-Bitter Orange,in the Blaze-
下・強いひかりの中に 終.真実と、現実と――

144.置き去りの記憶



 思い出は橙がかった穏やかな色。
 色あせれば色あせるほど、それは橙のみが鮮烈なイメージとして残る。
 幼い頃の、夢にも似た記憶。
 ところどころ抜け落ちて、忘れられて――だけれど心の奥底に焼きついて。
 多分それが、一生忘れられないものなのだろうと……。

 おぼつかない足取りで歩く小さな子供は、気がつけば父親に連れられて町を歩いていた。
 子供はそんな時を幸福に思う。
 何故なら、子供の母は冷たかったから。
 あたたかい言葉をかけてくれることなど、なかったから。
 だから、優しい父親と共に町へ出かけるのは小さな幸福であった。
「フェイズ、よく聞きなさい」
 ふと、父親はそんなことを言った。
 顔をあげると、いつもと同じ優しい表情。
「お前はこれからお兄さんになるんだ」
 言葉の意味がよくわからなかったから首を傾げると、父親は微笑んで頭を撫でてくれる。
「妹ができるんだよ」
「いもう、と?」
 知らない単語。
 子供は更に首をひねる。
 だけれど、それが嬉しくなるものなのだと思った。
 なぜなら、父親はそれ以上ないくらい嬉しそうにしていたから。
「そうだ。お前ももうお兄さんだ、ちゃんと守ってあげるんだぞ」
 お兄さん。
 きいたことのない――言葉だけれども。
 なんだか、嬉しかった。
 そう呼ばれることが、とても嬉しかった。
「うん」
 頷いて、父親の手を握りなおす。
 二人連れ添って、町外れの家を訪れた。
 ぬくもりを含んだ情景は、決して忘れることもない。
 そのときの子供は、きっと満たされていたのだ。
 小さな家だった。
 子供の住んでいる家とは全く違う。
 だけれど、とてもあたたかくて素敵な家だった。
 こんな家に住みたい、と子供は幼いながらに思う。
「おとうさん」
「なんだ?」
「いもうと、ってなに?」
 父親は一瞬、瞳を丸くして。
 次には優しい色を表情に滲ませて……。
「……とてもかわいいものだよ。お前の家族だ」
「かぞく……おとうさんとおなじ?」
「そう、同じだ」
 父親は扉を開く。
 中から顔を覗かせたのは、とてもきれいな女の人だった。
 母親とは全く違う、やさしい顔。
 このひとがおかあさんだったらいいのに。
 するとそのひとは、頭を撫でてやわらかく笑ってくれた。
「あなたがフェイズ君ね」
 やさしい手のぬくもりに、心があたたかくなる。
 幸せだったから、子供は笑った。
「あの子はどうしてる」
「さっき眠ったわ。――でも大丈夫なの? 前の奥さんは」
「お前が心配することじゃない。大丈夫だ、あともう少しすればお前を迎える手筈が整う」
 大人が話していることはよくわからなかった。
「――だが本当にフェイズをも迎えてくれるのか? 確かに男子は必要だが、この子も一緒に里子にだしたって構わないんだ」
「いいえ、……可哀想よ、まだ子供だもの。私の子として育てるわ」
「……そうか。お前がそういうなら構わない、――愛してやってくれ」
「ええ」
 女の人と一緒に、奥の部屋へと歩いていく。
 といっても、とても狭い家だ。ほんの少し、歩くだけ。
 だけれど、その部屋はまるで――おとぎの世界のようだった。
 区切られた壁の中。
 窓から降り注ぐ夕日と……。
 部屋の奥に置かれた小さなベッド。
 それが世界の全て。
 やわらかな日差しに包まれて、ベッドは橙色に煌いていた。
 そこに、白いシーツにくるまれた……小さな、小さな、命。
 生まれたての赤子が、幸せそうに眠っていた。
 子供の瞳が、ゆっくりと見開かれる。
「――ぁ」
 瞳を閉じて、穏やかな表情をしている赤子。
 産毛の色は緋色。小さな手を握り締めたまま、やすらかに眠っている。
 呆然とその場で赤子を見つめる子供に、父親と女の人は語りかけた。
「そら、お前の妹だ」
「静かにしてあげてね。眠っているから」
 そう言って、父親がゆっくりと手をひいてくれる。
 ほんの少し触れれば壊れてしまいそうな小さな命が、手の届く場所にやってくる。
 子供はじっと、眠る赤子を見つめた。
 それは、とても小さくて。
 壊れ物の……宝石のようで。
 そうして、橙色の夕日の中にくるまれていた。
「…………かわいい」
 ふわっ、と。
 自然と、笑顔が滲む。
 それほどに橙色の日差しに包まれた赤子は愛らしかった。
 いもうとだ。
 ……守ってあげなくてはならない、いもうとだ。
 ――ぼくが、守る。
 そう思うと、体の奥底から力がわきあがってくる気がした。
 ――ぼくが守るんだ。
 舌足らずの言葉で、そう心に紡いで。
 子供は一生その赤子を守るのだと、誓っていた。
「ピュルクラリアっていうのよ」
 穏やかな女の人の声に、顔をあげる。
「……ピュル……ク……?」
 難しい言葉だった。
 この可愛い赤子の名前だろうか。
 きっとそうなのだろう。
 覚えられないけれど……とても、とても、きれいな名前だ。
「いい加減に愛称を考えてやらないとな。いつまでも長い名前で呼ぶわけにもいかないだろう」
 父親が考え事をするように腕を組む。
 だから、その子供にも呼べる名前で。
 何度でも呼んであげられる、名前で。
 何度だって呼んであげようと、子供は――。



