-Bitter Orange,in the Blaze-
下・強いひかりの中に 終.真実と、現実と――

148.グローリア



 ――遠い夢をみていた。
 ずっとその夢を見続けていた気がした。
 笑っていたのは一体誰だったろう。
 目の前にあったのは一体何だったろう。
 ただ、きっとその両手には何ももっていない。
 もとより人は何も持ってはいないのだ。
 だから、何かを欲しがって手を伸ばす……。
 そんな小さく拙い想いが、今まで世界を織り成してきたのだから。

 何か流れていくものがあった。
 さらさらと肌を何かが伝う感触。
 つきん、と胸に走るものを感じて、スイは目を覚ました。
 ――覚ました、気がした。
 そこは相変わらずの真の闇。もしかしたらこれも夢の続きなのかもしれないと思う。
 どれほど眠っていたのだろうか。それは一瞬のことのようにも、幾年のことのようにも思えた。
 ……しかし、スイはそこに何か違うものを感じ取っていた。
 違和感に気付いて頭をもたげると、――何かが顎を滴る。
 ――水、だ。
 どこから流れ込んできたのだろうか。さらさらと……どうやら床を流れているらしい。暗闇でわかることなどそんな程度だ。
 一体、今は……何時だろうか。時間の感覚が完全に欠落してしまっていた。
 だが暫くぼやける思考をどうにか回転させていくと、その匂いに気付く。
 倒れた自分をすっかり濡らしていたのは――ただの水ではなかった。海水だ。
 そこでやっと頭が働き始めた。記憶が蘇る。あまりに鮮烈な炎の記憶、そして――。
「――ピュラ」
 慌てて身を起こそうとして、失敗した。
 強烈な眩暈と共に体中に痛みが走る。顔を歪めて再び地に伏すと、ぱしゃん、と小さく水が舞う音がした。
 しかし――気付く。
 まだ、二度と離すまいと思ったその手は繋がれたままだった。
 この世界に一人だけ取り残されたような空間の中で、たった一つ――確かにそこにあるもの。
 眠っているのだろうか。その手に力はない。だが少し力を込めて握ってみると、ぴくりと反応が返ってきた。
 それだけ確認すると、再び体は全ての力を失う。
 さらさらと流れる水にすっかり濡れた体は、ひたすらに重かった。
 ――だが、そうもしていられないと少し後には再び体を起こそうとする。
 きっとこの水は――地上から流れ込んできているのだろう。きっと作戦通りにヘイズルは津波を町に襲わせたのだ。
 町はそのまま水没したのか、それとも水が退いたのか――それはよくわからなかった。
 水没してしまえばもうスイたちに生きる術はない。この閉鎖された空間で水が満ちて、それで絶えるのみだ。
 しかしそれにしては流れ込んでくる水の量が少ないと思う。
 この辺りが海の底となったのなら、水圧で地下一階の天井が割れるくらいのことにはなるだろう。
 頭の隅に鈍痛を覚えながらも、起き上がる。
 相変わらず何も見えない視界に平衡感覚を失いそうになるが、どうにかこらえた。
 手探りでブーツの止め金を外してその場に脱ぎ捨てる。
 その間にも離さなかった手から彼女の体をなんとか抱きかかえ、立ち上がった。
 裸足に直接触れる水の流れ。この暗がりで外に出るには、その流れを辿っていけばいい。
 だがさらさらと流れていく水はほんの床から1センチほど。裸足にでもならないとその流れを把握することができないのだ。
 滑りそうになりながらも、慎重に流れに逆らって一歩を踏み出した。


 ***


 ふと、だれかが空を見上げた。

 届かない世界の空を見上げた。


 ***


 ――その刹那。
 あまりに強い光が飛び込んできて、スイは思わず目を瞑った。
 外への入り口を開いた瞬間のこと。
 後ろにのけぞるような強い眩暈に、思わずふらつく。
 当たり前だ、今まで光の消えた世界にいたのだから。
 世界は、あまりにも鮮烈だった。
 肺の中に一気に入ってくる、冷たい空気。透き通った空気。
「――」
 なんとか目を開けられるようになるまで、どれくらいかかったろうか。

