-Bitter Orange,in the Blaze-
下・強いひかりの中に 終.真実と、現実と――

146.So, Why?



 ゆらゆら揺れる黒の波。
 風もないのに揺れている。
 さくさく音をたてる砂浜は白。
 たったそれだけ、単調な世界。
 足元に広がるのは砂かもしれないし、それか珊瑚の欠片――あるいはこの世界で死んでいったものの骨の残骸なのかもしれなかった。
 世界は灰色。
 重く、深く。
 ふと自らの存在に気付いて、手の平を見つめる。
 意識がぼんやりとしている。いつからここにいたのだろうか。
 足は勝手に歩いていく。黒と白、その狭間を目指しているのだろうか。
 慣性の法則にしたがって動く体。そう、今まで彼女は歩いていた。だからこれからも歩いていくのだ。
 足跡だけを残して、幼い影が過ぎてゆく。
 細い足がさくさくと小さな音をたてて。
 はじめから、そこには誰もいなかった。
 はじめから、そこに温かさなどなかった。
 歩く幼い影は、たったひとり。
 だけれど歩いていこうと思った。
 どこまでも歩いてゆけると思った。
 こんな場所で倒れるものかと思った。
 誰の手を借りることもなく。
 誰に頼ることもなく。
 この道を、たった一人で歩いてゆけると思った。
 声がきこえた。
 彼女は振り向いて、目を細めた。
 人懐こい笑顔がそこにあった。
 長い髪をおさげにした、幼い少女。
 どれだけつっかえしても、傍を離れなかった子供。
 傍にいるだけなら構わないかと、一緒に歩いた。
 子供はおさげをなびかせながら、小走りについてくる。
 さくさく。
 さくさく。
 どこまでも続く砂漠に二つの足音。
 だけれど、突然子供は立ち止まった。
 まるで怯えたような目で、こちらを見つめてきた。
 しかし彼女は止まるわけにはいかなかった。
 そうでないと、――歩いていないと、彼女もまた生きられなかったからだ。
 子供は泣き出した。
 ぽたぽたと砂に染みが落ちた。
 彼女はそんな子供を背に歩き始めた。
 どこまでも歩いていた。
 ぢくん、と胸が痛んだが、それでも立ち止まるわけにはいかなかった。
 だって、ほら。
 立ち止まったらこの砂と同じになってしまう。
 どこにも行けずに、引き込まれるだけ。
 振り向けば、既に幼い子供は半分、砂になってしまっていた。
 さらさらと零れ落ちていって、ついにはこの砂漠の一部となる。
 それは子供の決めたことと、彼女は思った。
 子供はこのまま朽ちることを選んだ。
 彼女はこのまま歩き続けることを選んだ。
 子供はそのまま、さらっと風に流れるようにして消えた。
 ひとり、歩いていく。
 寒いような、熱いような。
 満たされているような、からっぽのような。
 だけれど、怖くはなかった。
 ひとりでも生きていけると信じていた。
 その信じる想いが力となって、いつだってその心を支えていた。
 この自分に与えられた空間で、自分という存在を一杯に示して。
 そうやって生きていくと心から想っているのだから。
 つきん、と胸を何かがつく。
 吐息は浅く、だけれどその意味すら知らずに。
 ――いつしか、その胸を締め付ける何かにも慣れてしまっていた。
 さくさくとあてのない道を歩く。
 体が重くとも、それでも歩く。
 幾度かひととすれ違った気もした。
 やわらかな香りが数度、した気もした。
 過ぎ去る影は紫紺の色。
 やわからな笑みと、しなやかな肢体と。
 こちらをじっと見つめてくれた、あの瞳と。
 だけれど、いつしかそれも見えなくなった。
 歩く。
 歩く。
 歩く。
 歩く。
 歩け。
 歩け。
 ――どこまで?
 ゆけるところまで。
 ――どこに行く?
 それは未来のこと。彼女の知ったことではない。
 随分歩いた気がした。

