-Bitter Orange,in the Blaze-
下・強いひかりの中に 終.真実と、現実と――
143.in the Blaze-5
ある街に一人の少年がいたという。
朝の雪にも似た銀色に煌く髪に、黒よりも深い蒼の瞳を持った少年がその街にいたという。
彼の故郷の街は、突然攻め込んできた異国の軍隊によって、炎に包まれてしまった。
知らせを受け、すぐに戻った彼の目に映ったのは目が痛くなるような橙色の炎。
仲間の制止さえ振り払って、彼はその街に飛び込んだ。
そこで彼が何を見たのか、彼がその後どうなったのか、誰一人として、知る者も、見た者も、いなかったという。
死んだという者もいた。
生き延びたという者もいた。
そして、謎は解けることなく深海の闇に沈んだ。
炎の中にある深い深い橙色に、彼が何を想い、何を見たのか、……それは誰も知らない。
「――失ったら、全ては終わりなのか?」
ぼたっ、と大粒の血の塊が地に落ちる。
その量で、どれほどその体が倒れる一歩手前なのかが見てとれた。
「……失ったら、全てがお終いになるのか。それで人生が終わるのか」
血を吐くような声。
それはそのまま、痛みの声だった。
ひたすら目の前にあるものに手を伸ばして、それでも届くことを許されなかった彼の痛みの声だった。
闇夜の草原。
燃える町を背景に。
煙は舞い上がり、空を汚す。
その煙を更に炎は橙に染め、――まるで全てが橙色に染まったかのように。
「違う……」
スイは歯を食いしばってかぶりを振る。
その脳裏にあるのは、一体どの情景だろうか……。
「何を失っても、どんな傷を負っても、――次の日がくる」
視線を手にした剣に落とす。
何年も前にそこで始めて持つ剣の重さに顔をしかめていた少年がいた。
それでも振りかぶって、兄へ斬りかかった。
一度も勝てたことはなかった。
だから、その位置を目標に走り始めた。
「失って……全てを失っても、この世の終わりが来るわけじゃない」
兄はいつしか、最強と称えられるようになった。
だけれど自分はその影にいるだけだった。
強いひかりの中に。
誰の目にも留まらない、そんなひかりの中に。
「――世界は続いていて。また、血を吐くような思いをしながら……手を伸ばそうとして、立ち上がって」
そうしてひかりが消えた後は、取り残されたかのように一人で佇んでいる。
崩れ落ちそうな二本の足で、歩こうとする。
「――また歩かなければならない」
得ては失って。失いたくないと手を伸ばして。だけれど届かない。
生きている限りは失っていく。その手から零れ落ちていく。
どこにそんな力が残っていたのかと目を見張るハルムへ、スイはその鋭い視線を叩きつけた。
「それでも……どんな現実が目の前にあろうと、生きていく」
脳裏のはずれで煌くのは荒野を駆ける緋色の影。
彼女は生きていた。
どんなにその身が逆境にぶつかろうと。
ただひたすら生を望んで、走り続けていた。
そうして。
そうやって生きていくだけの力が――人にはあるのだと。
立ち止まったままの自分に、気付かせてくれた……。
「当たり前みたいに失っても――それでも、歩く力が、きっとある」
あの焼け出された日、気がつけば……いつもと変わらない夕日が見えたように。
あまりにも大きな世界は、相変わらず流れ続けるのだから。
「世界がどうなろうと構わない。どんな流れが押し寄せたって、構わない」
自分に抗う術などなくとも。
その波に歯向かう術など持っていなくとも。
――その中で、自らの眼で現実を見て、生きてゆくことができるのなら。
失うことを恐れて、また手を伸ばして。
無様に転んで、不器用に生き抜いて。
またいつかなにかを失うかもしれないことを、知っていながらも。
