-Bitter Orange,in the Blaze-
下・強いひかりの中に 終.真実と、現実と――

145.追った先に……



 それはまるで、鈍器で後頭部を殴られたかのようだった。
 瞬時にして周囲の現実感が吹き飛び、重力に従って自らの足で立っていることすら不明瞭になる。
 平衡感覚を失った瞳は、ただ一点を見つめていた。
 父の蔵書を漁っていたときのことだ。
 ふいに本の中からはらりと落ちた写真――。
 不思議に思ってそれに目を落とした瞬間、その情景に目が釘付けになる。
 ……そこには、緋色の髪をした女の人が笑顔で写っていた。
 そう、――あの記憶に焼きついた、穏やかな笑顔で。
「――」
 何かを紡ごうとした喉はかさかさに渇いてそれを許さない。
 フラッシュバックする光景。幾度も波のように打ち付けながら、光景を導き出す。
 ふんわりと笑う、幸せそうな女の人。
 父に連れられて歩いた道。
 静かに佇む町外れ。
 町の喧騒も遠くて……。
 橙色に区切られた部屋。
 穏やかな空気。
 終わらない歌声。
 優しい夕暮れ。
 落ちる影。
 その中に包まれるようにして、眠る――。
 忘れていた――全て忘れていたはずだったそれらが。
 ――ひとつの、言葉となって。

「――ピュラ」

 彼の中で、何かをはじけさせていた。
 その名前を心が勝手に呟いた瞬間――少年は思わず手で口を覆う。
 そうでないと、噴出した想いが全て溢れてしまいそうだったからだ。
 数歩ふらついて、がつん、と本棚に体をもたれかけた。
 頭が痛い。体が重い。
 ――だけれど、覚えている。あのぬくもり、あの声。
 夕日に包まれるようにして眠っていた、小さな赤子の姿――。
 思い出してはいけなかったのかもしれなかった。
 ずっと心の奥底に封じ込めていなければいけないのかもしれなかった。
 ――しかし、そう思ったときには既に転がるように廊下を走って。

 父親の部屋の扉を、荒々しく開いていた。

「……親父」
 ぼそりと呟いた音は、自分でも思ってもみないほどに低く。
 ぎらぎら光る紫色の瞳に、憎悪すら湛えて。
「なんだフェイズ、騒がしいぞ」
 父親は相変わらず仕事に没頭している。最後に話したのはもう何日ぶりだろうか。
 少年はつかつかと父と机を挟んで対峙し、その机に写真を叩きつけた。
 ふっとそれを見た瞬間、父親の目の色が変わる。
 その瞳がフェイズの瞳を捉え、かすかに揺らめいた。
「――これがどうかしたか」
「ピュラをどこにやったんだ」
 間発いれずに、声。
 辺りがしんと静まる。
 父親は眼鏡を外して、ふいと視線を背ける。
「そうだ、あの日――あの家に行ったらピュラはいなくなってた。あの人もいなかった。一体何があったんだ……!」
 詰め寄るようにすると、父親は眉をしかめてあからさまに不快を示した。
「お前の知るべきことではない」
「っざけるな!!」
 だんっ、と少年の拳が机に叩きつけられる。
 それ以上に響き渡るのは、その刃のような感情をはらんだ怒声だった。

 そうだ、あれは夢ではなかった。
 幸福は実在していた。
 そう、あの妹は、確かに存在していた。
 そうして、一生守るのだと。
 たったひとりの妹を、一生守るのだと――誓った、