 気がついたら、誰も、いなくなった。

 空虚だけが、静かに佇んでいる。
 黒と白のコントラストは低く、果ては何処にも見えず。
 一体どこまで歩いたのだろうか。
 辺りを見回す。
 なにもない。
 歩いているのは、とても辛かった。
 だけれど、それでも歩いた。
 様々なことを体験した気がした。
 ――だけれど、ひとりだ。
 それは、冷たいのだろうか。
 心が――どうしてこんなに空っぽのだろうか。
 なんだか、随分遠くまで来てしまったような気がした。
 誰の手からも離れて、たった一人でこんなところまで来てしまったのだと思った。
 胸に手をやった。
 ――だが、そこには何もなかった。
 痛みで剥がれ落ちたそこには、ただ無があるだけ。
 振り向いて、遠くに視線を馳せた。
 だが空と地のコントラストが広がっているだけ。
 誰もいない。
 何もない。
 当たり前だ。
 全ていらないと、捨ててきてしまったのだから。
 当たり前のこと。それが彼女の選んだ道。
 一人で生きていくと決めて、ずっとずっと歩いていた。
 誰かに甘えることも、誰かを頼りにすることもなく。
 全てのぬくもりに蓋をして、見ないふりをしていた。
 知らなければ、きっと歩いていけると思ったから。
 だからきっと、――誰もいない遠くまで来てしまったのだと。
 そう思った。
 ――本当は、欲しかったんだね。
 どこからか、そんな声がする。
 そうだ、欲しかった。
 ずっとずっと、欲しかったのに。
 それらを全て突き放したのは、自分自身だ。
 心が崩れ落ちる。
 ずっと自らを守っていた殻が剥がれ落ちていく。
 ふと足を見下ろした。
 ぼろぼろになった、無残なつっかえ棒がそこにあった。
 ――ああ、もう歩けないだろうか。
 そう思った瞬間、足はその意味をなくしてどさりと体が地に倒れた。
 ふわっと砂が舞う。
 だが、誰一人として手を差し伸べる者はいなかった。
 誰もいない空間。
 とても……痛かった。苦しかった。
 痛くないふりをしていた。苦しくないふりをしていた。
 本当はみるみる体はすり減って、ぼろぼろになっていたのに。
 ほんの少し、その温かさを知るだけで……その体は崩れるほどになっていたのに。
 ――だから、怖くて逃げた。
 誰の手をも振り払って。
 こんな場所まで来ていた。
 生きるために、人を殺した。
 たくさんの屍を越えて、ここまでやってきた。
 振り向けば、数多の魂の叫びが聞こえる。
 お前さえいなければ。
 お前さえいなければ、わたしたちは生きていられたかもしれないのに。
 お前が全てを突き放したがために。
 あらゆるものが犠牲になったのだ。
 お前がそこにいたがために。
 何人もの人が死んでいったのだ。
 いやだ。
 耳を塞いだって聞こえてくる声。
 震える。
 嫌だ。
 聞きたくない。
 ――怖い。
 とても、怖い。
 風がごうごうと唸って、その声を伝えてくる。
 お前を愛してくれる者がいた。
 なのにお前は何をしていた。
 ちっぽけな自分のことだけを考えて。
 自分が生きてさえいればいいなんて思って。
 そうやって、その想いを踏みにじった。
 そら、見てみろ。
 お前の足元の砂は全て、人の骨だ。
 お前の手は血に濡れている。
 せいぜい遠くまで歩いていくがいい。
 そこには何一つとしてあるわけがない。
 お前が望んだ結果だ。
 心を直接えぐるような言葉にがくがくと震える。
 現実を求めていた。
 いつも現実を求めていた。
 そして、その先にあるのは……やはり、現実だ。
 自分の腕に手をまわしても、ただ冷たいだけ。
 怖くなって、かたかたと肩が震えた。
 何も、考えられなくなった。
 だけれど、誰もいない。
 もう――歩けない。
 何処にもいけない。何処にもいきたくない。
 これ以上歩きたくない。
 体が重い。ここはとてもいやだ。
 そのまま、この地と同じになってしまえばいい。
 この砂の一部となってしまえばいい。
 そうすればもう何も感じなくなるだろうから。
 耳をかきならす音も感じなくなるだろうから。
 この心を引き裂かれるような思いもせずにすむだろうから。
 力を抜く。
 目を閉じた。
 さらさらと体が溶けていくのを感じた。
 それも――悪くはないかと。

