-Bitter Orange,in the Blaze-
下・強いひかりの中に 終.真実と、現実と――
142.in the Blaze-4
従者らしき青年が血を吐きながら倒れた。
すでにそこに立っている者は二人だけ。
暗き草原の中、佇む影は静かに睨みあう。
片方の瞳は紅。鮮烈な血の色をそこに湛える。
対するは海の深く、蒼の瞳。その場にちらばる無数の『人間だったもの』。
炎の中を潜り抜けた剣を携えた男は、的確に敵の中心を討った。
その途中、数多の軍を潜り抜ける内に傷ついた体で。しかしそんなもの、まるで気にしていないかのように。
そう――この敵の中心、ウッドカーツ家の者がいる場所を。
「……三年ぶりか、よくここまできたな」
この世の覇者ウッドカーツ家の男……ハルム・ウッドカーツは、そんなスイの姿に怖気づくわけでもなく、淡々と紡いだ。
「……」
スイは黙って剣についた血をぱしっ、と払う。辺りは暗い草原、その瞳がどんな感情を湛えているかを知る術はなかった。
目の前にいる男こそが、彼の兄を死に追いやった人物なのだ。
あの炎の日、兄が自分に剣を託して絶えた日――。
自分の喉元につきつけられた剣の切っ先。
腕に抱いた、動かない少女。
血だまりの中で――ひとり。
ただ、なにもできずに。
「私が憎いかね」
すらり、とハルムが剣を引き抜く。既に近くの兵は全てスイに倒された。近くの部隊ももういるまい。遠くから駆けつけてくるのにどれほどの時間がかかるだろうか。
耳に残るのはぱちぱちと炎のはぜる音。
頬が橙色に染められる。
「仇を討ちたいというのなら――相手をしよう」
風が、凪いだ。
二つの影が、動く。
金属同士の甲高い音。張り詰めた夜の空気に響き渡る。
スイの剣は速い。大振りの剣を片手で軽々と使いこなし、あらゆる相手の隙を伺って容赦なく振るう。
対するハルムの剣も、武術に長けるといわれるウッドカーツ家の血が衰えていないことを示すのに十分なものだった。
繰り出される銀の線を全て払い、逆にスイの懐に斬り込んでくる。
町の炎にてらてらと剣の肌が煌いていた。対峙する二つの影はまるで剣舞をするかのように。
スイ以外の者は全て他の部隊を潰しにかかっている。この炎に三年前の記憶を蘇らせた者は多い。怖気づいて逃げ出す者もいた。
だがスイたちは絶対的に人数が少ない。いくら周囲を他がサポートしてくれるとはいえ、ここの一帯は全てがスイに任せられているのだ。援護の期待などできるはずもない。
そしてハルムはその名に見合う剣技を身につけていた。まるで――そう、まるで兄と戦っているかのような。
瞬間、ずきん、とどこかで胸が痛みを覚えた。
そうだ。
ここで何年前かも、兄と戦っていた。
陽が降り注ぐ日も、雨の降り注ぐ日も。
その体がぼろぼろになろうとも、兄に斬りかかった。
兄はその全てを止めてみせた。
それと全く同じではないか。
「……ふむ」
ハルムはスイの剣を受け止めながら、何かを思案するかのように呟いた。
そうして、スイの顔をちらりと眺めて。
「……この程度かね」
静かにその中の炎をたぎらせはじめる――紅の瞳。
「――っ、」
閃光のような切っ先が走った。
がぃん、と鋭く振るわれた剣をぎりぎりのところで止める。すぐさま払われて、再び逆方向から。
先ほどとは比べ物にならない速さだ。弾む呼吸を落ち着けて、一度横に跳ぶ。さらっと草原の草も揺れる。
――だが、思ってもみないほどにハルムも速かった。一度勝負を仕切りなおすことなど許さない。再び横に薙がれた剣を、大地を蹴って後退することでどうにか防ぐ。
再び、火花が飛び散る。受け止めた剣の力もまた覇者のもの。そこらの者とは比べものにならない。
「すまないね、ウッドカーツ家の者は早々簡単に死ぬわけにはならなくてね。幼い頃から完璧な武術を叩き込まれるのだよ」
ぼそり、とハルムは呟いて――光速で剣を斜めに振り下ろす。
