-Bitter Orange,in the Blaze-
下・強いひかりの中に 終.真実と、現実と――

141.in the Blaze-3



 風が鋭く唸る。
 まさに地獄絵図、そこに降り注ぐのは無数の氷の槍。
 炎に照らされた氷は美しく煌き、冷たく残酷な刃となって地に突き刺さる。
 それは生きているものもそうでないものも――全てを引き裂きなぎ払うかのようだった。
 辺りに倒れた人の亡骸に容赦なくそれらは突き刺さり、肉片を飛び散らせる。
 ピュラはがれきの影に身を隠しながら、その元凶を伺った。
 先ほどの男たちは全員しとめたはずだ。その上、こんな魔法を使ってくる者など先ほどにはいなかった。
 だというのに、一体誰がこんな攻撃を加えているというのか――!
 ――しばらくして、悪夢のような天から降り注ぐ刃は消えた。
 残るのは、悪夢そのものの光景だけだ。
 だが、だからといって飛び出すような馬鹿な真似などピュラはしない。
 相手を伺うようにじっと耳をすませる。
 ――すると、ぱきり、と誰かががれきか何かを踏む音が聞こえた。
 人数は……驚いたことに一人。貴族の兵だろうか。
 相手は立ち止まって辺りをうかがっているようだった。こちらに気付いてはいないのだろうか。
 ――しかし、そう思った次の瞬間……彼女の表情は凍り付いていた。
 ぱき、ぱき、と足を踏み出すごとにがれきの破片が潰されていく音。
 だが、その足音は――寸分の狂いもなく、彼女が隠れている方向に向けて歩いてくるではないか。
 しかもそのまだ目でも捉えていない人影の気配には乱れなど一点もない。
 そこにあるのは、身も凍りつくような殺気……それだけだ。顔でもだしたら最後、その瞬間にやられてしまうだろう。
 得体の知れない相手に、一層緊張が高まる。
 チャンスは一度、その影がこちらの射程距離まで近付いたときのみ。その瞬間に、こちらから攻撃を繰り出せれば――。
 ……しかし、攻撃の機会は思いもよらないところで巡ってきた。
 ひゅんっ、と何かが風を切る。
 とっさに影の意識がそちらに傾き、続いて空気をゆるがすような激鉄のあがる音が聞こえた。銃を持っているのだ。
 だがそう思うよりも早くピュラはそこから飛び出して、影に向けて拳を振り下ろしていた。
 しかし影もまた、速い。
 あたれば骨を砕かれるであろう拳をするりとかわし、後退して再び手にした拳銃の引き金をひく。
 それはピュラの横腹をかすめ、血と共にその場に嫌な臭いを醸した。
 ただ、影の攻撃はそこで中断せざるをえなかった。
 横からナイフを投げたのは――フェイズだ。先ほどの影の注意をそらしたのもきっと彼だったろう。
 投じられたナイフは影の腕に突き刺さり、その行動を阻止する。
 ピュラも一度さがって、――そうして、影の全貌を捉えた。
 ――黒。
 夜だから、それが際立ったのだろうか。
 それほどに影は黒に包まれていた。
 しかしそれは次第にその姿が血だらけだったことに気付かされる。
 シルエットからして――男だ。長身で、その両手には黒き天使の刃。
 だがその体は既に生きているのかを疑うほどに傷つき、顔など判別もできないほどにただれている。
 ピュラでさえ、その姿に思わず絶句していた。
 ゆらり、と人形めいた動きで足を前にだす影。
 フェイズも緊張した顔でその何処も見ていない顔を見つめている。
 それが数時間前に草原で戦った相手なのだということなど、フェイズは知る由もなかった。それほどにその影の形は変貌していたのだ。
 あたかも、自動で動いていた性能の良い機械仕掛けの玩具が壊れたかのようだった。
 腕に突き刺さったままのナイフを抜こうともせず、普通だったらもう立てるわけがない足で立っている。
 そこにあるのは――やはり殺気。その影は目に入るもの全てを壊そうとするかのごとく――!
 ぞわっと風が唸る。
 影を中心として巻き起こった風が、直接心を揺さぶる――。
 ピュラの判断は早かった。
 こんな相手、自分の手におえるものではないと直感が叫んだのだ。
 絶対にかなわないとその見た目から予想がつく相手に歯向かうなどという愚行をするほど、ピュラは生に無頓着ではなかった。
 とにかく、今はさがるしかない。どこかから援護を呼ばなくてはならなかった。
 彼女はすぐさま後ろに飛んで、その影から逃れようとする――。
「――っ!?」
 だが、逃れることは叶わなかった。
 嘘だ、と笑ってしまいたくなるくらいの速さで影が彼女に追いつく。
 それはまさに逃れられない黒く落ちる影のように。