 白と黒に、別な色が混じる。

 おかしな耳鳴りを感じる。
 少し、うるさい。
 一体なんだろう。
「――、――!」
 耳を叩く音。
 どこか懐かしい響き。
 だけれど、……聞いていたくない。
 また、意識をそのまま深くに落とそうとする。
 ――ふいに、頬に鋭い衝撃を感じていた。
 一度、二度。
 黒と白の風景がとろけていく。何かに引き戻される。
 炎のはぜる音。もう聞きたくないのに。
 橙色の燃え上がる景色。もう目など開きたくないのに。
 うっすらと目を開けば……そこには相変わらず橙色。
 ――しかし。
 それに照らされた、誰かの影があった。
 ……とても。
 とても、遠い影だった。


 ***


 倒れている彼女を見つけた瞬間、血の気が退いた。
 脳裏に瞬く、あの血だまりの光景。思い出したくないと思っているのに、勝手に心がそれを映し出す。
 その中心に伏していた、長い髪の娘――。
 あの日と同じように、駆け込んだ。
 炎の熱さなど全く感じられない。ただ、そこに一秒でも早くたどり着くことに全てを費やす。
 そうしてその小さな体を抱き起こして、祈るように名を呼ぶ。何度も呼ぶ。
 頬を叩いて……そこでやっと彼女がまだ生きているのだとわかった。その唇から小さくうめき声が漏れたからだ。
 だが彼女の体は傷だらけで、痛々しくその無残な姿をさらしていた。
 思わずその様子にスイの顔が歪む。
「――ピュラ」
 ゆさぶってやると、目蓋が震えた。一体ここで何があったかと思う前に、他の感情が入り乱れて……もう何も考えられなかった。
 ――だが、間に合ったのだ。
 いつかの炎の日とは違う光景が目の前にある。
 確かにこの腕の中の少女は――生きている。
 もう、それだけで十分だった。
「――ピュラ」
「……ぅ」
 その瞳がかすかに開く。だが、あまりにも急いでいた為に、スイが気付くことはなかった。
 その目がすっかり赤く腫れあがり、まだ涙をうっすらと湛えていたということに。
「……もう大丈夫だ。じっとしてろ」
 状況がわかっていないのか、ぼんやりと視線をさまよわせるピュラの返事を待たずにスイはその体を持ち上げようとした。
 早くしないと、全てが夢として零れ落ちていってしまう気がしたのだ。
 それにこの辺りも煙が濃くなってきている。早く連れ出してやらねばならない。
 彼女の一番酷い傷である肩の出血は――自分で包帯をまいたのだろう。だがそれも気休め程度にしかなっておらず、すでに包帯を通り越して血が滲んできていた。
 ――もう何ふり構っていられない。
 一刻でも早く、この炎のない場所へと連れて行かなければならない。
 そう、急がなくてはならないのだ。
 早く、全てが再びこの腕から零れてゆく前に――!

 ――なのに。

 ……だというのに。

 スイの手は、止まっていた。
 まるでその体の全機能を失ったように、止まっていた。
 瞳が、はじける。
 炎は相変わらずその姿を照らす。
 夜は深く、空気は重く――。
 呼吸すら止まったその橙色の空間の中で。
 たやすく彼を止めてみせたのは……娘の、細い腕だった。
 ひきつった喉は、何を紡ぐことも許さない。
 氷の刃が体を引き裂いたような、痺れるような冷たさが体中を駆け抜けた。
 その華奢な腕は抱き上げようとした彼の腕をこばむように、握っている。振り払えば一瞬で離れてしまいそうなほど、弱い力で。