判断が一瞬、遅れた。とっさに再びかわそうと跳ぶが、その切っ先が腕をかすめる。
「君たちのような……独学ではなく。全てがプログラムされた剣術だ」
更にもう一手。スイが体勢を立て直す暇すらない。
思わず息が詰まった。ウッドカーツの者は暗殺対策の為に武術を学んでいるとは知っていたが、これほどのものだったとは思わなかったのだ。
何度も振り下ろされる剣を受け止めるが、すぐさま払われて再び叩き込まれる。
――兄のように。
――たった一度も勝てなかった、兄のように。
ハルムは息を切らせるわけでもなかった。
ただ次から次へと剣を繰り出す。
チッ、と次に切っ先がかすめたのは首筋だった。運良く傷は浅かったが、ぼたぼたと鮮血が闇に染まって滴り落ちる。
構わず剣を振ろうとして、……刹那、その暗さも手伝って、スイはその一瞬――ハルムの姿を見失った。
ハルムは突然その身を落として、屈みこむようにしたのだ。
――次の瞬間、振りあがった足が腹に食い込んでいた。
金属製の鎧がついた足だ、視界が白に染まるほどの衝撃――次の瞬間には後ろに飛んで、地に叩きつけられる。
跳ねる体が土を削る。剣だけを手放さないように掴んでいるので精一杯だった。
一体どれだけ吹き飛ばされたのだろうか。だが、やっと体が止まったところで力が入るわけでもなかった。呼吸ができない。どうにか剣を突き立てて、立ち上がろうとする。
視界が赤に染まった。煙と血の臭いで嗅覚などとうに死んでいる。
さく、さく、と無情に近付く足音。
むせてごほごほと吐いた堰から、血が混じった。剣を構えようとする。が、再び平衡感覚が失せていく。
――ギィン、と金属同士がこすれる音。
近付いてきたハルムは容赦なくスイを横薙ぎに払う。
再び跳ぶ体。大地に叩きつけられる。目を開けていられない。じくじくと傷が痛む。
「……クォーツ・クイールに習わなかったかね? 孤高の銀髪鬼の弟よ」
ゆらりと立ち上がったスイに、もう一突き。
とっさに横に避けようとしたが、――避けきれずにわき腹が裂けて、血がほとばしった。
「――っ」
スイの体が傾ぐ。
辺りはあまりにも静かな炎の音。
その中で、紅き瞳を持つ男は――更に静かだ。
ハルム・ウッドカーツは血の滴る剣を片手に、数メートル先まで飛ばされたスイに再び足を向けながら、穏やかに紡いだ。
その佇みは、どこか――あの兄に、似ていた。
「この世で貴族に逆らえば――あるのは『死』のみなのだと」
***
辺りを飛び交う声の群れ。
夜の海は無が広がるかのように黒に落ちる。
もう怪我人を運ぶ作業も終わった。あとは炎の町から貴族を討ちに行った者が戻るのを待つのみ。
炎に燃えるレムゾンジーナの港にて――。
港のはずれ、不安そうにしたまま佇む幼い影があった。
みるみる炎が広がる町を見つめて、拳を握っている。
――セルピは炎の中に誰かを探すかのように目をこらし、耳をすませた。
だが見えるのは焼け付くような橙と闇のコントラスト、聞こえるのは炎のはぜる音と人々の喧騒。
「――ピュラ」
探している人の名を口の中で呟いて、ぎゅっとセルピは手を胸の上で握る。
……男たちを追ったまま帰ってこないピュラが心配になって、とうとうセルピも後を追おうとしたとき、やってきたのはフェイズだった。
セルピが事情を話すと、彼は自分が行くと言い出したのだ。
『大丈夫さ、ちゃーんとピュラは無事に連れ戻すからさ、安心して待ってな』
彼はそう笑って、くしゃりと泣きそうだったセルピの頭を撫でてくれた。
だが彼が行ってからもう一時間。帰ってくる様子はない。
きっと信じて待っているべきなのだろう。二人は無事で戻ってくるのだと。
クリュウもスイも、姿は見えなかった。それが更に彼女の不安を加速させる。
もう一度セルピはその町の中に何かを見つけようと、目をこらした。
煌々と炎にけぶる町は華々しく美しくもあり、それでいて……ひどく残酷に映った。
