-Bitter Orange,in the Blaze-
下・強いひかりの中に 終.真実と、現実と――

147.その手に感じるもの



「――セルピちゃん」
 後ろからの声にびくりと肩を飛び上がらせて、セルピは振り向いた。
 だがその腕が自分自身を抱きしめるようにしていることと、今にも瞳から涙が溢れそうになっていことが少女の不安を露にしていて。
 ……ディリィはそんな様子に少し表情を哀しげなものに変える。そして静かな声で、言っていた。
「もう、時間よ。船に乗りましょう」
「……」
 セルピはその瞳に一層絶望を交えて――首を、横に振る。
 まるでこの現実を否定するかのように、頑なに誘いを断る意志がそこにあった。
「……セルピちゃん」
 ディリィは言いながらも目を伏せる。あの鮮烈な輝きをもっていた赤毛の娘。それを追って行ったものたち――、誰一人として帰ってこない。
 今すぐに走って行ってその姿を探したいのだが、それがどんな迷惑をかけることなのだか彼女は知っているのだ。
 クリュウもまた、セルピの肩の上で俯いている。早くこの時が終わって欲しいと、……祈っているような顔で。
 再び町に目をやるセルピの横に立って、ディリィは再び口を開いた。
「ここはもう危ないわ。一緒に行きましょう」
「……ぁ……だ」
 返るのは掠れた声。じっと町の方を見たまま、彼女は首を振る。
「やだ……やだよ」
「――もう船がでるのよ」
「いやだ」
 そっと、痛みが秘められたディリィの声を断ち切るように、セルピは言う。
 その瞳から零れた涙を拭おうともせず、ただ……炎の中から大好きな人たちが無事に戻ってくるのを、待って。
「帰ってくるって、約束したよ……。絶対、帰ってくるんだ。だから、待ってなきゃ――いけないんだ」
 ディリィの瞳が揺らめく。哀しげに蔭る表情は、彼女の内心を何よりも如実に表している。
「……セルピちゃん」
「いやだ……やだっ!!」
 わめくようにして、セルピは炎に自らの声をぶつけていた。
「いやだ……ボクはここに残るよっ!! 皆が帰ってくるまで……ここに、いるんだ……っ!」
 激する感情に涙がとめどもなく溢れ、その頬を汚す。
 ディリィはその言葉を静かに受け止めて、じっとその足で立って炎を睨む少女を見据える。
「……行きましょう」
 そのしなやかな腕が伸びて、横から小さな少女を抱きしめた。
 まるでそれしかしてやれない、という風に細い体を優しく受け止めてやる。
 穏やかな温かさは、じわりと胸に染みて……。
「――っ、……ぁあ……あっ……!」
 セルピの歪んだ表情はそのまま再び涙を散らせ、崩れ落ちそうになった体はディリィの腕で支えられた。
 そのまま幼い少女はディリィに顔を埋めるようにして、血を吐くような哀しみを泣き叫ぶ。
 ディリィはそんな少女を抱きしめながら、哀しげな視線を炎の中に向けた。
 海からの風に長い紫紺の髪が踊る。
 何かに耐えるように、彼女は一度目を閉じた。
 これ以上時間はないのだ。もう、待っていることはできない。
 泣きじゃくるセルピを連れて、ディリィは船へと急いだ。
 もちろん、何度となく振り返りたくなって。
 ――だけれど、それをできることもなく。