 ――嘘だ。

 そこから上昇していた体温が冗談のように吹き飛んでいく。
 スイの顔に、違うものが混じった。
 背中から思い切り叩きつけられたかのように、言葉がでない。
 頭の中が全ての思考を停止して、張り詰めた瞳だけがその娘の顔を見つめていた。

 彼女の瞳は、何も映していなかった。

 ガラスのように透き通った目は、ただ虚空を見つめている。


 ――これは、嘘だ。


 そこには表情のひとつすらなく。
 泣きたいほどに感じているであろう傷の痛みに、顔をぴくりと動かすことすらない。
 ――それほどに、彼女の顔は別人のようだった。
 少なくとも、スイがいつも見知っているピュラという娘のする顔ではなかった。
 寒気を通り越して、吐き気さえ覚える。


 ――こんなことが、あっていいはずが。


 抱き寄せた体は軽く、まるでよくできた人形を抱えているようだった。
 彼の腕を握る力は冗談のように弱い。
 このまま無理に抱き上げて走ることもできたはずだった。
 そうしなければならないはずだった。
 早く、走り出さなければ――ならない、はずなのに。
 なのに、スイの体はたった一つ、その腕によって完璧に動きを封じられていた。
 じりじりと頭の奥が痛む。
 ただその瞳は、それが嘘なのだと願うように――呼吸さえ止まるような彼女の顔を見つめ続けるだけ。


 ――きっと自分は……悪い、夢を。


 そして、彼女から零れる音にも、また何の感情も込められてはいなかった。
 それははじめ、声にならないものとして、彼女の唇をかすかに震わせる。
「……して」
 機械のような、無機質な声。
 今にも消え入りそうな、炎の音にかき消されそうな、――ただ空気を震わすだけの音。
 それは、いつも聞いていた彼女のそれと同じものだった。
 だがそれでいて、一度たりとも聞いたことのない音色。
 ――どくん。
「……し、て」
 頭の中が真っ白になる。何もついていくことが出来ない。
 いつかの記憶を思い出している気がした。
 しかしそれは本人がそれを聞こうとしない限り、ただ垂れ流されるだけだ。
 炎の中の空間は限りなくその場から現実感を奪っていく。
 しかし、そこにあるのは現実という光景以外の、何でもなかった。

 また火が、はぜる。



「ころして」



 ――どくん。
 体中が、凍りつく。
 腕をつかまれている感触は、そこから全ての生きる力を吸い取るかのごとく。
「……ピュ、」
 どうにか搾り出そうとした声が、それこそ……途絶える。


 ――気が……遠く、遠く。


 彼女の目はスイを見とめることもない。
 ただ、そこにいる誰かに向かってうわ言のように繰り返す。
「……殺、して」
 まるですがりつくかのように、――あるいは拷問のように、腕を握る力が強められた。更にスイの息が詰まる。
 彼女の顔は確かにスイの方向に向けられていた。だが、彼女は何も見ていない。
 ひたすら、虚空に向けて呟くだけだった。
「……ひとりで生きていくって、思ってた」
 ずぶ、と心に直接食い込む音。
 それを普段から聞きなれているが為に、ひたすら深く突き刺さる。
「どこまでも歩いていくって、信じてた」
 その言葉を言わせてはいけない。
 彼女に――その言葉を言わせては。
 なのに、縫いとめられた心はどうすることもできずに。