それでも、明日が来る限りは何度でも走り出そうと。
そして、そうすることができる力を、――人はきっと持っている。
「だから最後まで、生き抜く」
足が、大地を蹴った。
流れるように体が風に乗る。ぐんっと辺りの景色が吹き飛び、標的のみに視界がひきしぼられる。
空気を揺るがす、金属同士の悲鳴。
「――できるものか!」
その剣を受け止めて、ハルムが吼えた。
逆に返り討ちにしようと、剣を横薙ぎに払う。
「民は弱い。目先のことしか見えていない。そんな者たちの全てが勝手きままに生きてみろ、それこそ世界が滅びる!」
繰り返される剣戟。
「……それで滅びるのなら、とっくに世界は死んでる」
重い剣を振り下ろす。そのまま下から再び上へ。ぢっ、と腕から血をほとばしらせたのはハルムの方だった。
だがハルムは動じた様子もなく斬りこむ。スイの方こそ傷だらけで弱っているはずなのだ。倒せぬはずがなかった。
――だというのに。
疲労が溜まるスイへは仕切り直さないことが勝利だと信じて、剣同士が連続で打ち鳴らされること数十回。
スイは相変わらず変わらぬ力で切り伏せようとする。隙を狙い、その素早さで討ち込んでこようとする。
既に剣を握る感覚など失せているはずなのに。
既に大地を蹴る足の感覚すら失せているはずなのに。
海より深く、黒よりも深い蒼の瞳には――光。
橙色の炎に照らされて、尚も剣を振るう。
誰よりもその痛みを知りながら。
誰よりも強い力を、その一振りに込めて――。
「――それが、理想だというか」
もう一振り。
あと一歩で、この世の覇者は目の前の蒼い影を叩き潰せる。
「……それが、人間だ」
だが、想いの込められた剣を止める術など、この世には存在しなかった。
踏み込んだ足が、エネルギーをその剣に託す。
斬り込んだ体は、紙一重でその剣戟をかわし。
いつだったか想いが受け継がれた剣は、――その心臓を穿った。
瞳と同じ色の液体を吐きながら倒れるその顔は、……どこかで笑っているようにも、思えた。
***
燃え盛る炎に体があぶられる。
知らず知らずのうちに随分港から離れた場所まで来てしまっていたらしい。
ピュラはフェイズに肩を貸しながらおぼつかない足取りで前へと進む。
しかしほとんどの道は炎で塞がれてしまっていた。
煙もひどく、うまく前に進むことができない。
まるで永遠にこの炎の道が目の前に広がっているような錯覚さえ起こさせる――橙色の情景が、目の前に広がるのみだった。
「ピュラ」
「うるさいわね、何か言う暇あったらちゃんと歩きなさい」
小さく呟いたフェイズに、ピュラは短く返す。あまり呼吸をすると煙が肺に入るからだ。
しかも、二人の進行はとても早いとはいえなかった。
フェイズの体が思うように動かず、ほぼピュラが彼の体を支えながら歩いているようなものなのだ。
折れそうになる足を必死に動かして、ピュラは海を目指す。
しかし先は遠く、燃え盛る炎はひたすらに熱い。視界すらもかすんでしまっていた。
「……ピュラ」
「なによ、さっきからうるさいわね。何か用でも?」
不機嫌さを露にするピュラ。
フェイズは俯いたまま、薄く笑った。
だからピュラにはその瞳がどんな色を浮かべていたのかもわかならなかった。
ただ、気付いていたのは……次第に彼の足取りが遅くなりはじめていたことだ。
静かに――声。
「……お前、ひとりで行ってくれないか」
――だから、その言葉の意味も理解できなかった。したくもなかった。
ぞくりと背筋に冷たいものが走る。ぱちん、と体の中で火花が散った気がした。
早く港に着かなければならない。それでこの青年に片っ端から文句を言って、それで、生きて。
そうしなければならないのに。
そうでなければならないのに。
一体、彼は何を言っているのか――!