 避けなくては、と思った瞬間には肩口に再び熱いものを感じていた。なのに体だけがざっと冷たく凍り、けたたましくシグナルを発する。
 これ以上戦うな、さもなくば命はない、――と。
 ぐっと歯を食いしばって体を落とす。足をまわして影に足払いをかけたが、飛び上がって防がれた。
 ただそれで反撃もなく済んだのは、閃光のように飛び込んできたフェイズがその背に再びナイフを付きたてたからだ。
 だが影はそんなものに痛みを感じた様子もなく、次の標的と定めたフェイズに襲い掛かる。
 そんなとき、ちらっとピュラの瞳をフェイズの視線がとらえた。
 一度後退しようとしていた彼女の瞳が思わず丸くなる。
「――逃げろ、ピュラ」
 まるで、祈るかのように。
 ……そう、フェイズは呟いた。
 彼女が何かを言い返す前に、彼は既に影との死闘に入っている。
「――は、」
 その場に留まることもできず、とっさに駆け込んだがれきの山の陰で、ピュラは絶句したように呟く。
 左肩がじくじくと痛んだ。少々出血が多いようだ、心なしか視界もぼやけている気がする。
 とろとろと流れ出す血を手で抑えながらピュラは――その顔に怒りを交えた。
「……冗談じゃないわよ」
 橙色の炎が牙を剥く。こんな状況でひとり逃げ出すなど後味が悪すぎる。あんな男に助けられて、自分だけが弱者のように生き延びるなど――。
 そんなこと、彼女のプライドが許すはずもない。
 急いできつめに布を傷に巻いて飛び出した。さすがのフェイズも防御に全力をかけてやっともっているというところ。
 既に戦う影には幾本もの刃が突き立ててあるというのに、全く倒れる様子はない。
「――ピュラ?」
 そんな中、突然飛び出してきたピュラの姿を見止めたフェイズの瞳が瞬いた。逃げたとでも思っていたのだろう。
 彼女は瞳に鋭い光を宿したまま、風に乗ってその一撃を影へ背後から叩き込もうとする。
 だが――軽く影はそれをかわす。まるで最初から彼女の動きが分かっているかのような素早さだ。
 しかし二人に囲まれているという状況から脱する為か、影は二人から一度離れて再び魔法の詠唱に入った。
 二人がその阻止に入る隙もなく、彼の手から光が放たれる。
 とっさに二人は各々飛ぶようにして運良く背後にあった壁の影に身を隠した。
 ――瞬間、全てを破壊しつくすかのような炎と……衝撃。
 辺りの残ったがれきなど瞬き一つする暇もなく吹き飛ぶ。
「すげー、こりゃ人間じゃねーな」
「うだうだ言ってる暇があったら打開策考えなさい」
 二人でまだなんとか原型をとどめる壁の影に見を潜めて、魔法が終わるのを待つ。
 ――が。
 ひかりが――薙ぐ。
 一際大きな一閃。
「――!」
 二人の目がそれぞれ剥いた次の瞬間には、その壁もろとも宙を飛んで地に叩きつけられていた。
 体がおかしくなるのではないかと思う衝撃で遠のきかけた意識を必死で繋ぎとめて、ピュラが慌てて身を起こすと、横でフェイズも血の混じった唾を吐き出して立ち上がっていた。
 視線の先には――ぼろぼろに形を崩した影。
 かろうじて人としての形を残して、ゆらりと炎に揺らめきながら佇んでいる。
 だが冷たい殺気は先ほどと変わらない。
 その上、今の魔法でこの辺りにまで火がついた。戦うフィールドは炎で区切られ、逃げ道を戦いながら探るのは不可能に等しいだろう。
「――さて、ピュラ。どーしたもんだと思う?」
「こっちがききたいわよ」
 鋭い視線を影に突きつけながら、ピュラは構えをとる。もう逃げ道などないのだ。
 影が――動いた。二人も同時にはじけるようにして跳ぶ。
 幸いなことに相手の拳銃の弾はきれたようだった。代わりに魔法で応戦してくる。
 だがピュラも負けるつもりなどない。
 体中傷だらけではあったが、動けることは確かなのだ。それならまだ戦える。生きるために、戦える。
 体勢を低くとって立ち向かう。おそらく、あの影の体はもうぼろぼろだ。
 一度彼女の拳がその体に食い込めば、一瞬で崩れ落ちるに違いない。
 ほぼ直感のみで攻撃を避け、死角に入り込もうとする。
 フェイズもまた、とどめとなる一撃を叩き込む隙を伺っているようだった。
 何度か魔法が炸裂して後退しながらも、接近戦へ持ち込む。
 くんっ、とピュラのしなやかな体が縮んだ。
 それはまるで飛び出す直前の弾丸のように。
 ――そうして、飛び出す。
 フェイズが繰り出された腕をナイフを深々と突き刺すことで止めていてくれた。
 拳には込められるだけの力を込めて。
 下から突き上げる、彼女の光をまとったしなやかな腕。
 それはまさに、誰にも止められぬような力で影の体に食い込もうとする――。