***
暗い暗い奥底。
クリュウが目を覚ましたとき、既に空は黒に落ちていた。
ぼんやりとした頭で、ゆっくりと記憶を手繰り寄せる。
ごしごしと目を手でこすって、周囲を見渡す。
――それで、自分が今まで何をしていたかの記憶が戻ってきた。
「イラルア……」
ぽつ、と呟いた先には物言わぬ影。
もう夜も深く、その顔を伺うことはできない。
しかしそれでもクリュウはその傍で暫く目を瞑っていた。もう、彼女の亡骸は彼女のものとして誰の目にも映らないのだろうから。
そうして――町の方を、見つめる。
「……燃えてる」
クリュウは息を呑んだ。
生まれて初めて見る――全てを焼き尽くす、巨大な炎。
原始的な恐怖をわきあがらせる色だ。
夜空を橙に染めあげて、煌々と周囲を照らしている。
その中での炎の音が耳の中でかきならされる気がして、思わず耳元に手をやった。
そのまま唇を噛み締める。
何度となく、仲間に聞いたことがあった。
人は殺しあう。人は自らの為に戦い、人を殺し、生き延びて、名誉を得ようとする。
それが戦争。至る場所で炎があがり、人の泣き叫ぶ音が聞こえる。
後に残るのは数え切れない亡骸と、その哀しみと恐怖の残り火。
――だから、人に近寄ってはならない。
仲間の誰かは、そう言っていた。
――人と関わっても、あるのは哀しみと……怒りだけ。
翡翠の瞳に炎の色が映る。
海からの風は煙を乗せて、こちらまで届く。さらさらという音は、恐らく草原と森の揺れる音。
だけれども。
「……それでも僕は」
――人と生きずにはいられないんだ、と。
クリュウはその羽根に力を込めた。
再び傷ついた羽根は力を通すと悲鳴をあげるが、飛べないほどでもない。
「……さよなら」
最後に、目の前に横たわる亡骸にそう囁いた。
じくんと痛む胸を押さえて。――自分はその痛みと共に生きていくのだと、感じて。
――クリュウは、空へと飛び上がった。
***
わき腹を押さえる。しかし指の間からぼたぼたと垂れていく鮮血。眩暈がする。うまく思考がまとまらない。
たった――たった数分の出来事だったのだろう。
だがそれは限りなく長い時間での出来事に思えた。
膝をついたまま、立ち上がれない。
本当に自分は今ここにいるのだろうか。
それすら不明瞭になる。
勝てる気がしなかった。
兄と剣を合わせていたときと同じように。
その速さと、技と――。
嘘のように体は傷だらけ。
どこがどう痛いのかもわからない。
「……それでおしまいかね?」
そんなスイの姿を見下ろす、覇者の姿。
まるであの日と同じだ。血にまみれたスイの首筋に切っ先をあてながら見下ろしていた、紅の瞳。
はっ、とスイは息を止めて剣に力を込める。
だが立ち上がろうとした足がよろけ、再び膝をつく。それほどまでに体は切り刻まれていた。
「――そうまでしたいほど、この私が憎かったか。それともそうまでしたいほど、この世を変えたかったか」
声には哀れみさえ含まれている。
視界の外れには炎に包まれる町。
幾年か前までは華やぎに包まれていた。
道には花が咲き、潮風がそれらを揺らし、人々の笑い声が町中に響く。
夕暮れには美しく橙色に染まり。
きらきら煌く海はまばゆく、誰もが目を細めた。
――今はもう、誰もいない。
「だが……もし私が倒れてウッドカーツ家も倒され、この世が変われば――どんなことになると思うかね?」
何を言っているのか半分わからない。
出血が酷い。これで意識を失わないのが奇跡的といえた。
血に濡れた手がずるりと剣を滑る。付きたてた剣を手放しそうになる。あの日、この手に受け取った剣を。
「――人が、死ぬぞ」
それは哀しみに満ちた声だったのかもしれなかった。
淡々と、しかしその奥に幾億の苦悩を抱えて、そこにあるのかもしれなかった。
「上から抑える者が消えれば治安などなくなる。そこにまたのし上がろうとする者が現れる。世界は再び争いの中に没し――数多の町が焼かれ、数多の民が命を落とし、」