「ピュラ」



 ぽろりと。
 舌足らずの口調で零れた言葉に、二人の大人の目が丸くなる。
「ピュラ、ピュラ。このこは、ピュラ」
 唄うように、子供は繰り返した。
 うっとりと赤子を見つめながら、子供は嬉しそうに目を細める。
 ピュラ、それがこの『いもうと』の名前。
 ずっとずっと守ってあげるべき、この幼い赤子の名前。
「……ピュラ」
 女の人が、その名を口に含むようにして呟く。
「――きれいな名前ね」
 そう言って、ふわりと笑った。
 きっと、この赤子も、このひとと同じくらいきれいなひとになるのだと――子供は思った。
「ね、あなた……ピュラにしましょう。私、気に入ったわ」
「ああ、そうだな……。フェイズ、良かったな、お前がこの子の名付け親だぞ」
 父親も幸せそうに笑って、子供の頭を撫でてやる。
 ピュラ。
 その言葉を何度も心の中で唱えながら、子供はその空間を幸福に思った。
「ふふ、ピュラのこと気に入ってくれて嬉しいわ、フェイズ君」
「――きっと仲のいい兄妹になるな」
「ええ……」
 父親が、女の人の肩を抱く。
 女の人はそんな父親の肩に頭をもたれて、その光景を笑みを湛えて見守る。
 そうして、子供はずっと眠る赤子を見つめて幸せそうにしていた。
「……そうだ、忘れるところだった」
 父親がふと思いついたように、ポケットの中に手を入れる。
 不思議そうな顔をする女の人へ、父親は笑って小箱を差し出していた。
「――出産祝いだ、貰ってくれないか」
「……」
 ふっと女の人の瞳が見開かれる。
 開かれた高級そうな小箱の中には――大粒のガーネットピアスが、永遠の光を宿して煌いていた。
 再生と幸福の象徴とされ、世界中の人々に愛される紅の宝石だ。
 女の人は顔を赤らめて、戸惑うような仕草をした。
「でも――こんな高価なもの」
「気にするな。お前はこれから私の妻になるのだろう? 私としても、傍に幸福の象徴がいてくれた方が嬉しいんだが」
「……」
 女の人は、いろんな表情を見せた。
 だけど、最後には頬を赤に染めながらも、頷いて笑った。
「……つけていい?」
「お前のものだ、自由にしていい」
 こくりと頷いた女の人は、一度部屋をでていく。だけれど、すぐに戻ってきてくれた。
「――」
 子供の瞳が一層その深みを増す。
 再び部屋に入ってきたその姿は、短い緋色の髪に、橙の瞳。
 しなやかな四肢は絹のようになめらかで、耳元でちらちら煌くピアスが――とても、きれいで。
 子供は思わずその姿に見ほれていた。
「……きれい」
「ああ、よく似合っている」
「やだわ、親子で言うことはそっくりなのね」
 くすくすと笑いながら女の人は耳元で揺れる紅い宝石に指で触れる。
「この子もお前に似て綺麗な娘になるだろうな」
 父親が本当に幸せそうにそう言うのだから、そうなのだと子供も思った。

 ピュラ。
 たったひとりの、かわいい妹。
 守ってあげるのだと。
 ずっと、守ってあげるのだと。
 子供はそう、誓っていた。
 だって子供は『兄』であって。
 『兄』は『妹』を守るものなのだから。