「……ばかみたい」

 ただ、そこにいるだけ。

 そこではじめて気付いた。
 少し離れた場所に、影。
 知った者のものだった。
 赤紫の髪は地に散って。
 体中傷だらけになって。
 ――もう、動かない。
「知らないふりをして」
 ふっ、とはじめてその顔に表情らしきものが灯る。だが、その口元が歪むような笑みは更に彼女からかけ離れたもの。
 視界が眩む。もう、見ていたくない。ひきつった喉の代わりに、心の奥底が悲鳴をあげるような――。
「生きていけるはずなんかないのにね。そんなに強いわけじゃないのにね。そうやって、全部……全部、置き去りにして、」
 ぽろぽろと、感情の起伏のない言葉たち。
 心が戦慄する、そんなものでは済まされない。人の言葉というものは、こんなにも心をずたずたに引き裂けるものだというのか――!
「守るって言ってくれた人まではね返して、裏切って……!」
 血を吐くように、空っぽの声が突き上げる。
 涙さえ失った表情は白く、もう何もない。
「――ピュ、ラ……!」
 それが何の意味もなさないことを知りながらも、スイはその名を呼ぶ。
 だがたった一つ、――言葉が凍った糸を解き放つ。それを言った瞬間張り詰めていた体は動くようになった。刹那、どっと噴出す汗を感じながら構わず彼女を抱えて立ち上がろうとする。
 このままではいけない、と直感が叫んでいた。急いで連れていかなければいけない。とにかく、ここではない場所に。そうすれば、きっと彼女が元に戻るのだと、この景色が夢になるのだと――そう祈って。祈る以外に方法がなくて――。
 しかし、彼女の腕がそれを拒む方がはるかに速かった。簡単だった。彼女がほんの少しその体を引き離すようにすれば、……スイの動きなどまた凍ってしまうのだから。
 彼女はスイの目の前に座るようにして、俯いてへたりこんだ。ぱさりと赤毛がその顔を隠す。
 ――そうして。
「お願い、……殺して」
 炎に揺らめく視界の中、はっきりと、そう告げた。
 耳をつんざくような、刃そのものの言葉を。
 何かを言うのが……遅れた。
 否。今の彼に何かを言う術があるだろうか。
 彼女の手が伸びる。相変わらず俯いて虚空を見つめているはずなのに、迷いもなくその手は軽々とスイの腕を再び掴んだ。
「ねえ……ころして」
 うわ言のように呟きながら、その腕を持ち上げる。彼の凍った体は振り払うことすらなく、されるがままに両腕を拘束される。
「さむいの。もう、ここにいたくない……」
 持ち上がった腕は、彼女の誘導に従うままに……その細い首へと伸びて。
 やめろ、と心がわめき散らすのに、彼女の腕は魔法がかかったかのように彼の言葉も動きも止めてみせる。


 なにもかも、夢なのかとすら思った。


 かちりと、まるで何かの型にぴったりとはまるかのように。
 傷ついた両手が、その首にあてられた。
 彼女の指は彼の手を包むようにして――その力を、込める。
 やわらかなその肌に、……手が、くいこんだ。
「――私、強くなんかなかった」
 拘束された手を解き放たれることも許されず、スイは……その赤毛に見え隠れする瞳を――とらえる。
 何も見ていない、まるで呆然としたような顔。
 炎に深く照らされているからこそ、影は色濃く落ちる。
「やだ……こんな世界、生きていたくない、生きていて……その先に、なにがあるの」
 更に指の力が強められる。喉を塞がれた声は、消え入りそうなほどに霞んで。
 その言葉には、絶望の二文字しか残されてはいなかった。
「生きていたくない……」
 生々しい手の感触に、心がはじける。
 勝手に記憶が瞬いて、そこにまき散らされていく。
 目まぐるしく変わる光景。意識すら遠のく。
 だがにわかに――再び、一つその指に力が加えられていくのに現実に引き戻される。
 じわじわと力はこめられていく。冷たい彼女の指の感触。体が動かない。
 みるみる全ての意志が萎えていくのを感じていた。もう、目を固く瞑ってしまいたいとさえ思う。
 こんなのは嘘だと叫ぶ心はすっかり疲れきって。
 考えることをやめてしまえと――誰かが耳元で囁く。
 こんな光景を、見るくらいだったら。

「殺して……!」

 そう、こんな光景を見るくらいなら。
 このまま。
 このまま……。


 脳裏に思い出す、鮮烈な光景。

 いつだって思い出は遠い。あまりに遠い。


 ――あんたはいつもそうやって目を逸らすでしょ


 ある朝のこと。
 確かそれは、とても穏やかな朝のことだ。
 一度、彼女を置いていこうとした。
 何も言わずに離れようとした。
 そうしたら、彼女は。

 息をきらして、ここまで走ってきて。


 ひかりが、またたく。
 心が、震える。
 ダムを壊して、中のものが溢れ出るように。
 かっと体が熱く――血が煮えたぎる。
 動けないはずなどない。それはただ、自分で自分を拘束しているだけだ。