 ……それが、彼の心の奥底にずっと染み付いていた、真実だった。

「……なにがあったんだ」
 搾り出すように言うと、父親はふいと視線を投げて言葉を紡ぐ。
 静かに、真実がその口から語られていった。
 ――それは、吐き気がするような出来事だった。
 急病による愛人の死。
 だが医者として、妻なしに子供がいるのは世間体が悪い。
 故に別れるはずだった今の母親との婚姻は途切れず。
 そして絶対にあの母親は赤子を受け入れないだろうという判断で――。
「……捨てたのか」
 少年は、絶句しながらも――そう呟かずにはいられなかった。
 吐き気と眩暈にみまわれ、声が更に低くなる。
「てめえの都合で……ピュラを、実の娘を捨てたっていうのか」
「仕方ない、そうでなければ――フェイズ、お前だって今のような生活が出来なかったのだぞ」
 殴りつけたい衝動を、すんでのところでこらえる。
 ――違う、殴りたいのは目の前にいる男ではない。
 自分自身だ。
 守ると誓ったのに。
 幸福な時を夢見て、あの奇跡の瞬間を守っていくのだと――そう誓ったのに。
 どうして――そんなことも忘れて一人、のうのうと生きていられたのか――!
「ピュラのことは忘れろ。お前に元から妹などいなかった」
「生きているのか」
 ぴくり、と父親の肩がわずかに動く。
 少年は食い入るようにそんな父親を睨んで、もう一度訊いた。
「ピュラは……生きているのか」
「可能性は低い」
 父親はただ真実を返す。
 大人というものはこんなに冷たいものなのだろうか。それほどまでに声は冷め切っている。
「あの子を預けたのは――キマージの孤児院だ。だが、あの町は」
 少年の瞳がふっと揺らいだ。
 彼でも知っている、2年前の大事件。エスペシア家による、炎の記憶――。
 あの制裁により町は壊滅、生き延びた者も数少ないと聞いていた。
「……そういうことだ。諦めろ」
 父親はそれ以上話すことはないという風に再び診察カルテの書きこみを始める。
 少年はしばらく動くことも出来なかった。
 幼さを残す紫の瞳は、ただ……虚空を見つめて。
 唇が、かすかに動いて。
 ――また、言葉となる。
「……生きてる」
 ふと、父親の視線が再びこちらに向く。
 しかし少年は目の前だけを見つめたまま、うわごとのように呟いた。
「……きっと生きてる」
 足がふらついて、動く。
 妹がいる。
 妹がいる。
 たったそれだけで、十分だ。
 それなら――幾年の年月をかけてでも、探し出せる。
「フェイズ!」
 父親の声。
 振り向いて、冷めた瞳を投げてやる。
 まるで表情のない顔は凍りつくほどに強い意志を持っていた。
「――出て行く」
「何を言い出すんだ、気でも違ったか……!」
 もう声も遠いものとでしか耳に届かない。
 こんな場所には偽物しかないのだ。
 偽りの家族。
 偽りの生活。
 当たり前のように過ぎていく日々。
 ――そこにあるはずだったものを、簡単に見捨てて、置き去りにして。
 早く行ってやらなくてはいけないと思った。
 そうして、精一杯に抱きしめて。
 ただ一言、ごめんな、と言えるのなら。
 ずっとずっと一人にしてすまなかったと。
 守ると誓ったのに、忘れてしまってすまなかったと。
 ――まるで今まで封じていた心が、一気に解き放たれたようだった。
「生きている可能性など、ゼロに等しいんだぞ」
 そんなこと、知ったことではなかった。
 ただ、希望があるというのなら――例えこの身が朽ち果てようとも、それを追いかけようと。
「うるせえ、出て行くのは俺の勝手だろう」
「夢をみるのもいい加減にしろ! もし運良くピュラが生きていて出会ったとしても――あの子はお前のことなど覚えてはいないぞ」
 嘘だ。
 覚えているに決まっている。
 負けてたまるものか。屈するものか。
「いや――、そもそもこの広い世界で会える可能性があるとでも言いたいのか」
「ああ、言うさ」
 まるで初めから答えを決めていたかのように、少年は返した。
 今までの灰色がかった記憶の中、たった一つ鮮烈に輝く光景を思い出して。
 ――そこにこそ、自分の生きる意味があるのだと。
 だから、再び踵を返した。
 もう、振り向く必要もなかった。
「――勝手にしろ」
 吐き捨てるような父親の声が背中を叩く。
 だから、背を向けたまま言ってやった。
「……俺は必ずピュラを見つけ出す。てめえが闇に突き落としたあの子を――必ず守ってみせる」
 それがあまりにも現実感に欠けていることに気付いて、自分でも笑ってしまう。
 だけれど、そう言葉にすれば――それが真実になるのだと思った。
 きっと探し出す。
 覚えているはずだ。あんなにずっと共にいたのだから、自分のことを覚えていないはずがない。
 そうしたら――抱きしめてやろう。
 もう、どこにも行かないと。
 そう言って、安心させてやろう。
 ――守ってやると、誓ったのだから。

 少年は旅にでた。

 それこそ、まるで砂漠の中から一粒の砂を探すような旅に――。


 ***


 また、二年が経った。
 何一つとして変わりのない二年間だった。
 収穫は何一つとしてない。全く妹の足取りを掴むことはできなかった。
 だが、諦めきれない。
 きっと諦めるときがくるのだとしたら――それは少年が死ぬときだったろう。
 何も得ることのない日々を送っていた彼にとって、持っているのは一握りの思い出だけ。
 それを手放してしまえば――虚無以外に残るものはない。
 赤紫の影が世界をさまよう。
 喧騒の中をかき分けるようにして、その二本の足で必死に立って。
 ――そんなときだった。
 とある一人の女性と出会ったのは。