「あんたね、格好つけてると本当に置いていくわよ!?」
ぎん、とピュラの瞳に鋭い光が宿り、すぐ傍にある彼の顔を睨みつける。
――だが、フェイズは動じた風でもなくゆっくりと顔をあげてみせた。
そうして……ピュラの顔をじっと見つめる。
まるで、その瞳に焼き付けるかのように。
そんな彼の表情に、ピュラの瞳から鋭いものが、消えて。
そうやって彼は――笑った。
にこりと、――それこそ穏やかに。
「――ああ、そうしてくれると嬉しい」
「え……」
ふっ、と肩から力が抜ける。
――橙色の瞳が、瞬く。
ずるり、と彼の体が嘘のように傾いで。
何かが零れ落ちていくように、沈む。
「……わり」
それでもフェイズは笑った。
本当にささいなことを、苦笑しながら謝るかのように。
舞った火花が、尾をひいてはぜる。
辺りは一面の橙。
次の瞬間には――フェイズの口から血の塊が吐き出されていた。
そのまま、どさりと地にその身を横たえる。
一気に軽くなった彼女の体は、ぽっかりと中身が空虚になったようにふらついて……。
「フェ――」
ガラスのように、その瞳が虚空を見た。
頭を殴られたかのような感覚。言葉にならない声が、喉を小さく震わせて。
やっとそれを理解したその顔色が、蒼白になる――。
「フェイズ!!」
その名を、悲鳴のように呼んだ。
伏したフェイズの体を膝をついて支えようとする。
しかし、触れた彼の包帯の周りは既に青黒く変色してしまっていた。よほど強力な毒素だったのだろう。浅い呼吸を繰り返すフェイズの表情に思わず絶句する。
「ちょっ……あ、あなた」
性質の悪い冗談だと思いたかった。
そう思えてしまうほどに――事態が最悪だったことに、今更になって気付いた。
「……はは、ちょい限界っぽい」
その苦痛に顔を歪ませながらも、フェイズは血に濡れた唇で笑ってみせる。
「――っ」
ぎり、とピュラの歯が鳴った。急いで彼女はその体を引きずり、炎に覆われていないがれきの一つにもたれかけさせる。
「弱音なんか聞きたくないわよ!! ちょっと痛むけど我慢しなさいっ」
問答無用で再び肩の包帯を裂いた。彼の腕を切り落としでもすれば、どうにか防げるかと思ったのだ。
……しかし。
「――」
その言葉が、途切れた。
頭にがつん、と何かが打ち付けられたかのように、体が傾ぐ。
震える指が……その体に触れる。
既に彼の体は完全に毒がまわってしまっていた。青黒くなっていたのは刺された箇所だけではない。そこから滲むように首から胴へ。
脂汗のういた額は、手をあててみれば焼け付くような高熱を放っている。
よくよく考えれば当たり前だった。あんな――心臓に近い場所に刺さったのだ。全身に流れる血液に乗って体中にまわらないはずがない――。
言葉が、消えた。
もうどうすることもできない――否、どうにかしなければ、と考える思考が彼女の指を当てもなく彷徨わせるだけだ。
「ほら、ピュラ」
呆然としているような顔が、あがった。
既に口の周りの血をぬぐうことも許されぬ顔で、飄々とフェイズは言ってのける。
だけれどそれは、いつもの彼の表情と全く変わりはなかった。
「お前だったらここから港まで走って行けるだろ。まだ間に会うからさ」
――瞬間、かっと頭に上った血が、彼女の腕を閃光のように振りおろさせた。
「っざけんじゃないわ!!」
彼の胸倉を力任せに掴んで引き上げる。その瞳に叩きつけるようにして、叫んでいた。
「こんな場所でくたばるなんて許さない……っ! 大体あなた……ッ」
私の代わりにあの刃を浴びたのだろう、という言葉は喉の奥に吸い込まれる。それを言ってはいけないと――心がどこかで叫んでいる。
だが男一人、こんな娘に担げるはずがない。フェイズは困ったように苦笑しながら胸倉を掴む手を震える指で制した。
その仕草にまた一つ、彼女の怒りがつのっていく。
――だからどうして。
――どうして、この赤紫の青年は。
――こんなにも、こんな状況で笑っていられるのか――!