 その日は帰りたがらない子供を連れて帰るのに、父親は苦労した。
 これからも毎日遊びにきていい、という約束を何度もして、やっと子供は引きずられるようにして帰路についた。
「本当にフェイズはピュラが気に入ったんだな」
 父親は苦笑するように子供の頭をわしわしと撫でる。
 仕事をしているときの真剣な表情とは違う、本当に嬉しそうな顔に、子供も顔をほころばせた。
「うん。ピュラはね、ぼくが守るんだ」
「そうか。お兄さんだもんな、――だったらお前も強くならないといけないぞ?」
「強くなるもんっ」
 大きな瞳に強い光を湛えて、子供は言った。
 父親はそんな姿にふんわりと笑って、また子供と手を繋ぐ。
「なあ、フェイズ」
「なあに、おとうさん」
 夕凪も終わり時間、町はゆっくりと夜に向かっていく。
 かげぼうしは長く長く、親子の足取りと共にゆらめく。
 父親はほんの少し遠くを見るようにして、言った。
「今のお母さんと別れるのは、嫌か?」
 どうしてそんな質問をされるのか、わからなかった。
 だけれど、子供は暫くじっと考えた後に、ふるふると首を振る。
「……そうか」
 父親は、何かを吹っ切ったようだった。
 頷いて、子供の方を見下ろす。
 子供も、父親の方を見上げる。
「――お父さんはな、今のお母さんと別れて、……今日会った人と結婚しようと思う」
「……うん」
 少し難しい内容を、ひとつひとつ言い聞かせるようにして言ってくれる父親に、子供は小さく頷く。
「そうしたら……あの人と、ピュラと、お前と。みんなで同じ家に住めるんだ」
「ほんとう?」
 ぱっと子供の顔が輝く。
 皆、同じ家で。
 どんなに幸せだろうと思った。
「――ああ。みんな、一緒だ」
 既にその光景を心に描いたのだろう。子供はぽうっと夕焼けの空を見上げて、言う。
「うん。それならぼくもそうしたい」
「……そうか」
 ぎゅっと手がまた強く握られる。
 大きくてあたたかい、いつもの父親の手だった。
 辺りはゆるやかに夜へと落ちていく。
「おとうさん、いつピュラと一緒の家に住めるの?」
「ああ――色々準備があるからな……少し後になる」
「そう……」
 子供は残念そうに落ちる影に目を落とした。
「でも、それまで何度だって遊びにいける。……だがフェイズ、お母さんにピュラのことは秘密だぞ? 絶対に言ってはいけない」
 いいな、といわれたから、子供はこくりと頷く。
 ただ、胸には――これから毎日あの子に会いにいこう、という想いを秘めて。
 父親とふたり、暗くなった道を歩いていた。


 ***


 女の人は、とても優しいひとだった。
 母親とは大違い。
「フェイズ、今日も遊びにいくの? お勉強はちゃんと終わらせたの?」
「うん」
「あなたはこれからこの医院を継いでいくんですからね、ちゃんと医者としての振る舞いを習わないと」
 耳に残る声で喋る母親。
 あまり、一緒にいたいとは思えなかった。
 だから急ぎ足に家を後にする。
 大好きな、あの町外れの家へ。
 幼い影が軽やかな足取りで町を駆けていく。
「――あらフェイズ君。今日も来たの」
 出てきてくれた女の人は一瞬驚いた顔を見せて、またにこりと笑う。
「どうぞあがってらっしゃい。お菓子があるけど――食べていったらお父さんに叱られるかしら?」
 促されるままに家にあがらせてもらって、きょろきょろと辺りを見回す。
「……ピュラは?」
「ええ、起きてるわよ。どうぞ奥に入って」
「うんっ」
 何度も訪れている内に、女の人もその子供が赤子に危険な真似をしないと分かったのか、好きに奥の部屋に出入りさせてもらえるようになった。
 くすくすと笑う女の人の横をすり抜けて、子供は奥の部屋の扉をそっと開く。
 四角く区切られた空間は、橙色。
 その奥に、かすかに動く影。
「ピュラ」
 囁くように呟いて、静かに近寄る。
 そうでないと、この小さな命は――ほんの少し触れただけでも壊れてしまいそうなほど、もろく思えたからだ。
 赤子はその橙色の瞳を開いて、ゆっくりと子供の方に向けた。
 まるで灼熱の炎を湛えたような、大きな橙色の瞳がその影をとらえる。
「――ぁ」
 言葉にならない声をだして、その小さな手を一杯に伸ばす。
 赤子が落ちないようにとつけられた柵の上に顔を乗せて、子供はふんわりと微笑んだ。

 ――ぼくのこと、覚えてくれたかな。

 ――きみの、おにいさんなんだよ?