「浮かない顔してるわねえ」
 とある町の食堂のカウンターにて。
 ふと顔をあげると、――どうやら旅人らしい女性がこちらを見つめていた。
「隣、いいかしら?」
「――別に構わねーが」
 そう言うと、女性は笑って隣に座ってきた。
 長い紫紺の髪があでやかに揺れる。彼女は手早く主人に料理を注文して、だされた水に口をつけた。
「んで、俺に何か用か?」
「いーえ、単に気になっただけ。あんまりに深刻そうな顔してるから」
 少年よりも随分年上だろうに、まるで子供のように笑ってみせる。何故だか悪い気はしなかったので、少年も薄く笑った。
「最近不景気だからねぇ……、こんなご時世だし、ちゃんと笑ってなきゃダメよ?」
 女性はくすくすと笑いながら顔を覗き込んでくる。
 そうされるのも気にならなかったので、なしくずしに会話が始まる。
 そうして、しばらく二人でなんでもない会話を続けた。この辺りの情勢から、様々な地方の情報、噂話――。どうしてかその女性からは嫌な空気など微塵も感じられず、むしろ話している内に心が温まる気さえして――気がつけば随分と話し込んでしまっていた。
「それにしても、どーしてまた俺に話しかけたんだい? まさかこの俺に惚れてしまったとか」
 そう言うと、女性は一瞬目を丸くして――、次の瞬間、口元に手をあてて大声で笑った。
「ふふっ、残念ながらそうじゃないわよ」
 こらえきれない笑みに肩を震わせながら、彼女は少年に視線を流す。

「ただね――あなたによく似た子を知ってるの。あなた見た瞬間にその子のこと思い出しちゃってねー、思わず話しかけちゃったわ」

 その瞬間、少年の顔から笑顔が消えた。
 どくり、と心臓が波打つ。
 嘘のように辺りの喧騒が聞こえなくなり、視界に映るのは紫紺の女性だけとなる――。
「――ぁ」
 喉の奥が詰まった。
 指先がぴりぴりとする。
 頭の中がやたら重い。
「うん? どうしたの?」
 不思議そうに首を傾げる女性。

 ――あなたによく似た子を知ってるの。

 フレーズが幾度となく頭の中をぐるぐると回っていく。
 まさか、と胸を更に膨らませる想いと。
 いやしかし、とはやる気持ちを抑えようとする想いと。
 何を言っていいかわからなくなる。
 詰まった呼吸が、次の言葉を見失う。
 だが少年は、その場で途切れそうになる言葉を紡ぎだす。
「――ピュラって子か?」
 胸がぢくん、と痛んだ。
 女性は再び目を丸くして――驚いたような顔をする。
「……え、あなた、――あの子を」
「ピュラを知っているのか!!」
 ――叫ぶようにして言っていた。
 食堂にいる者の視線がこちらに向くが、知ったことではない。
「どこにいるんだ! 今どうしてる、――教えてくれ!」
「ちょっ……落ち着きなさい、私の話をよくきいて」
 慌てて女性がいさめるが、既にそれどころではなかった。
 だけれど彼女は落ち着いた物腰で諭すように続ける。
「あなたの知ってる子と同じ名前って可能性もあるわよ?」
 だから、言った。
「本名はピュルクラリア、……紅い髪に橙色の瞳をしているはずだ」
「――」
 女性の瞳が――瞬く。
 ゆっくりとその表情に、蔭りを見せて。
 かすかな沈黙が、二人の間に落ちる。
 すると彼女は小さく溜め息をついて、静かに言った。
「……わかったわ。でもまず落ち着いてあなたのことを話してくれる?」
「――ああ」
 先ほどとはかわって真剣な彼女の物腰に、少年も再び椅子に腰掛ける。