「そりゃ困った。許せ、なんて言える身分じゃねーしなあ」
ぽつり、と遠くに向けてフェイズは呟く。
「なら立ちなさいよ! 早く行かないと……ここだって」
噛み付くように言うピュラへ、フェイズはほとんど動かない腕で小さく手を振ってみせた。
まだ希望を捨てずにどうにかしようと慌てる娘を、眩しそうに見上げて……。
「――ああ。だから早く行くんだ、ピュラ」
「あんたね」
ふっと、ピュラの声音が下がる。
まるで心の一番奥底から湧き出たような、低い声。
そのぎらぎら光る瞳が冗談など許さない、と何よりも雄弁に告げていた。
「……勝手に一人で諦めてんじゃないわよ……! まだきっとなんとか――」
「なりそーにもねーな」
しかし、それを遮るのはやはり、冗談めいた声だった。
苦しげに呼吸を乱しながらフェイズは瞳を閉じる。
目の前の娘の瞳が絶望に染まる様子など、見たくなかったから、だ……。
「とりあえず俺も本業医者だし。わかるぞ、自分の体がどんなになってるかくらい」
ピュラの口が反論を言いかけて、だけれど何もでてくるものはなく、そのまま止まる。
こうしている間にも彼を蝕み続ける何かと――何をする術もない自分。
「っつーわけだ。いいから先に行っててくれ」
まるでまた明日、とでも言わんばかりにフェイズは小さく笑ってみせた。
「ぁ……」
ピュラの表情が、固まったまま止まる。
直感が、告げていた。ここから去れ、と。
痛いほどに耳の中でシグナルが鳴っている。
この青年はもう――助からないと。早く行かなければ、二人もろとも助からないと。
額に脂汗を浮かべて浅い呼吸を繰り返す目の前の青年。頭の隅で分かっている、この灯火はもう少しすれば潰えるということに。
なら走って行ってしまえばいい。元から気にくわなかった奴が目の前から永遠に消えるのだ。
もう、二度と姿を表すこともなくなる。見透かすような瞳に見つめられることもない。
突然声をかけてきた青年。茶化すような口調、一歩相手に踏み込んでくるような目つき。最初から嫌いだった。
――ああ、大嫌いだった。
あのときの壁に押し付けられた感触がありありと思い出される。目の前に一杯に広がった端整な顔。呼吸さえ止まるような。
――そう、そんなことはもう二度と起こらない。
ここで彼を見捨ててしまえば。
――勝手に自分を庇って、勝手に絶えた馬鹿な男として、見捨ててしまえば。
早く行かないとこの作戦の最後の一手が加えられる。その前に港に戻らなければならない。
立て。
そのまま走り去ってしまえ。
先ほどから体が震えているのは気のせいだ。
こんなにも体が冷たいのは、気のせいなのだから――。
ぐるぐると頭の中を言葉がループする。
頭痛がしていた。熱い。体が生きたまま焦がされる。
早くしないといけない。
生きていくのではなかったか。
どんなことをしてでも、自分の力で生きていくと。
――生きていくと。
なのに、どうして。
「――嫌」
この首は、横に振られるのだろう。
「……嫌」
「ピュラ」
困ったように顔をあげるフェイズの瞳が……跳ねる。
その橙色の瞳が思ってもみないほどの激情を湛えて、そこにあったから、だ……。
無理に彼の体を動かそうとする。しかし痛みに少しうめき声をもらすと、はっとしたように力を緩める。
だがそれでも諦めない。また彼の体を動かそうとする。
「……ピュラ」
ちらちらと耳元で揺れるガーネットのピアス。
それと同じくらいに揺れる瞳で、ピュラは必死にフェイズを連れて行く方法を考えていた。
「……ピュラ」
「っるさいわね!! ちょっと黙ってなさい!」
わめくように吐き散らして、再び彼の体を持ち上げようとする。