一歩、ハルムは踏み出す。
濡れた剣がちらっと炎に煌く。
「お前のような思いをする者も幾人だって出てくる」
橙と赤の視界の中、遠い昔のことを思い出していた。
当たり前にあると思っていた景色。
続くであろうと信じていた日々。
――だが、もう戻ってこない。
「それが……お前の望みか」
――兄は。
兄は言った。
剣を持つ道ほど、辛い道はないと。
だけれど、自分たちは生きるために、剣を握るのだと。
――その兄も、もういない。
「お前は平和でなく混乱をとるか。何千の民の為に幾人かが犠牲になるのでなく、幾人かの為に何千人が犠牲となる道を選ぶのか!」
「――ぃ」
叱責すら含む声に、……喉の奥で、何かが鳴った。
じんじんと体の芯が痛む。頭痛が体を焦がす。
脳裏の奥底に蘇る懐かしい景色。もう戻らない。戻るわけもない。泣いても叫んでも届きはしない。
血を吐くような思いをして、歩いてきた。
抗う術も知らず、ひたすら目の前の道を歩いてきた。
そうするしか、自分を守る術を知らなかった。
「――、い」
言葉の代わりに血の味が滲む。
つんざくような吐き気。平衡感覚がない。静かに近付いてくる影。あれが至近距離に来た瞬間、この人生は終わりを告げる。
笑顔が見えた気がした。いつか夕日の中で見た笑顔だ。
風に踊る長い髪。全部消えてしまった思い出。残るのはこびりついた痛みだけ。
「……ここで去ね。鬼の弟よ」
振り上げられる剣。
そうだ。
ここでヘイズルの言う通りになれば。
世界は再び流れだす。
人々は各々の正義を叫びだし。
また争いが起こる。
目指すは覇者の上に乗る覇者。
そこには数多の英雄が生まれ。
――それを生み出すだけの血が流れるのだろう。
人は失う。
それぞれが大切にしているものを。
また失っていく。
この橙色に燃されていく。
そうやって世界を呪い。
だけれどどうすることもできずに。
また、傷ついて、血だけが流れて――。
「――さい」
自分は、ただそこにいることしかできない。
次に浮かんだ顔は、誰のものだかわからなかった。
だけれど、その強い瞳だけは印象に残った。
その脳裏に映る影は、まばゆいばかりの覇気を全身にまとって。
――ああ。
かきならされる、剣戟が打ち合わされる音。
「――る、さい……っ」
相手の顔が驚愕の色を浮かべる。
振り上げた剣は重い。ひたすらに重い。だけれど、振り上げられないほどのものでもない――!
「うる――さい……っ!」
蒼の瞳が――牙を剥く。
血に濡れた剣を両手で握り締めて。
風ごと斬り伏せるがごとく、剣の切っ先は走っていた。
「――っ!?」
ハルムが咄嗟にそれを受け止めるが、その衝撃に数歩下がることを余儀なくされる。
対してスイは、肩で呼吸をしながらその場に両の足で立っていた。
影は暗く、更に血で汚れ、彼がどんな顔をしているかは伺えない。
だがそれは、――ハルムの瞳には、あの三年前、少年を殺めようとした瞬間に駆け込んできた銀髪の男と瓜二つに映った。
強い。だが究極とはいえない。
心の暗い部分が表にまで浸透してしまっている。本来人間が隠しておくべきものが、あまりに大きすぎたが為に。
決してもろいわけではない。
ただ、その強さは頂点にまで届かない。
――たったそれだけだと思っていた。
だというのに、まるで目の前の影は何かのたがが外れたような気迫をまとい剣を握ってこちらを睨んでいる――。
数年前、最強と呼ばれた剣士がいた。
剣士は炎の中に姿を消した。
たった一つの願いを託して、剣士は絶えた。
――そうして、残された者は。
まるで、自らの心に刃を突きつけるようにして。
「――失ったら、全ては終わりなのか?」
遺された剣を両手に、そう紡いだ。
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