 女性は、ディリィと名乗った。


 ***


「……そう、あの子の……」
 女性は静かな声でそう呟く。
 そこには喜びとも悲しみともつかぬ複雑な想いが垣間見えるようだった。
「――ピュラはどこにいるんだ?」
「今は私でもわからないわ。でも、きっとどこかで元気に旅をしてる――それは確かよ」
 あの子は強いもの、と女性は小さく笑った。
 そして彼女は妹がどのような道を歩んできたのか、教えてくれた。
 その内容は――焼け出された後の、スラム街。妹はたった一人で投げ出されて、そこで生きることを強いられたのだと彼女は語った。
 自然と少年の拳が握られる。自分がのうのうと生きている間――守るべき者はそんな場所にいたと思うと、どうしようもないやるせなさを感じた。
 だが、それよりも――たったひとつの真実が、彼の心にまた火をつけていた。
 ――生きている。
 ――生きているのだ。
 ずっと探していた夢が、現実となろうとしている。
「――あの子に会うつもり?」
「ああ」
 少年は強い瞳で頷いた。
「妹なんだ。――たった一人の」
「そう……」
 女性はじっと少年を見詰める。すると彼女は一語一語をしっかりと言い聞かせるように、続けた。
「フェイズ君。――あなたがあの子に会いたいのなら、私は止めないわ。でもね、……厳しいことを言うようだけれど、あの子はあなたのことを覚えてはいないわよ」
 真っ直ぐな眼差し。少年も構わずに睨みかえす。
 もう、彼の心は揺るがないのだ。
「あの子は一度だって家族が恋しいだなんて言わなかった。一人で生きていくと決めていたわ。――それほど幼い頃に孤児院に引き取られたんでしょうね、……だからあなたに会っても、あの子は――きっとあなたを思い出すこともない。むしろ、あなたを拒絶するかもしれない」
「思い出すさ」
 少年は短く切って、唇を噛む。
 胸がぢくぢくと薬品に溶かされたように痛んだ。しかしその痛みすら――彼にとっては慣れてしまったものだ。
「――ずっと一緒にいたんだ。覚えてない筈がない。それに――」
 空気は、とても重たかった。
 この世界の空気は、あまりに淀んでいる。
 苦しみも哀しみもその懐一杯に抱え込んで。
 そうやって大気は重苦しく横たわっている。
 そんな中、少年のできることは――ほんの小さな夢を叶えること。
「――絶対に守ると誓った」
 それが、唯一の真実だった。


 ***


 それからその女性には随分世話になった。
 彼女に妹の詳しい行方はわからなくとも、共に妹を探してくれた。
 ――ひょんなことから彼女のつてでとある町を拠点とするようになった。
 滅びた港町、レムゾンジーナだ。
 そこに属する限り課せられる仕事はあったが、旅をするための資金がでるのが何よりもありがたかった。
 あとはひたすら探した。
 大陸から大陸へと渡って。
 たった一つの想いを繋いで。
 時は巡る。
 少年はまた成長し、青年となる。
 世界の風を切るようにして、彼は歩き続ける。
 それが彼の生きる全てであったし――。
 それが彼の生きる理由であったからだ。

 だから、その日。
 もしかしたら、その一瞬だけ――彼は神の存在を肯定できたかもしれなかった。


 ***


 息が、止まった。
 情景は橙色。
 四角く区切られた空間は、あのときの部屋を思い出させる。
 心が、はじけるかと思った。
 窓辺からふりかかる穏やかな夕日。
 その中にじっと佇む――娘がひとり。
 娘はテーブルに頬杖をついて、窓の向こうに視線を送っている。
 彼女の髪は鮮烈な緋色。網膜に焼きつくその色は、美しく夕日に染まる。
 瞳は炎と同じ色。遠くを見つめるその視線の向こうには――何が映っているのだろうか。
 そうして、その耳元には――どこかで見覚えのある紅いピアスが、ちらちらと煌いていた。
 それはまるで、あの時に赤子を抱いていた女性と見間違えるほど――その空間が記憶と重なる。
 ぶれた二つの映像は一つに合わさって、――橙色を一層深く印象付ける。
 夢をみているのかと思った。
 ――もしかしたら、全てが夢だったのかもしれないとさえ思った。
 それほどに夕日に包まれた娘は――言葉で表せないほどに美しかった。
 声をかけたら……全てが夢となって消えてしまいそうだ。
 胸がまたひとつ高鳴る。
 足が自分のものでなくなったかのように動かない。
 溢れる想いだけが、頭を白く染めあげる。
 娘は相変わらず夕日を眺めている。
 それがおぼろげに覚えているあの赤子なのだと。
 時を経て、こんなにも成長したのだと――。
 歩き出した。
 一歩、二歩。
 大丈夫だ、歩ける。
 心臓の音が聞こえる。
 きっといつか思い出してくれるだろうから。
 あのときの唄を――きっと彼女は思い出してくれるだろうから。
 青年は、幾年もの年月を経て、守ると誓った娘の元へと歩いていった。
 部屋は橙色。人も少ない、夕暮れの食堂。
 夕日に照らされる娘の横顔は、穏やかに影を落として。
 再生と幸福の象徴であるピアスが、彼女の存在を示すように煌いていた。
 名前を呼びたくなる。
 だけれど、呼んでしまって――全ての夢が覚めてしまったらどうしようか。
 選択が出来ない内に、もう後戻りができないほどに近くまできてしまった。
 眩暈がした。
 自分がどんな顔をしているかもわからなかった。
 だけれども、――それでも。