 今までなされるがままに細い首にあてがわれていた指が……動いた。
 縛り付けていた彼女の手を、振り払う。そのまま手は止まることもなく、振りあがって。
 ――手加減をする余裕など、一片たりともなかった。

 風の音。

 恐らく彼が反対の腕でその肩を支えていなかったら、彼女はそのまま何メートルか飛んでいただろう。
 もう、音も何も聞こえない。熱さもなにもかも、とてもとても、遠いもの。
「……ふざけたことを……」
 ただ虚空を見つめる瞳に向けて。
「ふざけたことを言うな……!!」
 人形のように顔を俯かせるままの彼女の腫れた頬を手で包み、半ば無理矢理顔を上に向かせる。
 顔を覆うようにしていた髪の中から、相変わらず何も浮かべない表情が露になった。
 炎の色をそのまま映しこんだ瞳。
 深い深い、どこまでも深い、その色。

「話すときは人の目を見て話せと言ったのは何処の誰だ……!」

 血を吐くように、叩きつける。
 小さく、その色が揺れた。
 そのほんの動きがわかるほどに、目を逸らさずに。
「ぁ……」
 うめき声が、彼女の喉の奥で聞こえた。その眼差しの強さに目を逸らしかけて、だけれどそれをすることも許されずに……ただ、迷うばかりで。
 小さな影は逃れようとする。そのあまりに真っ直ぐな目が耐え切れない。恐怖に体を突き放そうとする。目を閉じて、激しく首を振った。
「ぅあ……っ」
 自らを否定した心はただ逃げるだけ。そのぶつけられる想いが、ひたすら……怖くて。
「ピュラ……ピュラ、しっかりしろ……!」
 自分の体を抱きしめるようにして拒絶する彼女の肩は、冗談のように震えていた。
「やだ……、や……!」
 その声を聞きたくないのか、更に自らを守ろうと首を振る。
 体を支えるものなどなにもない。心を保とうとするものなど、全て壊れてしまっていた。
 そこにあるのは、からっぽの抜け殻に持て余す、――溢れる思惟の渦だ。
 スイの顔が小さく歪んだ。
 はじめからすがるものなど何も持たず、――そうやって自分を失って。
 目にするものの全てを、恐れて。
 凍りついた感情は、この炎に溶かされて。
 じわりとまた――胸が、痛む。
 彼にできることなど片手で数えるほどすらないのだ。
 だというのに、それすら満足にすることもできずに。
 いつだってそうだ。
 そうやって、いつも失ってきたのだ。

 だが、そうすることだけは許されるだろうかと。

 たったひとつ。
 スイは、右手をその肩から離して……。
 それが精一杯なのだと、心から感じて。
 傷ついた心はそのままに。
 それが彼女に――伝わらないものなのだとしても。

 そっと。
 その頭の上に手を乗せてやった。

「あ…………」

 彼女の動きが、ぴたりと止まる。
 今まであんなにわめくようにしていた娘は、呆然としたような顔で。
 瞳が揺れて……そのまま表情が、歪んで。
 ずっとずっと、高みのものとして彼女を見ていた気がした。
 どこか遠いものだと思って、見ていた。
 だけれど、こうして目の前にへたりこむ娘は、ずっと小さくて。
 幼さを封じ込めて時を止めていた、子供のようだった。
「――っぅ」
 焦がされた地面はとても熱く。
 吹きすさぶ風は心を焦がすかのごとく。
 あぶられる体は痛みにまみれて。

「あああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!」

 その魂が、絶叫をあげた。

 自らを支える術をなくした体は簡単に崩れ落ち、彼の胸に倒れこむ。
「ああっ……あぅ、あっ……!!」
 声の波は容赦なく心に叩きつける。だが喉を締め付けられるようなその痛みに引き裂かれそうになっても、スイはじっとその声を受け止めていた。
 直接感情がぶつけられる衝撃に、胸が悲鳴をあげた。
 それでも、目を閉じて耳をすませる。
 ――そうでなくては誰がこの娘の叫びを聞いてやれるというのか。
「やっ……わたし、最低……よ、こんな……っ、」
 肩口に頭を押し付けるようにして、震える声。
 潰れた喉がかきならす音は、心をえぐる。
「怖かった……怖かった、あの人に近付かれるのが、……っ、私、」
 すがりつくように腕を掴んでくる指は真っ白になるほどに強く、そこがまた……痛んでも。
「……ああ」
 スイは小さく頷く。
「家族なんていらないって思ってた、……一人でも生きていけるなんて、信じてて……」
「……そうか」
「受け入れたら否定されるって……生きてきた全て、全部壊されるって思って……また、突き放して」
「……ああ」
「たったそれだけだったのに……それだけだったのに、ずっと欲しかったのに、――気付くまで、待っててくれたのに……!」
「……――ああ」
 心に刻み込むように、ひとつひとつ。
 頷きながら、焼き付けていく。
「なんで……」
 弱く、今にも消え去りそうな声。
 それは、慣性の法則に従ってあるがままに生き抜く獣のものではなく。
 その心の内側に秘めた、人としての――慟哭だった。
「どうして……気付かなかっ……ぅ」
「……」
 スイは、静かに目を開いて橙色の炎に目をやる。
 全てを飲み込み焼き尽くす光の渦。
 あまりに眩しくて、痛かった。
 この中に消えた者たち……もしかしたら今日、どこかで誰かがあの日のスイと同じ痛みを味わっているのかもしれない。
 時代は繰り返す。戦乱に包まれていた300年前。そのときもきっと……こんな火が、どこかの町を焼いていたのだろう。
 そして、これからも。
 いくらでも人は消えていくのだろう。
 何も遺せずに。いつの間にか忘れ去られて。
 失って、嘆いて、壊れて、その破片を拾おうと――震える指を伸ばして。
 そして、どんなときでも――炎はこうやって、華々しく残酷に燃え上がっているのだろう。
 あまりにそんな中で、自分たちは小さいのだ。
「……どうしてだろうな……」
 心が勝手に、そう呟く。
 その腕の中の赤毛にそっと指で触れながら。
「……どうしてなんだろうな……」
 また、目を伏せる。
 熱い炎にあぶられながら。
 いくら強くなったところで無力な己を、じっと抱えながら。


 また、炎がはぜる。
 あまりにまばゆく輝く炎が、町を覆い尽くす。


 ――ふいに、……ピュラの瞳に、かすかな光が戻った。
 何も見ていなかった目には、……やはり橙色と。
 ぼんやりと、何度かまどろみのような時を繰り返す。
「……ぁ……」
 小さく声が漏れた。
 不思議そうに瞬く瞳は、その情景をとらえて。
「……え?」
 それを確かめるようにして、彼の服を握りなおす。
 傍にいたのが、誰であったのか――また、心が震える。
「……ス、ィ……?」
 知っている色が、橙色に染まっていた。
 どうして彼がここにいるのだろう。
 どうして……こんな場所に彼がいるのだろう。
 しかし、そんなことよりも、彼女を不思議そうにさせるものがあった。
 呆然としているような顔で、ほんの少し上を見上げる。
 だが、それは再び頭を押し付けるようにされて拒まれた。
 そうして、……その手が、震えていることに。
 どうしてだろう。
「スイ……」
 ――この人の手は、こんなにも大きかっただろうかと。


「――泣いてる、の?」


 ぼやけた思考の中で、囁いていた。
 するとまるで、何かを押し殺した声で。
「……煙が目に入った」
 彼の返事が返ってくるのだった。
「……、」
 震えるように彼女の唇が動く。
 だけれどもうそれは言葉にならない。
 炎の匂いがした。なにかが焼けていく匂いがした。
 むせかえるような、血の匂い。
 だけれどピュラはそんな中で、再び――目を閉じていた。