 ――。

 ……間が、あいた。
 それは一瞬のことか、それとも数秒のことか――。
 彼女の指が、虚空を掴んだ。
 やけに前が見えないと思ったら、顔面一杯を手で掴まれているのだと、何故だか冷静に思った。
 ――ああ、つまりは負けたんだな。
 彼女の拳はあと一歩のところで阻まれたのだ。こちらをガラスのような何処も見ていない影の瞳が静かに見据えている。
 影はフェイズを牽制しながら、それ以上に素早い動きで彼女の顔を手で掴んでいたのだ。
「……ぁ、」
 ――それは、直感だった。
 これは自分の負けだと。
 あんなに負けるものかと思っていたのに、今はこれ以上成す術はないのだと彼女の長年の直感が叫んでいる。
 ぐんっ、と手に力が込められたのと同時に耳元で――音。
 後ろに飛ぶな、と思ったときにはすでに、背中に冗談のような衝撃を受けていた。
 誰かが何かを叫んだ気もしたけれど、耳には届かない。
 喉を血液が逆流する感触と共に、かふっ、と再び唇から血が滴った。
 嘘のように体に力が入らない。視界が一気に狭まる。
 辺りは炎に囲まれているというのに、やけに体は冷たかった。
 呼吸が止まる。立ち上がることができない。
 影は最後のとどめを刺そうと、こちらに馬鹿みたいな速さで向かってくる。
 その手には刃。あれが突き刺さるのだろう。間に合わない。どれだけ動けと命じても、体は重たいまま。
 避けることなど、叶わない。
 ――悲しむんだろうか、彼は。
 こんなときに世界で一番気に入らない赤紫の男の影を思い出して、不思議に思う。
 そうやって、限りなく無音となった中にその刃が、


 ――ぶわっと目の裏でフラッシュがまたたいた。
 呼吸が詰まる。
 まるでこの世を全て浄化するかのような、白の光。
 ――白?
 違う。
 橙色。
 橙色が、目の前一杯に広がっている。
 四角く区切られた空間。
 穏やかに時が流れる、ふんわりとした優しい空間。
 きっと元々は白い部屋だったのだろう。
 しかし今は……美しく窓から降り注ぐ夕日の色に染まっている。
 ――今?
 ……いつだったろうか。
 おぼろげに浮かぶ、小さな影。
 部屋に佇んでいる影。
 声がする。
 ずっとずっと、声がしている。
 高い、低い……。


 ――ああ、これは……うた、だろうか。


 目を、開いた。
 もう体は何も感じないのだろうか。痛みも全くない。
 だけれど……なにかがおかしい。
 視界を、何かが覆っていた。
 ――やわらかな香り。覚えていないけれど、どこかで知っている。
 一体、どうしたのかと思った。
 どうして自分はここにいるのかと思った。
 ゆっくりと、呆然としているような視線があがって……。
 ――すぐそばに、穏やかな笑みがあった。
 こちらをまっすぐに見つめる……瞳が。
「――っ」
 声が、でない。
 他人の体にでもなってしまったかのように、体が動かない。
 そっと、彼の指が冷たい頬に触れた。
「……大丈夫だったか、ピュラ」
 ふいにピュラの瞳が丸く引き絞られる。
 それは、その視界に――自分に覆いかぶさるようにしたフェイズと、その肩からのびる刃をとらえたからだ――。
 ぽたぽたと、紅い雫が彼女に流れ落ちる。
「――あ、」
 たった一瞬のことなのに、それは息が詰まるほど長く感じられた。
 何かを言わなくては、と思った瞬間、フェイズの腕がピュラを突き飛ばす。
 まるで力の入っていなかった彼女の体は、簡単に遠くまで飛んだ。
 どうにか受身を反射的にとって地面を転がりながらも、彼女は顔を持ち上げてフェイズの方にやった。
 深々と刺さった肩のナイフに顔をしかめながらも、体を起こそうとするフェイズ。
 だが影は彼の腹を軽々と蹴り上げて、息の根を止めようとする。時間など、あっという間に過ぎていく――。
 ピュラはとっさに辺りを見回した。
 彼の元まで、この体で走っていくのでは間に合わない。
 何か――何か、遠くから攻撃できるものを――!
 はっとして、ピュラは丁度傍にあったものを拾い上げた。
 ――あの男たちが持ち出してきたライフル銃。持ってみると思っていたよりも重かった。これならあの影を倒せるだろうか。だが扱ったこともないから、弾が装填されているかもわからない。
 引き金をひくだけ、ということも知っているが――はたして使いこなせるか。
 否。迷っている余裕などない。
 もう立ち上がる時間のロスも惜しんで、へたりこんだ体勢のまま狙いを定めた。
 呼吸を止める。失敗など許されないのだ。
 心臓の音だけが体中をゆさぶるようにしている。
 それすら閉じ込めるようにして――引き金を、ひいた。

 ――ぱんっ!!