 ***


 甲板の上からテスタは珍しくその顔に焦りを交えて炎に燃える町を見つめていた。
 そうして、静かに横にいるヘイズルに向けて言葉を紡ぐ。
「……正直、とても苦しいよ」
 その場にいるのは数名の船員と――ヘイズルと、リエナ……そして先ほど乗り込んできたディリィたち。
 他は皆、船室に入っている。疲れきっている彼らは既に眠ってしまった者も多いだろう。
 そんな中、甲板には重苦しい空気が落ちていた。
 テスタは首からさげた宝石を指で弄びながら小さく目を伏せる。
「――予想よりもはるかに炎が強い。もう森にまで及んでる。――確かに、ぼくの魔法で津波を起こせば鎮火はできるだろうけど……」
 その言葉に肩眉を跳ねさせたのは、セルピの肩に乗っていたクリュウだった。
 彼は今回の作戦を全く知らされていない。ヘイズルはこの燃え盛る炎をどうするのだろうかと思っていたが――。
(町に……津波を起こす……?)
 確かにテスタの魔法で出来ないこともないだろう。しかしそんな巨大な魔法を使えば――。
「こんな炎を消そうと思ったら、衝撃で町ごと海の中に沈んでしまうと思う。元々この町は海抜も低いから」
「そらちょっと面倒だな」
 ヘイズルは腕を組んで高々と燃える町に視線をやった。
「――お前の力で襲った津波を海に引き戻すことはできないのか?」
 するとテスタは目を伏せて、自らの胸に手をやる。
「……今残ってるぼくの体力だと、残念だけれどそれが精一杯だね」
 そう限界を告げるテスタに無理を強いる者は誰一人としていなかった。
 彼はいつものような口調を崩すことこそしなかったが、顔は夜目にもわかるほどに蒼白になり、今にも倒れそうだったからだ。
「別に沈んだって構わないんじゃないか? どうせ結果は変わらない、残っている貴族は全員海に沈められる」
 誰かの声に、ディリィの影でセルピの肩がぴくんと跳ねていた。まだあの炎の中には――あの仲間たちがいるというのに。
 だがディリィがそっとセルピの肩に手を置いていて、それがやんわりと彼女の発言を遮っていた。その手の感触から彼女の痛みが十分に伝わってくる気がして、セルピは黙ったまま俯く。
「いや、海に沈んでもらっては困る。しっかりとこの世界に俺たちの勝利を示してやらんといけないからな、下手に相打ちっぽくなったら俺たちも死んだかと思われるだろう。あーそれとも潔く捨て身で町に津波起こして貴族巻き込んで全員死にましたって華々しい記録でも残してみるか?」
「ヘイズル、その口を叩き斬られたくなかったら真面目に考えて欲しいのだけれど」
 リエナが不機嫌そうに鼻を鳴らしながら言う。
 もしここで火が収まるのを待っているならばそれこそ何日もかかるだろう。その間に新たな貴族の大群が押し寄せては叶わない。
 彼らの勝利は、火の消えたあの街の中心でその栄光を宣言することにあるのだ。
 そんなとき、ふっとリエナの瞳が影で俯いているセルピをとらえた。悲痛そのものの表情をしている少女は、この面子の中で儚く弱々しい。
「……」
 すると、その肩で少女と同じく俯いていた妖精が、顔をあげる。
「……僕が」
 ふいに入った声に、誰もがその妖精の方を見た。
 人間の手の平に乗るほどの小さな妖精は、俯きながらも噛み締めるようにしてその言葉を紡ぎだす。