 ――すとん。

 横に座ると共に、彼女の頬杖をついていた手がふと離れた。
 その横顔が、こちらを向く。
 深紅の煌きを宿したピアスがちらっと煌く。
 橙色の瞳は燃える炎を内に秘めて。
 あの日と同じ色の光を湛えて。
 何かを言わなくてはならないと思った。
 だから。
 だから――。
 彼女が自分のことを思い出してくれるまで、傍にいようと。
 そうして彼女を、妹を守ろうと。

「あー、今の夕日を見てた顔、すっごく良かったのに。誰か待ってるの?」

 フェイズは、小さく笑ってそう言った。


 ***


 炎が噴出す。火が踊る。
 今度こそこの町を跡形もなく消し去ろうとするかのように。
 あるいは、この町がその最後の光を輝かせようとするかのように。
 そんなはずれ、もう左手しか持ち上がらないフェイズは吐き出しそうになった血を飲み込んで、傍でへたりこんでいる娘にそっと触れた。
「あのとき、抱きしめてれば良かった」
 ぼやけた視線の先の娘は、呆然としたように自分のことを見つめている。
 早く立ち上がって走っていってほしかった。そう、いつものようにその力を一杯に煌かせて。
 そうでなくては、――こうして守った意味がないのだから。
 だけれど、……ほんの少し言葉を伝えるくらいの時間は許されるだろうかと。
「ごめんな、ずっと置き去りにして」
 頬からその紅い髪を撫で付けるようにして、フェイズは笑った。
 最後まで傍にいてほしい。しかし、この炎ではそれは叶うはずもないだろう。
「なのに諦められなくて、ごめんな」
 お前、本当に強くなったもんなあと眩しそうに呟く。
 そう、目の前の娘は幾年の年月を経て、見上げるほどに強くなっていた。
 家族というものなど、蓋をして忘れて――。そのぬくもりを、全て断ち切って。
 きっとそうでなくては生きてこれなかったのだろう。
 容赦のないこの世というものが、彼女をこんなに強くさせたのだろう。
 ――もう、自分が守る必要もないくらいに。
 けれども、諦められなかった。
 拒絶されることを恐れて、しかしずっと傍にいたくて。
 真実を、追いかけていた。
 それが変わらぬ真実だと信じて、追いかけ続けた。
 ――そうして今、妹は傍らで呆然と自分の顔を見つめている。
 それが、現実。
「わり……、悪かった。これからも……傍に、いてやれねーみたいだ」
 そんな顔をしてほしくなかった。
 ずっと、笑っていてほしかった。
 普段から生に満ち溢れていて、すぐに怒って、また笑って、そうやって走っていくのが彼女なのだから。
 そんな彼女に出会えた時点で、彼の生はそれこそ奇跡だったのだ――。
「ピュラ、聞こえてるか? 耳が遠くなるには若すぎるだろ」
 笑ってもらえるように、こちらも笑った。いつもの笑顔を、必死で作りだした。
 遠のきそうになる意識を手繰り寄せる。ちゃんと見送るまで、眠るわけにはいかない。
「……や……」
 ぼんやりとした向こうで、首を振る姿。
 まるでその光景を拒絶するかのように、彼女はふるふると首を振った。
「……い……や、そんなの」
 ――困ったな。
 こんな状況だというのに、思考はまだそう考えられるほどに楽に働いている。
 そんな風に考えられる自分がどこかおかしくもあり、――そしてそうすることが出来ることが、どこか幸いでもあった。
「うーむ、心配してくれるのは嬉しいが……俺、お前に兄らしいことは一度も出来なかったしなあ。まあそのくらいが心残り、かな」
 途切れそうになる言葉をなんとか繋げる。先ほどまではあんなに体が熱いと思っていたのに、今はすっかり冷たく感じられた。心臓の悲鳴が聞こえてくる。だけれど、彼女にそれを聞かせるわけにはいかない。