 耳が割れるかと思うほどの音に、視界が揺らいだ。
 無理な体勢から打ったが故に、体ごと後ろにもっていかれる。
 どさり、と落ちた銃の口からは……煙。
 慌ててその先を見つめると、――頭を打ちぬかれてついに倒れた影が見えた。
 そうして、その横で肩口を押さえたまま膝をついているフェイズの姿も。
「フェイズ!」
 立ち上がろうとして、ぐらついて……だけれどそれでも悲鳴をあげる体に鞭をうって、ピュラは彼の元まで走っていった。
「バカ、あんた何やってんのよ……!」
「――はは、助けたお礼がそれとはお前らしーな」
 フェイズは膝をついたまま薄く笑う。
 ――そうして二人で倒れた影を見つめた。見るも無残な姿をさらす、黒い影を。
 一体誰だったかもわからなかった。確かめる余裕などなかった。やはり貴族の兵だったのだろうが――。
「……わり、ピュラ。ちょっと肩に刺さってるやつ抜いてくれねーか?」
 ふいに、そんなことを言い出したフェイズに、ピュラの瞳が丸くなる。
 ――だが、次の瞬間それは怒りの表情となって。
「あ、あんた本気!? そんなことしたら血が吹き出るにきまってんでしょ、ちゃんと戻って設備のあるところで」
 しかしそこで思わず咳き込む。傷ついた体で突然叫んだのと、既に辺りに炎と煙がまわってきているのが原因だ。
 そんなピュラの姿にかすかに口元を歪めるようにして、フェイズは言っていた。
「――はは、ちょい刃に毒が塗られてるくさいんだけどな」
「……は?」
 ――凍りついた。
 辺りには炎。
 お陰で全く気付かなかった。彼の顔色が真っ青になっているということに。
「そ――」
 ピュラの呆然と瞬く瞳は――そのまま再び強い光をはらんだものとなって。
「それを早く言いなさいっ!」
 だけれど、体が嘘のように冷えていく感覚を、痛いほどに感じていた。
 素早く彼の後ろにまわると、ポケットから包帯を取り出す。
「抜くわよ」
 そうして刃の柄に手をかけて、彼の右肩から――抜き払った。
 フェイズの顔がかすかに歪む。瞬間、どくどくとそこから鮮血が溢れ出した。
 だがしばらくは包帯を巻かずに放置しておく。毒の入った血をある程度抜かなくてはいけないのだ。
 だがナイフが刺さってから随分時間が経ってしまっている。弱い毒なら良いのだが……。
 そして……それは本来ピュラに穿たれるべきものであった。彼女が受けるべき傷だったのだ。
「はは、右腕が全然動かねーや」
 だがフェイズはいつものように軽薄な口調で笑う。
 刃が刺さったのは右肩、もしかしたら何かの神経が切れたか毒におかされたのかもしれなかった。
「こりゃ一生使いもんにならねーかもな。そうなったらピュラ、介護の方よろしく」
「冗談じゃないわよ!!」
 噛み付くようにピュラは言って、自分のナイフで彼の服を傷の辺りだけ裂いて包帯をまいてやる。
 それが済むと、立ち上がって辺りを見回した。
 炎。
 燃え盛る、灼熱の炎が辺りを覆っていた。
「――立てる?」
「どーかな」
 ピュラと同じようにフェイズも目もあてられないほどに傷だらけだ。
 彼はゆらりと立ち上がるまではいくが……腕を一本、完全に感覚を失っているためにうまく重心がとれず、またよろける。
「……ったく」
 ピュラは溜め息をついて彼に近寄った。
「ほら、肩かすからちゃんと歩きなさい。弱音でも吐いたらその辺に捨ててくからね」
 すると、ふっとフェイズの瞳が小さく揺らめいて……。
「おお、優しいな」
 やはりいつものように笑ってみせるのだった。
「ちょ、そんなにくっつかないでっ! こっちら歩きづらいでしょっ」
 悪態をつきながらもフェイズにあわせて歩き始めるピュラ。
 ……フェイズはそんな彼女に肩を貸してもらいながら、何を思ったか……、静かに瞳を伏せていた。


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