 ***


 ちりちりと頬が痛い。冬も近いというのに……灼熱の空気が体を焼く。
「……立てるか?」
 スイが立ち上がって手をひいてやると、不思議なほどに彼女は素直に従った。顔は俯いているが、その指はきちんと手を握り返してくる。
 マントを歯で裂いて彼女の反対の手に握らせ、口にあてがってやった。彼はクリュウの魔法がまだ効いているから平気なものの、彼女は生身同然なのだ。煙を多く吸えば窒息死に至る。
「――走るぞ」
 彼女が走れなければ抱きかかえて行く覚悟で、スイは行く先を睨んだ。その道は炎の地獄。よくここまで来る時こんな道を走ってこれたと思う。
 もう時間がない。早く……早く、港に着かなければいかないのだ。
 手をひいて、走り出す。
「……あ……」
 彼女は一度だけ振り向いて、遠くに倒れる影に表情を歪めた。
 ばちばちと炎が暴れまわる。がれきが倒れて……酷い音をたてて砕け散る。
 みるみる炎の染まっていく、先ほどまでいた場所……。
 足がもつれそうになる。手をひかれる。そのまま、走り出す。
 何もかもが消えていく。この強い光――橙色の強い光の中に、消えていく。
 まるでそれは夢のように。
 だけれどそれは変わらぬ現実で。
「……っ、」
 スイの視線が右に左に動く。来るときに使った大通りが完全に火の海だ。もう通れない。別の道を探そうと、また走り出す。
 だが――また道を塞がれて。再び元の道に戻って、他の道を探す。
 体が熱い。血管の隅々までそこに流れる血が沸騰したようだ。
 それでも諦めるわけにはいかない。この奇跡を最後まで繋がなければ――それは奇跡とは言えないだろうから。
 だが、また行く先は炎の壁に遮られていた。何年前か暮らしていた町の地図を必死で頭に思い浮かべるが――既に港へ通じる道は全て炎に閉ざされてしまっていた。
「――ピュラ!」
 刹那、悪寒を感じてとっさに彼女の手を引いて、横に飛ぶ。
 次の瞬間、崩れた壁が火をまとって彼らのいた場所に直撃した。
 再び――炎が飛び散る。風と共に舞い上がる火の粉。その光景に彼女の手が震えたのが伝わってきた。
「……大丈夫か」
 どうにか立たせてやって、一度その場から離れ……スイが問う。
 だがピュラは小さく俯くだけだった。けほけほと布ごしに堰の音。既に彼女の体力的にも限界が近い。
 スイは辺りを見回す。
 その――目が痛くなるようなその光景を。
 風がまた炎をなぶり、炎は更にその勢いを増す。こうしている間にも次々と道は塞がれていっている。
 もう逃げられないことなど、頭の隅で理解していた。あのときにこの町に飛び込んだときから、既に戻れないことをどこかで悟っていたのだ。
 ――だが、ここで崩れるわけにはいかない。せめて、この娘を安全な場所へ連れて行くまでは――。
 唇を噛んだ。どこか、逃げられる場所。この炎から逃げられる場所に――。

 ……ふっ、と。

 頭のどこかに、なにかが弾けた。
 思い出した。
 ある。
 たったひとつだけ。
 炎から――隠れられる場所。
 ――だけれど、そこは。
「……ピュラ」
 名を呼ぶ。ぎゅっと手を握り締めて、スイは彼女を見下ろした。
 彼女は相変わらず俯いて、苦しさに喘いでいる。そんな様子にかすかに顔を歪めながら、スイは祈るように言っていた。
「多分、――ここから先は」
 それがどんなとんでもない賭けなのだとしても。
 それでも最後まですがってみせようと――。

「生きるも死ぬも、……一緒だ」

 走り出した。
 ピュラは手のひかれるままについてくる。
 ――行く先は、風下。
 そう、ここよりも更に炎の広がる場所――。


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