 しかしその思考が途中で切断されたのは、突然赤子が大声で泣き始めたからだった。
「あ――ピュラ、」
 赤子はよく泣く。子供も、何度も赤子が泣くところをみていた。
「あらあら」
 その声をききつけてきたのか、女の人が部屋に入ってきて苦笑する。
「そろそろおしめの時間だったわね。忘れててごめんね、ピュラ」
 わんわん泣き喚く赤子を腕に抱いて、あやすように撫でてやる。
「……ピュラ、いつも泣いてるね」
「ふふ、赤ちゃんはね、だれでもみんなよく泣くのよ。――でもピュラは本当に少し……泣き虫かな?」
 赤子の世話をしながら、女の人は赤子の顔を覗き込んで首をかしげてみせる。
「でも平気だよ。ピュラが泣き虫でも、ぼくが守ってあげるから」
「まあ、本当に?」
 女の人は目を丸くして――やわらかく笑った。
「それなら安心ね。ピュラ、良かったわね、お兄ちゃんがずっと守ってくれるって」
 赤子は小さな声を漏らす。
 それがまるで笑っているかのように思えて、子供も満面の笑みを浮かべた。
 午後の日差しが降り注ぐ、狭い部屋。
 窓からは木々の囁き、町の喧騒も遠く遠く……。
 まるで夢の中にいるような、ゆったりとした時間が流れていく。

 ――風がすべてをさらっていって
        落ちて消えた かげぼうし

 ふわっと心にまた一つ、温かさがにじむ。
 穏やかな歌声は……女の人のもの。
 まるで天から届く調べのような、優しい歌声はその部屋一杯に響いて。
 子供の瞳がまた、その深みを増していく……。

 ――夜のにおい 今はもう
       おひさましずみ 帰る時間

 赤子を胸に抱いてあやすようにしながら、その人は優しく唄う。
 耳元の紅いピアスがちらっと煌いて、その様子をひきたてる。
 それはあたかも一つの絵画のようだった。
 先ほどまであんなに泣き叫んでいた赤子は穏やかに目を閉じ、眠りへと誘われているようだった。
 子供もまた、ぽうっとした表情でその姿を見つめている。
 それほどにその光景は――優しくて。
 ずっとずっと、そこにいたくて。
 そう思うと、どこかで胸が締め付けられたような気もして。
 だけれど、それがどうしてなのかも分からなくて――。

 同じメロディーが何度となく口ずさまれる。
 だけれど、懐かしいと――それを一度も聴いたことがなくとも懐かしいと思える唄は、何度聴いても飽きることはない。
 それが子守唄なのだと知らない子供は、その胸を震わせる音の流れを、息を呑んで聴いていた。
「きれいなうた……」
「ええ、子守唄っていうのよ」
 幼い子供にも覚えられる簡単な旋律。
 歌詞の意味など、よくわからない。
 だけれど、それがとてもきれいな言葉なのだと――子供は、そう思った。
 女の人に抱かれて眠る赤子の顔は、こちらが微笑んでしまうほどに穏やかで。
 いつかこの赤子が大きくなったときに、一緒に走り回れる日がくるならどれほど幸せだろうかと。
 ――その日が待ち遠しすぎて。
 その日が来ることを知っている自分が、どうしようもなく幸福で。


 ***


 ――気がつけば、いつもあの子守唄を口ずさんでいる子供がいた。
 誰もいない四角く区切られた部屋は、やはり橙色。
 ちいさなベッドの上には、穏やかな寝顔を湛えた赤子――そう、妹だ。
 そんなベッドの縁に顔を乗せて、子供は唄う。
 舌足らずな、不器用で、音の調子もはずれた――だけれど、幾万の想いを秘めた子守唄を。
 妹は眠っている。ほんの少し笑んでいるように見えるのは――子供の気のせいだろうか。
 まるでそこだけ時の流れから切り離されているようにさえ思えた。
 ずっとずっと、そこだけ時が止まっているような。
 ――だけれど、時が流れないとこの妹は大きくならないのだから。
 だから、早く時間が経てばいいのに、と子供は思った。
 明日と明後日が一緒にきてくれればいい。
 長い年月が経って、妹も歩けるようになって、色んな話をして。
 そう思うだけで心はいつだって満たされていて。
 その時が永遠に続くものだと、彼は信じていた。