 ――スイは、その光景を目の当たりにした。

 世界は薄青。
 もう夜明けも近いころ。
 風は相変わらず吹き抜けて、濡れた体に冷たく染みる。
 だが、そんなことも忘れて彼は――ただ、その光景に目を見張ったままだった。
 ――そこには、もう町がなかった。
 なにもかも、海にさらわれてしまったのだろう。
 あのがれきも、家の残骸も、なにもかも……見当たらない。
 目の前にあるのは、浅瀬。膝下くらいに海水がたゆたい、浮島のように点々と浮かんでいる隆起した場所が見える。
 そんな島のひとつに、スイは立っているのだった。
 そして……それ以外に、なにもない。
 水平線と山の線にただ囲まれるだけ。
 そんな絶句するほどに広い光景が、視界一杯に広がっているだけだ。
 一瞬、全く別の世界に来てしまったかと思った。
 だが――海と山がある。空がぽっかりとあいている。それは――見慣れたあの町と、同じ光景だった。
 風がふくたびに水面がゆらりとゆらめいて、さざめき……また、静寂を取り戻す。
 誰もいない風景。
 きっとそれは、この世界がはじまったときと同じ……あるがままの情景なのだろう。
 あの炎も憎しみも苦しみも、そしてそれらのにおいまで消え去った世界は――空虚であり、それでいて美しかった。


 ***


 すっかりかすんでしまった空気と、

 重苦しい人々の祈りにも似た囁きと。


 ***


 しばらくしてなんとか状況を飲み込んだスイは、腕に抱いていた娘もまた辺りの状況の変化に気付いたのか小さく動くのに気付いた。
「……ピュラ」
 名を呼んでみる。
 すると反応しているのか、目蓋が震えた。
 喉の奥でうめき声をもらして、――彼女は、目覚める。
 最初はやはり眩しかったらしい。驚いたようにぎゅっと目を瞑って、またゆっくりと開いて……。
 何度かそれを繰り返すうちに、瞳がスイの姿をとらえた。
「……あ」
 無意識にそう呟いて、不思議そうにぼんやりと見つめてくる。
 どうして自分はここにいるのだろう、という風に。
「――生きてるぞ」
 だから、スイは言っていた。
 喉はからからに渇いて声は半分潰れていたが、それでも言葉を噛み締めるようにして、言っていた。
 そうして、彼女の瞳が、やっと目の前にどんな光景が広がっているのかを映す。
 腕の中で、息を呑む音が聞こえた。
 娘は目を見開いたまま、その言葉を失う。
「……立てるか?」
 彼女の体が小さくみじろぎしたので、スイは彼女をおろしてやった。
 一つ一つの行動を確かめるようにして彼女は地におり立つ。一度はバランスを失ってスイに支えてもらう形になったものの、すぐに彼女は自らの足で立ってみせた。
 そのまま、濡れた髪が頬にはりつくのもはらわずに、辺りの何もない景色を見渡す。
 もう、何もなくなった町を。
 全てを洗い流してしまった、町を。
 濡れそぼって、水浸しになって――この夜明け前の薄青に落ちている、この町を。
 足が、一歩を踏み出す。
 元より彼女たちが立っているのはほんの2メートル四方の島だ。
 その一歩は水の中へ踏み出すものとなる。
 だが、構わず彼女は足元を濡らしてその中へと踏み進んだ。
 ちゃぽ、と小さく水が鳴って波紋が揺らめく。
 スイは黙ってその後姿を見つめていた。
 数歩進んだところで彼女は止まる。
 そうすれば彼女が入ったことで生まれた波紋も、みるみる消えてゆき、その浅瀬は彼女をも一部とみなしてまた静けさを取り戻した。
 風が吹く。濡れた体に、それは少々肌寒い。
 だからか――彼女は、自らの体を抱きしめるようにしていた。
 そうやって、ずっと目の前の光景を見つめている。
 まるで何かを探しているかのように。
 消えてしまった何かの面影を探しているかのように。
 その頼りない細い肩で。小さな体を、そっと自らで支えるようにして。
「ピュラ」
 声に、ぴくりと肩が反応して、また水面が揺らめいた。
 ふっと彼女はこちらに振り向く。
 その瞳は、何の表情もなくこちらを見つめていた。
 ただ、それが置き去りにされた子供のように思えて、スイはかすかに目を伏せる。
 だが彼は動くことはしなかった。
 彼女のところへ行くわけでもなかった。
 ……そっと、その右手を差し出して。
 じっとその手を見つめる彼女に向けて。
「強くなくても、生きていけるんじゃないのか」
 薄青の中で暗く落ちる瞳を見つめて、言った。
 瞬間、彼女の瞳が迷う。どうすればいいのかと……苦しげに顔がかすかに歪んで。
 かすかに唇が震えるが、それは言葉にならない。
 いつか娘は言った。
 この世界は強くなくては生きてはいけないと。
 だから、どこまでも強くなるのだと。
 この足で立って、走るのだと。
 きっとそうなのだろう。
 この世界では、強い者しか生きていかれないのだろう。
 だけれど――人はきっと。