 だけれど、幸せだった。

「な、ピュラ。……兄ってどんなことするもんなんだ?」
 その声がどれだけ掠れてしまっていても、きっと彼女には届くだろうと。
 そう祈るように問いかけると――。
 彼女の肩が、震えた。
 ――また、怒られるのかもしれなかった。
 いつものように怒鳴り散らされるのかもしれなかった。
 だけれどそれでも構わない。
 もう、彼にとってはこれ以上望むものなどないのだから。
 ただずっと離れてしまっていたから。
 最後くらいは、ほんの少し……何かが出来ないだろうかと。
 わななく彼女の唇が、何かを紡ぐ。
 見上げる形になったその顔は、緋色の髪に隠れて。
「――……て」
「うん?」
 ぽろりと零れた言葉をうまく捉えることができなくて、首を傾げる。
 どうにかして彼女の声を聞き取りたいのに、けぶる意識がそれを遮っていた。それがたまならく悔しい。
 だけれど、次はきちんと聞こえた。
 それは彼女が激する感情を叩きつけるようにして、再びフェイズの胸倉を掴んだから、だ……。

「――生きて」

 ふっ、とフェイズの表情から笑みが、消えた。
 強いていうなら、先ほどの彼女と同じ驚いたような顔。
 だが彼の表情をそうさせたのは、彼女のその言葉だけではない。
 激情にたぎる言葉は――濡れて。
「……きて、生きて!! あんた……っ、私の兄なんでしょ!? なら死なないで、兄として生きてみなさいよ……!!」
 堰をきったような声が、歪む。
 辺りの炎のように激しく揺れる感情の嵐。
 その瞳は炎のように揺れて、ぼろぼろと頬を光るものが伝っていた。
「どうして……よっ、卑怯じゃない!! なんで――なんで、」
 苦しかった。
 その顔を見ているのが、どうしようもなく哀しかった。
「なんであんたが謝るのよ……っ、なんで……殴っても何も言わなかったのよ……っ!」
 フェイズの瞳が細まる。
 ――怖かった。
 あのときに……全てを語ったときに。
 最後の希望を託して、彼女がそれで思い出してくれると――信じて。
 もしも、本当に自分のことを忘れてしまっていたらと――恐れて。
 そこに踏み込みたくても、ただ外で見ていることしかできなかった。
「嫌……嫌、死なないで……っ」
 まるでこちらの怪我など関係ないように体を揺さぶる。
 みるみる瞳から零れたものが、ぽたぽたとフェイズの服に落ちる。
 何度も顔を横に振って叫ぶその姿は、――ぢくん、と心に痛みとして刻まれた。
 そこまで彼女はわめくと、一気に力をなくしたように……フェイズの上半身を抱くようにして頭を垂れる。
 喉をしゃくりあげる音が、心に直接――ひどく響く。
「ひとりに、しないで……っ!」
 ずきん、と胸が痛んだ。
 震える体は小さく、か弱い。
 彼の意識を繋ぎとめるように抱きしめる腕も、細く。
 泣きながら必死で訴えかける様子は、……まるで子供のようだった。
「……ごめんな」
 そんなたった一人の妹の願いも叶えられそうにない兄は、小さくそう紡いで妹の頭に手をのせる。
 そうすることしか出来ない自分の無力さを想いながら、豊かな赤毛をすいてやる。
「大丈夫、お前はきっと生きていけるさ」
「……や、だ」
 炎が近寄ってくるのがわかる。じきにここも煙にまかれるだろう。
 その前に彼女を逃がさなければならない。
 そうでなくては――この生に、一体何の意味があったというのか。
 フェイズの表情はもう色を半分なくし、息も浅いというよりは薄く絶え絶えなものとなっていく。
 それでも、その瞳は寂しそうに笑っていて。
「何を言うか。お前はこの俺の、妹だろ? なら生きていけないはずが――ないさ」
 もう囁くことしかできなくなった喉で、穏やかに紡ぐ。
「――っぁ」
 涙でぐしゃぐしゃになった顔を、ピュラがゆっくりともたげる。
 だがとめどなく流れるそれは、止まることを知らないように。
 フェイズの震える指が、どうにかそれをほんの少しだけ、拭っていった。
「ほんと……に、お前、泣き虫だな、昔っから……」
 苦笑するように、口元が歪む。だけれどそれはもう、笑みにはならない。
 ぷつぷつと、一つずつ感覚が途切れていく。体は他人のように重く、一つ言葉を出すのにも肺が血を噴出しそうになる。
「……ほ、ら。急げ――って」

 橙色の四角い部屋の中。
 唄っていた子供。
 終わりのない子守唄を、永遠に唄っていた。
 ――聞こえる。
 彼女の耳の中で、何度となく繰り返される。
 覚えてはいない。だけれども知っている。
 甘く、やわらかな旋律。
 そのままこの身を委ねてしまえるような……。