「――僕がやるよ。津波を海に引き戻せばいいんだよね?」

「クリュウ……?」
 セルピが絶句したような声を零す。クリュウは小さく笑って頷いて返した。
 その顔に彼の思惑が読み取れずに、セルピは不安げに首を傾げる。だがクリュウはその瞳に強いものを秘めて、その場にいる者たちに視線を送った。
 甲板に立つ人間たちはそれぞれ怪訝そうな顔でクリュウ見つめる。こんな小さな妖精に、そのようなことができるのだろうか、と。
「やけに自信ありげだな」
 そんな中で唯一船のへりにもたれかかって余裕の表情をしているヘイズルが口元だけで笑っていた。
 彼にこの妖精の考えることなどわかっている。この妖精はきっとあの町に戻り、最後まで戻らない者たちを探したいのだろう。――それも、たった一人で。
 だから船がこうして港をでるまで何も言わなかった。彼が一人で行くと言い出せばきっと傍の少女もついていくと言い張るだろう。
 そんな妖精にどんな感情を抱いたのか――ふん、と軽く鼻を鳴らしてヘイズルは手をふった。
「よし、せいぜい頑張ってこい。30分後に大津波が来るからな、そのちっこい体ごと巻き込まれないようにしな」
「ヘイズル……!?」
 仲間たちがそれぞれ驚きの声をあげる。クリュウもこんなにあっさりと承諾されるとは思っていなかったらしく、拍子抜けした顔をする。
 ヘイズルはそれに対してちらっとクリュウの方に視線をやりながら返した。
「妖精っつーもんは大概人よりも魔法の扱いに慣れてるもんだろ? それともおい、そっちの勇気ある妖精の他にこの状況をどうにかしようと名乗り出る勇者がいるのかよ」
 いつもの言い草で放たれた言葉に、反論できる者はいなかった。
「いいんじゃないかな。だってクリュウはあのアレキサンドライトをあそこまで止めてみせたんだから、確実に出来ると思うけれど」
 そんなテスタの一言でそれぞれが納得する。彼らももう精神的にも肉体的にも限界をとうに超しているのだ。助けとなるものだったら藁でも掴みたかった。
 そうと決まればそれぞれの指示がとばされる。急いで船を被害にあわないほど沖まで移動させなくてはならないのだ。
 にわかに騒がしくなりはじめた甲板の上、セルピは呆然としたような顔でクリュウを見つめていた。
「……クリュウ」
 横でディリィも――こうなることは大体予想していたらしい、小さく溜め息をついている。
 クリュウはもう何も言わなかった。小さく頷いて、陸に戻ろうと――。
「神妙な雰囲気の中にちょっと悪いんだけれど」
 そんな中、ふいに声をかけてきた者に、それぞれの目が丸くなった。
 そこに立つのはすらりとした金髪の女性。
 声の主――リエナは腕を組んで目の前の幼い少女を見下ろす。その憔悴しきった目は涙で真っ赤に腫れあがっていた。
 あまりに疲れきった少女の顔についと目を細めて、リエナは言った。
「――そう悲観することもないと思うよ」
「……え?」
 だがその口が思いがけないことを紡ぎだしたのに、更にセルピとクリュウの目が丸くなる。
 リエナは苦笑するようにして、軽くヘイズルの方を顎でしゃくった。
「こんな場所でスイを殺すんだったらなんの為に何年もかけて奴を連れてきたんだい。ヘイズルがそんな真似をするわけがないよ」
「で、でもスイはまだあそこに……っ」
「ああ。だから頑張ってもらわなければならない……本当に」
 クリュウに向けて彼女がそう言うのに、小さな妖精は訳がわからなくなって泣きそうな顔をした。
「情けない顔をするんじゃないよ。津波に町を襲わせるのはいい。だけれど――町が水没したら、彼の生きる道はない、それをよく覚えておくことだね」
「どういうこと……?」
 すがるようにして問うセルピの頭を、珍しくリエナは安心させるかのように手をおいて撫でてやった。
 そんな彼女の仕草にディリィも一瞬驚いたような顔をするが、続いてほっとしたような表情になる。
「本当に困った人だね、まあこんなことになるだろうとは思っていたけれども」
 夜といえど潮風が止まることはない。世界はいつだって動いているのだ。
 不思議そうな顔をする各々に向けて、リエナは小さく笑ってみせた。
「――ひとつだけ、彼に炎から逃げ延びる方法を教えておいたよ。とても……とても苦しい道だけれども」


 ***


 既に熱さなど感じられなくなっていた。
 恐らくまた体中火傷だらけなのだろう。痛みなどとうに忘れてしまった。体はひたすらに重く、呼吸が苦しいだけだ。
 それでもスイは、たどり着いていた。
 行き着く先へと、たどり着いていた。
 既にそれが奇跡。スイ本人も実際ここまで来れるとは思っていなかった。
 ――いつか、気になっていたことだ。
 三年前の炎の日、町の者はその例外を除いた全てが貴族の大軍によって虐殺された。
 逃げようとしても、その兵の包囲網によって逃げ切れた者はいないはずだ。それほどの大軍だった。
 だがその例外――スイはあの兵の壁を全て突き破って町を抜け出した。
 ヘイズルもハルリオも、元から町にいなかったから逃げ出すことができた。
 ――なのに、……不思議なのはリエナだ。彼女は町の中にいた。兵を突破したわけでもない。なのにこの炎をしのぎきった。
 どうしてだったのかと、訊いてみた。
 すると、彼女はそのときのことを思い出したのか――かすかにその表情に悲愴を込めて、教えてくれた。
 ごくりと唾を飲み込んで、その重い鉄の扉を開く。元々は隠された廃屋の中にあった地面へと続く扉は、――幸運なことに熱で変形することもなく、素直に開いてくれた。