 信じていた。


 ***


 夕日が眩しい。
 何日か、妹に会えない日が続いていた。
 会いにいくのは久しぶりだ。
 本当なら毎日会いにいきたかったのだが、『勉強』が大変だったからできなかった。
 ここ数日は、どうしてか父親が勉強をしろと口うるさくいっていたのだ。
 普段、あまりそういうことはいわない父親だから、不思議に思った。
 父親はいつもよりも忙しそうにあちこち外出しているようだった。
 それ以上は、わからなかった。
 だから今日は家から抜け出してきたのだ。
 妹が淋しがっているかもしれない。
 会いにいってあげないと――泣かせてしまうかもしれない。
 それに……とても、会いたい。
 だから、走った。
 息がきれたけれど、妹と会えるなら苦にもならなかった。
 子供に年月の感覚などない。
 ……だから、初めて出会った日からどれだけ経ったかも子供の頭にはない。
 ただ、長い長い……そう、とても長い時間を共に過ごしたのだと。
 それが子供にとっての全てだった。
 いつもと同じ道を通って、町の外れへたどり着く。
 夕日はまばゆく、心地良い。
 だけれど、その橙色の情景がどこかとても寂しいもののように思えて――胸が詰まった。
 なんだろう。
 どうしてこんなに……この光景が寂しく思えるのだろう。
 そう思っても、答えてくれるものはない。
 子供の瞳が、不安にゆらめく。
 しんと静まり返った町外れ。まるで世界に置いてきぼりにされてしまったかのような、物悲しい空気。
 影だけがとても長く、のびる。
「――ピュラ?」
 胸がじんと痛んだ。まさか、と思って子供は駆け出す。
 家の中に早く入ってしまえばいい。そうすれば、あの女の人が笑顔で迎えてくれて――それで、いつもと同じ時が巡ってくるのだ。
 だから、飛び込むようにして家の中に転がり込んだ。
 ――出迎える者は、いなかった。
 誰もいない部屋。
 子供が息を呑む。
 まるであの女の人の代わりにとても嫌なものが住み着いてしまったかのような――知らない空気。
 怖くて、がくがくと震える体を自身で抱きしめた。
「ピュラ――ピュラ」
 おぼつかない足取りで幼い子供は奥へと進む。
 祈りを込めて、願いを込めて。
 必ずその奥には、変わらぬ日常があるのだと――。

 区切られた部屋は、やはり夕日の色。
 赤でもなければ黄でもない。
 深い、深い、橙色。
 穏やかに、残酷なまでに優しく降り注ぐ陽光。
 冷たい空気。
 呼吸が、止まる。
 ぷつりと、何かが途切れてしまったかのように――。


 もう、ベッドの上にはあの赤子が眠ってはいなかった。


 あるのは、虚無だけ。


 ***


 ぼんやりと、日常が過ぎていった。
 父親は相変わらず勉学を強要してくる。
 だから、机に向かう日々が続いた。
 もう、二人でどこかに行くことなどなくなった。
 父親はひたすら仕事を続けていた。
 母親は、相変わらず冷たかった。
 同じ食卓を囲むことなどただの一度もなく。
 笑顔を見せることすら一度もない。
 わからなかった。
 何が壊れてしまったのか、わからなかった。
 ただ、幼いながらにその子供が感じたのは――。
 妹が、いなくなってしまったということ。
 あの出来事は――やはり、夢だったのだ。
 あんなに幸福に思っていたことは、夢だったのだ。
 それは次第に子供の心の奥底の暗がりに沈められ、蓋をされる。
 子供もほんの3歳、記憶として残るものも少ない。
 最初から、妹などいなかった。
 あの女の人もいなかった。
 自分は医者の子供で、それを継ぐために存在する。
 それが、子供の全てになった。
 時は過ぎる。
 子供は少年となり、両親の望み通り、勤勉で将来を期待される息子となる。
 だけれど少年はどこか孤独だった。
 その笑顔には、それ以上の表情など見えず。
 誰に親しまれようと、誰に疎まれようと、少年は自らの成すべきことをする。
 その記憶に既に『妹』などという概念はなく。

 少年――フェイズ・イスタルカは、まるで人形のように生きていた。

 14歳の頃、一枚の写真を見つけるまで。


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