「――ぁ」
 言葉を発せないのか、彼女の唇から嗚咽ともつかない音が零れる。
 ちらっ、とその耳元で煌くガーネットピアス。
 その瞳の色が、絶望の色に染まっていく。
 なにかを叫ぶ音が聞こえた。だがもうそれは届くこともなく。
 フェイズが目をあけていられたのは、そこまでだった。

 遠い遠い記憶の先。
 夢想するのは、橙の景色。
 もし、ずっとあの時が続いたのなら。
 あの時が永遠となっていたのなら。
 ――きっと今ごろは仲の良い兄妹だと言われていたことだろう。
 いつも軽口ばかり叩く兄と、それに怒ったり閉口したりと忙しい妹。
 いつしか妹は母の宝物だった、紅い大粒のピアスを譲り受けて。
 それをつけて町へ出かけて、それを見た兄は眩しそうに目を細める。
 家に戻れば優しい父親が笑顔で出迎えてくれて。
 また仕事をそっちのけで、と妹が怒り出す。
 肩をすくめて仕事に戻る父親。
 そんな様子を苦笑しながら見守る母と――。
 怒る妹にまた変なことを言って、更なる逆鱗に触れる兄。
 家はいつだって騒がしくて。
 兄は妹のことを何よりも大切にして。
 妹もまた――、兄のことが誰よりも好きだった。

 そんな夢が、目蓋の裏で瞬いて。

「――ピュラ……、行ってくれ」

 するりと、その腕から――力が、全ての力が、抜けて、落ちた。


 ***


 闇夜に佇む海の中、リベーブル号は灯りを煌々と焚いている。
 その船体は数多の戦いで多く傷ついていたが、船員たちの決死の努力でまだ夜の海に浮いていた。
「――スイ!」
 誰かの叫ぶ声。炎の中からゆらりと現れた影に向けてだ。
「スイ……っ」
 きらっとその羽根が煌く。既に多くの者が船に乗ってしまっている。もう陸にいる者は数えるほどしかいなかった。
 そんな中で、闇夜から飛び出してきたのは――クリュウだ。
 彼はスイの元まで飛んでいって、……そして、その姿に絶句した。
「ひどい怪我……!」
 慌てて手を傷口にあてて詠唱を唱える。変色した液体に赤黒く染まった服の色に、思わず表情が歪んだ。
 ……なのに、スイは相変わらずの口調でぼそりと呟く。
「……クリュウ」
 名を呼ばれたクリュウの顔が、ゆっくりとあがる。
「……大丈夫だったか?」
「――」
 クリュウの目が瞬いた。こんなにも傷ついているのは彼の方だというのに……どうしてそこで人の心配をするのか。
「す、スイこそ大丈夫だったの!? 敵は……」
 クリュウは胸にじわりと痛みを覚えながら、問う。
 スイと戦った者の中にはクリュウが出合った者もいただろう。あの、パンをわけてくれた人々は一体どうなったか……。
「――ああ」
 スイは小さく頷いた。血に濡れた手袋を外しながら、視線を炎の中へ向ける。
 その瞳は炎を映しこんで、静かに揺れていた。
「倒してきた」
 ぽつり、と。
 スイは静かに告げる。
「……うん」
 クリュウも頷いて返した。――今は、そうすることしかできなかった。
 そんなときだ。