『あの地下基地のかなり奥のところに隠れたんだよ。そこまで行けば地面の熱で蒸し焼きにされることもない』

 ――だが、その奥に広がるのは。
 その光景に、脳裏に彼女の痛々しげな表情が過ぎる。

『でも二度とあんな場所はごめんだね。あの辺りは全く明かりもない。酸素がなくなるから火も焚けない。何も見えない、何時だかもわからない閉鎖された空間でひたすら待つしかないんだよ。――気が狂うかと思ったね』

 ――知らず知らずのうちに彼女の手を強く握り締めていた。
 扉の向こうはぽっかりと、黒。既に中の松明も切れているのだろう。持っているものの中でも、灯りになりそうなものはなかった。木の棒一本でも落ちていればそこらで火をつけて照らせるだろうが、あいにく既に町中の緑が燃えてしまっている。
 だがここで立ち止まっている余裕などない。煙がひどく、スイも目を半分程度しか開けていられない。
「……行こう」
 ピュラはどこかぼんやりとした顔のまま、ふっとスイの顔を見上げて……頷いたようだった。ほんの少し髪が揺れたからそう感じられただけなのかもしれなかった。
 だが、ぐっと唇を噛み締めてスイは強く頷き返す。彼女の手を離さないように握りながら、中へと踏み込んだ。
 彼女を先に階段の下まで行かせて、煙が入らないように重い鉄の扉を閉める。
 ――がちゃん、という音と共に……その場を、真の闇が襲った。
 突然炎の光溢れる場所からこんな空間に飛び込んだからか、酷く眩暈がした。だが、早く下まで行かなければならない。
 思っていた以上にそこの空気は熱されていた。当たり前だろう、上では煌々と炎があがっているのだ。
 緊張とあいまって、どっと汗が吹き出てくる。
 だから、彼女の手を片手で掴んで、もう片手で壁の感触を確かめながら……記憶だけを頼りにして奥へと急いだ。
 肺の中に入る空気も熱く、体中が痺れるようだった。
 だが急がないと――自分以上に極限状態となっている彼女の方が先に倒れてしまうだろう。
 そう思うごとに繋いだ手を握り締める。かつかつ、と遠い足音。
 だけれど、それだけが彼女がまだ歩いている証拠として心を幾分か落ち着けてくれた。
 地下通路は地下一階が複雑な作りをしている反面、ひたすら下へ向かう分にはそこまで面倒な作りをしているわけでもない。
 ただ、入り口から直線。そのままずっと真っ直ぐに進めば階段がある。
 その先に地下二階、直線通路の向こうには倉庫――だが、その先は行ったこともない。
 こんなことになるのなら奥の方もその作りを把握しておくのだった、と遠くで思った。
 つい昨日まで当たり前に過ごしていた空間はまるで別次元。
 人は光なくては生きられないと聞く。黒く塗りつぶされた狭い空間に閉鎖される状態が数日続くだけで気が狂うらしい。
 確かにそうだった。この道が本当に正しいのだろうか、段々不安になっていく。
 この暗闇では方向感覚も鈍る。真っ直ぐ歩いているはずが全く見当違いの方向に向けて足を向けている可能性だってあるのだ。
 もし複雑な小部屋の続く通路になど入ったら最後、きっとここで蒸し焼きにされて倒れるだろう。
 たった一つ彼女と繋いだ手は力をなくしてきている。絶対に離してはいけない。ここで離せばもう二度と会うことはできないだろう。
 次第に娘の足取りはおぼつかないものとなり、小さな呼吸の音が荒くなってきている。
 視覚が完全に閉ざされているからか、その分聴覚がとぎすまされているようだった。
 だがそれもこの熱の中ではけぶり、ぼやける。まだ階段に着かないのだろうか。随分歩いた気がした。――こんなにも地下二階への通路は長かったろうか。
 焦る心が足を速めた。早くしないと本当に倒れてしまいそうだ。自分の呼吸が嘘のように荒くなっていることを、今になってやっと気付く。
