものだと思うか?
 剣がなくては……他人を殺す力なくては、――強くならなければ生きていけない世界を造ったのは……俺たち人間だ。
 それでも俺たちは生きる為に剣を振るう。

 そんな言葉を思い出した。
 いつか、新しい時代がくればいいと思う。
 どこかで夢見たような――穏やかな夕暮れに包まれた。
 剣など持たなくても生きていけるような、世界が。
 強くならなくとも生きていけるような、世界が。

 夕暮れに染まった黄金の草原。
 風にそよぐ草の乾いた音がさらさらと響く。
 そこに立つ剣士の髪は銀。
 じっと目の前だけを見据えて。
 たったひとり、重く大きな剣を片手に持つ。
 人は、彼を孤高の銀髪鬼と呼んだ。
 剣を振るうことでしか生きることのできなかった少年を、そう呼んだ。
 だから、その剣の持ち主は一人しかいない。
 その煌きが眠る海へと、長い時を経て剣は還された。
 スイはみるみる波にさらわれていく剣を、目を細めて見送った。
 自分にとってそれが重かったのは当たり前だ。
 ――不器用に歩いていこうとするひとは、そんなものが持てるほど強くはないのだから。

「……そうだな」
 ぼそりと呟くと、突然の言葉に娘は怪訝そうな顔をした。
「え? なにが?」
 今の彼が持っているのは、どこにでもあるような質素な剣だ。
 折角貴重な物資なのに、と渋りながらもリエナが苦笑して残った物資の中から分けてくれたのだ。
 だがそれも、もしかしたら手放すときも近いのかもしれなかった。
 きっと世界はこれから震えだし、また動いていくのだろうから。
「――いや」
 スイは小さく呟いて、再び前を見据える。
 どこまでも果てのない道が、目の前に広がっている。
 振り向けば、――不思議そうにこちらを見上げる黒髪を結い上げた少女と、赤毛の娘。
 肩口にはクリュウが乗っている。
 その情景はとても懐かしく、じわりと胸に温かいものが染みた。
「せめて山を越えないと、夜がきついだろう」
 そう言うと、むっとピュラが頬をふくらませる。
「わ、わかってるわよ。だからさっきから早くしましょって言ってるのに」
 不機嫌そうにぷいとそっぽを向いた。
 今はまだ、動けなくても。
 きっと、彼女が心から笑うことができる日も――近いだろう。
「ふん、行くわよっ!」
 ピュラは大股に山道を歩き出した。みるみる横を追い越して、先へと進んでいく。
「あっ、待って〜〜!」
 それを追いかけるセルピ。
「せ、セルピっ、そんなに走るとまた転ぶって」
 おろおろと注意を促すのは、クリュウ。

 ――さあ、また。

 歩いていこう。

 スイは港町を振り返ることもなく、その後姿を追っていった。


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