「だから、――自分じゃない、誰かがいるんじゃないのか」

 誰かに手を伸ばして、救いを求めながら……その身に傷を負ったとしても、歩いてゆけるだろうから。
 彼女はそんな言葉に、自らの体を抱きしめるようにしながら俯く。
 怖かった。
 走っているのは、怖くなかった。
 何もみなくてよかったから。
 それが怖いのだと知る前に、走り去ってしまえばよかったから。
 だけれど、歩いていくのは……とても、怖くて。
 失うことを、変わることを恐れて。
 その俯いた顔を緋色の髪で隠すようにして……。
 橙色の瞳から、一滴だけ涙が落ちた。
 まるで宝石が転がり落ちるようにその涙は頬を伝って海に散る。
 彼女はその涙をはらうこともせずに。
 ――ついに、彼女の手が彼の手を握ることもなかった。

 ただ、かわりに。

 彼女は、彼の目の前まで歩いてきて。

 そのマントを小さく指で掴んで。

 そっと、目を伏せて……。

 こつん、とその胸に額をあてた。

 ちらっと煌いたのは、きっと耳元のピアスだけではなかったろう。
 小さく肩が震えて、ほんの少しの嗚咽が届く。
 だがスイはその肩を抱くこともなかった。
 きっと自分には誰かを守ることなどできないのだと、知っているから。
 それほどに小さく無力な自分に誰かを守ることなど、とんだ思い上がりだと知っているから。
 ――ただ、傍にいることだけはできるかと。
 彼はしばらく、彼女が泣き止むまで黙って待っていた。
 ほんの少し空を仰ぐようにして。
 何もなくなった町の中心、そこにぽつんと立ち尽くしたまま……。
 あまりの世界の広さに、目を細めて。
 閉じた向こうに広がるのはどこか遠い記憶の景色。
 再び開いたその前にあるのは――今、ここに繋がる現実の、景色。


 ***


 冬も近い海水は冷たかった。
 セルピは船が進めるぎりぎりのところまで町に近づくと、すぐに降ろしてもらって走り出していた。
 ブーツが重たく濡れて、疲れきった体にこたえる。
 一度、島のひとつに這い上がって辺りを見渡した。
 町は水没こそしなかったものの、大潮の海のように水浸しになってしまっている。
 ほんの少しだけ残った大きながれきが町の残像のように、あちこちに落ちていた。
 そこには昨夜のことが夢かと思うほどに静かな、夜明けを待つ空気が佇んでいるだけだ。
 風が吹いて、黒髪を揺らした。
 町が消えたことで障害物をなくした風は穏やかに水面を揺らしていく。
 ごうごうと鳴る風の音。辺りはそれきりまた無音となる。
 船からは次々と人が降りてきていた。
 それぞれ、その町の光景に息を呑んでいる。
 そろそろ夜明けも近いだろう。もう相手の顔がわかるほどに辺りは明るく、東の海が明るく白み始めている。
 セルピは祈るような思いでその開けた四方をもう一度見回した。
 すっかり端から端まで見渡せるから、高い場所に上る必要もない。
 あの空へと舞い上がっていた煙はどこにいったのか、空気はそれ以上ないほどに透き通っていた。
 ――そんなときだ。
 泣きそうになりながら揺れていた瞳が捉えるものがあった。
 とても遠いところ。
 薄蒼がかった視界の中に――ゆらめくもの。
 一瞬、幻かと思った。
 この夜は一睡もしていなかったから、夢でも見ているかと思った。
 ――だけれど、そこには。
 歩いてくる影……ふたつ。
 ぶわっと風がまた、吹いた。
 胸が詰まる。息が止まる。
「……ピュラ、スイ」
 だけれど、かろうじて喉はそれだけを紡ぎだした。
「――っぁ」
 向こうもこちらの姿に気付いたらしい。船の姿を見つけて歩いてくる途中だったのだろう。水の中をかきわけて揺れていた影が、止まる。
 気がついたときには、セルピは駆け出していた。
 構わず長いスカートを膝まで持ち上げて、ばしゃばしゃと水を蹴る。
 涙が零れて散っていった。
 生きて……生きていてくれたのだ。
 ぼやけた視界の中で捉えるものはただひとつ。
 静かに佇む青髪の影と――。
「ピュラっ!」
 その横にいた赤毛の娘は、セルピの姿を見て目を丸くしたようだった。
 唇がかすかに動いたのは――少女の名を呼んだのだろうか。
 そうして、セルピも足が一際大きく水の中を蹴った。
 今すぐにその存在を確かめたくて、手を伸ばす――。
 ……ピュラは。
 その刹那。