「スイ! クリュウっ!」

 悲鳴のようにこちらを呼ぶ声。
 驚いた二人が振り向くと……セルピが今にも泣き出しそうな顔で駆け込んでくるところだった。
 だが、共にいるはずの娘が横にはいない。
 その光景に――ぞくり、とスイの背筋に悪寒が走った。先ほどから閉じ込めていた胸騒ぎが、再び一気にかきならされる。
 傷がじくじくと痛んでいるはずなのに、それすら感じられなくなる。
「セルピ……ピュラはどうしたの?」
 クリュウもまた嫌な予感を覚えたのか、祈るように問うた。
 するとやっと安心できる仲間の傍にこれたからか、セルピの頬を涙がぽろぽろと零れる。
 ひきつった喉が、小さく鳴った。
 ただ。
 その顔が……横に振られることに、二人の顔が蒼白になる。
「……帰って、こないんだ。行ったまま……ずっと、」
 つっかえながら、セルピは事の全てを話した。みるみるスイの瞳に違うものが宿り、すぐさま炎をあげる町に目をやる。
 だが返るのは橙色に染まる無情な光景。
「どの辺りだ」
 セルピはか細い声で、北、とだけ言った。
 ――だがそれで十分だ。
「スイ……」
「――クリュウ、セルピと一緒に船に乗っていてくれ」
「……」
 クリュウはごくりと唾を飲む。
 もう止められないことなど、痛いほどにわかっていたからだ。
「――頼む」
 今にも走り出そうとするスイに……返事のかわりに、詠唱を唱えた。
 スイがふっと目を瞬いたときには、クリュウの指からふわっと光が零れてスイの体に吸い込まれている。
「……これで少し煙を吸っても大丈夫だよ。絶対に――絶対に戻ってきてね」
 泣き出しそうな声は、――スイの心に滲んで、染みた。
「――ああ。必ず連れて帰る」
 だから、自分に言い聞かせるようにして返した。
 クリュウはこくりと頷いて、俯いたままのセルピの肩まで飛んでいく。
 セルピも、袖で涙を拭って、小さく頷いた。
「……ボク、待ってるから」
「――ああ」
 時は一刻を争う。北の方はまだ炎も少なかったが、そろそろそうは言えなくなってきた。
 それに、一体そこで何が起こったのか――。
 ヘイズルへの報告は他の仲間がしてくれるだろう。もう迷いなどない。
 腰の剣を確認して、大地を蹴った。呼吸がみるみる熱くなる。
 ただ、間に合えと……心から祈った。
 今、彼女がどうしているかはわからない。あの炎の中で立ち往生しているのか、それかまだ……橙の黄昏で戦っているか。
 あの赤紫の髪をした青年も行ったというのだから、無事にはしているはずだが……。
 今度こそ、手遅れにならない内にと。数多の記憶に胸を引き裂かれそうになっても、スイは港から離れてそのまま大通りに走ろうとした。
「――どこに行くのですか」
 ……足が、止まった。
 体温が、すっと退いていく。
 それほどに後ろからかかった声はこの場にふさわしくない音色。
 振り向く。
 立ち止まっている暇など、ないのに。
 ……そこには、炎に金髪を橙に染めたハルリオの姿があった。
 彼はまるで冷め切った目をスイに向ける。
「今、この中に再び入るなど自殺行為ですよ。何をしに行くのですか」
「……ピュラがいる」
 スイは短く答える。
 ハルリオはそれで察したようだった。静かな面持ちで続けてくる。
「――探し出せるとでも? 町は広いのですよ。入れ違いになったらどうするのですか? 万が一探し出せたところで……この炎で、間に合うと思いますか?」
 その瞳が、無駄なことをするなと冷たく告げていた。
 海からの強い風にあおられ、また炎が燃え上がる。
 黙ってスイは、ハルリオに背を向けた。
 もう、言う言葉もない。こんな場所で止まっている時間などないのだ。
 この炎のどこかにいるであろう彼女。
 行ってはいけない。行ったら――もう、戻れない。
 そうどこかで心が叫んでいたが、耳を貸す余裕もなかった。
「――スイ」
 ハルリオが一歩を踏み出す。
 ざり、と砂を踏む音。
 スイは背を向けたまま、……炎を見極めようとするかのように視線をやっている。
「――」
 ハルリオは一瞬、言葉に詰まった。
 脳裏で鮮烈な光が瞬く。それは眩暈すら覚えるほどの――既視感。
 そう、あの三年前の暑い日にも、目の前には銀髪の剣士がいた。
 彼は炎に包まれた町を目の当たりにしたとき、暫し呆然とその光景を見つめて……。
 誰に何を言うわけでもなく、走り出そうとした。
「――スイ!」
 呼び止める。流石にその声に鋭さに、目の前の剣士は立ち止まってこちらに振り向く。
 ――その眼差しは、まるであの日と同じに。
 台本のセリフを口にするかのように、ハルリオの喉は三年前と同じことを紡ぐ。
「……行ってはなりません。あなたはこんな場所で死ぬべきではない」
 炎があまりに眩しく、目を細める。
 ――そこに立つ剣士は、何の表情を浮かべるわけでもなかった。
 ただ、それが当たり前だというように。
 ――スイは、三年前の孤高の銀髪鬼と同じことを口にしていた。
「……あいつだって」
 刺すような視線を振り払って、この町のように燃えたぎる想いをその奥に秘めて。
「あいつだって、こんな場所で死ぬべき奴じゃない……!」
 もう彼は、振り返ることもなかった。
 目が痛くなるような光の中へと飛び込んでいく。
 ハルリオは目を見張ったまま、影が去っていく様子を見送った。
 もう――あの日と同じように、誰も彼を止めることなどできないのだと、……息苦しいほどに感じながら。


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