 それにしても長い。今一体自分はどこに向かって歩いているのだろう。壁を伝ってはいるが、もう逆方向へと向かってしまっていたのかもしれなかった。
 ――だが、そんなときのことである。
 ふいにスイはその空気に違うものを感じて、一瞬足を止めた。
 周囲を見回そうとして――だがそれはこの空間の中で意味はないことに気付き、肌の感覚だけに集中する。
 ――すると、その空気の流れが確かなものとして、体に伝わってくるのがわかった。
 この熱い空気の中に、風のように感じるかすかな冷めた空気。――階段が近いのだ。
 そう思うと気がはやった。再び彼女の手を握り締めて、一歩を踏み出す。
「……もうすぐだ」
 からからに渇いた喉は貼り付いて、すっかり声がかすれてしまっていた。だけれども地下にぼんやりとしたものとしてそれは響いていく。
 彼女が今どんな顔をしているのか、伺う術はなかった。今できることは前進、それだけだ。
 かつん、と足が何かを感じて止まった。注意深く探ると――段差を見つける。恐る恐る踏み出すと、そこが階段だということに気付いた。
 足を踏み外さないように一段一段降りていく。
 ――まるで、そこは宇宙のようだった。
 自分以外のだれもいない、黒の空間。
 上下の感覚すら薄れ、自らの存在する感覚さえもが希薄となる。
 ――だけれども、たった一つその手の感触だけがこの地に自らを繋ぎとめる頼り。
 かすかに動く気配は自分とは違う別なものがいるのだと、わからせてくれる。
 かつり、かつり、と脳に直接響くような音。彼女が転ばないようにしっかりと手を握ってやりながら、更に深くを目指す。
 地下二階に入ると、途端に空気は冷たくなった。その涼しさに思わず息が漏れる。
 だがここで暫く待っていれば次第にこの辺りにも熱が入ってくるだろう。もう少し、と足を奮い立たせて二階の通路を歩いていく。
 こつ、こつ、と時折よろけているのか不規則な足音が斜め後ろからついてくる。
 あまりこれ以上先には進めないだろう。地下3階ほどまで行けばなんとかなるだろうか。
 だが、次第に歩いていくごとにそこが地下何階なのかすらわからなくなっていった。
 なんだか何年もの年月をこの暗闇で過ごした気もしてくる。
 なんとか倉庫の扉を開けて、中へと進む。
 ――しかしスイの気力が持ったのは、そこまでだった。
 倉庫は広い。様々なものが蓄えられていたそこのほぼ真ん中辺り――といってもこの暗闇ではどこにいるのか本人には見当もつかないが――で、スイは膝をついた。
 クリュウにはうわべだけの傷を治してもらっただけで、限界を超えた体は休息を欲しがってその活動を止めようとする。
 既に彼の足は彼のものではなくなったかのように動かなくなっていた。
 続けて手をひかれる形になったもう一つの影も、その場に崩れ落ちる。
 だが手が離れることはなかった。お互いがそこにいることを示すたった一つの証なのだ。
 暫くスイは酷い息切れをどうにかすることで精一杯だった。
 もう休ませてくれと叫ぶように急激に全身の力は抜けていき、もう立つこともできないとどこかで思った。
 そうやってほんの少し目を閉じて……開く。だが、それは閉じているときと変わらない、真の黒。
 どこになにがあるかもわからない。背筋に悪寒を覚えるような――そんな闇の中だった。
 手を握ったまま、そちらの方に形だけ頭が向く。しかしお互いの顔など見えるはずもない。そこにはやはり、黒。
 まるでそこに彼女がいないのではないかと思わせるほどの深さに……心が震えた。
 体は石になったように動かず、握っている方と反対の手はもう指の先ほども動かない。
 炎の音だろうか。それとも何かの耳鳴りだろうか、耳の奥でうなっているのは。
 次第に落ち着いてくると、もうそこには空気の重さしか残りはしなかった。