 ――ひょい、と体を横にそらしていた。

「――にゃっ?」
 すでに大地から足を離してしまったセルピが変な声をあげたときには。
 ――ばっしゃん!!
 豪快にその浅瀬に頭から突っ込んでいた。
 ……。
 沈黙、20秒。
「……あら」
 ピュラはぱちぱちと目を瞬かせて、海に没した少女を見下ろした。
 しばらくして、やっとのことで自分に非があるのだとわかったらしく、少々顔をひきつらせる。
「悪かったわね。つい条件反射で」
「う、う、」
 ぴくぴくとすっかりびしょ濡れになったセルピの肩が、震える。
 ああ来るな、とスイがぼんやりと思った次の瞬間、がぱっと彼女は起き上がって絶叫していた。
「酷いよ〜〜〜っ!! せっかく心配したの……に……?」
 しかし、少女の言葉は途中で詰まる。
 ピュラの顔をみたのとそれは同時に、だ……。
「……ピュラ?」
 海水が目に入って視界がさらにぼやけたからなのかもしれなかった。
「なによ、大げさな」
 彼女はぷいと目を逸らして髪に手を突っ込む。
 そんな彼女のまとう空気が、どこか以前と違って見えるような気がした。
 ――だけれど、そこにいるのはピュラだ。
 面倒くさそうにしていても。最後はそっと手を差し伸べて体を起こすのを手伝ってくれる……。
「……うん、良かった」
 セルピはやわらかく笑って、ぎゅっと彼女に抱きついた。
 生きていてくれた、それだけで十分だ。
「スイっ!」
 そんなとき、空から声が降ってきた。
 スイがその方向を仰ぐと、ちかっと何かが光るのが見える。
 それが見慣れた彼の羽なのだとすぐに察知したスイは、その名を呟いていた。
「――クリュウ」
 うまく飛べずによろよろとふらつきながら、妖精は落ちてくるようにしてスイの肩にたどり着いた。
 既にその体はぼろぼろで、羽根もところどころ破れてしまっている。
 スイと別れたときとは比べ物にならないほどにその姿は痛々しくあった。
「あ――クリュウ」
 スイの肩口にすがりつくようにして肩で息をするクリュウの姿に、セルピが心配そうな顔をする。
「だ、大丈夫っ?」
「な……なんとか……」
 クリュウはそれでも、仲間たちに笑顔を見せた。
 だがスイとピュラの姿を見た瞬間に全身の力が抜けてしまったようだ。しばらくは動けそうにもなかった。
 そんな仲間を肩にのせたまま、スイは船の方へと顔を向けた。
 次々と降りてくる人々の影が点々と見える。
 誰もがその光景と事実に神の名を呟き、祈りを捧げる者もいた。
 ふと視線を降ろすと、赤毛の娘がもの言いたげにこちらを見上げている。
 ――二人でここまで歩いてくるときに、彼女は胸にあるものを再び刻み込むようにして、全てを言葉にした。
 自らの歩いてきた道のこと。
 今までにあった、あらゆること。
 そして今はいない、たったひとりの家族のこと……。
 スイは黙ってそれらを聞いていた。
 恐らくきっとそれは彼女の為のものなのだろうから。
 彼女がその胸にしっかりとしまっておける為のものなのだろうから。
 長い、とても長い時間をその心の内で立ちつくしていた彼女がそこから動いていける道標に、なるだろうから。
 そうして、それらをひとつひとつ確かめるように彼女は全てを語ってから、ぽつりと呟いた。