だが彼女の体も傷を負って万全とはとてもいえない。そんな状況で彼をたった一人で連れて行くなんて、できるわけないと――そう分かっているだろうに。
「おーいピュラ」
とうとういらつきが頂点に達したのか、返事の代わりに平手打ちが頬に返ってくる。
何かに取り憑かれたように、ピュラは一心にフェイズの体を引きずって前進していた。
そんな彼女の姿に、フェイズは一瞬だけその顔に哀しみを交えた。そっと目を伏せて、視線を地に這わせて。
だけれどそんな顔、目の前に娘に見せるものかとまた笑みに押し隠して、紡いだ。
傷ついた、祈りの言葉を。
「――ごめんな」
――きっと、その声に涙が混じっていたのは、気のせいだ。
ぱちぱちはぜる炎の中、その声だけがいやに遠くまで響いた気がした。
そうして、それと同じように彼女の目も――瞬く。
ふっと力が抜けて、フェイズの動かない体は再び地に横たわる形となった。
彼女は我に返ったかのように呆然とした顔のまま、じっとこちらを見つめる。
「……フェイ、ズ?」
そこにはいつか出合ったときの鋭い眼光もなければ。
……きらきら煌く彼女の光も、宿ってはいなかった。
不安げに揺れるのは、耳元の紅いピアスだけだ。
「ははっ、最初に言うべきだったよな、こういうこと、は」
こふ、とフェイズの唇が鮮血を溢れ出させた。
ピュラの何かをしようとした手は、何をすることも出来ずに――ただ、地に崩れ落ちて。
「――あ」
彼と共に、その場にへたりこむ。
頭が痛い。ざくざくとその中をえぐられているような。
光が瞬く。いつの光だったろうか。
――遠い記憶が脳裏を過ぎった。
あまりに遠い、かすんでぼやけた……。
橙色の情景。
優しく穏やかな空気。
四角く区切られた、部屋。
横たわる彼の向こうに、見える。
――その光景を、彼女は見た。
記憶の果て、もう思い出すことも出来ない――その更に果て。
そうだ。
思い出した。
いつだったか。
自分は。
この青年を。
ピュラは思わず口を手で塞ぐようにする。
それ以上言えば、何か巨大なものが堰をきって流れてしまいそうだと思ったからだ。
――しかし。
――知っている。
心が先に、そう呟いていた。
橙の中に佇む影。
こちらを見下ろす……影。
終わらない歌。
ぼやけた視界では、その顔をとらえることはできない。
――だけれど、あたたかかった。
「……フェイズ、……あな……た」
「いつの間に俺もこんなに臆病になっちまったんだかなあ」
そんなピュラの表情ももう見えていないのか、フェイズは半分諦めたように笑う。
そこにあるのはただ、この燃え盛る炎の中にあるにも関わらず穏やかに浮かぶやるせなさだけ。
「待ってた」
掠れた声に、更に彼女の放つべき言葉が喉の奥に消えていく。
もう意識を手放してしまいたいほどの苦痛の中にいるだろうに。
フェイズはまるで痛みなど感じていない顔で、また笑う。
それが彼のたった一つの願いだったのだから。
彼がその生きてゆく中でたった一つ、願ったことだったのだから。
「やっと、思い出してくれたな」
ピュラの顔に、今までになかったものが混じる。
自らの過去には何もないと思っていた。
そして彼は自分の存在を知っていた。
だけれど、自分は彼の存在を――知らないふりをしていた。
そうでなかったら、何故。
……どうして、この香りを懐かしいと思えるのだろうか――。
知らず知らずの内に考えまいと思っていた。
全てに蓋をして、ただ目の前へ生きていこうと思っていた。
そうだ。
それは。
……それは、――必要ないものとして心の奥底に封じ込めた――。
そう、そんな置き去りの記憶だった。
Back