 そんなときだ。

「……どうして?」

 ぽろり、と。
 宝石が零れるかのような、小さな声が何かを震わす。
 ――否。世界全体が揺すぶられた気すらした。
 既に平衡感覚などなく、どこかに浮かんでいるような気さえしてくる。
 そんな中、スイは――確かにその声を聞いていた。
「……なんで、来たのよ」
 まるでそれは思惟の声のように、――天から降る囁きのように、奏でられる。
 目は開いてても閉じていても変わりなかったが、静かに目蓋を下ろしてスイは小さく息を吐いた。
「そうすれば……こんなことしなくたって、こんなに……苦しまなくたって、生きられた……でしょ」
 一つ一つを選ぶように、ゆっくりと声が染みる。
 その響きが最後まで消えるのを待ってから、静かに口を開いた。
「ああ、――そうすれば多分、生きられた」
 喉が痛い。言葉を紡ぐごとに焼けるように痛む。
 もしかしたら全てが幻聴なのかもしれなかった。この手の感触も、全てが幻なのかもしれなかった。
 そう思うと体が恐怖に凍え、心の奥底が悲鳴をあげる。
 だけれど、きっとこれが真実なのだと。その手に感じているものが真実なのだと。
 ――息を、はきだした。
「でも、多分それは……生きているだけだったろうから」
 何もない世界へと。
 このたった二人しかいない暗がりへと。
 繋いだ手の暖かさだけが、生きていることの証拠で。
 やはり彼女がどんな顔をしたのかも、知る術はない。
 返事はなかった。
 かわりに……ほんの少し。
 ほんの少し、彼女の方からその手を握り返してきただけだった。