 ――まだ、続いていくのね。
 ――なにもかもなくなっても、時は続くのね。

 その薄暗い海に、想いを込めるようにして。


 ――私たちは……歩いていくしか、ないのね。




 ――夜が、明けた。




 その刹那、誰もがあまりのまばゆさに目を細めた。
 まるで世界を覆い尽くすような、強いひかり。
 ついに海から陽がその姿をみせたのだ。
 スイもまた突然の光に一瞬目を瞑って、手をかざした。
 影が落ちる。
 どこまでも深い影が。
 ――そうして、橙色に染まる町を……見た。
 どこかで蘇るあの展望台からの光景。
 橙が広がった空。
 まぶしい陽光。
 きらめく海。
 ――濡れそぼった町の残骸が、宝石のように輝いている。
 溢れる光の嵐はその全てが橙色。
 世界は、あまりに広く輝く。
 誰もが皆、空を見上げていた。
 この霞んだ大地を見下ろす朝焼けの空を。
 果てしなく広く、一杯に夕焼けと同じ色を抱える空を。
 それを照らす、まばゆい光を。
 鮮烈に網膜に焼きつくような、――橙色を。


 もうそのほとんどが降りて行ってしまった船の甲板でひとり、縁に背をもたれかけてそんな朝日を見ている者がいた。
 久しく見ていなかった、海から覗く陽の輝き。
 やはりそれらは自分には眩しすぎるだろうかと、彼はかすかに目を細める。
 ちらっと自らの足元を見ると、光によってできる橙色の影が落ちていた。
 男――ヘイズルは苦笑して、一言だけ朝日に向けて神をたたえる言葉を口にした。
 聖典によれば、はるか昔、英雄カルスがこの世界を浄化し新たな道を切り開いたときも、人々はこの言葉を口々に言ったらしい。
 それと比べれば、この目の前の光景はあまりにありふれた、それこそ歴史などに残るものではないだろう。
 まだ、この世界は重苦しい灰色に染まっている。
 しかし、だからこそ彼は言うのだ。
 これから動き出そうと、鎖に縛られた自らの体を震わせるであろう世界への祝福として。
 ――栄光あれ、という意の……祈りの言葉を。


「グローリア」


 誰もが息を呑んで橙色の情景に見入っている中、スイは横の娘にちらっと目をやった。
 彼女は半ば呆然とした顔で、その橙を同じ色の瞳に映していた。
 ちらっと朝日に煌くピアスもまた、夕日の色に染まって――。
 黄昏の色を浴びる娘は、そうやって何かに祈るように佇んでいた。
 以前の眼光の鋭さも、人の手を振り払って走っていく強さも、そこにはもうない。
 だけれど、自分の力で立っている。
 そう、自分の意志で立つだけの強さがあれば、きっと生きてゆける。
 そんなことをぼんやりと思っていると、視線に気付いたのか彼女もこちらを見た。
 彼女に言葉はない。
 もう、言うべきことなど言い尽くしてしまっていた。
 また世界の時が続いていく。
 彼女の言うように、また自分たちはこうして生きていかねばならないのだろう。
 何かを失いながら、それでも弱々しいひかりをそっと放って。
 あまりに多くの命を抱えた、この世界で。
 橙色の、強いひかりの中で。
 彼女は言葉のかわりに、ほんの少し、不器用に笑ってみせた。
 きっと彼女にできる精一杯の想いで。
 笑みは彼女の表情に染みて、また橙に染まって。
 もう倒れないようにと、拳を握って、この光景をじっと見つめて。

 空も、地も、海も、山も、――命も。
 赤でもなければ、黄でもない。

 ――深い、深い、橙色。

 たとえその中に、自らがかき消えてしまうのだとしても……。







 ――スイもまた、笑った。


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