 ***


「――っぐ……ふっ……」
 クリュウはげほげほとむせて、体中を駆け巡る不快感と戦いながら煙の中を飛んでいた。
 リエナにスイたちのいるであろう場所は聞くことができた。だが今すぐ会おうと飛んでいって――目の前にあるのは残酷な光景だ。
 炎の城。屋根は煙、がれきが壁。町の中は完全な炎の海に包まれ、火を嫌う妖精族にとても近付けるものではない。
 本能的な恐怖と不快感に、吐き気をこらえて口を手で塞ぐ。
 これでも煙から自らを守る魔法をかけているというのに、まるで目を開けることもできない。
 耐え切れなくなって、炎から逃げ出すようにして空へと飛び上がった。
 濃い煙の強烈な臭いだけでがんがんと頭痛がする。どうにかして中に入らなければ、と思うのだが……その試みは何度やっても成功することはなかった。
 夜は深く、風は強い。空に高く飛べば風も強くなるのは必然だ。
 だけれどクリュウは叫んだ。叫ばずにはいられなかった。
「スイ……っ!! ピュラ……っ」
 いくらリエナがあんな風に言っても、この炎の中で生き延びるのは本当に奇跡でも起こらない限り無理だろう。
 人間の命はこんなにもか弱い。三千年の時を生きる妖精族と違って彼らは百年と生きていられないのだから。
 だけれど、その輝きこそが――彼には瞬く光のように鮮烈に映る。
 そう、――皮肉にもこの燃え上がる炎のように。
 だから、その灯火が消えて欲しくないと叫ばずにはいられないのだ。
 段々と地響きが聞こえてきた。魔法の発動がもう近いのだ。
 まるで世界を震撼させるような海のおたけび。クリュウの顔が、更に歪む。
「……お願い、生きてて……!」
 もうこれ以上町に近付けない自分をなじるように、血を吐くような言葉を呟くと、クリュウは更に高みへと空を駆けた。
 そうして町の全貌が見渡せるほどに高みで彼は止まる。既に火は山にも移っていた。
 このままでは大規模な山火事になるに違いない。
 海に視線をやる。その怒りの波の前兆か、既に港の波は荒ぶって町へと噴き上げはじめていた。
 空はまだ暗く、星空が淋しく瞬いている。まるで炎の光に自らの囁きをかき消されてしまったように、静かに大地を見守っている。
「――精霊たちよ」
 ふっと伏せられたクリュウの手に、光が宿った。
 森がその力にざわめき、風がその想いを世界へと散らせて行く。
 このまま想いが全てに届けばいいと思った。
 ここで起こったこと、そのにおい、あらゆる人々の想い――それらが全て、世界に届けばいいと思った。
 いつか人がそれを忘れて同じことを繰り返すのだとしても。
 この世から哀しみも苦しみも絶対になくならないのだと……知ってしまっていても。
 それでも、考えることをやめてしまったら、もうそこには何もなくなってしまうだろうから。
「――どうか」
 空気が振動する。海の果ての方から――光の柱が立った。天を突き抜けるような光の渦だ。
 海は更に唸り声を広くに響かせ、町の炎はそんな様子に不安げに揺らめくようにも見えた。
 クリュウも負けじと世界の流れを引き寄せる。この大地から力を吸い上げ、この星空から力を取り込む。
 その張り詰めた空気に弱い羽根は悲鳴をあげた。だがそんなことに構っている余裕はない。
「――この世に生きる全ての人が」
 あまりにも巨大なエネルギーが大気を支配する。まるでそれはこの世を二つに割るかのごとく。
 その光はきっと、世界中に届いたのだろう。海から突き上げる力と、空から降り注ぐ力。
 遠い地で、真夜中だというのに突然光に溢れた窓に起こされた者は多かった。
 その全てが、一体何事かとその目を見張った。
 遠い空の果て。この世の片隅。きっと誰にも目につかないような、そんな地でこのようなことが起きているなどと、誰が予想できたろうか。
 ましてやそこにいる者の想いや願い、潰えたあらゆるもの――それらを誰が知りうるだろうか。
「――この世に生まれてくる全ての人が」
 だが世界の裏側にまで風が届く。突如として吹き荒れた風に、また人々は驚いて振り向く。
 そうして、何かの予感に胸を震わせる。
 世界の叫び声が聞こえてくるようだった。
 ずっと灰色に淀んでいた空気を振り払って。
 重い重い鎖をやっと解き放って。
「――ほんの少し」
 橙色の炎でさえかすむ、光の渦。
 真夜中に落ちる海の空が、ちかっちかっと何度か強く瞬いた。
 次の瞬間、大陸中を飲み込むような――海の波がその壁をみるみる伸ばしながら押し寄せてくる。
 この世にある汚れを浄化しているのだろうか。
 それとも、……あるいはその汚れをそっと、その懐に包み込もうとしているのか。
 不思議と恐怖はなかった。
 その渦が、町を呑みこむだけの力を持っていると見た目からしてわかるのに……妖精はただ、その光で出迎えるだけだった。
 山に囲まれた町。それを――あらゆる力が一気に呑み込んでいく。
 きっと、一瞬のことだったのだろう。
 この世界からしてみれば――瞬き一瞬にも満たない間のことだったのだろう。
 その体に持てる精一杯の祈りを込めて、彼は言っていた。
 たったひとり人と共に生きることを選んだ、彼は。

「……この時を、皆で生きていけますように」

 ――あらゆるものが、激発した。

 光は光に衝突し、炎が水と絡み、それらが交じり合って――はじけた。
 山へぶつかった津波はそのまま全てをさらっていき、ごっそりと山の形をえぐる。
 それを海へと押しやるように、光の渦が目を開けていられないほどに弾けてとんだ。
 地響きが町を襲い、極限まで張り詰めた大気は、割れる。

 そうやって、全てのものが強いひかりの中へと包まれていった。


 ――それはほんの、世界の片隅で。


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